遥かの夜空を、六等星まで
   

第四日

 昨日は19時に寝に行ったのだから、さすがに昼まで寝ている事は無いだろうと思っていたら8時には起きてきた。覚束無い足取りで目を擦る様は子供のようで、あれだけ寝たのにまだ眠そうにするか、と藍はヒースの頬に触れる。それなりに温かった。
 
「生きてる?」
「……死んでないよ」
「朝食べる?」
「いらない」
 
 あっそう、と藍は気に留めずに自分の朝食の準備に取り掛かった。その視界の隅に、ソファに力なく身体を預けるヒースを認める。まだ体調が戻っていないのかもしれない。熱は無さそうだが、咳き込む頻度がかなり高いのでかなりしんどいのだろう。適当な所で区切りをつけた藍は冷蔵庫から水を取り出し、ヒースの頬に当てた。
 
「ヒース、水飲め」
「うん、ありがと」
 
 口ではそういうものの、受け取ったペットボトルを開ける気配がない。腕を動かすのも怠いのだろうか。だが水分を取る事は必要なので藍がペットボトルの蓋を開けてやり、口元に近付ける。されるがままのヒースをいい事に、半開きの唇に押し付けるように水を飲ませた。上手く飲ませる事が出来ずに零れた水が唇の端から流れ落ちる。 

「もっかい寝たら?」
「そうする」
 
 ふう、と息を吐いてヒースはソファに丸まった。念の為に額に手を乗せるが、やはり発熱している様子はない。サブが藍の手に鼻を押し付ける。ヒースを心配そうに見て、尻尾はだらりと垂れ下がっていた。藍が客室から毛布を持って来て掛けてやると、ヒースはぎゅ、とそれを掴んで毛布にくるまってしまう。サブはソファの下で丸まった。
 それから2、3時間して目を覚ましたヒースは、先程よりも回復したようだった。食欲はないが、動く気力はあるらしい。藍はヒース、と名を呼ぶ。振り向いたヒースの目元の隈がやけに目立って見えた。あれだけ寝まくっているのに、可笑しな話だ。刺青ではあるまいに。
 
「今日オレ帰んないから」
「いいよ。寝てるだけだし」
「ん。任せたわ」 

 ソファに座るヒースの隣に、くっつくようにして藍も腰掛けた。そのまま体重をヒース側にかける。
 
「おっも」
「ヒースがヒョロいだけやって」
 
 藍を押し返そうと腕を伸ばしたヒースだが、ものの5秒で諦めたらしくパタンと倒れる。藍はヒースの腰に頭を乗せる形になった。出っ張った骨が頬に当たり、決して良い寝心地ではない。ぴょん、とサブがソファに乗り上げ、藍の足元に蹲った。一人と一匹の体重を乗せられたヒースは苦しげに呻く。
 
「死ぬ」
「オレもサブで死にそう」
 
 だが、2人とも動く事はなかった。ヒースが力を抜いたのを直に感じる。それに合わせて藍も目を閉じた。奇妙な光景だと思う。成人男子2人してソファにくっついて寝転がるなんて。それでも時間が許すまでそのままの体勢でいた。ただ、犬が眠ってしまっていて、動くのが可哀想だっただけである。
 
 




 昨日と同じく、藍はヒースとサブに見送られて出掛けていく。いってらっしゃいと言われたので、行ってきますと返した。ああいう言葉のやり取りは、変にふわふわした気分になるなぁと、ぼんやりヒースの事を思い浮かべると、不意に腕を引かれた。
 
「ねぇちょっと、聞いてる?」
「あ? あ、ああ、悪い悪い。聞いとらんかった」
「ひどーい」
「アハハ」
 
 態とらしく頬を膨らませる女の肩口に顔を寄せ、軽く噛む。香料の香りが鼻をついた。甘ったるく胃もたれしそうだった。
 
「もっと噛んで」
 
 少し触れただけで簡単に声を上げ、顔を上気させる女は藍の首に腕を回し引き寄せる。2つある脂肪の塊の谷間は、特に香りが強くて噎せそうになる。どこもかしこも柔らかい女の身体はいつもは触り心地良く感じるのだが、何故か今日は何とも思わなかった。汗ばんだ身体に手を這わせながら考える。きっとヒースの身体はかさついて固いんだろうなと思った。
 


 


 薄れゆく意識の中、藍は己の身体に触れた手を振り払うように身を捩る。
 
「俺です!シバです! アンタ何やってんすか!?」
「あ゛? なんだシバか。……いってぇ刺されたなこれ」
「さ、ささ!? なんでそんな事に」
 
 1人では立てなかった藍が膝から崩れ落ちそうになるのを、シバが慌てて支える。藍は顔を顰めて記憶を辿った。
 
「カナコとヤろうとして、萎えたらぶん殴られてぇ……その後歩いてたら刺されたァ?」
「ハア!?」
「大声出すな。頭に響く」
 
 幸い急所が刺された訳ではない。が、かなり深くいったのだろう。刺された箇所から止めなく血が流れているのが分かった。
 
「シバァ、俺ん家でいいから。一人家にいる」

  視界が歪む。何かをシバが言っているのは分かるが、言葉として認識は出来ない。
 やがて音が途絶えた。
 そして光がなくなった。