目覚まし時計のアラームが聞こえてきた。
鈍い意識の中、目を開ける前に手探りで時計を探してスイッチを押すと電子音は止まった。
重たい瞼を開いて手繰り寄せた携帯を見る。日付を見て、目を擦った。今日は金曜日。明日はインハイ予選に出るメンバーの選考会だ。
選考会に向けて練習は欠かせない。朝練のために今日も早く起きて洗面所に向かった。
部屋から出て共有スペースの洗面所に入る。さすが稲荷崎。設備管理費も潤っているのか寮の設備も良く、新しい。
女子寮は特に綺麗だとか女子の会話で聞いたことがある。
照明を付け、鏡の前に立つ。
水道の蛇口を捻り、出てきた水を掬い顔を洗った。
ぽふ、とタオルで拭く頃には気分も少しすっきりしていた。
変な方向に跳ねた前髪を濡れた手で押さえつける。部屋に戻って学校指定のジャージに着替えたあと制服をリュックに突っ込んで、そのまま食堂に向かった。
「おはようございます、いただきますっ」
食堂のキッチンに立っている寮母さんに声をかけて、用意されているおにぎりを二つ掴む。
運動部が多い男子寮は朝練で早く出る寮生もいるため、朝食は携帯食か食堂か選べるようになっている。朝練がない時はゆっくり食べられるが、朝練の時は席について食べている時間はない。
「みょうじくんおはよう、頑張ってなぁ!」
「はいっ」
頭を下げて寮から出発した。
登校していつものように部室に向かう。部室のドアを開ける前、聞こえてくる声に中にはすでに人がいることを知る。
「予選の選考メンバー誰になるやろな…」
「柴と秋田は確実やん。3年全員出れるやろか」
「最近みょうじ強なってきたやん。茶川も登り強いし…」
「最後のインハイ、全国に出られんでもブロック予選ぐらいは出たいよなあ」
3年の先輩達の会話が耳に入り、俺はドアを開けにくくなった。
部員は3年が5人、2年が3人、1年が5人。インハイ予選 関西ブロックに参加できるのは6人。
秋田部長と柴さんは確定している。あと4枠は明日の選考会で決まる。
インハイに出たい。その思いは皆同じだ。最後の年である3年生は特に。
俺も出たい。柴さんのアシストをしたい。でも3年生の先輩達も出たいはずだ。茶川と俺も最近は3年の先輩達と同じように走れるようになってきた。
選考会の結果次第では3年生の誰かが出られないということも有り得るかもしれない。
「………」
「なんや入らんのか?」
3年生の思いを聞いて入りづらくなっていると後ろから柴さんの声がかかった。
「あ、おはようございます…」
俺を一瞥して、部室に入っていく柴さんに続いて俺も中に入る。
「おはようございます…!」
先輩達に挨拶をした後、練習着に着替えたが、頭の中では俺達2年が這い上がれば先輩達が全員出ることはできないんだよな…とモヤモヤした気持ちでいっぱいだった。
朝練コースを全員で列を成して走る。
「明日は90kmコースのレース式やから、脚のために今日の部活はオフ。朝練で調子あげときや」
最終調整だと言う秋田部長の言葉も左から右に流れていくように未だにもやもやしていた。
坂道に入ると各自ギアを上げて登っていく。
普段なら真っ先についていくはずなのに、今日は脚が重たく調子が上がらない。
どんどん離れていく先輩達の背中を見て、明日の選考レースでもこのまま俺が前に出なければ3年生は全員出られるんだろうか、なんて考えしまう。
結局、最終調整という調整もできないまま朝練を終えてしまった。
皆、明日に向けて万全の準備が出来たというような面持ちで部室から出ていく。
ロッカーを閉めて出ようとした時、残っていた柴さんが口を開いた。
「みょうじ」
「はい…」
「調子悪いんか?今日全然上げてなかったやん」
「あ…いや調子が悪いわけでは…」
「なんや明日は余裕っちゅうわけか?」
「いや、そんなわけじゃ…」
「ほな、手ぇ抜くなや」
「……っ」
柴さんにはバレている。朝練で俺がわざと上げなかったことも。3年生についていこうとしなかったことも。
「手抜いてるわけじゃ…選考レース、先輩達が全員選ばれた方がいいんじゃないかって…」
「はぁ?なんやそれ」
柴さんの声が低くなって、心臓の鼓動が早くなる。
「…そんなくだらん理由で手ぇ抜く奴が一番腹立つわ」
柴さんが俺を鋭い視線を向けているのが分かる。俺は自分の足元を見ることしかできない。柴さんの手がロッカーを強く閉め、大きな音が部室に響いた。
カバンを持った柴さんが歩いて俺の横に来る。
「そんな奴と一緒に走るとか、反吐が出る」
ドスの効いた声で静かに言われた。
肩がひくりと揺れた。俺は何も言えなかった。柴さんはそのまま部室を出ていき、残ったのは俺一人だった。
***
ロッカーの前で何分立ち尽くしていたのか、分からない。
柴さんの言葉が頭の中をぐるぐると回っているうちに朝のSHRの時間が近づいていた。
急いで着替えて校舎に入る。賑やかな教室に入っても、どこか別世界のようで全部がぼやけたような音に聞こえる。
足取りが重くて席に辿り着いたのも何十秒と経ったような感覚だった。
椅子に座り、前をぼーっと見ているとこもったように聞こえる教室の喧騒から名前を呼ばれていることに気づいた。
「なまえ、…なまえ!」
「あ、…??」
聞こえた声で振り返る。侑が不機嫌そうに俺を見ている。
「無視すんなや。挨拶もでけへんのか」
声をかけてくれていたらしい。
「あ、ごめん…はよ…」
ぼーっとしていたため全然気づかなかった。挨拶を返して、また前を向く。
「なんや…」
怪訝そうな顔をした侑が横目に見えたが頭の中は柴さんの言葉でそれどころじゃなかった。
朝のSHRも担任が言っていることは全然頭に入ってこなかった。
そのまま1時間目に入り、授業が終わった後の休み時間。
後ろから肩を掴まれた。
叩くんじゃなくて掴んでくるのは侑しかいない。ゆっくりと後ろを振り向く。
「………」
「何や静かやな。何かあったん」
「…いや、何も…」
「何も、ちゅう顔じゃないねん」
俺はどんな顔をしているんだろうか。
「……はぁ」
「んな絶望したような顔してため息吐くな。こっちまで湿気たのが移ってくるわ。優しい侑くんが聞いたるで」
頬杖をついて俺を見る侑に、俺は今朝の出来事を言うか迷った。
だって、俺が最低なのは自覚している。柴さんが怒るのも分かっている。だけど3年生のことを考えると複雑な気持ちもあって、正直もやもやしている最中なのだ。
「大したことじゃないけど…」
「聞いたるで。言うてみ」
この複雑な思いを分かってくれるだろうか。窓際に座っている俺は窓の外を眺めながら横向きに体を変えた。
侑は早く言えと言わんばかりに俺を見ている。
俺は侑にぽつぽつと話し始めた。
「明日、6月のインハイ予選に出るメンバーの選考会があってさ…。本番と同じ90kmコースのレース式で…。選考メンバー6人のうち、部長とエースの柴さんは確実なんだけどあと4人は明日の結果次第で…」
「高校最後だから出たいっていう3年生の話聞いてから、3年生が全員出られるように、って考えると…何か本気で走れなくて…。朝練もそのまま流してしまって…」
「柴さんから…「手ぇ抜く奴と一緒に走るとか反吐が出る」って言われて…、何かもう…」
自分で言っていてさらに胸の下あたりが抉られるようだった。前髪をくしゃりと握ってため息を吐く。
「…何やそれ、聞いとったら腹立ってくるわ」
腹立たしそうに眉間に皺を寄せる侑。
「……」
「お前どんだけ頭お花畑やねん。出られるメンバーが限られとるのは当たり前。それを勝ち取るために練習しとんのやろ」
至極真っ当なことを言っているのは分かるが、今の俺にはキツかった。言われた言葉が毒のようにじわりと染みてくる。
「……わかってるっつの」
「分かってへんやろ。そんな綺麗事、聞いとると虫唾が走るわ。エースをアシストしたい言うとったん、どの口や」
さっきまでちゃらけたような顔をしていたのに、今は冷えきった目で表情がない。バレー部の練習を覗いた時に一度見た顔だ。真顔で、本気で言っているからこそ、刺さる。
分かってる。分かってるよ俺だって。そりゃお前達バレー部なら3年間レギュラーに出られない人だってたくさんいるだろう。皆同じように努力して練習してその中で勝ち取って試合に出ている。それは分かってる…。
でも、それだけじゃ拭えない複雑な感情があるから今、不完全燃焼みたいになってるんだよ…。
3年生を押しのけてでもインハイに出て柴さんをアシストしたい、でも3年生の気持ちを考えると…。そんな思いに挟まれている。
「…なんだよ。その言い方」
矛盾している自分を自覚しているけど、人に言われると癪に障る。言い返したくなる。
「ほんまのことやろ。元から勝つ気ないなら
感情の見えない真っ直ぐな目に底冷えがする。ぐさぐさと刺されて、痛む。
「…お前に話したのが間違いだったわ」
唇を噛んで、ふい、と前を向くと後ろから舌打ちが聞こえてきた。
「ほんまくだらんわ…」
後ろから聞こえた言葉に俺の腹の底はふつふつと煮え立っていた。
…〜〜っなんだよ、お前が話してみろって言うから話したのに…言い方…!
俺だって自分の考えが矛盾してることぐらい分かってるよ!分かってるけど…!葛藤してるんだよ!
くそ…!!
侑から浴びせられた言葉でさらにぐるぐると思考が回る。
悔しい、ムカつく、腹が立つ、虚しい、自己嫌悪、葛藤、全ての感情が渦巻いている。
侑に話すんじゃなかった!話す相手じゃなかった!人でなしなのは分かってたじゃないか!
後悔しても遅い。後ろの席の奴にムカムカとした腹立たしい気持ちは収まらないし、口も聞きたくない。
ムカムカともやもやの気持ちを抱えたまま、次の授業が始まった。
プリントが配られ、後ろに回される。
くそ、後ろなんか振り向きたくない。
後ろを見ずに片手でプリント後ろにやる。バサッと少し紙の音が立った。苛立ちが表れたのは仕方ない。と思ったら、プリントが勢いよく引っ張られた。
侑は俺の回したプリントをひったくるように取りやがった。
(あ、今すっげぇイラッときた)
くっそ…。後ろに向けていた手で拳を握り、机に上にそっと置いた。
〜〜、くそむかつく……!!!
落ち着け、俺。相手にするな…。深呼吸して肩を上下させる。
それから俺は侑と一言も話すことなく昼休みを迎えた。