92

(宮 侑)

裏切られた、という言葉が一番近いかもしれない。

その日の練習は新しいトレーニングメニューで、使い慣れない筋肉を酷使して疲労を感じていた。

男子寮に帰り風呂から上がったら即行で寝たかったが、少しだけなまえのところに寄ろうかといつも通り、なまえの部屋に向かった。

なまえがマッサージしてくれると言うから身を任せていると優しく揉みほぐすその手に急激に睡魔に襲われて意識が落ちていた。

目を開けた頃には時計の針が半周回っていて、部屋の中になまえの姿は無かった。

代わりに机の上に部屋の鍵が置いてある。
なまえが部屋の外に出た事が分かった。目を擦りながら起き上がり、体を軽く伸ばし床から立つ。

(お?脚、ちょい軽くなっとる…)

体重を支える足が少し軽く感じる。筋肉疲労はあるものの、なまえの揉みほぐしが効いたのか脚のダルさは軽減していた。

部屋の外に出て鍵を閉めた後、指でくるくると鍵を回しながら、なまえの姿を探して男子寮をふらりと回ってみる。

鼻歌を歌いながら、なまえに少し脚が軽くなったと言ったら何と返ってくるだろうか、と想像する。

『だろ〜、柴さん直伝だもん』とか『俺のゴッドハンドだから当然』とか調子に乗ったこと言いそうやなと考えて一人で笑いそうになった。

他の奴には遠慮して、謙虚に、愛想良くしているくせに俺には調子乗ったこと言うし、怒ってくるし、照れるし…。

他の奴との扱いの差が嬉しいなんて、絶対言わないけど内心は当然やろ、と思う。

だって、なまえの隣にいつもおるのは俺で、仲良え奴も俺。
で、この先アイツの隣におるのも俺。

なまえのことを一番分かってんのは俺。せやから、なまえも俺のこと分かっといてほしい。

どこにおるんやろ、と携帯を片手に呼び出そうと考えた時、腹の虫を呼ぶ匂いが鼻を掠めた。

あ、炒め物の匂い。
もしかしてサムが夜食でも作っとるんやろか、とキッチンルームに近づくと、ドアの隙間からなまえと治の姿が見えた。

(みっけ〜、そおっと入って後ろから脅かしたろっかな♪)

驚くなまえを頭の中で想像し、笑いを堪えてドアに手をかけた時だった。

「なあ、まだ言ってないん?」
治の声になまえが反応する。

「何が?」

「東京行き。ツムに」
「あ〜、まだ…何か言うタイミングがなくて」

ドアに手をかけたまま体が固まった。

……は?

なん?こいつら何の話してん?
東京行き…?俺に言ってない…?え、何??

あまりにも衝撃的すぎて聞き間違いかと自分の耳を疑った。動かずに中の会話に耳をすませると、バイトするとか、だから東京に行くんか、とかそんな話が聞こえた。

なまえが、東京に、行く?
なんやそれ。聞いてへんけど。

自分でも顔が強ばっていくのが分かった。何で当たり前のように話しとんねん。何でサムが知っとんねん。

どういうことや?

混乱する頭の中で少し前に渡り廊下でかたまっている時に治から「なまえから聞いた?」と意味深なことを言われたことを思い出した。
何も聞いてないと言えば黙った兄弟に今やっと、何の事を聞いてきていたのかを理解した。

困惑と、それから怒りと。入り乱れてぐちゃぐちゃになった感情が腹の底から湧き上がってきた。

ギリギリと力任せにドアノブを握りしめる。

東京行きってどういうことなん?
何で俺に言わずに、サムには言うとん?
何で隠しとん?隠す必要があるんか?
言えや、話せや。俺に隠すなや。お前ら、俺の知らん間に話し合って、何楽しそうにしとんのや。

俺の怒りはふつふつと煮えたぎり、あっという間に頂点に達した。

ドアを開けて中に入ると治が声を上げた。

「東京行きって、何なん」

低くドスの効いた声が喉から出た。なまえは固まったまま瞬きをしている。

もう一度聞くと東京行き言ってなかったっけ、なんてぬかすもんだから、俺の怒りはさらに膨れ上がった。

サムは今聞いた話や、と嘘をつくし、何なんこいつら、と信用もクソもなかった。

俺の怒りを抑えようとしているのか目尻を下げて「今日はもう寝よう」なんて言うなまえにより一層苛立ちが増す。

穏便に済ませようと画策する、その態度が気に食わなくて。
俺から逃げようとするその姿勢に腹が立って仕方がなくて、握りしめていた拳を感情のままに壁に叩きつけた。

なまえの顔からやっと笑みが消えて、睨む俺と目が合う。

「クソ腹立つ」

キッチンルームを勢いよく出た俺は怒りのままに床を踏み潰して部屋に戻った。

(なまえも、サムも、2人ともクソや!クソ以下や!!!)

ムシャクシャしてもう一度壁を殴りたくなる衝動に駆られたがバレーボールを触って必死になって落ち着かせた。
今、猛烈に打ち込みたい…。とにかく叩き込みたい…。無心になって、叩くことだけを考えたい。

さもなくば怒りでどうにかなってしまいそうだった。
とにもかくにも腹が立つ。

「〜〜っくっそ腹立つわ!!何なん!ほんま!」

この怒りとイライラをどこにぶつければ気持ちがスッキリするのか。いや、スッキリなんてしない。

東京行きを俺に言わずにサムに言うてる時点で有り得んし!何でサムに言うて俺に言うてないん?!有り得んやろ!!

怒りは収まるどころか考えれば考えれほど湧き上がってくる。
もう寝てしまえと2段ベッドの上に登って横になった。

上の段は治が使っていたがそんなことはどうでもよかった。
目を閉じて寝ようとしていると、部屋のドアが開いた。

入ってきた足音がベッドの横で止まった。俺が上で寝ているのを見たのだろう。

「…なまえも、わざと隠しとったんちゃうで」
「うっさい話しかけんな豚が」
「…………」

舌打ちが聞こえた。今の一言で片割れのボルテージが相当上がったのが分かる。それでも俺に何も言い返してこないのは、治自身が引け目を感じているからだ。

ああ、腹が立つ。言い返してこいや。認めんなや。

「……俺やって隠しとったわけちゃうし。話の成り行きで聞いただけやし」
「ほな、何で言わんのや。隠しとったんやろ」
「なまえの口から聞いた方がええやん、俺から言うより」
「…言い訳ならなんぼでも言えるわな」
「あ?俺が言うたらお前キレるやんけ!」

フンッ、と横に立つ治に背を向けて寝返りを打った。
これ以上、話したくないという意思を読み取った治はため息をはいて下のベッドに入った。

こっちがため息つきたいくらいやわ!ふざけんなクソサムが!!

イライラする気持ちのまま、半ば無理やり目を閉じて意識を落とした。


***


翌朝の食堂でなまえに話しかけられた俺は話す気分ではない、と行動で示した。

登校後も話しかけられてしつこい為「話しかけんな」とシャットアウトする。

俺は怒ってんねんぞ、分かれや。
と醸し出す怒りを他所に後ろで茶川達と「東京」の話をし始めて耳を疑った。

は?は??待って、茶川らも知っとん?皆知っとって俺だけ知ってないん?

「宮にはいっちゃん最初に言っとるかと思ったわ。仲ええし」

突如耳に入ってきた言葉。

あ、あかんわ。もう無理。

これ以上聞くとさらにキレそうで力任せに蹴り立った。

自販機でジュースを買って飲んでいると周りが俺の険悪な表情に肩を震わせて避けていく。

ストローを歯で押し潰してイライラをぶつけた。

俺だけ知ってないって有り得んやろ…!
何で??大阪やなかったん?東京行くなんてひっとことも言うてなかったし。
むちゃくちゃ遠なるやん。これからずっと東京で暮らしていくつもりか?

聞きたいことも知りたいこともたくさんあるのに、それ以前に俺に言ってないことがやっぱり理解出来なかった。

俺は怒ってんのや。

こうなれば徹底抗戦だ、と言わんばかりに俺はなまえを拒絶した。


***


三日目になり、放課後の練習に行こうと席を立つとなまえが目の前に立った。

話がしたいというなまえに、俺は話すことは何も無いと告げて教室を出ようとすると田中が入ってきた。

俺を呼び止めるなまえを知らんぷりしていると田中が友達よな、と言ってきた。

口から出た「あんな奴、ダチでも何でもないわ」という言葉。

睨んで吐き捨てた瞬間、なまえは傷ついたような顔をして眉を下げた。

何やねん、その顔。

初めて見た。悲痛な表情で俺を見るなまえに心臓がぎゅ、と掴まれたように痛い。そんな顔をさせたい訳じゃない。

廊下に出て足早に体育館に向かう。

なまえが悪いやん。なまえのせいやん。何でお前のせいなんに、そんな傷ついたような顔すんねん。傷ついたのはこっちやねん。

俺だけ何も聞かされずに、サムには話しとって、他の奴にも話しとって。
いっちゃん仲良えって思っとったん俺だけなん?俺はただのオトモダチなん?
教室ん中の生徒の一部なん?
親友って何でも話せるぐらい仲良え奴のことちゃうん?
東京行って、離れるつもりなん?
ずっと、これからもずっと一緒におる仲やないん?
高校でもうさよなら、てそういうつもりか?


「……あー、腹立つ」

何やそれ。ふざけんな。

なまえの表情が頭から離れない。

部室に入って練習着に着替えるため制服のボタンを外していると角名と銀が入ってきた。
入れ替わりに1,2年がそそくさと部室を出ていく。

「…なあ、侑まだ怒ってんのかみょうじの事」
「あ?まだ?」
銀を見ると、「う、」と動きを止めた。

「別に、怒ってへんし」

「顔と声が怒ってんだよ」
着替えながら言ってきた角名を尻目にタオルとボトルを持って体育館に向かう。

ウォームアップ後、練習が始まり、今日も持ちうる最大限のパフォーマンスを心がけてトスをする。

手は抜かない。同じ時間、同じ日本のどこかで猛者達はもっともっと練習して強くなっている。

負けん。負けてられるか。

その心意気で上げるボールと治のスパイクとのタイミングがズレた。威力のない球はネット向こうの後輩が拾う。

ミスした相手が治だと尚更イラついた。

「…下手くそが」

呟いた言葉に反応した治が振り向いてきた。「あ?なんや?」

「下手くそ言うたんやボケ」
「おいツム、お前ええ加減にせえや」
「あ?何をや?」
「機嫌悪いん、こっちに当たってくんなや」
「は?関係ないやん。今のお前のミスやろ?俺はちゃんと上げとる。それをミスったんは、お前や」
「言い方が気に入らんねん。しょーもないことでいつまで拗ねとんや」
「…………」

今、何つったこいつ。『しょーもないこと』?

……絶対に許さん。

ネット際から治に大股で3歩。治の胸ぐらを掴んでガンを飛ばした。治が苛立った目で俺を見る。

「もっぺん言うてみ。なんやて?」
「なんぼでも言うたるわ、しょーもないこ、」

言い終わる前に手が出た。と、同時に治の拳が飛んでくる。

「おい!侑!治!!やめや!!」

周りが止めるのも聞かず、蹴る殴るの攻防に拳の痛みもボディに受ける衝撃もアドレナリンにより感覚が鈍くなる。

本気で殴り合う俺らは銀と小作によって阻止された。体育館から離れていた監督を呼ばれて喧嘩を見られた俺らは監督の前で正座をする羽目になった。




「お前らなぁ、何してんねん。一番上なのに兄弟喧嘩て、アホか。後輩に見せる姿ちゃうやろが」

「……すんません」
治が謝る。俺は謝る気もなく黙ったまま。

「侑。お前、チームの主将やで。主将がそない感情的になっとってどうすんのや」

「…すんません」
不本意だが謝るしかない。分かっとるけど、今回ばっかりは我慢ならんかったんや。

隣に座るコイツが、腹立つ事を言うものだから。
こんこんと叱られて解放された頃には空も暗くなっていた。

口の中で鉄の味がする。治にやられた時に切れたのだろう。

ああ、腹が立つ。

険悪な空気のまま、男子寮に帰った俺はすぐに部屋にこもった。

知らん、もう知らん。どいつもこいつも…!

投げやりな気持ちで部屋で漫画を読んでいると治が出ていった。

出ていけ、出ていけ。お前がおると腹立つんや!

けっ、と睨むように治の出ていったドアを睨んでまた読み進める。

むしゃくしゃする感情が大きくて、漫画の内容も全然頭に入ってこない。

治が出ていって暫く経つと、部屋のドアがノックされた。

prev Back next ︎︎