遥かの夜空を、六等星まで
   

第五日

 果たして、ヒースはきちんと瞼を開ける事に成功した。
 サブが思い切り吠えたのだ。初めて聞く切迫した鳴き声に、具合の悪さなど吹き飛ばしてヒースは身体を起こす。
 そこには、眼鏡をかけたスーツの男がいた。 

「貴方が若のご友人ですか」
「わか……?」
 
 声色から隠しきれぬ生真面目さを感じる。鷹見のガワに玻璃をぶち込んだ様だ、とヒースは思った。
 寝起きに知らぬ男が傍にいるという急展開のお陰で、ヒースは逆に落ち着いた何も態度を取っていた。落ち着いていたので、周りを見渡して男が何かを背負っている事に気付いた。力なく垂れ下がった腕の先には銀や金のぎらついた大きな指輪が嵌められている。素行の割に、傷の少ない手であった。あれに触れられるのは、案外悪くはなかった。
 ヒースが彼の偽りの名を唇に乗せる前に、スーツの男がその名を口にした。止める手立ては、ヒースにはなかった。
 
「――――の友人、ですよね?」
「あ、はあ、はい」
 
 
 世界の、崩れる音がした。
 
 「昨晩、深夜にちょっと刺されてしまいまして。浅い傷なのでどうせ脅し程度のものですから大事には至ってません。傷は適当に塞いであるんで、この人の事だからすぐに起きると思います」
「はあ」
「この人の無頓着、もうちょっとどうにかなりませんかね? 貴方からも何か言ってもらえます? 迷惑被ってるこちらの身になれと」
「多分、それは無理」
「ですよね。言っただけです。あ、そこどいてもらえますか? この人寝かすんで」
「あ、はい」
「よいしょっと……。はあ、じゃ、この人起きたら説明しておいてください。俺の事はシバって言えば通じるんで」
「はあ」
「じゃ、よろしく頼みます。それでは」
 
 突然やって来た男は、ざっくりと過程を語ると颯爽と出て行った。
 置いていかれたヒースは、大人しくしてたサブを目を合わせる。サブは困った様に首を傾げた。 ややあって、ヒースはソファに寝かされた藍に目を落とす。そういえば、彼の寝顔を見るのはこれで初めてであった。こうして目を閉じて大人しくしていると歳の割に幼く見えた。立ち振る舞いや生活能力の観点ではヒースの方がずっと負けているので、少しだけ優越感を覚えた。初日の仕返しだと、藍の頬を摘んで引っ張る。若さ故か、張りのある頬は思ったよりも伸びなかった。
 眠る藍にヒースは語る。
 
「お前の本名、あんまり格好良くないね」 
 完全なる言い掛かりであった。
  名前は、呪いだ。生まれたその瞬間から死に行くまでずっと付き纏う、厄介な呪い。避けられぬ、誰もが背負わなければならない呪い。
 綴られた文字が、紡がれた音が、全てが意味を成してヒト、あるいはイヌ、あるいはネコ、名の有るものを縛り付ける。
 殆どが片手で収まるような短いものであるのに、どういった為人を成すのか、どういった性質を持つのかを勝手に決め付けてしまう呪いはとても厄介である。自分でないものを自分だと思われたり、そうならなければ、という強迫性を抱いたり。
 ヒースは言葉を使い、音を紡ぐ。だからこそ、その威力を、理不尽さを、よく知っていた。
 スターレスの連中は、名前を持たない。源氏名として鉱物や植物の名を借りているが、所詮は仮初の名前。底辺の住民にしては煌びやかで美し過ぎた名前は、何より自分らの内側を守る盾となった。誰も、誰の本当を知らない。本当を知らないからこそ、一等の本当の自分になれる。一枚のヴェールを常に纏ったあの空間は、他の何処よりも息がしやすかった。
 藍が幾ら怪しい生業に手を出そうと、ヒースが幾らその身を削っていようと、誰が何をして、何をされても、全部が全部無かった事になる。
 だから、藍にとってのヒースはただのヒースで、ヒースにとっての藍はただの藍であったのに。
 今、ヒースは藍の名を知ってしまった。
 もう、藍は藍でなくなってしまった。
 今まで均衡を保っていた境界線が敗れ、ここにいるのはただの藍とヒースではなくなった。
 ヒース自ら知ろうとした訳では無い。完全なる不可抗力で、シバと名乗った男は何も悪くない。
 そういう事も、あるのだ。
 自分に手の出せぬ領域から突然の攻撃を受ける場面は珍しくない。
 そういう時は、きっぱり諦めて、捨てるのが得策であると脳に刻み込まれている。
 潮時だ。
 
 
 


 都会の夜景を背景に真面目腐った顔をした藍が言う。 
「愛してるぜ、ヒース」
「……ばーか」
 
 ヒースに、藍の名を口にする権利はなかった。
 
「バッカやな、オレたち」
「本当に」
 
 藍の口にした煙草の煙がゆらゆらと空中にたなびいた。夜空を透かす白い幕は、風に吹かれて容易く姿を溶かす。
 どうせ死ぬなら、藍の吐き出す紫煙で肺を満たして死ねたなら良いと思った。ヒースは藍を殺してしまったのだから、藍もヒースを殺すべきであると。
 そして、最期この目に映すのは、何でもないこの男の顔が良かった。






  早々に引っ込んだ、とっくに馴染んでしまった客間でヒースはサブと向かい合わせになる。綺麗にお座りをするサブは、硝子玉の様な瞳を真っ直ぐヒースにぶつけていた。
 手を伸ばして、耳裏を柔く掻いてやる。
 
「もしも、お前のご主人がオレの事で怒ったら」 
 それは、ほんの少しだけ願望を練りこんだもしもの話であった。きっと藍は、ヒースの事で怒る事はない。賢い奴なので、他人に怒る事がどれだけ無駄なのか知っているから。それでも、怒ってくれたら良いなあ、とヒースはちょっとだけ思った。
 昔あれだけ振り回してくれたのだから、少しくらい此方の苦労を思い知ればいい。
 
「弁解しておいてよ」
 
 息を吸い込むと、肺が軋んだ。
 サブは、何も言わなかった。
 眠くて、眠くて、堪らなかった。
 ベッドに寝転がると、もう身体の何処にも力が入らなかった。
 布団からはみ出た手を、熱い何かが撫でた。
 目を閉じる。
 光の一切届かない闇を見た。
 何も聞こえない。
 次に目を覚ました時は、藍の作ったお粥が食べたいなと思った。
 味が濃くても、許してやろうと思う。