遥かの夜空を、六等星まで
   

第五日

 眩しさを感じて目を覚ました。ぼんやりと、天井の照明が見えた。何度か瞬きをして、鮮明にそれが見えた時、影に覆われた。
 
「おはよ」
「おはよおございまあす」 
 
 差し出された水を喉を鳴らして飲む。500mlのペットボトル半分程を一気に飲み干し、一息ついたところで引き攣るような痛みを感じて、藍は顔を顰めた。服を捲り痛んだ腹部を見ると、包帯が巻かれている。首を傾げた藍に、ヒースが淡々と説明した。
 
「なんか、刺されたんだって。縫ってあるけど暫く安静にって。シバさん? なんか、大きい人が」
「あー、ハイハイ。思い出した」
 
 そうだった。ヒースに言われて、自分に何があったのかを完全に理解する。
 手持ちの女と寝る約束をしていて、気分が乗らずに中途半端な所で止めたらかなりの勢いで殴られたのだ。グーパンである。女は容赦ない。肩を怒らせて部屋を出て行くのを見送り、藍も部屋を出てふらふらと歩いていたらすれ違いざまにナイフで刺されたのだ。動けないからシバを呼び出して、途中で意識を失った所まで完璧に覚えている。優秀な柴犬クンには後でご褒美をあげなければならない。突然見知らぬ男に藍が運ばれて来て、しかも怪我して気を失っていたとはヒースにも悪い事をした。その事を謝るとヒースは首を振る。その時、手に冷たい物が触れた。サブの鼻だ。ヒースはサブの頭を撫で、口を開く。
 
「サブが吠えて教えてくれた。オレは何もやってないよ」
「それでも驚いたやろ、すまんかったな」
「うん。急に起こされたかと思えば知らない人いるし、藍寝てるし。後は任せたって感じで預けられたし」
 
 藍もヒースに倣ってサブの頭を撫でてやる。サブは小さく尻尾を振って手に顔を擦り付けてきた。やっぱお前は最高だぜ。
 スマートフォンの画面は割れていたが、起動は問題なく出来た。時間を確認するともう夜を迎えている。刺されたのが昨日の深夜だったから、かなりの長時間眠っていたらしい。下手に動かすと傷が痛むので身長に伸びをして身体を解す。首を傾げるとゴキ、と小気味よい音を立てた。ヒースに眠くないか聞くと、藍のお陰で目はパッチリ覚めてしまったと言う。 

「メシは何か食べた?」
「なにも」 
「阿呆」
 
 軽く頭を叩くとヒースは何故か嬉しそうに笑った。前髪をめくって額を出すと、指で軽く弾いてやる。それ程力を込めていないのに大袈裟に仰け反ったのが可笑しくて藍は声を上げて笑う。身体を揺らす度に縫合した箇所が痛んで、それがまた可笑しくて笑った。つられたヒースも、肩を震わせる。サブはシッポを振っていた。
 一頻り笑った所で、落ち着いた藍は頭を振った。なんだかぼんやりする。不思議そうな顔をしたヒースが、藍の顔を覗き込んだ。
 
「どうしたの?」
「いや何もない……いや、ベランダ連れてって」 

 ヒースに肩を借りて、ベランダに出ると藍は窓を閉める。部屋の中に置いて行かれたサブは藍を見据えて、分かった顔してその場に腰を下ろした。ヒースは首を傾げる。なので藍はヒースにポケットの中身を見せてやった。
 
「オレは出来た飼い主やからな」
 
 箱を振るとかさり、と乾いた音がする。残りの本数が余りないので、早い所補充しなければならない。煙草を一本取り出し、口に咥えてライターで火を付ける。煙の匂いが嫌いなヒースは、それ見てあからさまに嫌そうな顔をしたがそれだけで、文句も言わず部屋に戻る事もなかった。手摺に腕を預ける藍に、ヒースもそれに倣った。夜といえどまだ寝る時間には程遠い。街中の光は数万光年も掛けて届ける星の煌めきを無情にも追い返して、闇に月だけがぽかりと浮かんでいた。吐き出す紫煙が夜の空にカーテンを掛けるようにたなびいた。道路を滑走する車の音の遠くで救急車のサイレンが鳴っている。パトカーの音も聞こえた。街はいつだって騒々しいので、態々会話を付け加える必要などなかった。
 ゆっくりと煙を吸って吐いて、を繰り返すと幾分脳がしっかりしてきた。いつも吸う訳ではないが、たまに煙を入れるのはやはり気分がいい。不意に、ヒースが藍の服を引っ張る。そちらを向くと、俯いたヒースが視界に入った。
 
「ごめん藍」
「なんや?」
「……名前、本当の名前」
 
 恐らく、シバが本名を口にしたのだろう。シバにヒースの事は知り合いとしか言っていないし、藍という別の名前を知らないのだから仕方の無い事だった。
 
「ああ、別にいいよ。ただの記号や」
 
 ぎゅ、とヒースが眉を顰めたのが見えた。藍は緩く笑って煙を吐き出す。
 
「ヒースにとっては、そうじゃないか。ごめんな。まァ、どっちで呼んでもいいよ」
「藍は、藍だ」 
「アハッ、オレもヒースに呼ばれるなら藍がいいなァ」
 
 本名に掠りもしない、本当に意味の無い名前なのだけれど、ヒースの声に乗せると特別な何かに思えたのだ。藍と呼ぶのはヒースしかいないからかもしれない。
 藍はヒースの首に腕を回して顔同士を密着させる。驚いて大きく露出された菫色を見るのは、とても良い気分がした。
 
「愛してるぜヒース」
「……ばーか」
 
 ちゅーでもするか、と唇を尖らせ目を閉じた藍の頭を、ヒースは臭いから無理、と軽く小突く。暫く固まっていた藍だが、不意にけたけたと肩を揺らして笑った。ヒースも堪えきれずに破顔した。
 
「バッカやな、オレたち」
「本当に」
 
 藍が一本吸い終わると、二人でベランダを後にする。窓を開けるとサブが直ぐに駆け寄ってきた。その頭を撫でるヒースが不意に身体を屈めて咳き込む。乾いた咳では無くて、片仮名に直すならゴホゴホといった湿り気のある咳だ。慌てて藍はヒースの背を撫でる。煙草に付き合わせたのがいけなかったかもしれない。
 
「平気か?」
「ゲホッ、ぐ……へいきだよ」
 
 サブが心配そうにヒースの手を舐めた。安心させるように頭を撫でるその手が、若干震えている。辛うじて笑みを浮かべている顔は、真っ青だった。
 
「ヒース」
「オレ、寝るから」
「……おー」
 
 咳き込みながら奥へ向かう背を見送った。なんだかやけに小さく見えた。