9. 逃げろ!


「夢子さん、お願いがあるんだけど」

「うん?」

「このあと、ちょっとだけバイトの手伝いをしてほしくて……ほんとにちょっとなんだけど」

 お昼ご飯を食べている途中、きり丸くんはそう言ってきゅっと手を合わせた。彼が自分で働いて学費を稼いでいるという話は聞いていたし、断るはずもない。了承すると、「ありがとう!このあと呼びに行くから、部屋で待ってて!」と彼はご飯をかきこみ始めた。

「夢子さん!そのバイト僕も手伝うから、そのあと一緒にお団子食べない?」

「それより先に、足首をもう一度医務室に見せに行かないと。伊作先輩も心配だとおっしゃってたし」

 きり丸くんとの約束をとりつけると、近くで食べていたしんべヱくんや乱太郎くんが競うように身を乗り出してきた。久々に午後の授業がお休みだから皆浮かれているのかもしれないが、ここまで一気にお誘いを受けるのは初めてだ。順番ね、と言えば約束ね!と返された。

 なんだかモテ期が来たようだ、と私は機嫌よく食堂を後にした。きり丸くんは部屋まで来てくれるとのことだったので、一度部屋へ戻るため五年長屋へ向かう。

 足早に向かっていた私だったが、ふと部屋の前で足を止めた。部屋の中に誰かがいるらしいことを察知したからだ。気配で分かったのではなく、声が聞こえてきた。どうやら結構大きな声で何か言いあっているらしい。私はじっと耳を傾けた。

「早くしないと戻ってきちゃうぞ!」

「声が大きい!待って、もう少しで仕掛け終わるから!」

 焦ったように声を上げる男の子と、もう一人はおそらく兵太夫くんの声だ。私は息をひそめて耳を傾けた。

「やっぱり綾部先輩に落とし穴を掘ってもらったほうがよかったんじゃないか」

「立花先輩がぼくに夢子さんの捕獲作戦を任せてくださったんだ。伝七が文句を言う筋合いはないだろ」

「でも!」

「もう、ちょっと静かにしてってば!」

 どうにも不穏なその話に、私の名前が出てきたとなると穏やかではいられない。落とし穴?捕獲作戦?私を?話が見えないが、とにかく今自室に入るのはマズいことはわかる。兵太夫くんが「仕掛け終える」ということはつまり、私の部屋に何らかのからくりが仕掛けられているということだからだ。音をたてないように細心の注意を払いながら、私は急いで長屋を出た。

 しかし、そのうちきり丸くんが私の部屋へやってくるはずだ。彼との約束を無下にするわけにもいかない。近くの空き部屋に身をひそめながらどうしたものかと考えていると、少ししてからきり丸くんのものらしき声が廊下から聞こえてきた。

「……で、部屋を出たところで扉から離れますんで!それに合わせて雷蔵先輩が夢子さんを捕まえて担いでいってください!」

「そこまでしなくても来てくれるんじゃないかなあ」

「これが一番確実ですから!」

「そうだけど……」

 用心して外には出なかったけれど、つい呼吸まで止めて聞き入ってしまった。今のはきり丸くんと雷蔵くんだ。きり丸くんまで私を捕獲しようとしていたとは。ということは、同じように私との約束をとりつけてきたしんべヱくんたちも私を捕まえようとしている可能性が高い。

 何が起こっているのかわからないが、とにかくここから逃げなければ。廊下に二人がいなくなったことを確認して外に出た私は、いつもの場所へと向かった。


 私がひとりで本を読んだり、たまに八左ヱ門くんと勉強会を行うこの教室は、使う生徒がいない・通りがかる人も少ないからという理由で私にあてがわれていた。ここにいれば、しばらくは誰も来ないだろう。しかしこの先ずっとここにとどまるのも難しい。図書室も近いし、ここを使っていることを知っている雷蔵くんたちに見つかってしまう可能性がある。適当なタイミングで出ていくべきか、それとも。私は決めかねていた。

「よっ」

 飛び込んできたのはご陽気な声だったが、私はびくりとふるわせて扉を見た。

「……なんだ、八左ヱ門くんかあ」

「”なんだ”って……。それにどうしたんだ?そんなに縮こまって」

 私はここに来るまでの一部始終を彼に語ってみせた。混乱か、同情か。そんな顔をすると思っていたけれど、すぐにすべてを理解したらしい彼は笑いともため息ともつかない声を漏らした。

「争奪戦だ」

「え?」

「委員会で夢子の争奪戦が始まったんだ。いくつかの委員会……特に会計が動いていないのが気になるが。体育が獲得に動かないのはまあ、頷ける」

「会計は……事前に勧誘されてて」

「なるほど。ならその情報が六年生に漏れたな。五年が委員長代理を務める委員会にはまだ情報が回っていなかったようだが」

 争奪戦になる、と確かに文次郎くんは言っていた。比喩だと思っていたけれど、我先にと私を捕獲しようと動き出す委員会たちの様子は確かに「争奪戦」だ。どこの委員会もそんなに人員不足が深刻なのか。だからってこんなこと…と私が唸っている横で、八左ヱ門くんは面白いことになったな、とくつくつ笑った。他人事だと思って…とじとっと見つめた私に気づいたのか、彼は「悪い悪い」と肩を叩いた。

「あれ?そういえば八左ヱ門くんって生物委員の委員長だよ…ね……」

 委員会、というより生き物が絡んだ時の彼の熱量のすごさは知っている。ここで捕獲されて勧誘されたらひとたまりもないと私はじりじりと距離をとったけれど、意外にも八左ヱ門くんは「いや、俺はここでひっとらえて勧誘するようなことはしない」と両手を上にあげ降参のポーズをとった。確保に積極的でないのは、私が虫は得意でないことを知っているからだろうか?

「どうしよう」

「夢子次第だな。おとなしく捕まって委員会の見学に行くのも手だと思うぞ」

「いや……私……会計委員に入ろうと思う。正攻法で一番に勧誘しに来てくれた委員会だから。強引に捕まえられるのも嫌だし」

「そうか」

 八左ヱ門くんは少し考えて、私は今からすぐにでも文次郎くんを探し出し所属の意思を示すのはどうかと勧めた。少しでも早く特定の委員会に保護されるのが一番安全だろうというのが彼の考えだ。

「でもここから他の委員会に遭遇せずに探せる自信が……」

「そうだろうな。部屋に帰ってこないことに気づけば、すぐに夢子の捜索を始めるはずだ。もう始まっているかもしれない」

 さっきから八左ヱ門くんは妙に楽しそうだ。方法がないことはない、と人差し指を立てて主張する彼にすがるような視線を向けると、「俺は夢子の味方をするが…」と不思議なことを話し出した。

「これはかなり大きな貸し、だよな。学園中から追われる夢子を助けたとしたら……かわいらしいほんの小さな嘘くらい、帳消しになったっていいと思うだろう?」

「嘘?」

「夢子を助けるにあたって今から種明かしをするが……質問攻めをしないと誓ってくれるか?」

「どういうこと?言ってる意味がよくわからないんだけど_」

「あまり時間がない。頷いてくれ」
 
 八左ヱ門くんの言っていることがわからないが、とにかく私は頷いた。時間がないということは事実だ。それを聞いた瞬間、八左ヱ門くんは待ってましたといわんばかりの笑顔で自身の首元に手を伸ばした。


 目の前で人間の顔ががばりと外れたのを目の当たりにして、声をあげそうになる。そんな私の口を、八左ヱ門くん…もとい、三郎くんは大きな冷たい手で押さえた。

「いくら人が来ない教室だといっても、近くに図書室があるんだ。大きな声を出せば気づかれる」

 信じられなかった。そういえば、最初にみんなで食堂に行ったときに三郎くんは変装名人だと説明を受けたっけ。冷静に考えれば、生物委員の勧誘をしてこない八左ヱ門くんというのは様子がおかしい。それでも普通、”この人は変装した三郎くんかもしれない”なんて発想に至るわけないじゃないか。私はパニックになりそうだった。いつから、だとかなんで、だとか聞きたいことはたくさんあったが、質問攻めはしない約束だったし、時間がないのはわかっていたので今は我慢した。私が落ち着いたことを確認して、すっと三郎くんは手をどける。

「夢子を今から架空の生徒に変装させる」

「私を?」

「ああ。それだけでかなり学園中を歩き回りやすくなるだろう?さ、早速失礼。動くんじゃないぞ」

 あっという間に三郎くんは私の頭巾をほどいて顔や髪に細工を施した。仕組みがよくわからないのだけれど、とにかく私は私ではない顔にさせられたらしい。

「どうなったの?」

「この前街で見かけた男前の顔にしておいた。顔や髪をあまりいじるんじゃないぞ。さて、問題は……その……それだな」

 三郎くんはすっと視線を下げた。彼がなぜ言葉を濁したのかわからなかったが、とにかくつられて私も視線を下げる。濁した理由はすぐに分かった。彼が言いたいのは、忍たまにはあるはずのない二つのふくらみをどうにかしないといけないということだ。

「あ〜……そうか」

「増やすならどうとでもできるんだが」

「応急処置的なことでよければなんとかなるかも。ちょっと向こう向いてて」

 三郎くんに見ないようにお願いした後、私は背を向けて外していた頭巾を胸にきつくまきつけた。私がやりたいことを察したらしい三郎くんは、「嫌かもしれないが……これを腹のほうにも入れておいたほうがいい」と彼の頭巾を貸してくれた。折りたたんで腹部に入れておく。胸部が平らになり腹部もそれに合わせて大きくしたことで、かなり凹凸は目立たなくなった。

「よし、これで架空の4年生になれたな。潮江先輩は恐らく、六年長屋の自室にいる可能性が高い。本来なら委員会活動は放課後からだからな……それでも駄目なら活動場所に行くと良い。私も探して、見つけ次第そちらへ向かってもらうよう伝える」

「ありがとう」

「健闘を祈る」

 三郎くんは手をグーにしてこちらに向けた。私はそれにそっとこぶしを添えて、いつもの教室をあとにしたのだった。



ぬるま湯