3.遮るものは


 お互い過去の文献を調べると約束したため、私は自分のパソコンをもって大学の図書館まで行った。まだしばらく授業は始まらないのだけど、利用者はそこそこいた。

 ネットで調べて、それらしいものがあれば図書館で本を探す。そんな風にしようと思っていたけれど、うまくはいかない。それらしいものを調べても、やはり出てくるのは架空の物語ばかりだからだ。それに、ネットで調べると奇怪な現象から芋づる式で怖い話のサイトに繋がっていく。結果的にそういう話ばかり読み漁ることになり、私はそれに影響されて徐々に怖くなってきていた。八左ヱ門くんは本当に実在するのだろうか。できればホラーより異世界ファンタジーであってほしい。


 布団を引き出すために襖を開けると、今度は向こうの押し入れが開きっぱなしになっていた。昨日と逆だ。暗くてあまり見えなかったが、部屋の奥の方でなにかしていた八左ヱ門くんがこちらに気づいて近寄ってきた。

「今日は約束の日じゃなかったと思うんだけど」

「いや……今日図書室に行ったんだが、図書委員に聞くにもなんて聞けばいいのか分からなくて、妖怪だとか幽霊の話を読む羽目になったんだ。たぶんこれは何の手掛かりにもならないだろ?だから調べ方の相談にと思って」

 八左ヱ門くんは足元に置いてあったのであろう本をいくつか持ち上げてこちらに見せてきた。なんだかかなり古い仕様の書物だが、ものは新しそうだ。


「スマホは持ち込み禁止な感じ?」

「すまほ?」


 なんだそれ?と八左ヱ門くんは眉をひそめた。まるでその単語を初めて聞いた時のような反応だが、今どきの青年がスマホを知らないなんてことあるだろうか。もしかして彼は文字通り今時の青年ではないということなのだろうか。パジャマ代わりの浴衣も、今どき珍しいくらいの長髪も、時代が違うとなれば説明もつく。何も言えないでいると、八左ヱ門くんはもっと困ったような顔になった。黙っていても仕方がないので、「頭がおかしくなったかと思われるかもしれないけど、」と前置きしてから私の見解を述べることにした。

「もしかしたら、この押し入れって単に違う場所をつないだわけじゃないのかなって思い始めたんだけど。たとえば未来と過去を繋いでたり……」

「……実は俺も薄々思ってたんだ、何かおかしいって。時間は同じみたいなのに、部屋は明るいし見たことないものばかりだし」

「あ〜じゃあ……西暦って言われて分かる?」

「いや……」

「なら書類の前とか後に添える『慶長〜』みたいなやつは?」

「慶長……はちょっと聞いたことがないな」

「ん〜私も詳しいわけじゃないからなあ。永禄とか天文とか……あとなんだっけ、そういうの聞いたことない?」

「ああ、今言われたのは知ってる」

 ということは、大体安土桃山時代の少し前くらいだろうか。くらくらしてきた。脳内で法螺貝の音と共に「時は戦国…」という歴史ドラマのナレーションが流れ出した。ああ、目の前の彼はどう見てもふざけてなどいない、これは事実なのだ。彼は戦国時代を生きる人間なのだ。

「夢子のいる方の世界は俺たちのいる場所よりずっと未来なんだろうな。その手に持ってる光るからくりも、見たことがない。そんな技術は知る限りでは無い」

「たぶん、ざっくり言えば500年くらい離れてるだろうね」

「500年!?」

 八左ヱ門くんは頭を抱えるが、私だって頭がパンクしてしまいそうだ。事情が徐々に複雑になっていく。彼がいるのは過去なのだろうか、それともパラレルワールドなのか、どちらにせよとんでもないことだ。しかしまだこれが全て幻覚という可能性も捨てがたい..というか、捨てたくない。やはり夢オチだけが唯一の救いなのだが。



「……八左ヱ門くんって本当に亡霊とかじゃないんだよね?」

「なっ……違うったら。それを言うなら夢子だって……」


 向かい合ったまま相手の様子を探るように視線が上下する。

「なによりまず八左ヱ門くんが人間だっていう保証が欲しいんだけど。怖い話読んでからもうずっと疑心暗鬼で」

「でも俺が人間かどうかなんてどう証明するんだ?夢子だって自分で証明できないだろう」

「実体があるか分かればいいんだけど。この境界を越えるのはちょっとな」

 そこで私は一つひらめいた。八左ヱ門くんにちょっと待ってもらって、引き出しから新しくTシャツを取り出す。彼側から死角になる位置でそれに着替えたあと、さっきまで着ていた部屋着のTシャツを手に持つ。

「これ、そっちに投げてみたら駄目かな」

「今まで着ていたものか?それは」

「うん。体温が残ってれば生きてる証拠になるかなって……」

「なるほど……おあっ」

 ヒラヒラと揺らして何の変哲もない布だということを見せた後、私は思い切ってそれを押し入れの向こうに投げた。何か起こるかと思ったけれど、特に何が起こるわけでもなくTシャツは八左ヱ門くんの手元に収まった。

「……人間の体温だな」

「ごめん、気持ち悪いよね。でも最初から直接境界を越えてなにかする勇気がなかった……あ、お風呂に入った後に着てるから一応綺麗なはず」

「いや、全然気にしない、むしろいい案だと思う……でもちょっと、いやかなり……」

 もごもごとなにか言おうとしたあと、「やっぱりなんでもない」と言って八左ヱ門くんはそっとTシャツを放り投げて返してくれた。彼は浴衣みたいなものを着ているし、さすがに同じ方法はつかえないが。


「境界超えても着物に影響なかったな。生身でも越えられるんじゃないか」

「度胸あるなあ」

「度胸というか、興味がある。君だって、俺が人間かどうか確かめたいだろ」

 八左ヱ門くんはそっとこちらに手を伸ばそうとした。私もつられて手を伸ばす。あと数センチでお互い境界を越えるというところで、やっぱり手を止めてしまった。


「怖いか?」

「……そりゃあ、もう。もし越えた瞬間に時空の狭間とかに飛ばされちゃったら、とか考えちゃって」

「時空の狭間……まあ、その時はその時だ」


 またそれか、と一昨日初めて話した時のことを思い出す。八左ヱ門くんはあの時も同じようなことを言っていたような。彼は今起きてることの重大性が分かっているのかとたまに不安になる。


「行き来できるかどうかは調べていく上で、遅かれ早かれ試さなければならないことだろ?俺だって抵抗がないわけじゃないけど……」

「分かってる、分かってるんだけど……いや、うん。覚悟決めた。やろう」



 私はもう一度気を取り直して手を伸ばしたが、八左ヱ門くんの手の方が私より先に境界を越えた。何も起こらないのを確認するように手を動かして、彼は私の手を捕まえた。



「おお……何も起こらない」

「人の体温だ、マジで生きてるんだ……」

「まあな。すごいな、これが夢じゃないんだもんな……」

 八左ヱ門くんは、確かめるように私の指先をキュッと握り直した。全神経を手に集中させていたせいで、彼の少し骨ばった指の感触が、脳内を支配する。心臓がうるさい。違う世界の人間と接触したことに対する恐怖や、物語みたいな展開を体験した高揚感がぐちゃぐちゃになって、頭が沸騰しそうだった。



「あの、一旦離しても?」

「あっ、悪い……」

 多分この信じ難い状況を必死に理解しようとしていたのだろうけれど、八左ヱ門くんは私の手をずっと握ったままじっと一点を見つめて固まっていた。声をかければ、気がついたように八左ヱ門くんはばっと手を離して上にあげた。

「なんの話だったか……あ、ああ調べ方の話をしたかったんだ」

「あー、そうだったね。いっそ作られた物語を調べるのはどうかな。過去に事例はなさそうだったから、真偽はどうであれ異世界転移ものを参考に……」

「神話とか?」

「あ〜そうなるのか、うん、それでいいと思う。明日の夜の約束はなしにしたほうがいい?間に合わないよね」

「いや、夜までには何個か読めるだろうし、明日は明日でまた会おう」


 この様子じゃなんだかんだで毎夜情報を持ち寄ることになるんだろうなと思いつつ、今日はもうこれで、と寝る前の挨拶をした。私はすぐに布団を引っ張り出してダイブする。

 動悸は落ち着いていたけど、やっぱりどっと疲れてしまった。越えた瞬間から、特に何が起こったわけでもないのにぞくぞくして、全身緊張状態になっていたのだ。とんでもない体験をしてしまった。興奮冷めやらぬまま、布団の中でごそごそと動いているともう朝になっていた。

 過去なのか異世界なのか、とにかくとんでもないことになってしまった。ただ一つ言えることは、私は最初乗り気じゃなかったはずなのに、今や本当に繋がってしまった異世界のことで頭がいっぱいだということだ。



ぬるま湯