第四日
翌日は、昨夜に比べたらずっと気分が良かった。多く睡眠を取ったからかもしれない。サブとはまた寝所を同じくした。
寝惚け眼を擦るヒースに、呆れ顔をした藍は頬に手を伸ばした。
「生きてる?」
長細く節のしっかりした指が擽る様に頬を撫でる。まるで犬を相手するみたいな手つきであったが、悪い気はしないので何も言わずに甘受した。
ソファに身体を預けたヒースに、水の入ったペットボトルを持って藍が近付いて来る。
「ヒース、水飲め」
「うん、ありがと」
ぽちゃん、と耳元で水が揺れる。ペットボトルを受け取ったヒースは、何だか飲む気になれなくてそれを照明にかざしてみた。ふらふらと水と空気の境目が揺蕩んている。その様子をじっと見ていると、不意に影がヒースの顔を覆う。
水越しの歪んだ向こう側の、鮮やかなマゼンタ色と目が合った。
ヒースの手から離れたペットボトルは、藍にキャップを開けられた。動かぬまま、白い飲み口の行方を追いかけているとふに、と唇にそれが触れた。そのまま藍はペットボトルを傾けたので、ヒースは水を飲む事に成功した訳だが、当然上手く飲める筈なく口から溢れて滴り落ちた水は服を濡らした。
あーあ、と他人事の様にヒースは思っていたのだが、ふと視線を上げて先から黙りっぱなしの藍を見る。きゅ、と引き結ばれた唇と、静かに震えるまつ毛。なんだか情けない顔をしてた。らしくない、と思う。茶化してやろうか、と思ったが茶化したら泣いてしまうかも、と思って止めた。この男が泣く姿は、想像もつかないけれど。
「…………なに」
辛うじて発した掠れた声に、藍は応えなかった。代わりにもう少し寝たら、と提案されたのでヒースは素直に頷いた。
サブが交代だ、と言わんばかりに藍を押しやってヒースの頭の位置にやって来る。小さな頭を撫でてやって、ヒースは目を閉じた。
次に起きた時は、随分と気も楽になってサブは嬉しそうに尻尾を振った。今夜帰らない宣言をした藍を横目に、それじゃあいっぱい遊ぼうか、と声をかけると鼻を鳴らして同意してくれた。ヒースの隣に腰掛けた藍が、肘で横腹を突く。ふふ、と笑うと腹いせに藍がもたれかかってきて、呆気なくヒースはソファに倒れ込んだ。
「おっも」
「ヒースがひょろいだけやで」
鼻で笑った藍は、しばらく退く気がないらしかった。藍を押し返そうとしていたけれど秒で諦める。ヒースの腰骨が丁度藍の頬に当たって、決して良い寝心地ではないのに。ヒースからしても藍の体重を支えるのは楽でないし、骨は痛い。そこに、追い打ちをかけるかの如くサブが乗り上がってきたのだから、ヒースは蛙の潰された様な声を上げた。
「死ぬ」
「オレもサブで死にそう」
だが結局二人共動くことなく、揃って眠りに入った。
成人男子二人して、何をやっているんだという話である。そこで、犬が眠っているところを起こすのは可哀想だから、と言い訳をしておくことにした。
夕刻の前、藍が出て行った後で、ヒースはのろのろと着替えに手を伸ばす。ここに来た初日に纏っていた自分の服だ。突然のヒースの行動に、戸惑いながらもサブは着いてくるが玄関までヒースが辿り着いたところで僅かに唸った。目を吊り上げ、牙を剥き出し、見るからに怒りを表明しているサブにヒースはそっと謝る。三度目の謝罪であった。
「……ごめん」
それでも行かなければならなかった。居候初日に教えてもらった場所からスペアキーを手に取り、ヒースは部屋を出た。
藍の住居から一番近い駅までは、そう遠くない。そこでタクシーを拾って、行き先を告げた。 タクシーの運転手は、突然訪れて素っ頓狂な行き先を指定する若い不健康そうな客に怪訝な表情を隠さなかったが、プロなので何も言わずに連れて行ってくれた。
人気のない港で、ヒースはしゃがみこんで海面に映る自分の顔をよく見た。痩けた頬と、カサカサの唇と、取れない隈。酷い顔をしていた。
ポケットからスマートフォンを取り出して電源をつける。残り3パーセントを切っているので、右上のライトが赤く点滅していた。
電話のアイコンをタップして、着信履歴を見る。最新の履歴に、藍の番号が刻まれていた。
本当は、以前の家のものと同じく処分する予定でいたのに、何の偶然か藍のスットコドッコイ野郎が電話にでてしまったお陰で捨てられなくなってしまったのだ。なんとも情けない話である。自分の人生の大半といっても良いリリックを綴ったノートも、いつだって思考の助けとなってくれたタロットカードも、容赦なく燃えるゴミの袋に突っ込んだくせに。ここにリコがいたら確実に笑われていた。ミズキがいたら大声で言いふらされていた。金剛はきっと笑うだけ笑って何もしてくれないのだろう。藍が知ったら、きっと笑いつつも心の奥底ではドン引きされていた事だ。だって、ただ職場が同じだけであった男に、自分の着信履歴が残っているからというくだらない理由でものを捨てられずにいるのだから。
それも、今日で終わりである。今日藍がかえって来ないのは都合が良かった。このタイミングを逃さぬ筈がなかった。お陰でこいつを手放す決意がついたのだ。藍にこれを見られてしまう前に処分をしなければならない。
画面をじっと見つめる。
たった11個の数字の羅列である。それでも、今はこれが一等に輝かしいものに見えた。何もかもが手元に残っていないのだから、尚更。
充電の残量は、残り1パーセントを迎えた。端末が震え、注意喚起の通知が降りてくる。
もう一度、なぞる様に数字列を見て、頭に刻み込んで、ようやく電源を落とした。
海に投げ捨てる。
環境保全なんてどうでもよかった。
これで、悔いる事は何もなくなった。
酷く、身体が軽く感じた。
帰りのタクシーでは、調子が良かったので少しだけ運転手と話をした。彼は奥さんと子供の話をして、ヒースはサブの事を話した。
初対面のくせに、やけに引っ付いてきて離れないのだと言うと運転手は笑った。
「犬猫に好かれるっつー事はきっとお兄さんの心が綺麗なんでしょうね」
「……そうかな」
「ええ、動物は嘘をつきませんから」
往復で二時間弱。お金を払ったヒースの手持ちの残金は、1360円になった。ちょっと良いファミレスのランチが食べられるくらいだ。それらをヒースは立ち寄ったコンビニの募金箱に全額入れた。何故ならヒースの心は綺麗だからだ。
久々に遠出したお陰で、ヒースはちょっと死にそうだった。冗談抜きに。帰って扉を開けてすぐにサブがいて、ヒースは笑った。ぜえぜえ息をしながらも、何とか立って歩いてソファに倒れ込んだ。サブはきっと文句の一つや二つ言いたがっていたのだろうが、空気を読んでヒースを寝かせてくれた。これで起きなかったらどうしようか、と呑気に思いながら流されるまま意識を手放した。