遥かの夜空を、六等星まで
   

第三日

 昨夜、愛犬をぽっと出のヒースに奪われた藍の恨めしげな声を背に、喉に違和感があったのでキッチンに向かい水を飲んだ。相変わらずサブはヒースの後を追いかけてくる。
 サブをじっと見つめたまま藍がヒースの名を呼ぶ。サブはガン無視であった。
 
「昼食ったらオレ出るから。夕方には帰る」
「わかった」
 
 サブが寝巻きにしているスウェットを引っ張ったので、ヒースはその場にしゃがんで構ってやる。耳裏を掻くと、ぱたぱたと忙しなく尻尾を振りながら催促するように顔を擦り付けてきた。今日の夜も一緒に寝る事になったら、流石に藍が可哀想かもしれない。隠しもせずに見つめてくる藍の視線を感じながらそう思った。 
 藍が家を出たのを見送った後も、ひたすらにサブはヒースに甘えてきた。フローリングの上で胡座をかいたヒースに、サブが身体を預けている。艶のある黒毛は触ってみると存外に柔らかで、密度の高い毛の感覚は癖になりそうだった。恋人や配偶者など、飼い主と親密な相手にはペットも懐くと聞いた事があるが、まさか、自分と藍の間に深い関係はない。世話を焼かれていると言っても食事を作って貰うくらいで、店にいた頃程ではない。出掛けに藍がサブにヒースを頼んでいたのは冗談と思っていたが、案外そうではないのかもしれない。まさかと思いつつもヒースはサブに尋ねる。
 
「オレの事、仔犬だって思ってる?」
 
 サブは答えない。まあいいか、とヒースは開き直った。家にいてもやる事は一切ないので、こうやって構ってくれていた方が手持ち無沙汰にならずに済む。そうときたら藍が帰ってくるまで存分に遊んでやろう、と先程まで藍に同情していた事も忘れヒースは立ち上がろうと膝に力を入れる。
 視界から色が消えた。
 
「――――は、う」
 
 鈍い音を立て、ヒースは肩から床に倒れ込んだ。尖った肩先の骨に体重分の衝撃が響き、痛みに顔を歪める。どうにか立ち上がろうとして床に手をついたその瞬間、耳元で雷鳴が轟いた。目を見開き、口を開く。身体中の血液という血液が超特急で巡り、瞼の下で血管が不規則に痙攣している。息が出来ない。肺が押し潰されて、気管が埋め尽くされて、空気の入る隙がなかった。口を開閉してみても何も変わらない。冷や汗が頬を伝う。握りしめた拳は力の込め過ぎたせいで白くなり、血管が浮き出ていた。視界が霞む。首を振って苦しみを逃そうとしても、目眩が襲って来てしまい逆効果であった。混乱の中、蹲るヒースは一心に心の中で唱える続ける。
 大丈夫、大丈夫。平気だ、いつものことだから、もうすぐ収まるから。大丈夫、大丈夫、大丈夫。大丈夫だから、平気だから、誰か、誰か、誰か――――。
 ワン、と耳元でサブが吠えた。途端に霞がかかった視界が鮮明さを取り戻す。横目でサブを見ると、瞳のブラウンが分かった。細くではあるが、呼吸も戻ってきた。強ばった身体が段々と弛緩して、ゆっくりと床に倒れ込む。
 
「…………ごめん」
 
 紙のような色をしたヒースの頬を、サブが舐めた。酷く熱い体温に安心してほっと息をついて目を閉じる。
 しかし、次の瞬間、ヒースは飛び起き慌ててリビングから飛び出した。
 
「――――う゛、お゛ぇ」
 
 便器に頭を突っ込んで、ヒースは出かける前に藍が用意してくれた食事を吐き出した。迫り上がってきた胃液の独特の酸味が口内を支配して、それがまた刺激となって吐き気を催す。留めなく胃の中身が食道を遡って喉を焼き口から溢れた。息付く間もなく身体を震わせ生温い液体を追い出す。胃が、腹の筋肉が、ピクピクと痙攣しているのが分かった。
 しかし、先程よりはずっとマシで、苦しむ時間も長くなかった。それだけの事に、安堵した。
 口の端から涎を垂らし、ゆっくりと振り返る。サブは、そこにいた。

 「…………ごめん」
 
 トイレットペーパーを拝借し、口を拭って吐き出した物と一緒に水に流す。震える手を、再びサブがそっと舐めた。ぽたり、と目から零れた雫が床に落ちた。
 覚束無い足取りながらも洗面所で口を濯いだ後リビングに戻って来たヒースはソファに倒れ込む。目を閉じると、嘔吐する前の発作がまた襲ってきてしまうのではないかと思った。頭の横に控えるサブは大人しく座っている。腕を伸ばしサブの頭を掻き抱いた。されるがままにしてくれるサブは、ヒースが寝落ちるまで一切動かなかった。
  帰宅した藍が便所に向かう様を見送るのは、何ともいたたまれなかった。白状して、謝った方が良いのかもしれない。しかし、ヒースにその気力はなかった。
 折角作って貰ったお粥は、味がしなかった。