遥かの夜空を、六等星まで

第三日

  3日目も、朝とは言えない時間にヒースは起きてきた。勿論サブを傍らに。ソファでスマートフォンを弄っていた藍は恨めしげに睨み付ける。 

「昨晩はお楽しみでしたかァ」 
「何言ってんの」
 
 けほ、と顔を顰めたヒースが咳をする。くん、とサブが小さく鳴いた。
 
「ヒース」
「ん、なに」
「昼食ったらオレ出るから。夕方には帰る」
「わかった」
 
 ヒースは足元に纏まり着くサブと戯れていた。藍はソファの背に腕を預け、本来と逆向きに座ってその様子を眺める。サブは仕切りにヒースの脛に頭を擦り付けたり、手を舐めたりと忙しそうである。中々の甘えっぷりに当人のヒースは勿論、藍も驚いていた。人慣れはさせているが、かといって簡単に甘えるような警戒心のない犬ではない。何か、サブの琴線に触れるものをヒースは持ち合わせているのだろうか。犬といえば、元職場のトップを思い出した。藍より1つ年上の男だ。小耳に挟んだ話であり、本人から聞いた事はないが、親無しの施設出身者らしい。同じく施設育ちのヒースとはまたタイプが違い、口が悪く手と足が同時に出るタイプの暴れ犬。よく彼が引っ掛けてくる喧嘩に藍も参加したものだ。何も考える事なくただただ己の欲望がままに拳を振るうのは楽しかった。頭を使う喧嘩も嫌いではないが、やはり好き勝手暴れられる快感を知ってしまっては戻れない。
 
「なに、藍」 
「いーや、なんもなァい」
 
 朝食兼昼食をのろのろと食べるヒースの横で自分も食事を済ませると、藍は玄関へ向かう。サブに倣ってヒースも後をついてきたが、ヒースは勿論退院したばかりのサブもお留守番である。名残惜しげに手を舐める頭を撫でてやりながら靴を履く。
 
「じゃあなサブ。ヒースのお世話、頼んだぞ」
「普通逆じゃない?」
「いい子にしとってな、ヒース」
 
 サブにしてやるのと同じ様に鳥の巣みたいな頭を掻き回すと、ヒースは不機嫌そうに眉を顰めた。
 
「ムカつく」
「でも嫌がってないじゃん」
「早く行きなよ」
「はぁい」
 
 いってらっしゃい、とヒースは言った。行ってきます、と藍は笑った。
 




「なぁ兄ちゃん、オレな、待つの嫌いなの」
「あが、が、……い゛い゛い゛い゛ィィィィ」
「あーもう。うっさいわ」
 
 鷲掴んだの頭を鷲掴み、机に思い切り叩き付ける。凄まじい衝撃音を立て、空気が振動したような気がした。ぐ、と後頭部の髪を掴んで無理矢理首を上げさせ、原形などとう失くした顔を見る。奥歯を何本か抜かれてパンパンに腫らした頬が風船のようだった。針かなんかで突き刺したら、小気味よい音を立てて破裂するかもしれない。
 
「ウソはついちゃいけません、人を騙しちゃいけませんってママから教えて貰わんかったんか? 教えて貰っとらん? なら仕方ないでオレが教えてやるよ」
 
 錆びたペンチを手に取った。だらりと力なく下がっている男の手首を掴むと、くぐもった呻き声が上がった。机の上に手の甲を上にして乗せ、自分の手で押し付ける。ついでに太腿を足で踏んだ。ペンチで男の人差し指の爪を挟み、上に引き上げる。べり。
 
「っっっっっっ!?」
 
 殴られて腫れぼったくなった瞼を押し上げるように目が見開かれた。反射で上がる男の足を強く踏み、動けないようにする。初めから椅子に縛り付けておけばよかった、と今更ながら思った。
 
「分かったかなァ、悪いコトしたらお仕置されちゃうんやで」
 ぽろり、と男の目から涙が零れた。
 
「分かった? 分かった? なら、ちゃあんと、言わなかんなァ。ん?」
「ごえんならい! ごえんららい! ゆ、ゆ、ゆるい゛い゛い゛ィィィィ!?」
「謝れってことじゃないんやけど」
 
 もう1枚爪を剥がしてやると、遂に男は白目剥いて気絶した。やり過ぎかと思ったが、この男の根性が足りないのが悪い、という事にした。こんな弱っちいならば、行く先は考えなくても一方通行だ。
 藍はペンチを床に放り投げる。

 「シバァ」
「何です」
「テキトーに流しといて」
「いいんですかい?」
「いーのいーの。こいつの情報は端金にもならん」
 
 シバは藍に濡れたタオルを差し出した。よく気の遣える男である。真面目で硬派で柴犬っぽいからシバ。本名は忘れた。
 
「んじゃ、後は任せた」
  




 リビングに入り、真っ先に目に飛び込んできたのはソファで寝転がるヒースだった。足元にはサブもいる。家主の出迎えもせずに寝転けているとは、ヒースの頭の中の辞書に礼儀の2文字は無いのだろうか。雷神の歌詞に入れたろか、と思う。午前零時ではなく御前礼儀、である。駄目だ、センスの欠片もクソもない。
 起こさぬよう、ゆっくりと近付く。流石にサブは気付いて顔を上げたが、ヒースは身体を丸めて猫のように寝ていた。今日だって昼まで寝ていたというのにまだ寝るか。体調が悪いのでは、と顔色を伺うが、ヒースの場合いつも死にそうな顔をしているので藍には分からなかった。起こすか起こさないか迷い、だが寝かせ過ぎも良くないので藍は軽くヒースの肩を叩く。
 
「ヒース、ただいま」
「ら、ん?」
「そ、藍ちゃんですよー。おはよーさん、水飲む?」
 
 起き上がって藍が差し出したペットボトルを受け取ったヒースは1口含むと大きくため息をついた。
 
「体調悪い?」
「まあ、そんなとこ」
「飯食べる?」
「お粥がいい」
 
 お粥なんて作った事ないが、検索すると数多くのレシピが出てきた。卵が冷蔵庫にあったのでぶち込んでおく。ヒースはソファから動く気配がなく、サブもまたヒースの傍らにいた。
 
「なんか妬けるわぁ。サブ取られて」
「なんでだろうね」
 
 ヒースはサブと目を合わせて首を傾げた。サブも真似して首を傾げるので、藍は思わず吹き出した。
 ヒースは粥を半分残して、シャワーを浴びるともう寝るみたいだった。勿論サブもついて行くので、藍は一人残される形となった。ヒースの残した粥を1口食べる。冷えきった噛んだ心地のない米は不味かった。しかし残すのは勿体ないので、全部を無理矢理胃に突っ込む。胃に優しいかもしれないが、脳が受け付けない味と食感だった。食欲は完全に消え失せた。
 リビングのソファから、一人と一匹が消えた廊下を見る。物音一つなく、静かだった。