夜を迎えた男子寮の食堂は時間帯によっては混み合う。
早めか遅めか、空いている時間を狙うのは得意だ。
晩ご飯を食べた後、机に向かって勉強していると部屋のドアがノックされる。ドアの前には風呂上がりの侑が立っていた。
「おかえりー遅かったな」
「あかん、脚しんど…」
いつもと違い軽快ではなく重たい足取りで部屋の中に入る。
「筋肉痛?」
「まだ筋肉痛まではいってへんけど、明日絶対筋肉痛になるやつやわ。監督が新しいメニュー作ってんけど、むっちゃキツかった…」
今、俺の筋繊維がブチブチにちぎれとる…と苦しそうに言う侑に笑う。
「筋肉痛ってキツイけど、その分成長した感じしないか?」
「そやけど、痛いもんは痛いやろ。ほぐしとかなあかんわ」
「まあな〜」
自分の脚をセルフマッサージしている侑を見て「そうだ、」と席を立った。
「優しいなまえくんがマッサージしてやろっか?柴さん直伝」
俺、走り込んできつくなった時にこれやるのとやらないのとじゃ、違うんだよなーというと侑はうつ伏せに床に寝っ転がって「はよして、」と俺を見上げてきた。
早くしろと言わんばかりに足をパタパタさせる侑に(こいつ、、)と思い、足先で侑のお尻をつつく。
「おい、つつくな」
「腹立つから、つい」
座り込んで侑の脚に触る。柴さんに教えてもらったマッサージ方法を自分の脚にやるように侑の筋肉を揉みほぐしていく。
触れば触るほど、優れた骨格にバレーをするに必要な筋肉が備わっていることが分かる。無駄なものなんてないその脚に、全国レベルという質の高さを感じた。
「うぁーー…いたぎもちええ…」
床にこもる侑の声に笑う。
「ははっ、力加減どう?」
「ん、ちょうどええ」
「ここは?」
「うぁっ、」
侑の短い叫びに「あー、ハムストリングス酷使な、」と太ももの裏を柔らかく揉みながら言う。
「はん?」
「自転車もここの筋肉がすごい重要で、ずっとパワーを維持しながら走るのには必要不可欠なんだよ」
「詳しいやん」
「いや本の知識」
漫画と一緒に置いてある本の中から一冊を取り出して侑に渡すと、うつ伏せのまま侑が本をパラパラとめくった。
「自転車競技、入門書…真面目やな」
俺は感覚派や、と呟く侑に天才肌はそうだろうな、と頷く。誰かにそんな本を読んでいるなんて言うこともなく、少し照れくさくなる。
「中学ん時に買ったんだわ。俺、全然速くないし、どうしたら速くなれるだろうって」
「『腿上げを意識』…お腹、かたい、て書いとる」
「あっ、それはメモっ!」
中学時代の自分が書いた幼稚なメモを侑に口に出されて途端に恥ずかしくなる。
見るな、と本を取り上げようとすると侑が面白がって俺から遠ざけた。
ぐるん、と仰向けになって照れる俺をニヤニヤと見上げてくる。
侑に覆い被さる形で手を伸ばして本を取ろうとするも取れない。
「照れとる〜」
煽る侑に力では勝てないと知っている俺は太ももを手で押した。筋肉の疲労が溜まっているところを狙って。
「いっ!それは反則やんっ」
「煽る侑が悪い」
恥ずかしさと悔しさで侑を軽く睨むとまだくふくふと笑っている。
もうちょっと読む、と本を捲りながらうつ伏せになった侑がマッサージの続きを催促してくる。
このジャイアンめ。
「俺のゴッドハンド見とけよ」
「明日が楽しみやわ」
どうせやるなら、と筋肉の修復を促すように、疲労を流すように優しく丁寧にマッサージしてやろうと集中していると、紙をめくる音が止んでいた。
手を止めて見ると侑は床に頭をつけて動かない。
寝落ちしたようだ。
よっぽど疲れていたのか、俺のマッサージが気持ちよかったのか。半々にしておこう、と自分のほぐしスキルの自己評価を上げておいた。
「おーい、」
声をかけて揺すってもピクリともしない。
出た。熊のごとく冬眠したように眠るやつ。
俺はこれを何度か、この自分の部屋でやられている。
床の上で寝てしまった侑を携帯のカメラで収める。シュールすぎて吹き出した。
治に送るとすぐに既読になった。
みょうじなまえ〘あちゅむ、寝た。〙
宮 治〘何その体勢。アホやん。こっちキッチンルームなう〙
みょうじなまえ〘まじ、行くわ〙
うつ伏せのまま眠っている侑をそのままにして部屋を出た。
鍵は机の上に置いておいた。起きた後、部屋に帰るなら鍵を締めて出てほしいし、部屋を出るなら俺がどこにいるかメッセージを送ってくるだろう。
キッチンルームに入ると治が何やら夜食を作っていた。
「何作ってんの」
「焼きそばぁ。今日練習キツかったし、飯食うても、なんや満足せんし」
「ふうん、侑も疲れてたな」
「筋肉が悲鳴あげてんねん」
「わかる、使いまくった後のあの疲労感と痛み…。…癖になるよな」
「ドMやん」
「いや、スポーツに限るわっ」
「そこは認めるんかい」
治達も練習キツいの好きな時点で皆ドMだろ、とクスクスと笑った。
3組で起きた珍事やバレー部の練習で起きた面白いことを聞きながら、順調に進んでいく調理の工程を眺めていると治が「なあ、まだ言ってないん?」と言ってきた。
「何が?」
「東京行き。ツムに」
「あ〜、まだ…何か言うタイミングがなくて」
まじかよ、と言いたげな治の顔に俺は唇を突き出した。ソースが熱せられて香ばしい匂いが漂ってくる。
「…進路の話、自分からすんのはまだちょっと…」
劣等感の塊だと、自分でも思う。比べ物にならないはずなのに比べてしまう自分がいた。
治も侑も胸を張って自分の夢を追いかけている、そんな奴らが眩しすぎて自分から話すのはまだ少し引け目を感じていた。
茶川だって自転車がしたくて進むし、三分もやりたいことがあって進む。
俺はというと…。
「…あー、何か本当に俺、ダメだなあって」
「いきなり弱気やん、どないしたんや」
「…現在進行形でナイーブなんです…。おっ、焼きそば出来たじゃん」
「完成や」
「美味そうっ」
無理やり笑顔を作って、辛気臭い自分を誤魔化す。
「学校入ったらバイトするん?」
「うん、するつもり。お金貯めたいし。治は?」
「俺も。どっか店見つけて修行したいわ」
「すげえ。一人暮らしでもバイトやれるのはやれるんだろうけど、キツそうだからさぁ」
「ほんで東京に行くっちゅうわけか」
「うん、どんなとこに住むのか楽しみではある」
程よい田舎の方がいいなあ、自転車乗りたいし、と笑って話していると治が声を上げた。
「あ、」
治の目が俺の後ろを見た。
その視線を追うように振り向く。
侑がキッチンルームの入口に立っていた。動こうとせず、じっと俺と治を見ている。
その目は鋭く、険しい顔つきに考えたくないことが頭を過ぎった。
今の今まで治と話していた内容を思い返す。
まさか、いや、そんな…。
へらりと笑っていつものテンションで動かない侑に声をかけた。
「おー起きたか、俺のほぐしスキルに気持ちよくなっ「東京行きって、何なん」」
低く怒気を含んだ声が俺の言葉を遮った。
侑の目を見る。完全にキレているようで侑からこれほどまでに鋭い目で見られたのは初めてだった。
凄みを効かされたり、睨まれたりはあったがそんな日常の表情とは確実に違う。
「なあ、どういうことなん」
また侑の低い声が俺に向かって放たれた。
しん、とするキッチンルーム。張り詰めた空気が流れる。
ああ、やばい。確実にキレている。何て言えばいいのか。実は…と正直に言うか、それとなく冗談で流すか。
「と、東京行くって言ってなかったっけ…?はは…」
へらりと笑うと侑の目に怒りが増して、一歩踏み出した。
やばい、選択肢をミスった。
俺は肩を揺らして半歩後ずさる。
「それはあかんて…」
キッチン越しに俺の後ろにいる治が小さく小さく呟いた。
「聞いてへんけど…?言うた?俺に言うた記憶ある?」
侑が瞬き一つせず、真っ直ぐに俺を見てくる。その感情のない表情に心臓の下が冷たく感じる。
「………ない」
侑に言ってないことを認めた俺を睨む。蛇に睨まれた蛙のように体の動きが止まる。
「ほんで、何でサムが知っとんや」
ゆっくりと怒りを孕んだ声が俺にまとわりつく。
「俺も今聞いた話や」
後ろから治が言った。
「嘘つくなや。お前、俺にまだ言うてないんか聞いとったやろが」
結構前から聞かれてんじゃん、と内心頭を抱えた。こうなったら、もう侑を止めることは出来ない。
「サムにいつ言うた」
「……だいぶ、前に…」
「………」
助けて誰か。すごく、すごく怖いです。
圧が強すぎるうえ、無言になると更に怖い。
いや、自分で作ってしまった状況ではあるものの、こんな事になるなんて思いもしなかったし、さらにこんなに侑がキレるなんて思わなかったのだ。
静かなキッチンルームで対峙する俺と侑。
ここは治に任せて退散しよう、と恐る恐る侑に近づく。
本当は怒りモードマックスな侑の半径2m以内に入りたくはないが、侑が手にしている俺の部屋の鍵を受け取らないことには帰れない。
「っ、ほら、今日はもう時間遅いし、寝ようぜ」
鍵、プリーズ。と威嚇する動物に近づいている気持ちになりながら両手の平を見せ侑の前に立つ。
「そうやってすぐ逃げんの、何なん」
地を這うような声にそわりと目を動かした。侑が強く手を握りしめている。
「逃げるっていうか、そういうつもりじゃなくて、」
言い訳がましいとは分かっているが口から出るのはこんな言葉しかなくて。 話している途中で、侑の拳が力の限り、壁を叩いた。
ドンッ
鈍い音に壁が震えると同時に俺の声は喉から出なくなった。バクバクと動く心臓。
壁に打ち付けた拳をそのままに俺をこれでもかと睨む侑に、もう何も言えなかった。
「っ…」
「クソ腹立つ」
吐き捨てた侑は、俺の部屋の鍵を傍のテーブルに投げ置き、叩きつけるようにキッチンルームの扉を閉めて出ていった。
「………」
ゆっくりと唾を飲み込むと喉が張り付き、自分が緊張状態であったことを自覚する。
振り向いて治を見る。
「…ほら、こうなるやん?」
侑が居なくなってやっと食べられる、と焼きそばを豪快に口に入れている。
「…あの、侑さん、めちゃくちゃキレてましたけど…」
「やな。あれ、ガチギレや。マジでキレとる」
「……明日になったら忘れてるかな」
「無理やな」
即答する治に俺は肩を落とす。
「せやから俺は早よ言うた方がええ、て言うたのに 」
「いや、治もそこまでは言ってないだろ。今、ちょっと盛っただろ」
「俺はずっと思っとった。最悪の状態になりませんように、て。んで、今、そうなった」
「……謝ったら許してくれるかな」
「ちゅうかなまえより俺の方が被害あんねんけど。俺、同じ部屋やで?今から部屋帰ったらどうなるか分かっとる?」
「…さいっあくな空気だな…」
「せや」
「…ごめん。俺の部屋で寝る?」
布団はないけど、とせめてもの償いで言うと「そんなんしたら壁ドンどころやなくなるわ」と天を仰いだ。
「あそこまで怒るとは思わなかったんだよな…」
「…俺が先に知っとったんが余計にきとるわ」
「…俺の進路なんて侑に比べたら普通なのに」
「…ツムのプロ入り話、あれまだ他には内緒やねん。言うたらあかんし。でもなまえに言うたんはツムん中でなまえが特別やからやと思う」
咀嚼しながら話す治の言葉に嬉しさと侑のその思いを踏みにじった罪悪感が生まれる。
「……特別…」
「仲良え奴のこと、自分がまだ知らんのに、他の奴が知っとったら、嫌やん」
「うん、それは、分かる」
俺も侑のプロ入り話を知らずにいて、後から人伝に聞いたら寂しく思うだろう。
「明日謝るよ」
「俺の平穏な生活がかかってんねん。頼むで」
はい、と治に手を合わせてキッチンルームを出た。
双子同士本気で喧嘩している様子は見た事があったし、宮兄弟恐ろしやと遠目に見ていただけだったが、まさかその怒りの矛先が自分に向かう日が来るとは思ってもみなかった。
何あれ、怖すぎ…。
バレー部の後輩がビビんのもわかる気がする。
それでも、あれだけ怒っていたのは侑が俺を普通の友達じゃなくて、特別仲の良い奴だと思ってくれていたから、と考えると反省した。
部屋に戻り、ベッドに寝転んで天井を見上げる。
目を閉じても、侑の怒った様子がまぶたに浮かんだ。
明日、ちゃんと謝ろう。
起きたら少しでも侑の怒りが収まっていますように。
淡い期待を込めて眠りについた。