7.美味なる禁忌


(八左ヱ門視点)


 彼女は少しして落ち着いた後、医務室で休むことになった。騒ぎを受けてすっ飛んできた新野先生によると、過呼吸のせいで全身が痺れているような状態になっていたらしい。

 夢子が運ばれて行ったあと、まだ何が起こったのか把握しきれていない上級生や先生方が俺の部屋の押し入れを次々と覗きに来た。押し入れの先に確かに存在する色を失った世界に、それぞれ驚きの声をあげる。俺の部屋の前には列ができていた。


「八左ヱ門」

 人が出入りしやすいように部屋を出てすぐのところで待機していると、雷蔵が声をかけてきた。

「どうした」

「古事記は読んだ?」

 俺の部屋が砂だらけになって本の心配をするのも分かるが、今する話だろうか。少しの呆れと苛立ちを飲み込んで、俺は努めて冷静に返事をした。

「部屋は砂だらけだったが、本は箪笥の中だから無事だと思うぞ。返却ならちゃんと_」

「違うんだ。『ヨモツへグイ』について話したくて」

「ヨモツ……なんだって?」

 俺が聞き返すと、「黄泉戸喫。あの世のものを食べると、この世に戻れなくなるってやつだな」と三郎が代わりに返事をした。流石三郎、伊達に雷蔵の同室をやっていないらしい。

「解説ありがとう、三郎。そう、それが古事記に出てくるんだけど、その様子じゃまだ読んでなかったんだね」

「ああ……今の異変はそれで起こったって言いたいのか?でもここはあの世じゃないし、夢子も幽霊じゃないし、ということは向こうがあの世というわけでもない」

「それはそうなんだけど。でも、異変が起こったのはおそらく彼女がお茶を飲んだ直後だろう?」

 思い返してみれば、確かにそうだ。ヘムヘムからお茶を受け取って一口。そのあとのやり取りの途中で潮江先輩が飛び込んできたんだ。飲んだ瞬間に異変が起きて、それを目撃した先輩が飛び込んできた、というのは時系列的にも辻褄が合う。この世界のものを口にしたから、元の世界に戻れなくなった、ということなのだろうか。


「あくまで推測にすぎないんだけどね。食べ物じゃなくて飲み物だし」

「それがもし本当なら……大変なことじゃ」


 声にはっと振り向くと部屋の中から学園長が出てきた。聞かれていたらしい。月のないこんな夜では顔色までは伺えないが、少し動揺しているのが分かる。何を隠そう、お茶を振舞ったのは学園長なのだ。どう見ても肩を落としている学園長の背中に、ヘムヘムが鳴きながら手を(足を?)あてる。

「もしこれまでの話が全て……黄泉戸喫も含めて本当だったとして。どうなさるおつもりですか」

「わしは..保護する必要があると思っておる。もちろん彼女に見てきたものを報告してもらって、意見も聞きつつのことにはなるが……」

 廊下の列の中から話を聞いていた山田先生が学園長に尋ねた。その返答に、また廊下がざわつく。あとの報告は我々がやりますから、と先生方に促されて頭を抱えた学園長は庵へと戻っていった。

「……最初に行き来できるかどうか試したっていう点では俺が元凶っていうか」

「そんなこと言い出したら全員悪い」

「つまり、誰も悪くない。」

 俺に向かってぶっきらぼうに放った三郎の言葉に、雷蔵がそっと付け加えた。そのあとは皆それぞれにじっと黙りこみ、しばらく誰も話さなかった。

「ほらお前達も。明日はまた授業だぞ、そろそろ部屋へ戻らんか」

 五年い組の実技担当、木下先生がこちらへやってきて俺達を追い立てた。部屋が砂だらけになっていた俺は、雷蔵と三郎の部屋で一晩を過ごすことになった。



「おい起きろ八左ヱ門!」

 数時間後、俺は文字通り、三郎に叩き起された。布団も砂だらけになってしまった俺は二人の部屋の床に寝ていたが、ぐらぐらと俺の体を揺らすようにして三郎に叫ばれて飛び起きた。

「しまった、遅刻か?」

「違う!見てみろ!」

 バキバキと肩を鳴らしたあと、外を眺めている二人の後ろに近づく。と同時に、目に入ってきた光景に息を呑んだ。何が起こっているのかは聞かなくても直感的に理解した。昨晩の砂のようなものが、陽に照らされて淡く七色に光っているのだ。やはり昨日の風と光に目を瞑った時、肌を砂が撫でたような気がしたのは気のせいではなかったらしい。風で飛ばされたのだろう、屋根の上にも砂があり、同じように優しく光っている。天女の羽衣なんて見たことがないが、もしそれに学園中が包まれたとしたら、こんなふうになるのだろうかとふと思った。

 どう考えても異常事態なのだが、余りにも美しいその景色にしばらく呆然と扉の外を眺めていた。「どうしよう」という雷蔵の声で我に返る。

「昨日の……だよね。部屋から出てみる?」

「他のみんなも戸をあけて様子を見ているだけのようだな」

 話し合っていると、勢いよく歩いてきた誰かが戸の前に立った。

「食満先輩……!おはようございます」

「おう、ここもさすがに起きてるか。午前は予定変更、全員グラウンド集合だ。細かいことは後々説明するらしいが、まあもしかしなくともこの砂の片付けだろうな」

 先輩は早めに準備して集まれよーと言って、砂だらけの廊下をものともせず次の部屋へと去っていった。やることが決まった俺たちは急いで着替えて食堂へ向かい、グラウンドに集合した。


 グラウンドに集まってきていた生徒はまだまちまちだったが、皆騒然としていた。ちなみに昨日の出来事は先生方、そしてほとんどの五・六年生と勘のいい数人の四年生が目撃しており、上級生はそれぞれ説明を受けた。昨日の出来事を目にしている上級生や先生方ですら困惑しているのだから、何も知らない下級生が不安がるのも無理はない。グラウンドで一番目立っていたのはやはり一年は組のよい子達で、特にきり丸はすぐに列から抜け出しそこらじゅうの砂をかき集めてこようとして担任二人に止められていた。

 ほどなくして生徒が集合すると、道具管理主任の吉野先生の指揮のもと、一斉清掃が始まった。特に昨晩の出来事について説明が行われなかったためどよめきはおさまらなかったが、それぞれ持ち場へと散っていった。俺たちもひとまず自分たちの長屋に戻ろうとしたところで、俺は名前を呼ばれた。声の主は保健委員長、善法寺伊作先輩だ。


「これから夢子ちゃんに話を聞こうと思うんだが、来てくれるかい?」


 なるほど、全員をグラウンドに集めての説明の場に学園長がいないのもそういうことか。気になって少しそわそわしている雷蔵と三郎に、先輩は「人数が多すぎても圧をかけてしまうからね」と見透かしたように言った。行こうか、と声をかけられて後についていく。


「黄泉戸喫の話をするように先生方から先程言われたんだ」

「その話を切り出すのが俺の役割ということでしょうか」

「……そうだね、頼めるかな」

「努力しますが……今の様子はどうなんです?」

「ありがとう。君になら僕たちより話しやすいだろうから……彼女はもう落ち着いているよ。さっき目を覚ましたところだ」


 先輩に続いて入った医務室の中には布団の上で上体を起こした夢子と、横には昨晩つきっきりだったのであろう校医の新野先生がいた。学園長は天井裏かどこかで話を聞いているのだろうか。普通に新野先生と話をしていたみたいだし、落ち着いたというのは本当らしい。夢子はこちらをみて、あ、と声を漏らした。


「そこで遭遇してね。様子を見たいと言うから連れて来た」

「というわけだ。体調は大丈夫か?」

「大丈夫。昨日はごめん、取り乱してご迷惑を」

「無理もないさ」
 
 俺は新野先生と向き合うような形で、夢子の布団の傍に腰を下ろした。しかし、どうやって話を切り出せばいいのだろう。彼女は昨日相当動揺していた。ここ数日話していて感じたことだが、どちらかといえば彼女は落ち着いている方だ。うっすら分かってはいたが俺よりも年上だろう。そんな彼女が取り乱すような光景を、もう一度思い出させて口にさせるなんて。なかなか難しいのではないだろうか。


「昨日のことなんだけど」

 俺の考えは杞憂に終わった。彼女は自分から話し出したのだ。

「ごめんなさい」

 そして彼女は頭を下げた。善法寺先輩や新野先生がなんだなんだという顔でこちらを見たが、俺も何も分からない。それをアピールするように、二人と目を合わせて小さく首を傾げた。

「顔あげてくれ。どういうことだ?全く分からないんだが..」

「全部私の不注意のせいだと思う。違う世界のものを簡単に口にするなんて、どうかしてた」

 夢子の言葉に、部屋にいた全員が小さく息を呑んだ。まさか自分から黄泉戸喫に関する話を切り出されるとはだれも思っていなかったからだ。彼女はまたがくりと肩を落とした。


「その、黄泉戸喫……的なことか?」

「分からないけど、そういうことなんじゃないかって。八左ヱ門君もそう思う?」

「いや、俺じゃない。雷蔵っていただろ?図書委員なんだけど、そういう話があるって」

「やっぱそうだよね。古事記は読んだことないけど、そういう話があることは知ってたのに……」

 本当に馬鹿だ、と言って彼女は心底苦しそうな顔をした。今すぐ殴ってくれとでも言い出しかねない雰囲気だ。

「でも……まだ帰れなくなったわけじゃないんだろ?黄泉戸喫はあの世とこの世の話だし……というかまだ押し入れは向こうに繋がってる」

「昨日見て来たけど、自分の家の中はもちろん、他の家にも、外にも、人間はいなかった。というか、動物がいなかった。あんなの元居た世界じゃないよ、元居た世界の抜け殻みたいな……色も音もないし」


 俺はふと、彼女の話を自分に置き換えて想像した。誰もいない、色も音もない世界に一人。


「色……だ、それだ。学園中に散らばってたあれ、砂じゃない、色だったんじゃないか!?行こう!」

「え?待っ……」

「八左ヱ門!?」


 ひらめいた俺は咄嗟に夢子の手を引いた。こういう時の話は早い方がいい。まだ少しふらふらしている彼女を抱き寄せて持ち上げて、先輩方の制止も聞かずに保健室を飛び出した。



ぬるま湯