5. 慌てる子供は廊下で転ぶ
「目覚ましもないのにどうやって朝起きるわけ……!?」
私は「慌てる子供は廊下で転ぶ」という張り紙を見なかったことにして、朝から筋肉痛気味の体に鞭打って全速力で廊下を走っていた。久々に運動したこともあって昨晩はぐっすり眠ることができたのだけど、この世界に目覚まし時計はない。案の定寝坊したのだ。
昨日は起こしに来てくれた八左ヱ門くんも、今朝は彼自身が寝坊したらしい。それでもギリギリに声をかけてくれた彼に感謝しつつ、私は朝食をとらないまま教室へ向かった。勢いに任せてスパンと扉を開けば、近くに座っていたきり丸くんたちが「うわあ!」と声をあげた。ずずず..と教室の前を通り過ぎて滑っていきそうになる体に力を入れてブレーキをかける。
「びっくりした〜。その焦りよう、もしかして寝坊したんじゃ?」
「いやあ〜」
「やっぱりそうだ」
「はは、でも先生はまだみたいだから大丈夫で_」
目の前で笑っていた忍たまたちの顔が「あ」という顔に変わっていく。何が起こったのか察知して恐る恐る振り向けば、案の定土井先生がやれやれという顔でこちらを見おろして立っていた。
「慌てる子供は廊下で転ぶ」
「おはようございます、土井先生……」
「はい、おはよう。昨日頭を打ったと聞いたが、様子を見に行けなくてすまなかった」
「いえ、もう全然大丈夫ですから」
「それならよかったが、しばらく怪我には注意するんだぞ。あ、寝坊も以後気を付けるようにな!」
はい…とぺこぺこ頭を下げながら席に向かう。本当に小学生のような注意をされてしまった。席につくと、「朝から散々だったね」と同じ机に座る兵太夫くんと喜三太くんがくすりと笑った。
ちなみに、授業の合間の休みに兵太夫くんはからくり作りが得意だと教えてもらった。そこで私専用の朝起きれるようなからくりを作ろうという話になったのだけれど、「朝になったら床板を跳ねさせる」だの「強制的に穴に落とす」だの耳を疑う案しか出てこず、逆に丁重にお断りすることになった。
「本日の授業はここまで!」
「ありがとうございました!」
授業が終わり、私はクラスメイト達と一緒に廊下に飛び出した。朝ご飯を抜いていたために空腹が頂点に達していたのだ。「ごはんだ〜!」とはしゃいで声をあげるみんなに続く様子を土井先生に見られていたことも完全に忘れて、うきうきで食堂に向かう。
「あれ、虎若と三治郎は?」
「後から食べるって。虫が逃げたからって、伊賀崎先輩が迎えに来てた」
「生物委員は大変だなあ」
みんなの話をぼんやりと聞きながらメニューを選ぶ。授業後すぐにすっ飛んできたおかげか食堂内はまだ生徒はいなかったので、は組みんなで固まって席をとった。さっそくご飯を食べていると、食堂の入口あたりから「夢子!」と声がする。声の方向を見ると、お盆を手にした八左ヱ門くんがこちらへ向かってきていた。
「横いいか?」
「うん、どうぞ」
「どうも。さっき土井先生に伝言を頼まれたんだが、昼休みが終わったらは組の教室に戻ってくるようにってさ。なんでも、テストをするらしいぞ」
ついに来てしまった。テストの詳細について結局何も聞かないまま当日を迎えてしまったわけだけれど、果たしてどんな問題が出るのだろう。授業をここ二日受けた限りだと、おそらく現代の小・中学生レベルの問題が出るのだろうけれど。どうせ受けるなら予習をして高得点を取りたかった。
「どうしよう、とんでもない点数出しちゃったら。八左ヱ門くんって勉強得意?」
「俺は〜……勉強についてはい組の二人に聞くのがいいと思うぞ」
八左ヱ門くん自身のことには触れず視線を泳がせたところを見ると、どうやら得意ではないらしい。
「そういや他の五年生は?」
「雷蔵は委員会の用事があると言っていた。三郎はそれについて行ってるんだろう。い組はどうだろうな」
ふうんと声に出した後、私は一度味噌汁をすするのをやめた。さっき、三治郎くんと虎若くんは委員会で虫の捜索があるとかなんとか言っていなかっただろうか。
「夢子?」
「いや……虫探しは大丈夫?」
「今は下級生がやってる。俺が食べたら交代するんだ。昼ご飯を食べる時間は確保しないといけないだろう?」
「ああ、そういうこと」
八左ヱ門くんはまたばくばくとごはんを食べ始めた。逃げた虫について語られるかと思っていたので、そうではない様子を見て胸をなでおろす。といっても、テストが待っている状況で私に落ち着いていられる時間はないのだけれど。
「ごちそうさまでした!さ、行かなきゃな」
八左ヱ門くんは「じゃあな!」と言ってひらひら手を泳がせながら食堂を出て行った。私も少ししてからは組のみんなに別れを告げて、外へ向かう。途中、虫探しに夢中になっている八左ヱ門くんを目撃した。つい数分前に食堂を飛び出したばっかりなのに、もう砂だらけになっている。
「お、もう来ていたのか。待たせてすまない」
「いえ、さっき来たところですよ」
教室に入ってきた土井先生は紙の束をばさりと長机の上に置いた。あまりの多さに私が目を疑ったのに気付いたのか、「これは私が今から採点する小テストだよ」と先生は笑った。
「君のテストはこっちだ。一ページだけめくることを許可するから、問題の文字が読めるかどうかだけ一応確認してくれ」
「はい……あ、大丈夫です」
「よかった。国語、算数、理科、社会、忍術のテストがある。順番は君に任せるし、制限時間も特に設けないから終わったら声をかけてくれ。私はここで仕事をするから」
「分かりました、ありがとうございます」
国語は漢字の読み書き、理科は生き物の名前や人体のしくみ。社会は簡単な日本史のようなもので、数学は計算問題と、簡単な面積や角度を求める問題があった。単位が分からずに焦ったけれど、横に小さく注釈が書き込まれていてなんとか計算することができた。
ここまでは順調だった。しかし問題は忍術だ。武器の名前も分からなければ忍法や兵法なんて以ての外だ。手裏剣に種類があることなんか知らなかったし、とりあえず全回答欄に「手裏剣」と書き込んでおいた。「水遁の術」「木の葉隠れの術」にだけ自信があるけれど、それ以外はイマイチ分からない。わかるやつから解いていこうとしているうちに問題は終わってしまった。私が問題用紙を閉じると、土井先生が顔をあげる。
「終わったかい?」
「はい。自信はないですけど」
解答用紙を持って近寄ると、先生はまた別のテストの丸つけをしているようだった。解答用紙は裏返してあるけれど、床に落ちている一枚だけ机の下から点数が覗いて見える。目を凝らすと「0.5」と書かれているのが分かったが、果たしてこれは本当にテストの点数なのだろうか。私の視線に気づいた土井先生は、あっと言って足元から隠すように紙を引き取ると、「見せたくなかった」と大きく項垂れた。
「なんというかその、大変なんですね……」
「いや、まったく困ったものだよ……とにかく今は君の丸つけだ。お疲れ様」
今ここで採点をしてしまうとのことで、結果を早く知りたい私は少し隣で待たせてもらうことにした。
「すごい、ほとんど合っているじゃないか。勉強は得意みたいだな」
「いえ、そんな……人並みだと思います」
「謙遜しなくてもいいのに」
内容は現代で私が勉強していたものよりずっと簡単なものだけだったし、きっと他の人間が同じようにここにきても同じように良い点数を出しただろう。しかし満点だった算数のところに花丸が描かれるのを見て、年甲斐もなくうれしくなる。なんだかすごく懐かしい気分だ。筆が勢いよく紙の上を滑る音が心地よい。
丸付けした解答用紙を見せてもらった。確かに忍術以外はかなり出来がいい。
「忍術についても、少しは知っているんだね。興味深い」
「忍者を題材にした物語があったりして、知名度は高いんですよ」
「そうなのか……なんだか変な感じだなあ。『忍び』なのによく知られているなんて」
土井先生と話す時間は柔らかくて、でもどこか緊張する。たぶん顔がいいからだろう。私は先生に時間を割いてもらった礼を言った後、教室をあとにした。
テストも終わって上機嫌の私は、軽い足取りのまま自室を目指した。午後の授業は終わっているようだったけれど、ごはんまでは時間があるし、忍たまの友でも読んで時間をつぶそうか。それともは組のみんなが遊んでいるであろう場所を探すか...なんて考えながら歩いていると、曲がり角で誰かとぶつかってしまった。
目の前の相手はお菓子のようなものをお盆にのせて歩いていたようで、のせていたものは落ちてはいないもののこちらもかなりひやりとしてしまった。謝罪をしようと顔を上げると、相手はかなり気を悪くしたようにこちらを見下ろしていて、その圧に私は咄嗟に身を引きながら「すみません!」と最敬礼してした。
しかし頭の上から小さく声が聞こえたような気がして、恐る恐る顔を上げる。表情はさっきと同じままだけれど、「これはあなたへの謝罪の品だから」と青年はぐっとお盆を差し出した。
「謝罪?」
「……小平太、出てきたらどうだ」
青年がぼそりと言うと、曲がり角にあった部屋の扉からばさっと小平太くんが顔を出した。「無理させたこと、すまなかった」と言ってしゅんとしている小平太くんは昨日と別人みたいだし、この様子を見れば伊作くんにたっぷり叱られたというのもすぐに分かった。
「怒ってるだろう」
「怒ってないよ……無理もしてないし、頭を打ったのは自分の不注意だから。伊作くんに怒られたんでしょう?むしろ私が悪いことをしちゃった、ごめんね」
「ほんとか?これ、お昼に長次がボーロを焼いてくれたんだ。絶品だぞ、一緒に食べてくれるだろう?」
「もちろん」
私がそう言うと、小平太くんは嬉しそうに廊下を走り、私の部屋の前の縁側に腰かけて隣をとんとんと叩いた。お盆を持った青年が一度ケーキのようなものを置いてどこかへ行こうとするのを、小平太くんは「私が行こう!」と遮ってどこかへ行ってしまった。
「どこ行っちゃったんだろうね?」
「___」
「うん?」
「切り分けるものを取りに……」
青年の声はとても聞き取りづらい。でも、小平太くんがなんとも思っていない様子を見る限りこれが普通なのだろう。かなり貫録を感じるけれど、彼は小平太くんや伊作くんと同じ制服、つまり六年生だ。十五歳とは思えぬ威厳ある出で立ちなのだから、さっき私が咄嗟に最敬礼してしまったのはしょうがないことなのだと自分に言い聞かせる。
「名前を聞いても?」
「中在家長次」
「なかざいけちょうじくん、ね。分かった、覚えた」
自分も自己紹介をすると、長次くんはこくりと頷いた。無言が続くのを防ぐようにして私も話し続ける。
「長次くんも、普通に話しかけてくれていいよ。私、忍たま一年生になったわけだから。小平太くんみたいな感じで気軽に」
「……四年に15歳の編入生がいますが、先輩である五年生は彼に敬語です。年齢基準の方がいいかもしれません」
「え、そうなの!?でも一年生にも敬語はいらないって言っちゃったし……任せるけど、私はなくて構わない」
長次くんは驚いたようにこちらを見て、「分かった」と言った。長次くんの頬には大きな傷がついていて、彼らが厳しい時代を忍びとして生きるために学んでいるんだということを改めて考えさせられる。
近くでかちゃりと音がした。いつ帰ってきていたのか、小平太くんは小皿やいろいろなものを持ってこちらに笑いかけた。
「長次は怖く思われがちだが、優しい奴だ。怒っているように見えても怒ってない。ただ、笑ったときは怒った時だから注意するんだぞ」
「逆なんだね?あ、ありがとう。いただきます!」
取り分けてくれた小平太くんに例を言ったあと、お皿を少し持ち上げて長次くんに声をかける。長次くんはまた無言で頷いたあと、じっとこちらを見ていた。これは、良い反応をしなければ。
「……!」
「美味いだろう!」
美味しさに目を見開いた私に、小平太くんがまるで自分が作ったかのように自慢げに笑った。ちょっと強面な彼の人となりがなんとなく分かるような、やさしい味だ。
「うん、本当に美味しい、すごいね!」
長次くんの表情に変化は見られなかったけれど、二人きりの時にあった変な緊張感は溶けてなくなったような気がする。それは小平太くんがいるからこそなのかもしれないけれど。