10. 本質とは


 私は三郎くんに言われたとおり、できるだけ急いで六年長屋に向かうことにした。途中何度か見知った顔や私を捕獲しようとしていた一年生を見かけたけれど、特に何も声をかけられない。自分の今の容姿がどうなっているかはわからないが、三郎くんの腕は確かだということだろう。

 六年長屋に入る直前、私の緊張はピークへ達した。文次郎くん以外の委員長たちも過ごしている長屋だ。もし見つかってしまえば、追いかけまわされるかもしれない。

 幸運だったのは、長屋に人がいなかったこと、そして文次郎くんの名前が彫られた木札が長屋に入ってすぐに見つかったということだ。彼は六年い組、最初のほうに部屋があった。んん、と喉をならして整える。万が一周りに人がいて、声で気づかれてしまってはまずい。私は意を決して、部屋の中に声をかけた。

「失礼します!四年の……」

 いつもより少し低い声でここまで言いかけて、自分の名前をそのまま言うわけにはいかないということに気づく。私はとっさに「忍田」と名乗り先を続けた。声を発してしまっているため安直な名前だということに気を遣う間もなかった。

「四年の忍田です!潮江文次郎先輩はおられますか!」
 
 返事はない。どうやら部屋には誰もいないようだ。そうなると、これから急いで委員会の活動場所に向かわなければならない。私はきゅっと踵を返したけれど、方向転換したすぐそのさきに私をおもしろそうに見つめている顔があり「ひっ」と小さく声を上げた。さっきまで誰もいなかったはずなのに。

「見ない顔だな。忍田と言ったか」

 少しかがんで私の顔を覗き込んできたのは、さらさらの長髪をなびかせた色の白い美青年だ。中性的な顔つきで、文次郎くんや長次くんたちと比べると線も細い。顔の近さに驚いた私はよろよろと後ずさる。変装に気づかれないために距離をとらなければという気持ちもあった。

「あ、その、最近編入してきまして。はじめまして。」

「ほう、そうか。ちょうどいい、私も文次郎に用がある。あいつがいそうな場所に連れて行ってやろう」

「あ……いや、その」

「ああ、私は文次郎と同室の立花仙蔵だ。作法委員会の委員長をしている」
 
 彼は自身の名前が書かれた木札をとんとんと指で叩いた。それを聞いた私はついぴきり、と体を硬くする。まずい、この人は委員会の長だったのか。じわりとにじむ冷や汗を拭うために首元に手を伸ばしかけてやめた。変に顔周りに触れたくはない。...今のところ、彼は私の正体には気づいていなさそうだ。心の中で三郎くんに感謝しながら、ゆっくりと息を吐く。

「ついてくるといい」

「ありがとうございます」
 
 穏やかな笑みを浮かべる彼は好青年といった感じで、私と歩いている間にも学園に慣れたかどうか聞いたり、目に入ってきた施設について説明したりととても優しく接してくれた。名物の先生に会ったことがあるか、隠れスポットに言ったことがあるかなど、親切にたくさんのことを教えてくれる。きっと人気の先輩なのだろう。

「そういえば、文次郎には何の用だ?急ぎでないならあとで私から伝えることもできたが」

「ああ……委員会のことで、少しお話が」

「ほう、会計委員会に。物好きな奴だな」

 くつくつと笑った彼は、人気のない廊下にさしかかったところでふっと立ち止まった。私も合わせて立ち止まると、「五年に鉢屋三郎という男がいてな」と立花くんはおもむろにそう語りだした。

「奴は忍術学園で一番変装術に長けていると言われている。その素顔は誰も知らないと来たものだ、後輩とはいえその実力は認めざるを得ない。....奴の変装はなぜ天才的とまで言われると思う?」

「ええっと……どんな顔にでもなれるから、とか?」

「それもまた正解だ。鉢屋の持つマスクの種類の多さや精密さは圧倒的だからな。しかしそれ以上に重要なのは、観察眼だ」

 くるりと私のほうを向いたと思えば、彼は目線を私の高さに合わせてじっと見つめた。彼はいつまでたっても目をそらさない。いいや、私がそらせないだけだ。蛇に睨まれた蛙のように、私は縮み上がった。すべてを見透かすような視線をうけ、見えない圧に完全に支配されていた。

「動きや表情の癖まで掴む。声帯模写までやってみせる。時には精神までなりきってしまうこともある。だからこそ奴の変装は天才的なんだ……分かるか?マスクを被るだけでは足りないというわけだ」

「た、立花先輩……」

「おや、どうした?汗をかいているぞ。体調でも悪いか?忍田……いや、夢山さんと呼んだほうがいいか」

 彼は私の名前を呼ぶとにこりと笑う。動けなくなった私の汗ばむ首筋をつつと指でなぞったかと思ったら、そのままべろりとマスクを外してしまった。

「鉢屋も無茶なことを考え付くものだな」

「いつから……」

「長屋へ歩いて入っていくところを見ていたが、その時だ。足首をかばいながら恐る恐る歩く癖がついている。ほとんど治っているようだし、自分では気づけないだろうが……両足首を捻挫した話を聞いていたから、すぐに分かった」

 そのほかにも、声の出し方話し方、首元を触らないように変に意識している、などと私の挙動に対する違和感を次々にあげていく彼に冷や汗が止まらない。彼はすべてわかったうえで私をどこかに誘導していたのだ。何も知らない良き先輩として。

「小さな違和感はあげだしたらきりがないが、まあとにかく……今から作法にご招待しよう。兵太夫たちに戻ってくるように伝えねば」

 行くぞ、と笑う仙蔵くんは妖艶だが、私はここで、最も捕まってはいけない委員会に捕まってしまったことに気づいた。彼は兵太夫くんたちを指揮しているのか。兵太夫くんは私の部屋にからくりをしかけていたし、一緒にいた男の子は落とし穴まで掘らせようとしていた。私を担いでいこうとしていたきり丸くんたちもなかなかだが、今のところぶっちぎりで過激な委員会はこちらだ。

 私は意味もないのにとにかく距離をとろうと一目散に走りだした。後ろからゆっくり追いかけてくる仙蔵くんはにこにことしながらこちらへ近づいてくる。きっと本気を出して走ればすぐに捕まえられるのに、私が逃げていくのを楽しむようにじわじわと距離をつめることしかしないのだ。

「どうして逃げる?もてなすだけだ」

「落とし穴の中でもてなされるのはちょっとっ……!」

「ほう、喜八郎の話も聞かれていたとは。一年の二人には少し注意をしなければ」

 無理だ、長く走り続けられない。私一人では絶対に撒ききれないだろう。恐らく会計の活動場所からは離れたところへ連れてこられているはずだから、追いかけられながらそこまで無事たどり着くことはきっと難しい。

 私は覚悟を決めて立ち止まった。観念したと思った仙蔵くんが薄く笑う声が聞こえるが、私はお構いなしにすうっと限界まで息を吸った。

「なっ……?」

「潮江文次郎ー!!!」

 ご近所の大声大会ならぶっちぎりで優勝を叩き出せたであろう声量で、私は絶叫した。と、同時に最後のダッシュをはじめる。走りながらもとにかく「潮江文次郎!!」と絶叫し続け、とにかく助けてくれと、私はここにいると表明し続ける。

「しお……うわっ」

「ははは!」

 曲がり角から突然現れたのは文次郎くんではなく小平太くんだったが、彼は躊躇なく私を俵のように担ぎ上げ、「悪いな仙蔵!」と声をかけたあと私とは比べ物にならない速さで走り出した。仙蔵くんが何か叫んだような気がするけれど、抱き上げられたときに小平太くんの肩が腹部に入って出た自分のうめき声が邪魔して聞き取れない。

「おろして!体育委員にはさすがに……!」

「文次郎のところまで連れて行く」

「え?」

「体育に勧誘する気はない。どんな争奪戦が起きるかと思ってずっと見ていたが、やはり一年生はまだまだ学ぶことも多いな。それより、はは、学園中に響いたんじゃないのか今の声。いいものが見れたなあ」

「え……?」

 全てを知っていたような言い方をする小平太くんに、私は混乱して抵抗もできないまま担がれていた。しかし小平太くんが急に立ち止まったせいで、私は顔面を強く彼の背中に打ち付けた。

「七松先輩」

「ああ、三郎。すまないが後にしてくれ」

 どうやら三郎くんが現れたらしい。助けに来てくれたのだろうか。私は確認しようと上体を持ち上げようとしたけれど、とても持ち上がりそうにないので諦めた。

「降ろしてやってください」

「そうか、そういえばさっきまで変装していたんだったな。三郎を味方につけたのは大きい。……どうして三郎は夢子ちゃんに味方するんだ?」

「……私は学級委員長委員会所属ですので」

 それだけ?と面白くなさそうに言った小平太くんは、私をもう一度しっかりと背負いなおした後方向転換してどこかへまた駆け出した。しかし軽快に走っていたさっきまでとは違ってたまに振り返りながら走っている。大きく金属をはじく音が聞こえて、私は「なに!?」と叫んだ。

「おいおい、夢子ちゃんに当たったらどうするんだ」

「あなたが弾き返せなかったことなどないでしょうに……悔しいですが」

 どうやら手裏剣かなにかを投げてきているらしい。委員会所属の話をしていただけなのにどうしてこんなに大ごとになってしまったのか。私は怖くなって自分の足をキュッと閉じた。間違って当てられる可能性を考慮してできる限り自分の面積を狭くしておきたかった。いくつか投げたものをはじき飛ばした後、小平太くんはもう一度、次はゆっくりと走るのを辞めた。

「何か勘違いしてるようだが、私は夢子ちゃんを文次郎のもとへ連れていこうとしてるだけだ。なにもしない」

「……」

「疑ってるのか?……あ、ほら。文次郎〜〜〜こっちだ!!」

 どうやら文次郎くんを見つけたらしい小平太くんは、また凄い勢いで走り出した。「は!?」「おい、なんのつもりだ」などと困惑している文次郎くんの声が近づいてくる。

「ほら、会計委員会所属希望者だぞ!」

 小平太くんは担いでいた私を地面に降ろし、とんと背中を押した。そして、これで満足だろうと言うように少し離れた場所の三郎くんの方を向いた。遠くで立ち尽くす三郎くんの姿が見える。今の一瞬で小平太くんはここまで駆け抜けたのかと恐ろしくなるが、そんな考え事も吹き飛ばすほど文次郎くんは大きい声で驚いていた。

「だからって俵みたいに担いで来なくてもいいだろう!何事かと思ったぞ」

「いや、事態は割と切羽詰まっているぞ。私は仙蔵に追いかけられていたところを拾ったし、絶叫しながら走り回っていたのだから声を聞きつけた奴らが来ないとも限らん」

「あぁ……何が起きたか大体想像がついた」

「ほら、行かなくていいのか」

 文次郎くんはああと言って少し歩き出して、すぐに足を止めた。

「本当に良いのか?」

「え?」

「正直、苦労させることになるだろう」

 振り返りながら深刻な顔でそう言う文次郎くんに、小平太くんは「なんだ?結婚でも申し込むつもりか」とつっこんだ。

「違っ……他の委員会について考慮しなくていいのかという意味で言ったんだ!」

「さっき言っただろう、自分から希望してるんだ。据え膳だぞ」

「お前!」

「ほら早く!」

 急かされた文次郎くんははあとため息をついて私についてくるよう言った。目指す場所はすぐそこだ。私は一か月ぶりに向かう学園長の庵で、そういえばあの夜異変が起きたことを伝えに庵に飛び込んできた生徒は彼だったような気がするなあとぼんやりと思い返していた。



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