第二日
ヒースが微睡みからゆっくりと浮上した時には、既に藍は家を出ていた。寝起きで爆発した頭をかきながら、半分眠りながらも一応覚えていた藍の言葉を反芻する。
「ごはんある、服てきとう、ぴんぽんでない……」
壁に掛けられた時計は午後1時を示しており、藍が出てからもう3時間も経っていた。テーブルの上には丁寧にラップの掛けられたおにぎりと味噌汁が用意されていた。正直に申し出ると寝起きに食事は取らないタイプであるので、それらはまず放置しておいてシャワーを借りる。スウェットは、棚から適当に引っ張り出して借りたバスタオルと共に洗濯機の中にぶち込んでおいた。
服は適度に見繕え、との指示が出ているが、果たして藍のクローゼットは何処へ。ヒースは下着のみを身に付けた状態で廊下に佇み、遠い突き当たりをぼんやりと眺める。随分と部屋の数が多い。この中の何処かに、藍の使っている部屋がある筈だが、一つ一つの部屋を探すのは面倒だ。洗濯機に投げたスウェットをもう一度着てしまおうかと思ったが、濡れたタオルと一緒にした事を思い出す。同じ服を二日連続で着る事は許せても、濡れた服、しかも中途半端に湿った服は着たくない。それならば、このまま過ごしてしまおうか。インターホンに出なくて良いのだから、誰かに見られることはない。家主の藍は、見たくもない痩せっぽちの男の裸を目撃する事になるが、そもそも服を用意しておく事を渋った、服のある場所を教えなかった藍が悪いのだ。
「……は、くしゅっ」
沈黙が廊下を包み込む。仕方なしに、ヒースは手前のドアノブに手をかけた。
藍の自室らしきものを見つけたのは、四つ目の扉を開けた頃であった。案外早く見つかったのだが、いかんせんどの部屋も――藍の部屋もヒースが借りている客間も含めて――同じ家具が同じ配置になっていたので見分けがつかなかったのだ。ベッドと、サイドテーブルと、収納。たったそれだけの部屋で、藍は生活していた。初日にリビングを見回した時もそうであるが、あの藍にしては家具が少なすぎた。住居として使っているにしては生活感が足りない。まるでビジネスホテルのようだった。ヒースは、以前の自分の部屋を思い出す。ワンルームの小さな部屋で、防音に優れている以外にこだわりの無い、味気ない部屋である。それでもハンガーにかけられないままソファに放置されたコートや、コンビニで貰ったまま使わず終いになっている大量の割り箸、テーブルの上に置いたままのアクセサリー等醸し出すだらしなさ、生活感があるというのに藍の部屋にはその類のものが一切ない。全てが綺麗に整頓され隙がないのだ。らしいな、と思う反面である。どこか海を漂う海月の様な、掴み所のない、何者にも縛られない藍の性質を色濃く表しているのだが、そこがどうにも気に食わない。何故かは、分からないけれど。
しかしである。クローゼットを開けると途端に画面が眩しくなるのでその考えは一旦隅に追いやられた。端から端まで柄柄柄、蛍光色蛍光色蛍光色。此奴は地味な格好をすると死んでしまうのか、と思ってしまった。ヒースが普段来てるものとは180度タイプが違う。思い返してみると、舞台用に派手な仕様のスターレスの公演衣装よりも、藍の私服の方が派手であった事実に気付く。自分に貸してくれたスウェット――上下セットのブラックのものであった――が宝の様に見えた。この中から何を選んでも地獄ではないか、と思ったが、いつまでも下着のみの姿でいる事は憚られたので、厳選して藍のクローゼット内では比較的地味なものを拝借した。体格差はあるが、当然ヒースの方が華奢なので問題はなかった。
他人のものを身に付けるのは、何とも言えない奇妙な感覚がした。首の周りで何かが蠢くような、そんな感覚。お下がりには、とうの昔に慣れた筈なのに。
藍の用意した塩おにぎりと味噌汁は、やはり味が濃かった。
困った事になった。
ヒースはベッドに腰掛けて事の元凶を目を合わせる。真ん丸で大きなブラウンの瞳は真っ直ぐにヒースを見つめ返してきた。
野生動物に好かれる質であると自覚はしていた。店の裏に出没する野良猫に擦り寄られる事は多々あったし、ミズキの友達だという強面の野良犬にだって懐かれた。しかし藍の愛犬、サブは見る限りきちんと躾が成されていた。そういう犬こそ飼い主以外の人間にはドライである事が多いのだが、こうしてヒースの後を追ってきてしまった。リビングに置いて来た藍の、悲痛な顔よ。とは言ってもヒースに大型犬であるサブの巨体を動かす事は出来ないのでどうしようもないのだが。ちなみにヒースに犬アレルギーはない。
「……一緒に寝るの?」
無意味だと分かっているが、一応問うてみる。サブは姿勢を崩さない。正直な所、ヒースは眠くて眠くて堪らなくて、思考は溶けかけていた。
「オレ、お前のご主人に酷い事するよ」
犬は人の言葉を話さない。代わりに、ヒースが布団にくるまるとベッドに乗り上げてきて足元に蹲った。冷えていた足先に、柔らかな温もりを感じた。