インハイ開催前日。
ロードレース開催場所の□□市に現地入りして、出場選手のメンバーでレースコースの試走を行う。
カーブ具合や坂の傾斜、脚の使い所をチェックしながら走る。
「このカーブちょっと危ないな。イン側におったら、落車した時、巻き込まれる可能性あるわ」
「ん、ここはリスク回避で外におった方がええな」
柴さんと秋田部長の会話を集中して聞きながら走る。
1周30kmのコースを3周走る今回のレースコース。コースをじっくり走り終え、それぞれの注意点を上げて最終確認する。
「とにかく落車に巻き込まれんように。序盤は特に落車が起きやすいから慎重に行くで」
「はい!」
「下りも結構カーブあったから気をつけてこ」
「あの3つめの坂でアタックかかるやろな。あそこでどんだけついていけるか、やな」
経験値の豊富な先輩たちの会話は聞いているだけでも勉強になる。茶川と俺は先輩達の言葉を忘れないよう宿に帰ってから書き出して復習する。
出場選手以外にも、補欠やブーススタッフとして来ている部員もいる。三分もそのうちの一人で俺と茶川に「気張れよ!」と喝を入れてくれた。
ついに明日だ、と興奮と不安で眠れそうにない夜になった。宿の布団に入って目を閉じるもなかなか寝付けない。じっとしていると隣の布団が動いた。
「なあ、みょうじ起きとる…」
茶川の囁き声が聞こえた。
「おう。起きてる」
「…寝れんなぁ」
「ん…」
「…明日、緊張するわ」
俺も茶川も初インターハイだ。緊張するのは当たり前だと思いたい。
「昨日さ、寮で緊張してるって言ってたら侑達が『俺らは勝利に飢えとる。食べ物にありつくのに不安になっとる暇あるか?そこにご馳走があったら我先に飛びついて、一番先に勝ち取った奴が食べれんねん』って」
「ふは、さすが強豪バレー部やな」
「確かになぁ、って思ったわ。何を不安に思う必要があるんや、勝ちたい、勝つ、喰らいつく、それだけや、って。…勝ちたい。俺は柴さんに勝ってほしい。柴さんが真っ先にゴールする所を見たい…。だから…全身全霊で踏むわ」
「…俺も。全力で登るわ」
「ん…」
茶川と話した後、目を閉じれば自然と意識は落ちていった。
***
朝、起きて朝食を軽めに食べた後、レース用のジャージに着替えて宿を出た。
自転車を載せたハイエースで会場に入ると全国の出場校のテントが軒並み並んでいた。
「こっちや!」
顧問の先生が手を振っているテントに行く。
「よし、これゼッケンな。腰につけて、こっちはプレートな。バイクにつけるのは他の奴に任せてアップ始めとけー」
レースに使うバイクのサドル下にもゼッケン番号と同じプレートをつける。プレートの取り付けを三分に任せてアップのために用意したローラーで軽く脚を回した。
スタート場所への招集がかかり、いよいよレーススタートが近づいてきた。
緊張で空回りしないかとドキドキする。そんな俺に柴さんが肩に手をのせて笑った。
「みょうじ、いつも通りや」
「は、はい!」
平常心、そう言い聞かせてヘルメットを被り、スタート位置に並ぶ。
「ちょっと詰めてやー。はい、ここ。入るでー」
秋田部長の強気な圧に先頭付近の選手達の視線が痛い。
「おっ、東京の田治やんかぁ〜!元気やったか?!」
「…秋田…柴…」いかにも強そうな選手に話しかける秋田部長に周りの空気もピリりとした。
「なんやぁ、去年の根に持っとるわけじゃないよなぁ??」
「今日は勝つからな」
「はっはっ、言うとけ。俺が山で引きちぎるで」
目が笑っていない秋田部長に東京代表の田治さんは上等、と笑った。
周りの空気が刺々しくなった。
「うわ、関西はやっぱ柴、秋田じゃ」
「お〜広島は遊木クンか」
「相変わらずじゃね。最初からガチ上げはキツイけん、頼むわ」
「そう言ってアタックかけんのが遊木くんやろ〜。皆、遊木くん要注意やで〜」
「おい!秋田!」
ニシシと笑う秋田部長。さすがジュニアの頃から全国の色んなレースに出ているため顔見知りも多い。
「秋田もじゃけど、柴も注意せんと…優勝候補じゃけんな」
周りから柴さんのマークが聞こえる。
注目を集める秋田部長と柴さんに、俺は同じ稲荷崎の選手として緊張はピークになりつつあった。
ハンドルをギュッと握る。
「みょうじ、スタートしたら俺の後ろから離れんな。ある程度集団が伸びたら位置動くで」
こそっと耳元で言われ頷く。
「…はいっ」
ヘルメットのベルトをカチリ、と繋ぐ。 ボトルの水を一口含んでホルダーに収めた。
「スタート一分前!!」
審判の声が響く。カチッ、ガチッ、各々のペダルとビンディングシューズの固定する音が鳴る。
俺も右足をペダルに踏み込んでカチッとシューズとペダルが固定されたのを確認した。
晴天の下、スタートゴールのラインに並ぶ200人弱の高校生達。
今日、この中で1番速い奴が勝者になる。
目の前の柴さんの背中を見る。柴さんは強い。この中で勝てる勝算は十分にある。
柴さんを、うちのエースを一番に、このゴールラインに届ける。それが俺の役目。
勝つぞ。勝つ、絶対に。
「30秒!」
「10秒!」
無音の中、空気の張りは最高潮に達している。
審判が空にピストルを掲げた。
パンッ
合図で一斉に腰を上げる。
カチッ、ガチッ、地面を離れた片脚とペダルを固定する音が響き200人弱の集団はスタートした。
***
開始早々10kmの中、アップダウンのある坂で集団は崩れ始めていた。前方、後方と大きく2つにわかれている。
前方には各エリアの強豪選手達が背中を連ねていて、お互いを牽制しあっている。
その集団の中で稲荷崎も全員揃っていた。
「そろそろ平坦になるで、いけるか?」
秋田部長がスプリンターの3年の先輩に合図する。
アイコンタクトで先輩は前に出た。
「っしゃ、もがいてこい!」
各校のスプリンター達が前に出始めて、コース最初のスプリントを制すためにスピードが上げる。
道路脇には観客の応援が響いた。スプリントゾーンは注目される場所の一つだ。
集団から抜け出たスプリント集団は真っ直ぐに伸びたコースに我先にと駆けていく。大柄な選手達がペダルを力強く踏み込んだ。瞬発的な負荷を受け、しなる自転車を前に突き出しスプリンター達はスプリントラインを踏み切る。
「どうやっ?!」
道路脇の応援が湧く。スプリントを制したのは東京の選手だった。稲荷崎はスプリント賞を逃した。
スプリンター達は力を出し切ったように集団の中に戻ってくる。
「お疲れさん、次は山や。任せとき」
秋田部長が3年の先輩に声をかけた。
「堪忍な、っ」とキツそうに言う先輩に、俺も自分の仕事をちゃんとしなければ、と気を引き締めた。
「茶川、次の登り、出るで」
「はい!」
今度は秋田部長と茶川が前に動いていく。俺と柴さんは集団の中程で風を避けながら、一番空気抵抗が小さい位置でペダルを回す。勝負どころまで無駄な力は使わずに走る、でもいざと言う時には先頭から離されないようにすぐに反応して前に出る必要もある。
こういうところで柴さんの位置取りはとても上手い。的確な場所に位置して、周りを観察している。
秋田部長と茶川、登りが得意なクライマー達が坂を前にスイスイと登っていく。
俺達もあまり離されると追いつくのがキツイため、踏み込んでなるべく速く登る。
視界の先で秋田部長が瞬発的に前に出るのが見えた。秋田部長のアタックに反応してダンシングするクライマーたち。
後ろを向いて付いてくるやつを楽しそうに見ている部長はアタックしてクライマー達を翻弄する仕事を見事にこなしている。
「秋田、調子ええな。このまま行けば山岳賞、取れる」
「ですね…!」
秋田部長も血気盛んでひょうきんに見えてストイックな人だ。練習を惜しまず、楽しむために強くあろうと走り込む姿を俺達は見てきた。山岳賞獲得も夢ではなく現実的なものだ。
あっという間に見えなくなったクライマー集団、長い坂道に脚もきつくなってくる。練習とは違い、走っている全員が全力で登っているのだ。キツいのは俺だけじゃない。
俺達が登っていると坂道で応援する観客が笛や太鼓で激を飛ばしてくれる。
「頑張れー!」
「あと100mー!」
応援のおかげで脚の力は緩むことを知らない。
頂上が見えて来た頃、坂の上で両手を上げる背中が見えた。
臙脂色に黒のジャージ姿…。
「秋田、部長…っ!!」
拳を上に突き上げる姿に柴さんは隣で静かに笑っていた。
「あいつ…ほんまに取りやがったわ」
「稲荷崎、山岳賞!」
「速かったなぁ!あの子!」
過ぎ去る中で聞こえてくる観客の声。
登りきったあと下りに入り、集団はまた大きくなった。クライマーたちを飲み込んでいく。
帰ってきた秋田部長は「きっちり仕事はしたで、」とドヤ顔で柴さんに笑った。
「わかっとるわ。2周目も頼むで」 「2周目は茶川の番や」「うす!」
秋田さんの横で茶川は力強く頷いた。
「3周目のアップダウンのコースで登りアタックかけたら、そのままみょうじは柴連れて逃げてくれ。その前にかかったらそれに乗っかってもヨシ」
口早に言われたオーダーに頷く。
30kmの道のりを走り、スタートラインに戻ってきた俺達は2周目に突入した。
1周目よりもスピードが速い。ふるいに掛けられた集団は速さについていける者だけが残っており、互いにアップダウンのコースで仕掛けたり、仕掛けられたりを繰り返す。
密集した集団がウネウネとカーブを曲がり坂道の度にスピードが緩んだり、下りの度に速くなったりを繰り返すため、油断すれば互いに接触してしまう危険もある。
細心の注意を払って柴さんから離れないようについて行く。
2周目の平坦コースを過ぎて登りで茶川が前に出た。
反応するクライマー勢。稲荷崎のジャージが坂の上で他校を翻弄している姿は何とも心強い。
アタックに反応すれば、それだけ脚は疲れる。アタックして逃げると見せかけて、逃げなかったり、そのまま逃げたり、駆け引きに応じるには初動で反応するしかない。
それを利用して周りの脚を削っていく。
茶川の渾身のアタックに反応した選手達には疲労が見て取れた。
よし、じわりじわりと脚を削っている。
「稲荷崎、いいよー!」
「ファイトー! 」
観客の声援を背に、2周目の坂を登り終え下り始める。ざっと見て今の集団は50人弱。
ラスト3周目の30kmで動きがあるはずだ。
1,2周目と全力を出した3年の先輩と茶川は脚がキツそうだ。息が上がってきている。
秋田部長はまだ走れると思うが一発目の山で上げているため、脚に疲労は溜まっているはずだ。
柴さんを見る。柴さんも俺を見た。
いつでも、いけます。
その意気で3周目のスタートラインを通過した。2周目よりもさらに上がった速度でアップダウンのコースを走り抜ける。
「おい!ブレーキかけんな!!」
「危ねぇな!!」「周り見ろや!!」
怒号が飛び交う。皆、落車や接触しないように気をつけているが集団には走行技術が上手い人も下手な人も混ざっている。
落車に巻き込まれないように位置取りが重要だった。
柴さんが少し外に動き始めたため、俺も続こうとした。
「…っ!!」
が、柴さんとの間に別の選手が入り込んで行く手を阻まれた。
柴さんの背中が少し離れていく。焦りを感じつつもどこを抜ければ良いか考える。早く柴さんの隣に行かないと…
少し登りになり下る瞬間、
「危ないッ!!!!」
誰かの叫ぶような声が聞こえたと思ったら、俺の体は横に吹っ飛んでいた。
スローモーションのように横向きになる体、地面に近づく視界。空が傾いた。
衝撃が体に走り、鼻の奥がツンとした。血の匂いなのか、鉄の匂いのようなものが鼻腔を擽る。
無音の世界の中で、数秒して音が聞こえ始めた。カラカラとホイールが回る音と、「大丈夫か、」という声かけ。
立たなければ、起き上がらなければ。
右腕を動かすと鈍い痛みが走った。見ると、ジャージは肩から破れ、腕は擦りむけて血が滲んでいた。右足も同じようにアスファルトに削られている。
それでも、俺は、走らないと…。
すぐに立ち直して走り始める他の選手を見て、自分の自転車を起こした。
完全に、遅れた。
先頭はもうかなり先に行っているはず。何をしているんだ、俺は。柴さんをアシストするという役割があるのに、落車に巻き込まれて、何を…
「みょうじ!!!」
愕然としている中、声に反応して前を見る。
柴さんが脚を止めていた。
「し、ばさん…」
何で?何でそこにいるんですか…?何でエースが先に行ってないんだ…?行かなきゃ、勝ちに、先頭に、行かなければ…。
幸いにも自転車は無事ですぐに跨りペダルを回して柴さんの隣に付いた。走り始め、ペダルを回しながら柴さんがこんな先頭から遅れたところにいるなんて有り得ない、と焦る。
「みょうじ、大丈夫か?」
「はい、すみません、巻き込まれてしまって、俺っ「頭は?痛くないか?吐き気は?」」
「だ、大丈夫です、傷も擦れただけなんで、あのすみませ「走れるか?」」
「はい、でも、柴さん…なんで…止まって…」
「勝つにはみょうじが必要や」
前に向いている柴さんの横顔を見た。
「でも、先頭…」
「秋田と茶川が『登りで仕掛けとくから後から追いついて来い』て、言うてった。先に行かせとるわ」
「……」
「今から5km、俺が引く。その間に呼吸整えとき。その後は、任せたで」
「…っ」
何時ぞや、中学の時に出たレースで柴さんにフォローされた時を思い出した。あの時も、こうして後ろに入れてくれて風避けになってくれた。
エースの背中は大きくて頼もしい。落車によるアドレナリンの分泌で荒くなっていた呼吸が段々と落ち着いてくる。不安や焦り、落車による消失感、絶望感を拭い去るほどに力強い引き。
柴さんのペダルの回転に合わせて脚を回す。血だらけになった手足の痛みなんてどうでもよかった。
5kmを過ぎても先頭は見えてこず、二人きりの静かなライドだった。道端の応援は俺たち二人を見かけると「頑張れ!」と声をかけてくれた。
先頭がどれだけ離れているか分からない、それでも柴さんが俺を待ち、こうして俺を引いてくれているからには俺は何があっても全力で走らないといけない。落車して、絶望を感じて落ち込んでる暇なんてない。
俺には、隣で走るエースを先頭まで持っていくという仕事が残っている。
「柴さん、代わります」
前に声をかけて、ペダルを踏み込む。
「…ありがとうございました。楽になりました」
「いけるか?」
「はい…。全開で踏みます」
「…頼むで」
残り18km。心臓が破れてもいい、脚がちぎれてもいい、たった1人、後ろにいる俺のエースを先頭まで届ける。必ず。
深く息を吐いて、新鮮な空気を吸い込んだ。
***
ひたすら脚の力を弱めることなく踏み込んでいると、段々と目の前にちらほら背中が見えてきた。
一人、二人、三人、と追い越していく。
スピードが乗れば、不思議と苦しさも無くなる気がした。
「柴さんっ、上げていいですかっ」
「おう、」
さらに踏み込む。もはや限界の90%の出力に近かった。最後までゴール出来なくても良い、とさえ思う。
「うわっ、あの子見た?血が」
「稲荷崎ー!頑張れー!」
路肩の応援の声も瞬時に過ぎていく。ペダルを回すことだけに集中して自分のペースで走るのは心地よいとさえ思った。残り8km。視界の先にちらほら、見え隠れする背中の塊が見えた。集団だ。
「見えたでっ」
「はいっ!」
踏み込む力が強くなる。継続できるパワーのギリギリを出して走る。徐々に近づいてくる背中。
その中に臙脂色と黒色のジャージが見えて内心救われたような気になった。
「みょうじっ、このまま落とさずいけるか!」
「っ、はいっ、繋ぎます!」
速度を上げて10人程度の集団の後ろに入ると、風の抵抗が少なくなり今まで酷使した脚が少し休まった。
「…!!みょうじ!!」
「柴!!!」
秋田部長と茶川が俺と柴さんに気づいて近くに来た。
「怪我が…!」
「大丈夫…っ」
「秋田、先頭は?」
「脚っ、使わせたけど、2人逃げとるわっ」
苦しそうな秋田部長と茶川。
逃げという言葉に反応して柴さんの目を見る。
「柴さん…」
「おう」頷きが返ってくる。
「みょうじ、頼んだっ」
秋田部長の声を聞いて、俺はダンシングを始めた。集団から抜け出るように速度を上げた。柴さんも腰を上げて踏み込む。山岳賞が設定されていた長い坂を全力で登る。
集団から抜き出た俺たちを追ってくる人が数人いたが、すぐに垂れて行った。
逃げている先頭2人、ゴールまであと5km。
心臓が苦しい。呼吸をしても息が上手く吸えない。酸素が入ってこない。脚の筋肉は疲労の蓄積と痛みで感覚が鈍い。
「はぁ、っ、はぁっ、」
柴さんの息遣いと乱れる俺の呼吸。それでもペダルを回し続ける。
坂を登り終え、下りに入った。
残り4km。下りでもペダルを踏む力を緩めない。ハンドルに取り付けているサイクルコンピュータの速度表示は70km/hを超えている。ギリギリのコーナーイン、少しでもバランスを誤れば、タイヤを取られて高速のままアスファルトに激突してもおかしくない。
攻めた走りをする俺達が目指すのは先を走る先頭のみ。
残り3km、まだ先頭は見えない。
嫌だ、エースを、柴さんを勝負の場に持っていかずに終わりたくはない…!
「うわっ、追いついて来てる!」
「稲荷崎ー!頑張れ!すぐ先にいるよ!」
「頑張れー!!」
「え、あの二人で勝負かと思ったけど、まさか追いつく?!」
声が聞こえる。先頭はどこだ。
残り2km。
限界まで回す。太ももの筋肉繊維がぶちぶち、と音を立ててちぎれているような気がする。
心臓は今すぐにでも止まってしまうんじゃないだろうか。
残り1km。見えない。先頭が見えない。
「走れ!」「先におるぞ!」「いけッ!!」
見えないのに、声が導いてくれる。
エースを、ゴールラインへ。
あのストレートコースに届けて、うちが一番強いんだ、と。
勝ちを掴むために。
「はぁっ、はぁっ、はっ、ッ」
息をするのも苦しい。
思考が疎らになってくる。足を動かしているのかどうかも分からなくなりそうだ。
少し登った先にあるゴールラインが頭の中に浮かんでいる。
残り600m、カーブを曲がれば、ゴールに続く登りとその先の平坦ストレート。
朦朧とした中でカーブを曲がる。ゴール付近に集まったギャラリーが沸き立った。皆が口を開けて叫んでいる。
「うわあああ!来た!来たぞ!!」
「まじか!追ってきてるって情報、本当だったんか!」 「いけ!差せ!」
「登れー!!」「どこの高校?!」
「やっぱ柴くん強い!」
観客の声が道に入り、曲がりながら顔を上げて登り坂を見た。
先頭が、、
「見え、た……」
歓声が一瞬止まったようだった。無音の中、2つの背中が視界にあった。
見えた。先頭。
後ろの柴さんを見る。柴さんの目が先頭を捉えていた。
最後まで全力を振り絞って、ストレートへ……
静寂の中、登りを我武者羅にもがいた。
きっと傍から見ればもがくところはゴール前だろ、と思われるかもしれない。でも、俺の最後のもがきはこの登りだ。登りきって、柴さんをストレートに…。
残り400m登りきる前に、脚がガクンと落ちた。
あ…。
脚が言うことを聞かなかった。痙攣して、激痛が走る。
せめて、せめて、あとひと押し。
柴さんの腰に手を添えて、力いっぱい前へ押し出す。
「……ふっ、!」
「ようやった、後は任せぇ!」
柴さんが俺の手をタッチして下ハンドルを持つ。思い切りペダルを踏みつけた。しなり上げるバイク、ひと踏みで、ぐんと伸びる。
俺は脚が動かなくなり、どさりと横に倒れた。今度は左側に倒れたため、右側の怪我はカバーできた。
ストレートコースで二つの背中を目指し、もがく柴さんの背中が見える。
追いついて、三者が全力で競り合う。俺達のエースの背中は大きい。
ゴールストレートは叫びと声援の嵐だった。
「行けー!」「走れ!」「差せー!」「逃げろ!!」
思い思いの声が飛び交う。
渾身の力を自転車にぶつけてもがき合う。3人ともがゴールラインを同時に通過したように見えた。
皆が息を飲んで見る。両手を上げたのは臙脂色のジャージ姿ではなかった。
柴さんは下を向いてハンドルを握っていた。大きく上下する背中から苦しそうな呼吸が伝わってくる。
ああ、そうか……
俯き悔しそうな柴さんの背中が見えて、俺は倒れたまま空を見上げた。真っ青な空が視界に映る。
呼吸が落ち着かず胸を上下させて、酸素を必死で取り入れた。
もう、脚が動かない。
しばらくして複数の自転車の音が聞こえてきた。集団だ。
「っみょうじ!」
茶川の声が聞こえ気がした。
集団ゴールとはいえ、タイム勝負なため最後はもがき合いになる。歓声の中、続々と選手たちがゴールして行く。
コースの外から三分の声が聞こえてきた。
「みょうじ!!大丈夫か!!」
コースのフェンスから身を乗り出して叫ぶ三分に何とか手を上げる。
「ゴール、できるか?!」
まだ荒い呼吸のまま、上半身を起こした。
足の痙攣は止まっているものの、立ち上がれるか不安なほど力が入らない。
ぐっと、力を入れて立ち上がるが、足から力が抜けそうでふらついた。
「みょうじ!ええ、そのままゆっくり、ゴールラインまで!」
ロードバイクに跨り、力の入らない脚をペダルに添えて、脚の重みだけでペダルを回す。
ゆっくり、ゆっくりと進む俺に三分がコースの外を歩きながら「あとちょっとや!」と声をかけてくれた。
ゴールしたら、動かないでいいだろうか。と考えているとゴールラインの先で柴さん、秋田部長、茶川が立っていた。
カラカラとゆっくりラインを踏み、ゴールが認められる。とりあえず完走はできたみたいだ。
「…柴さん、秋田部長っ、俺っ「みょうじ!まず手当や!」」
顧問の先生と三分が駆け寄ってきて、俺の腕と脚を見る。
柴さん達と話す間もなく救護ブースに連れて行かれる。足に力が入らず三分の肩を借りた。
「柴さん…何位?」
「2位や。僅差やで。10cm差」
「……ごめん…」
「何で謝るんや」
「…俺が落車してなかったらっ、柴さん勝てたのに…っ」
悔しくて涙が出そうになる。必死で上を向いた。
「アホか!誰もそんなん思うてないわ!」
「柴さん、悔しそうだった…」
「そらもがいて負けたら悔しいわ!でも、それがみょうじのせいなんて誰も思ってへん!」
三分の言葉に俺は黙り込んだ。
絶対に勝つぞ、って決めて、皆力を出し切ってそれぞれの仕事をしたのに。先輩もスプリント狙って、秋田部長も山岳賞取って、茶川も登りで役目を全うしたのに、俺は、俺は落車して柴さんに引いてもらって…。
アシストするなんて言って、迷惑かけただけじゃないか…。
3年生の分まで頑張るってレースに出て、俺は、何をしたんだ…。
3年生最後のインターハイを……。
三分が救護ブースから出ていった後、救護スタッフの人に右腕と右足の擦過傷を綺麗にしてもらい、応急措置を施してもらった。
「ありがとうございました…」
救護スタッフの人に礼を言って、腕を見下ろす。こんな腕の痛みよりも胸の内の抉られるような精神的な痛みの方が大きくて辛い。
右脚をカバーしながら救護ブースから出て、ゆっくりと歩く。
稲荷崎高校のテントに戻ると皆が顔を伏せていて喉が閉まった。
「…すみません…俺が落車しなかったら…」
秋田部長と柴さんに頭を下げる。帰ってきた俺に気づいた柴さんが立ち上がった。
「アホ。結果は俺の力不足や」
悔しそうに顔を歪める芝さんに俺は唇を噛み締めた。
「みょうじ、お前はようやった」
秋田部長が左肩を優しく叩いた。
優しい言葉が今は傷口に塩を塗られるように滲みた。
「せや!何人抜きやねん!すごいで!」
茶川の明るい声がテント内に響いた。
皆、悔しいはずなのに…。
「お前らはようやった。2位はすごいことや!団体でも4位入賞!…ああ、あかん!湿気とる!ほら、とりあえず表彰の時間や、集まりや!」
顧問の先生のフォローも俺には秋田部長の優しさと同じようにしょっぱかった。
表彰式で2位の台に立つ柴さんを見上げた。
本当なら真ん中に立っているはずなのに…。拳を強く握りしめ唇を噛み締めた。
柴さんは 個人総合 2位銀メダル、秋田部長は山岳賞も含め総合6位入賞、茶川は15位。
そして、トボトボとゴールした俺は40位。200人弱のうち、足切りや落車で完走できた人数は約80人だった。
過酷なレースの中、走り抜けた選手を称えたいという競技会の偉い人のコメントも俺には綺麗事にしか聞こえなかった。
帰る前に柴さんを含め表彰台に上がった人達はメディアから取材を受けていた。
筋肉痛を超えた痛みを感じる脚を放り投げて、ぼーっとゴールラインを眺めていると、目の前に影が出来て顔を上げる。
「君かぁみょうじくんは」
「あ、はあ…」
目の前に立ったのは表彰台の真ん中に立っていた三年生だ。関東ブロック代表の人だった。
「にひ、柴の永遠のライバル、
俺を見てにこりと笑った。柴さんはこの人に負けたんだ…。己の失態を再認識して沈んだ。
「あ、何でそんな沈んでんの」
「勝った奴が満面の笑みで寄って来たら、そうなるやろ!」
秋田部長が寄ってきて、鬱陶しそうにしっし、と手で払う仕草をした。知り合いらしい。
「え?いや、俺はお礼を言いに来ただけ」
「お礼ぃ?」
「いやぁ、柴の火をつけてくれたからさぁ。やってくれるよねみょうじくん。寝た子を起こしたというか、新しい扉を開いたというか」
「はぁ…」
「3位の奴と一騎打ちかと思ったのに、まさか最後に柴が来るとは思わないじゃん?びっくりしたよねぇ」
正直危なかったとあっけらかんと笑う姿は最後に柴さんともがき合っていた背中の一人だとは想像できない。笑顔から急に堅い顔に変わった。
「…今日のレースで、柴は変わったよ」
真顔で言う真留古さんから目が離せなかった。
「…次会うレースが楽しみだなあ秋田」
「言うとけ。次は関西勢で鬼引きや」
「おぉ、怖っ。じゃ、また」
長い腕をひらりと手を振って帰って行った。
「はぁ、ほんまあいつ…。柴と鉢合わせんでよかったわぁ」
勝利を手にした人間は悲しむ素振りなんて1ミリもない。嬉しそうに勝利を噛み締めている姿をみて悔しさに包まれる。
真留古と柴はジュニアの時から各地のレースで会う度にずっと競ってんねん、と言う秋田部長の言葉も遠くに聞こえた。
宿に帰り、お通夜みたいな静けさでご飯を食べた。顧問の先生は俺たちに「悔しいかもしれんがよう走った」と声を掛けた。
柴さんはレース会場から帰ってきてからも難しそうな顔をしている。やっぱり悔しいよな、とその姿を見て味気ないご飯が喉を通るだけだった。
倒れ込む様に布団にダイブすると、あっという間に意識が落ちて、長いインターハイの一日を終えた。