31

真夏の太陽が照りつける中、寮の日陰にロードバイクを置いてメンテナンスをしていた。

夏休みともあって寮生は帰省している人も多く、人は少ない。

ロードバイクのチェーンを綺麗に掃除して、タイヤに空気を入れる。相棒のバイクを綺麗な状態にすると自分の気分もすっきりした。

「おっ、おったおった」

足音と共に練習着の侑と治が肩にカバンを下げて歩いてきた。

「おー、お疲れ」

チェーンの汚れで黒くなった手をウェスで拭いて立ち上がる。侑達の後ろからもう一人、姿を表した人を見て俺は固まった。

「し、柴さん…?!」

何故ここに?!
メットを被り、サイクルジャージ姿でロードバイクを引いて立っている。

「玄関とこで会うたんや。なまえ探しとる、言うから。中にもおらんし」
探したわぁ、名札はおるようになっとんのに部屋におらんし、という双子にごめんと謝る。

「なまえ、もう走れるんやろ」
「まぁ…でも全然走ってないです。あれから…」
「ちょっと走りにいかんか?」

柴さんは日焼けで健康的な色をした脚でシートポストを跨いだ。速く走るために必要な筋肉のみ、無駄なものは無い引き締まった脚は強さの象徴だ。

「今から、ですか?」
ロードバイクの掃除だけ、と走るつもりはなかったから突然の誘いに驚く。戸惑っていると柴さんが口を開いた。

「言い間違えたわ。ちょっと今から付き合え」

有無を言わさない強さ。俺に柴さんの誘いを断ることができようか。いや、できない。結局、柴さんが言うことは絶対なのだ。観念したように周りの掃除道具をまとめた。

「……、支度してきます…」
「5分な」
「っ、みじかっ!」
「暑いねん」
「〜はいっ!」

ダッシュで双子の横を通って寮の中に戻る。後ろでは柴さんが双子にお礼を言ってるのが聞こえた。

練習のサイクルジャージに着替えて、柴さんと寮をスタートした。街中を避けて走るため山奥に向かって川沿いを走る。

無言の中、柴さんの背中を見ながら脚を回した。久しぶりのロードバイク。脚は重たいわけでもなく、適度なスピードはサイクリングに丁度いい。

練習の速度ではなく、サイクリングの速度だ。呼吸は辛くなく、楽なペースで走る。

真夏の熱射の中なのに、気持ちいいな、と思うのは風と軽快なペダルのおかげかもしれない。

肺いっぱいに空気を吸うと体の動きが軽くなる気がする。
何度も深呼吸をしていると柴さんが俺を見ていることに気づいて目が合う。

「気持ちよさそうに走っとんな」
「久しぶりで…」
「山、登るか?」
「え…」

登り=キツい、の方程式にこのままずっと平坦コースが良いと思ってしまう。特に柴さん相手なら尚更。
柴さんについて行くのは毎度毎度、尋常じゃなく苦しくてキツいのだ。
久しぶりに走っている俺には、今なら早々に垂れて離れてしまう自信しかない。

「今日はゆっくり登るで」
だから安心しろ、と言わんばかりの口調だが、それを信じて本当にゆっくりだった試しはない。

「…柴さん、そう言って絶対上げますよね」
「いや今日はリハビリがてら軽く、や」
「…本当ですかぁ…?」

どうせ拒否権はないのだろう。半信半疑で柴さんの後ろをついて、山に向かうコースに入った。

山道に入ると坂の傾斜が上がる。ダンシングしながら、座って回しながら、と体全身を使って登っていく。

登っていく事に標高は高くなり、街が下に見える。

心地よいペースでゆっくり登るとそこまで苦しくは無い。柴さんが言ったとおり、ゆっくり登っていた。

だが坂も最後にさしかかったところで柴さんのペースが少し上がった。

は!?ゆっくりって言ったじゃないですか!!と内心苦言を呈する。

俺も踏み込んで上がったペースについていく。離れていない俺をちらりと見て柴さんはまた速度を上げた。

その速度に合わせ、強くペダルを回す。かかる負荷に疲労物質が脚に出始める。

いやいや、やっぱり嘘じゃないか、ゆっくり登るとか言ったくせに…!

バクバクと心臓の強い鼓動を感じながら、滲む汗が顎を伝い、ポタポタと落ちる。

終いには柴さんがダンシングしてどんどん俺を突き放そうとするため、俺もダンシングして必死に踏んでしまう。

「はぁっ、はっ、ぅっ、はぁっ」

苦しい。長らく使っていなかった心肺も脚も久しぶりの高負荷に悲鳴を上げている。
それでも目の前に背中があると追ってしまう。

残り50mというところで柴さんがガツンと上げたため、踏み込んではみたものの垂れてしまった。柴さんが頂上に到達した後、遅れてゴールする。

「はぁっ、はぁっ」
さっきまで苦しくなくて楽しいサイクリングだったのに…、今日はリハビリがてら軽く…って言っていたはずなのに…!

「ゆっくりとか嘘じゃないですか…っ」
「…やっぱ上げたくなるもんやん」

この…っ!!自分が強いからって!
翻弄される身としては苦しい以外にない。

「でも、なまえさっき笑っとったで」
「っ、はい…?」
「苦しそうやけど、笑っとった」

「こんな状況笑うしかないでしょう。詐欺ですよ。ゆっくり詐欺っ、」

まだ荒い息を整えながら空を見た。
青い空に下に広がる、俺たちが住んでいる街。

登ってきた達成感と、苦しんだ後の景色に思わず感嘆の息を吐く。
苦しさよりも爽快感の方が勝るのは登ってみないと分からないことだ。

「…やっぱ登るの気持ちええなぁ」
「…そうですね 」

2人で街を見下ろす。風が汗だくの体を冷まし、涼しいと感じる。吹く風が気持ちよくて、目を閉じた。

ああ、やっぱり走るの気持ちいいな…
…そんで前を走る背中を追いかけるの、気持ちいいな……

寮を出るまでは走ることに戸惑っていた思いも今は微塵も残っていない。連れ出してくれた柴さんに少し感謝した。

「…ありがとうございます」
「何が?」
「誘ってくれて…」
「近く寄っただけや」
「…走りに来てよかったです」

吹き抜ける山風に心の中に溜まっていたもやもやとしたものも吹き飛ばされるような気がした。

「俺、インハイのことでずっともやもやしてて…ちゃんと走れなかったこととか、」
「…そのことやけど、俺も言おうと思っとったんや」

柴さんの言葉に何を言われるのだろうと身構える。いや、言われることは覚悟している。

ぐっと拳を握って柴さんを見た。罵声、叱咤、何でも受け入れよう。


「一緒に走ってくれて、ありがとう」

「はい…?」

予想していたものとは、真逆の言葉に自分の耳を疑う。

「いや…俺のせいで、負けたのに…」
「ちゃうわ。お前は全力で走ってくれた。倒れるまで。…全てを託されたんは初めてや」

柴さんは山の上からの眺望に目を細めて遠くを見た。

「今まで、結局は自分の脚で勝負や、ってずっと思っとった。せやけどお前の走りでエースは託されて勝つもんなんや、て初めて分かったんや」
「………」
「アシストとかフォローとかよくあることやけど、お前のあれはそんなもんじゃなくて、『全部』やった。言葉の通り、全部を、全てを懸けた走りやった」

柴さんの言葉に静かに耳を傾ける。

「俺は同じことはできんと思う。自分は壊れてもええから、仲間を勝たすために出し切る。そんな走りをされて、負けたんが悔しいんや…。お前の全てを出しきった渾身の走りをもらって、勝てんかったのは俺や」

そうじゃない。柴さんは、俺を引いて助けてくれた。落ちた俺をレースに戻してくれたのは柴さんだ。

「あのゴール先での拳一つ分の差が悔しくてしゃーない。せやから、俺はもっと強くなる。強くなって、エースとして周りの走りを全部受け止めて、僅差じゃなくて圧倒的な強さで勝ったる」

柴さんは前を強く見た。

「あの走りで目ぇ覚めたわ。覚悟が、できた」

覚悟…。何の覚悟か、とは聞かなくても何となくわかった気がした。エースとしての覚悟、これから選手として走っていく覚悟。

「…俺は申し訳ないです」

「もう終わったことや。この悔しさをバネにするで。嘆いとる暇はない。嘆くならあの時、何がダメだったか改善策を考えるだけや。俺は最後のスプリント、お前はレース中の集団の中の位置。直すところはいっぱいあんで」

…俺は何てバカなんだろう。柴さんはすでに前を向いている。過去の事なんて過ぎ去ったことに思いを馳せらせてはいない。
一人でジメジメと悩んでいた自分を殴りたい。

「はい…っ」

「強くなって、勝つで。次は来月末の北陸であるレースや」

公式レースやないけど、勝負事に変わりは無い、と楽しそうに言う柴さんに俺は心の底から湧き出てくる嬉しさを感じた。

まだ柴さんと一緒に走れるんだ。

「次も勝ちに行く。せやからアシスト、頼むでなまえ」
「…っ、はいっ!」

青空に声が響いた。

真夏日の山の上で交わした信頼と期待の眼差し。

やっぱり柴さんこそが俺の「エース」だ。このエースが勝つところを見たい、と強く思った。

prev Back next ︎︎