遥かの夜空を、六等星まで

誰そ彼に唄を託して

 舞姫。1890年に発表された森鴎外の処女作である小説だ。ドイツに留学した官吏太田豊太郎と踊り子のエリスの悲しき恋模様を描くと共に、知識人であり国に勤める者であるが故の苦悩を浮き彫りにした問題作。今日の日本では学生の教科書に掲載される程に有名な作品だ。銀星も、こうして家に文庫本を置いてある程には気に入っている話の一つである。
 
「高校の時の電子辞書に日本文学集みたいな機能があってさ、つまらない授業中はずっとそれ読んでた」
 
 パラパラとページを捲り文字に目を通しながら夜光は言った。
 
「へぇ、そんなハイテクなものなんて俺が高校生の時はなかったよ」
 
 オッサンだもんね、と口にした生意気な元同僚の頭を小突く。対した力を込めていないので、頭を抑えてはいるがどこか嬉しそうに笑った。細くなった目の下に、隠しきれない隈を認めた。
 コーヒーの入ったマグカップを2つ、机に置く。真っ黒な水面を暫し見つめた夜光は顔を上げてキョロキョロと周りを見回す。
 
「なに」
「いや、俺、ブラック無理なんですけど」
「子供かよ」
 
 うっせ、と悪態をついた夜光はカップに口をつけ、顔を顰める。明らかな反応は本当に幼い子供の様で銀星は肩を震わせて笑った。しかし直ぐにテーブルの下から伸びた脚に脛を蹴られて押し黙る。しばしの沈黙の後、2人同時に吹き出して馬鹿みたいだと思った。
 笑いが収まった頃、ようやく銀星は話を切り出す。
 
「久しぶりだな、夜光」
「その名前で呼ばれるの、変な感じ。滅茶苦茶違和感ある」
 
 頬杖をついて夜光はかつて名乗っていた自身の名前を呟いた。夜光、夜光貝から貰った源氏名だ。あの店では本名ではなく、植物か鉱物に因んだ名前を使っていた。銀星は、銀星石。薄い緑色の鉱物だ。色があるくせに銀の冠を被っているのがどうにも納得できないが、何だかんだで気に入っている。銀の星、中々に粋な名ではないだろうか。ちなみにチームBとの対決の際名前をディスられたのは未だに根に持っている。ヒース許すまじ。俺の名を汚した罪は重いぞ。
 
「銀星は今何してるんですか?」
「バーテンダー」
「え、凄い」
「夜光は今、就活か?」
 
 夜光が自嘲気味に笑って答える。
 
「そ。今日も面接行って変な質問されてきたとこです」
「変な質問って」
 
 聞きたいのか、と恨めしげに睨まれて銀星は丁重に断った。銀星は就職活動の経験はないが、その過酷さは耳にしたことがある。ニュースやSNS等でエピソードを知る度に、自分は所謂サラリーマンの道に行かなくて良かったと、不謹慎ではあるが安堵したものだ。周りが次々に内定が決まっていく中、自分だけ何もなかったら泣くし、圧迫面接に当たったら引きこもりになる自信がある。
 その点、夜光は銀星と違って人当たりが良くて何でも器用にこなすからどこの会社からも欲しがられる人材なんだと思う。
 
「どこの会社に勤めても夜光はすぐ昇進しそう」
 
 と、銀星は思ったままの事を伝える。夜光は、一瞬呆けた顔をして、そして曖昧に笑った。
 
「まあ、銀星よりは上手くいくんじゃない?」
「生意気だな」
 
 それから2人は、ぽつぽつと色んな事を語り合った。例えばケイへの愚痴であったり、シン語をそれとなく翻訳してみたり。今の所、シン語のプロポーズは「お前が俺の止まり木であるように、俺もお前の標になろう」で優勝だ。そして烏が指輪を運んで来る。十中八九振られるに決まっていた。
 しかし一番盛り上がったのは、やはり舞台演目の話だった。銀星はコレクションである海外文庫やオペラの脚本、バレエのDVDを部屋の奥から引っ張りだしてテーブルに広げた。趣味は読書で凝り性の銀星、根っからの文系で考察好きの夜光の化学反応は凄まじかった。次から次へと互いの解釈を話し、自分らに宛てがわれた役職の背景を語り、時に相反する意見をぶつけながら討論し合った。銀星と夜光はチームが違ったので、話す機会は余りなかった。夜光が原典から考察するタイプなのだと知った時、銀星は歓喜に震えたものである。あのチンピラ野郎共に、自身の演じる曲目について深く考える粋な奴はいなかったからだ。真面目な質の銀星はそのせいで周囲から頻繁にからかわれたものである。そんな中に恒星の如く現れた夜光は銀星にとって貴重な存在であった。しかし、残念ながら仲を深める前に店は焼け、連絡先など当然の事ながら知らなかったので、今こうして言葉を交わしているという事実に打ち震えた。夜光は銀星より六つも歳下であるが、聡明さに年齢は関係ない。もうお前が優勝だよ状態だ。滅茶苦茶楽しい。勢い余って次の休みに舞台を観に行く約束までした。銀星は陰キャであるが、夜光は陽キャだった。陽キャの行動力凄い。

 「あーあ、何で俺、今まで銀星と話してこなかったんだろう」
 
 夜光が、頬を上気させながら言った。
 
「俺もそう思うよ」
 
 本当に、ここまで話が合うのならもっと関わりを持っておけばよかった。可愛い後輩を持つ、とはこういう気分なのか。今まではずっと銀星の頭痛の種になる様な奴等ばかりだったから感動すら覚える。当然の様に2人は連絡先を交換し、そこで初めて互いの名前を知った。夜光が、画面に表示された銀星の名を呟く。
 
「気持ち悪いな、そうやって呼ばれるの」
「呼んでる方も気持ち悪いよ。もう銀星でいい?」
「ああ、そっちがいい」
 
 時計を確認すると、かなりの時間語り合っていたようだった。釣瓶落としの秋の暮れ、と言ったものである。窓の外は闇が闊歩していて、唯一月がぽつんと浮かんでいた。
 このまま夕食も共にするか、と夜光に提案すると、明日も面接があるから帰ると言った。それならば、と玄関まで送ろうと銀星が腰を上げた時、扉の開く音と共に大きな声が部屋に飛び込んで来た。
 
「ギンセー! オレー!」
「うっわ……」
 
 驚きの表情を浮かべる夜光を他所に、銀星は顔を顰める。
 
「え、銀星、この声」
 
 聡い夜光がその名を言いかけたと同時に、厄介者の狂犬は思い切りリビングの扉を開け放った。
 
「元気しとるかー!? 遊びに来た!……って、あれ」
「……藍」
 
 唖然とした夜光は藍と銀星の顔を交互に見る。慌てふためいた様子は滑稽で笑い出しそうになるのを必死に堪えた。
 
「銀星、帰った」
「ハァ!?」
 
 今度は藍の後ろからひょっこり顔を出したギィに仰天して夜光は声を上げる。
 
「え、は、待って。どういう事? てか何このメンツ」
「ひっさしぶりやなァ夜光」
 
 夜光の言う事は最もである。銀星とギィと藍。何があってこの組み合わせなのかと、驚愕した表情が語った。
 藍は驚きはせずに、馴れ馴れしく夜光の肩に腕を回す。そのまま体重を掛けてもたれ掛かると、藍より小柄である夜光は上半身を前に倒した。押し返そうとする夜光の腕が震えている。藍は、夜光の抵抗など気にも留めずにツンツンと人差し指で頬をつついた。
 ギィは、いつも通り平然として銀星の隣に立つ。
 
「あーっもう止めろ藍! 銀星、どういう事!?」
「どういう事って言われてもなぁ」
「銀星とギィが同棲しててー、オレがギィの上司!」
「は?」
 
 ぽかん、と口を開けた夜光が信じられないとでも言いたげに銀星を見た。
 
「おい藍。適当な事を言うな」
「いやいや、間違ってる事言ってないって」
「い、いつから二人はそんな関係に……」
「違うって! ただのルームシェア!」
 
 家の無いギィと共に暮らしているだけだ、と言うと夜光はすんなり納得した。ニヤニヤ笑う藍には拳をプレゼントしておく。
 
「じゃあ、藍がギィの上司っていうのは……」
「あ、それはマジ。ウチの家業手伝って貰ってるんや」
「ああ、そう」
 
 夜光は賢いので深く首を突っ込まない出来る子だった。
 今度こそ出て行く、と落ち着いた夜光は鞄を手に取る。藍は知った顔をしてシャワーを浴びに行ってしまった。
 去り際、夜光は銀星に声をかけた。
 
「また、会いましょう。今度はもっと時間がある時に」
「ああ、うん」
 
 じゃあ、と夜光はギィにも手を振った。ギィは首を傾げて、夜光の真似をする。
 
「ギィも、また」
「夜光も、また」
 
 オウム返しのギィに、夜光は笑ってみせた。
 パタン、と閉じられた扉。隣に立つギィは銀星の服の裾を引く。
 
「なに、ギィ」
「夜光だ」
「そうだけど、え、何?」
 
 ギィの言葉の意味が掴めないのは今に始まった事では無い。それでも共同生活を続ける内に何となく察せるようになってきたと自負する銀星であるが、流石に夜光だ、の言葉の裏は読み取れずに聞き返す。ギィは顔を顰めた。
 普段からぼんやりとしていて表情の変化が乏しいギィであるが、感情が顔に出る時は案外分かりやすい顔をする。今もそうだ。眉を顰め、口を真一文字に引き結び、軽く唇を噛む。不快を示した表情であるが、まさか夜光に対してではないだろう。
 
「ギィ?」
「……分からないな」
「何が」
「何でも」
 
 遠くで、藍の声が聞こえる。服を貸せとの事だ。彼奴は遠慮という物を母親の腹の中に置いてきたのか。
 銀星はため息を吐いて、自室に向かった。
 

 
 二日連続で泊まっている藍は、今日も泊まっていくらしい。
 隣で包丁で芋の皮を剥いているのを見て、器用だなあと思う。ピーラーを使った方が速いのでは、と進言しようとしたが、それが憚られる程にスルスルと剥いていく。
 そういえば、と藍が銀星を見た。
 
「夜光元気? 会ってるんやろ?」
 
 どこでその情報を、と思ったが聞かないでおいた。
 
「まあ、それなりに」
「ふーん。夜光、就活生だよな?」
「ああ、うん。余り話は聞かないけど。夜光なら大丈夫でしょ」
「アハハ、彼奴、外っ面は良いもんなー」 
 お前も似たようなものだろ、と銀星は藍の脛を軽く蹴った。それな、と自分で認める当たりがこの狂犬の為人を表している。
 風呂から上がってきたギィが、ぺたぺたと足音を立てながらぬっと顔を出す。濡れた髪から落ちた水滴が銀星の肩に降り掛かった。
 
「おいギィ、ちゃんと乾かせよ」
「夜光の話してた?」
 
 真っ直ぐな目に銀星は思わずたじろぐ。やけに強い口調で会話にを挟んで来るのは久々の事であった。それこそ、マスターを待ち続けるのだと宣言していた時の様に。
 はて、と銀星は首を傾げる。ギィと夜光の間に何かあったのだろうか、と。余りキャスト同士の仲について関心が無かったので銀星が知らないだけなのかもしれないが、二人の間に特別な関係は無かった筈。基本的に一定の距離を保つ事が暗黙の了解で、だから誰の本名も個人情報も知る事はなかった。それこそ、キャストになる前からの知り合いでない限り。
 そんな銀星の代わりに藍がギィに尋ねた。
 
「なんやギィ、会いたいのか?」
「うん」
 
 随分と素直な返しに、とうとう銀星と藍は顔を見合わせてしまう。どうして、と藍が視線で訴えてくるが銀星にも分からない。
 
「じゃあ今度呼ぶかー。オレも話したい事あるし」
 
 この時点で藍がさも自宅のように銀星とギィの住居を話す事については、今更というものである。
 
「まあ、別にそれはいいけど」
 
 

 という、会話があったのが三日前の事。成人男子四人には小さいローテーブルに膝をくっつけて座る。真ん中には鍋が、周りには肉団子と野菜と魚介、それぞれの手元にはビール若しくはジュース。沸き立つ湯気が皆の頬を上気させていた。
 くたくたになった白菜をポン酢に浸す銀星の横から、藍が手を伸ばして二本目のビール缶を開けた。
 
「ギィには飲ませんの?」
「ギィにはまだ早い」
「銀星だいぶ酔ってんなー」
 
 まだ未成年の藍が当然のように酒を盛っている事に、今更驚く事も目くじらを立てる事もしない。どうせ、酒だけでなく煙草もやっているし、他所の家の事情に口を出す程の正義感を持ち合わせていなかった。平山淳一の誕生日は過ぎているので書類上成人している事になるギィだが、銀星ストップによってまだ酒解禁はしていない。寧ろギィは一生酒を体験しなくていいとすら思っている。
 銀星の正面に座る夜光は、せっせとギィの世話を焼いていた。時折こちらの椀の中を確認したり火加減を見たり、テキパキと動く様は正に優等生、といった風で感心しつつも手伝う気のない銀星は白菜を口に運ぶ。重なった葉に歯を立てると染み込んだポン酢がじゅわりと溢れて爽やかな酸味と出汁の旨味が口の中に広がる。昔野菜を食わずに肉団子ばかり強請っていた自分が如何に愚かであったのかを思い知る。白菜とポン酢のコンビは優勝でしかない。
 
「ギィ、次は何入れる?」
「白いの」
「またマロニー? 他のも食べろよ、まったく」
 
 と言いつつもマロニーを掬ってやる辺りが夜光であった。マロニー美味いもんな、分かるよギィ。
 まだまだ食べ盛りの藍と夜光は次々と具を消費していく中、銀星とギィはゆっくり食べ進める。特に夜光はスポーツをやっていると聞くので箸の進み具合が半端なく早い。これだけ食べても体型を維持しているのは運動もあるが、代謝も良いのだろう。二十代後半を過ぎた銀星にとっては羨ましい事この上ない。そういえば、このメンバーの中で銀星は一等歳上であって、三人とはかなり歳が離れている。よくカスミが若さが羨ましい、と言っていた事を思い出した。ちなみに、カスミの瞳は一度も解禁される事はなかった。ビームもはなたれる事はなかった。
 そういえばさあ、と藍が夜光を見る。
 
「就活今どんな感じ? どこらへん狙ってんの?」
「え、別に……まあまあって感じだよ」
「ふぅん。問題ないならいいけど。もし内定ゼロならオレの息かかったトコ紹介しよう思ったんやけどなー」
「……余計なお世話だよ」
 
 む、と夜光は不機嫌な顔をした。当然だろう。藍の息のかかった店など碌な場所じゃない。折角アングラ店から足を洗い、普通の大学に通って普通に就職しようとしているのに、再び突き落とすか。まるで自分が馬鹿にされた様に感じて銀星は思わず口を挟む。
 
「夜光はお前に頼らずとも就職なんて余裕だろ」 
 なあ、と同意を求める様に夜光を見た銀星であるが、当の夜光は何だか気まずそうに唇を歪めた。しかし銀星はそのまま滑るように言葉を放つ。
 
「あーあ、俺も夜光みたいな陽キャだったら良かった」
 
 本当に、心からの発言であった。
 銀星は、自他共に認める派手な顔付きである。だから学生時代は勘違いしたパリピ、陽キャ共からしきりに声を掛けられ、訳の分からない品の無い会話を強要された。しかし銀星の質は比較的真面目で大人しい傾向にある為、当然彼等には合わない。勝手に期待して向かってきた奴程、銀星の性格に触れた途端、期待外れだと離れていくのだ。それが嫌で仕方なくて、学校へ行く事を拒否した事もある。陽キャとまではいかずとも、当たり障りのない受け答えが出来て、ある程度話を合わせる事が出来たのならどれだけ良かったか。下品な奴とつるむのは苦痛が伴うが、世間的に人気が高いのは陽キャ共で、彼等の枠から外された途端居場所が無くなるというのを銀星はよく知っていた。学生に限らず、界隈に自身のポジションを確立出来ないのは大変危険だ。だから、銀星は三樹夫妻に信奉を捧げ、ケイの従順な犬になった。今はもう、必要ないが。
 藍もそうであるが、人との交友が上手いのはそれだけで得をする。悩みが大方無くなる。なりたい、と本気で思う事はないが、もしなれたならと想像する事は幾度と無くあって。
 夜光が、そっと呟いた。
 
「ないよ、どこも」
 
 え、と銀星は弾かれた様に夜光を見る。

「というか、もうまともに就活してないし。今日も面接あったけどサボったし」
 
 自嘲するように鼻で笑った夜光は、缶ビールに口をつける。
 
「何か、馬鹿馬鹿しくなってきてさ。エントリーシート何枚も準備して面接の教本読んで、朝早起きして髪セットしてスーツ着てってのが」
 
 もうすぐ十月も終わりに近い。小耳に挟んだ話であるが、多くの就活生は十月頃には内定が出る。もっと早い企業は夏にも出てしまう。ちょうど、銀星の姉二人も早い内に内定を貰っていた事を思い出した。
 
「書類も面接も受からない。別に、可笑しい事なんて書いてないし、寧ろ面接は上手くいったと思った所に限ってお祈り」
 
 ぎゅ、と夜光は空になった缶を握り締めた。べこ、と音がして大きな窪みが出来上がる。
 
「周りはドコソコの内定貰ったとか、手応えがあったとか話してても俺には何一つないし、そもそも話す相手もいないし。卒論だってギリギリで」
 
 夜光は止まらず口を動かし続けており、その間銀星も藍もギィも手を止めていた。
 
「俺だって、本当ならずっと前にアイドルとしてデビューして、お客さんの前で歌って踊ってた筈で、ドームとかでライブしたりテレビ出たりしてた筈なのに、今は、着たくもないスーツ着て、禿げたオッサン達の前で愛想振りまいて、嘘吐いてばっかで」
 
 あ、泣いた。
 言葉の仕舞いの方は最早消え失せ、唇を震わせた夜光はテーブルに顔を伏せる。引き攣った呼吸音と、鼻をすする音。ぎゅ、と握りしめ垂れた拳は白くなってしまっていた。
 お前のせいだろ、と言いたげな視線を藍が銀星に寄越す。話を始めたのは藍だろ、と負けじと睨み返すが、自分の一言でこうなったのは事実なので少しばかり決まりが悪い。
 
「あー……」
 
 どうにか何か声を掛けなければ、と思うが肝心の言葉が思い当たらない。泣いている人への対応だなんて、しかも成人済みの男への対応だなんて、知る筈がなかった。
 これがもし、バーのカウンターで泣く女性客であったなら、少しは対応出来た筈である。何も言わずに放っておいて、ある程度の距離は保ちつつも傍を離れない。泣き終えた頃に蒸しタオルと冷たい水を、何食わぬ顔で差し出せばいいのだから。けれど、夜光は客でも女性でもない。このまま泣き止むのを待っているのも気まずいし、部屋を離れるのも気が引ける。
 忙しなく唇を動かしながら、銀星はそっと夜光の肩に手を置いた。嗚咽の震えを掌の下に感じる。手を振り払う事はしないが、うー、と獣の様に夜光が唸った。まだ、泣き止みはしない。
 恐る恐る、今度は夜光の頭に手を乗せ、そっと髪をかき混ぜた。流石に泣く姿をこれ以上見ていられないので視線は遠くにやった。視界の端で、藍が肩を震わせている。泣いているのではなくて、銀星の行動に笑いを堪えきれないのだろう。身体を強ばらせ、腕はピンと伸ばしたまま。頭を撫でる手付きは不慣れさが前面に押し出していて滑稽である事は百も承知である。それでも、他に何か、と言われたらこれしか思い浮かばず、まるで幼子を相手する様に銀星はぎこちなくも撫でる手を止めなかった。
 ふと、夜光の嗚咽が止まる。
 まさか自分の行動のお陰か、と視線を夜光に戻した銀星であるが、すぐに違うと気付いた。
 机に突っ伏した夜光の、握り締められた拳の上に、クマのぬいぐるみが押し当てられていたのである。
 顔を上げた夜光は、目を真っ赤に腫らして鼻を啜っているが涙は零れていない。ぱちぱち、と瞬いてクマを見た夜光は、そのまま腕の中にクマを抱え込んで床に蹲った。顔は見えないが、身体の震えは収まっている。
 夜光にぬいぐるみを差し出したギィは、満足気に頷くとテーブルに向き合い再びマロニーを啜り始めた。
 残された銀星と藍は顔を見合わせる。
 完全なる、ギィとボブの優勝であった。