78

夏休みに入るとすぐにレースに向けて合宿があり、毎日のキツイ練習と忙しい日々であっという間に8月になった。

明日からインハイ開催地へ現地入りする俺は出発前最後の食堂飯である、晩御飯を前にして、手を合わせた。

「いただきます…」

食べる前から言葉数が少ない俺に隣の侑が眉を上げた。

「まーた、お通夜かいな」
「…だって!もうあと2回寝たらレースって考えたら、何か、もう…ああっ、」

箸を握りしめて上を向く俺に角名が面倒臭そうな顔をした。

「出た、なまえの定期的なジメジメモード」
「お前らは試合慣れしてるかも知れんけどなあ、俺は高校最後のレースなんだよ…っ」

緊張もするだろ、と厚焼き玉子に齧り付いた。そんな俺を見て侑が思い出したように話し始めた。

「せや去年な、インハイ移動中に高速のサービスエリアで休憩あってな。俺ら置いてかれそうになってん」

「はぁっ?!」

唐突なエピソードと、バスに置いてかれる双子を想像してご飯を吹きそうになる。

「俺らトイレ休憩行って、サムがちょっと食うもん見たい言うから一緒に見とってな」
「うん」

治が侑から会話を引き継いで話始める。

「ご当地限定グルメとか美味そうなコーナーがあって、焼豚丼とえび天弁当があってむっちゃ迷ったんや。ツムは補給ゼリーあるから今はいらん言うし、食いたかってん」
「サムが迷いすぎて買って外出たらな、バスがおらんのや」

「はぁっ?!」

「ギリギリ、アランくんが気づいてくれたらしゅうてちょっと離れたところで停まっとったわ」
「ちょ、まじかよ」
「バスから降りてきた北さん、ほんま恐ろしいくらいに無表情で『あ、これやっばーー!』てなったよな」

『何しとん?時間見て行動することができんのか?』と時間内に戻ってこない双子に対して問う北さんの姿が想像できて肩を震わせる。

「想像できる〜!」
「バスん中、戻ってアランくんに『気づいてくれてありがとおー!』ってお礼言ったら、北さんからの南極レベルの視線…あれはな、ほんまにな、やばかったな」

面白くて、くすくすと笑いが止まらない。

「俺は寝てたから知らないけど、銀曰く車内が少し涼しくなった、って」
角名が愉快そうに鼻で笑った。

「で結局、治は何買ったんだよ」
「唐揚げ」
「ぶっは、迷ってたのと全然違うし」

ケラケラ笑っていると侑も口角を上げた。さっきまでの強ばった感情も解れた気がする。侑がそんな俺を横目で見て味噌汁を啜った。

「侑達も明日出発だろ?」
「ん、俺らは早朝からやけどな。明日からトーナメント予選開始やし」
「…頑張ろうな」

茶碗の中に残った白米の最後の一口を口に入れた。

「…絶対、勝ったる。去年の悔しさ、忘れてへんやろ、サム」
「…当たり前や」
「全国一の勝利が目の前まで来とったのに、最後で敗れたんや。今度こそ、絶対に掴まえるで」

侑が静かに目を伏せて、空になったお椀を見た。

「勝つ。絶対に、勝つ。バケモンみたいな奴らが ごろごろとぎょうさんおるけどな。…俺らも強いで」

目と目を合わせる3人に俺は拳を握った。こいつらならやってくれそうな気がする。
いや、絶対に勝つと信じてる。

「…うん、勝つって信じてる!侑も治も角名も銀も、一人一人強いし、強い奴が揃ってる稲荷崎は無敵だろ!」

3年レギュラーが多い中で稲荷崎の布陣は強力とも言えるだろう。応援してるから、と強く頷いた。

食べ終わった食器を返却台に返して食堂を出る。

今から寝て起きたらもう出発だ、とまた頭の中で考えはじめた時、侑が「なまえ、」と呼んできた。

「勝つで」

出された拳に、俺も頷いて拳を作ってこつりと当てた。その一言で伝わってくる。
俺らも勝つから、お前も勝て、と。

「なあ、喝入れるために背中叩いてくれ。思いっきり」

俺が背中を向けると侑は、じっと見たあと、両手を合わして目を閉じた。

まるで、サーブ前に精神統一するかのように空気が変わったのが分かった。
目を開けた侑の怖いくらい真剣な目に気が引き締まる。

「いくで、」
「おし、こいっ」

歯を食いしばって、体幹を保つ。
侑の右手が振られ、バシン、と背中に大きな手のひらが打ち付けられた。

「〜〜っ!!」

背中に走る衝撃。サーブを打ち込む時のような『気』が注入されたように俺は息を止めた。

じんじん、とした痛みを感じながら、息を吐き出して、すっ、と吸う。

「よしっ!!!」

前を向いて拳を握る。
「侑、ありがとう!」

気合いは、入った。こいつらの気をもらった。後は全力で茶川達と走り抜くだけだ。

俺の顔を見て侑も治も角名も不敵に笑った。
「健闘を祈る!じゃ、おやすみ!」

完全にスイッチを入れてもらえた俺はやる気全開で部屋に戻って出発準備をした。


***

インハイ開催地に現地入りしてまず行うのはレースコースの試走。

出場するメンバー全員で走りながら注意ポイントやレース展開のポイントとなりそうなコースを頭に入れる。
事前にコースを把握していても実際に走ってみないと分からないことは多い。

「この坂、キツいな」
「多分ここで振り落とされる奴多いやろな」
「三分いけそう?」
「何とかな。食らいつくわ」
「ここで三分が抜けたら痛いから何としてでも登りきって、後は俺の後ろで休めばいいから」

走りながら2年含めコースの注意ポイントを認識合わせしながら、明日の作戦を練り直す。

「茶川と奈良木で登り揺さぶるとして、俺も出た方がいいよな」
「いや、みょうじは温存しとって。この傾斜なら練習コースの坂よりもキツくないし俺と奈良木で十分アタック合戦に参戦できるやろ。やろ、奈良木」
「ですね。僕も去年のみょうじ先輩みたいに全て捧げて走りますんで!」
「いやぁ、俺は必要とあらば奈良木もアシストするからな。どんな展開になっても、勝ちに行こう!あと、落車だけは避けような!」

落車に巻き込まれた自分が言えることじゃないが、これだけは絶対に裂けたい。
「「「はい!!」」」

試走した後、宿に戻ってついに明日に迫ったインハイのレースを前に3年の3人で部屋でかたまって話す。

2年は風呂に行っていて、3人だけの室内で三分が布団の上に寝っ転がった。

「ついに明日かぁ…。今日試走で走っとった他校の奴ら、強そうなんばっかりやったな…関東と北海道ブロック、強い高校やったよな」
「まあインハイ予選勝ち抜いてきたんだからどこも強いだろ…。去年は秋田部長も柴さんも居たけど…俺らだけだと…ちょっとな…」

俺と三分の会話に茶川が笑った。

「なんや2人とも弱気やなあ。俺らもインハイ予選上がって来たんやから、自信、持とうや」
「茶川はすごいよなあ、本当に。去年より一弾と強くなってるし。三分もだぞ。平坦ついて行くのが精一杯なくらい速いし」

成長し過ぎだってばよ、と言う俺に2人が笑った。

「俺らだけやないて。みょうじもや。去年より強なってるやん、俺ら。嫌になるくらいキツい練習もしたし、その分成長した。明日はそれを惜しみなく、全部出すだけや」
「…最後だもんな」
「…誰よりも速く、一番最初にゴールする。勝つで」
「…よし、三分、茶川立て!肩組むぞっ!」
「おしっ!」
3人で頭を寄せあって肩を組む。
「3年間の全てを出し切るぞっ!」
「「おうっ!!」」

泣いても笑っても明日がやってくる。俺達は早めに寝て明日に備えることにした。

寝る前に携帯を見ると柴さんから〘明日のレース、頑張れよ〙と入っていた。〘全力で、走ります〙と返した後、侑からもトークが来ていて、男子バレー部は無事予選通過したことを知った。

〘明日、頑張ろうな〙と返して俺は目を閉じた。


***

8月初旬の天候は立っているよりも走って風を受けている方がマシに感じるほど気温が高い。
曇りなら良いのに、と思うが空は雲よりも青い空の割合が大きい。今から100km近く走る中で全力で走ることに集中しすぎて暑さにやられる人も出てくるかもしれない。

「落車だけには巻き込まれないようにな、あと水分もしっかり取って踏めるように!全力出すぞ!!」
「「「はい!!」」」
スタート位置に並ぶ。周りは全国から集まってきた選手たちに囲まれて殺気立っている。
去年は秋田部長や柴さんが居てくれたから心強かったものの今年は俺たちが最上級生だ。2年には不安そうにロードバイクのハンドルを握っている後輩もいた。

茶川が言う。
「周りは皆同じ、高校生や。ツールの世界レベルのプロ選手と戦う訳とちゃうねん。同じ練習してきた高校生やわ。今日はその練習の成果を出す日や。俺らやってキッつい練習してきたんや。負けん気で行くで」

茶川の言葉に奈良木が頷く。

俺はヘルメットの後ろについているベルトのダイヤルをカリカリと回して締めた。
「周りをよく見て走れば大丈夫。なるべく俺から離れないように。キツくても垂れるなよ。登りは全力で食いついていけ。離れたら終わりだから、
」
2年に声を掛けると頷いた。

「スタート30秒前!」
審判の合図にペダルにクリートをはめ込む。カチ、カチ、という音が辺りに響いた。

「頑張れー!!」
「何百回と登ってる坂だぞー!地元の力見せつけろー!!」
「関東最強!!頑張れー!!」
ホームの観覧エリアから応援の声が届いてくる。100人以上の自転車の集団がかたまっている中でスタート直前の空気は張り詰めている。

「稲荷崎ー!!関西の力、見せたれや〜!!」
「兵庫の山を、海を、思い出せー!」

「あぁ、俺のおとんやわ…」
三分のお父さんと顧問の先生の応援に俺と茶川はにやりと笑った。

「よし、もがき尽くすで!」
「っしゃ!」

ピストルの合図と共に、俺達はペダルを踏んだ。



***


コースは30km弱のコースを3周回という周回コースで坂あり、下りあり、平坦ありという富んだコースレイアウトだ。

どうしても登りの坂でふるい落とされ集団の人数は減っていく。

レースの序盤は早く集団の人を少なくして落車のリスクを減らしたいと思う人も少なくない。その為、いきなりスピードを全開にしてついていけない奴を落としていく展開にもなりやすい。

案の定、道を知り尽くしている地元高校の選手が速いスピードで先頭を引っ張っている。
思った通りだな、と空気抵抗を避けられる位置をキープしながら集団の中で走る。茶川、三分も同じく隣で走っている。

手を伸ばせば当たる距離で動く自転車の集団は誰か一人でも乱れるとドミノ倒しのように崩壊してしまう。

「茶川っ、登りが来る前に先頭にっ」
「おう、」
集団の中盤以降に位置していると、登り始めた際に前にいる人が遅ければその分後ろがつかえて遅れてしまう。それは即ちロスを意味し、先頭からどんどん離れていってしまう要因になる。
登る前には先頭で出ていることが重要だ。

多少脚を使ってでも位置を動かしたい。俺は最初の登りが来る前に踏み込む力を強めてじわりと先頭に近づいた。後ろを見ると稲荷崎メンバーも着いてきていて安心する。

登り坂に到達し、ダンシングをする選手が増えた。この時点で遅い奴はふるいにかけたいという強い選手の思惑に揺さぶられ心肺機能も脚もキツくなっている人も多い。

そんな思惑に引っかかってたまるか、稲荷崎全員を集団に残してやる、と俺は前に出て登る。
茶川と三分もついてきている。

先頭に位置する選手が俺をちらりと見た。去年インハイに出ていた選手だから顔は見た事がある。

キツい坂を登りきった頃には集団の人数は半分になっていた。今度は急な下り坂に入る。

「ブレーキかけんなよ!!」
「下手な奴は下がっとけ!!!」
「コーナー注意ー!!!」

それぞれの怒号と掛け声がかかる。下り坂で落車すると命の危険に関わる。だからこそ、皆で声を掛け合って注意喚起をしていくのだ。

下り坂のテクニックは三分が上手い。三分に続くように稲荷崎メンバーは固まって下る。そこから続く平坦コースは三分の得意ポイントだ。俺と三分と平坦が得意な2年を中心に前に出る。

「今年も稲荷崎か、」
横から聞こえた言葉に目を向けると、関東の高校だった。背中にある学校名を見て あ、と思い出した。去年のインハイレース後に柴さんのライバルだと話しかけてきたひとつ上の真留古さんの高校だ、と。
集団の中でも疲れた様子がないそいつも相当実力があると見た。紫ベースの藤色のジャージが印象的だ。

「…お手柔らかにどうぞ」
「へえ、お行儀良いね」
「気ぃつけや。みょうじはこう見えて熱い男やねん」
後ろで茶川が言う。

「そんな。俺は本当に弱いから、すぐ落ちるよ」

へらりと笑って周りに聞こえるように言う。警戒しないでくれ、そんな俺は要注意人物じゃないから、と。

「…読めない奴らだなぁ。ま、この先は強い奴だけが残るだろうし、いいけど」

そう言ってどんどん前に行く背中を見送った。そうだな、強い奴だけが本当の意味で勝敗に、レースに参加できるんだ。

俺達はその為に三年間かけて練習してきたんだ。競り合うために。レース中盤で落ちては、競り合えない。柴さんも秋田部長もいない今、俺たちはどこまで食らいつけるか分からない挑戦者だ。

力は足りないかもしれない、でも勝利へ挑戦する権利は誰にでもある。稲荷崎がこのレースで最後の最後まで勝利を掴みにいくために、俺は自分の脚と心臓を捧げるまでだ。

「茶川、三分っ、俺、最後まで持っていくから…っ」

2人の目を見た。伝わっただろうか。走りながら返ってくる眼差しに俺は頷いた。

今から平坦ど真ん中でスプリントポイントがやって来る。
さきほどの登りで脚を使った後のスプリントはスプリンターに取っては痛いだろう。

「三分、いけるか?」
「おう、むしろ1周目しか無理やな。ハイペースの登りが結構、きたっ、」
それは三分の脚で最後までこのペースで登り続けるのは苦しい、最後まで残れるかどうか、という意味だと悟る。
それならば、スプリンターとして思いきりどストレートなコースで勝負した方が良い。

「よし、ぶちかましてこい!ここがお前の勝負所や。後は俺とみょうじに任せろ!」

スプリンターを使って、スプリント賞を狙う高校も多く、体格の良い重量がある選手達が前に位置し始めた。皆、狙うはスプリント賞だ。

三分をできるだけ前に引いていく。スプリンター達の集団が凄まじい速さで走り始めた。

沿道の応援も加熱する。
「頑張れ!」「もがけよ!」「させー! 」

スプリンター集団の中で負けじと走る三分の背中を見つめる。

頑張れ三分!もがけ!もがき倒した練習を思い出せ!

ドロップハンドルのブラケット部分を握り、ペダルを回しながら後ろから三分を見守る。

「いいぞー!!」「走り抜けー!」
下ハンドルを握り大きな体を左右に揺らして踏み抜くスプリンター達。
もがき抜く後ろ姿を目に、集団はそのスプリントを制したのがどこなのか結果を待った。

「どこが獲った?!」
「誰?!」

『スプリント賞!兵庫県!』
そこまで聞こえて、俺と茶川は目を見開いた。

『ゼッケン番号69番!!稲荷崎高校!!』
「っ!!!!」
「っしゃああ!」

茶川と片手で背中を叩き合う。かなり大きな励みになった。力を出し切ったスプリンター達を集団が飲み込む。
「三分っ!!」
「っはぁっ、はぁっ、」
まだ息が整っていない三分は苦しそうに笑った。
「やったな!!」
「すまん…、脚残ってへん…っ、ちぎれるかも」
「ええて!俺とみょうじに後は任せとけ!」
「奈良木!山岳は任せたで!思う存分、登ってこい!」
「はい!」

三分に感化された俺達はかなり後押しされた。
脚を使い果たした三分を2年達でフォローしながら依然速いスピードで走る集団内に位置する。

次は2週目の山岳だ。

ホームに帰ってきた集団の選手達に声援が大きくなる。カンカンカン、とベルを鳴らす人や、スティックバルーンで音を出して応援する人もいる。

そんな賑やかなホームも選手達は一瞬で駆け抜けていく。

2周目の登りに入る頃には集団は全体の3分の1にまで減っていた。奈良木が先頭に動いていく。

登りに差し掛かり、奈良木がアタックして出ていった。
「行け!奈良木!」

後ろから声を掛けて俺と茶川も先頭から離れないようについて行く。2回目の登りもハイペースを維持する集団から垂れていく選手も続出してくる。稲荷崎の2年も1人ちぎれてしまった。
稲荷崎は三分と三分をフォローする2年、俺と茶川、奈良木の5人になった。

山岳賞を目指して登っていくクライマー達の背中を見送る。少しして、山岳賞の詳細が告げられる。

『山岳賞!宮城県!〇〇学園!』

前を走る誘導車からのアナウンスは奈良木の勝利を告げるものでは無かったが、アタックを掛けて良い仕事をしてくれた。坂を下ったあと、集団に吸収された奈良木に声をかける。

「お疲れ、よくやった」
アタックをかけまくればそれだけ周りの脚を使うこともできる。カードの枚数があればある程、有利なのだ。

「すみませんっ、」
「まだいけるか?」
「はい…!」

頼もしい、と笑う。2年が一人垂れたことを告げる。残る平坦と3周目に入る前が勝負となってくる。
集団はもっと速くなるだろう。今でさえ皆キツイが、キツイからこそついて行かなければ勝敗には絡めない。

「奈良木、お前が3周目でちぎれたら、三分を最後までフォローしてくれ。俺は茶川を連れていくから」

そう奈良木に言うと、奈良木は頷いた。2周目の平坦コースで集団の速度が一段と速くなる。

「うっわ、速っ!」
「応援、前に出すぎないよう気をつけてー!」
「頑張れ〜!!」

観客の声も一瞬で過ぎていく。
ホームストレートが近づいてきて最終周の3週目に入る。ホームストレートに入る前の坂道をダンシングで登る。そろそろ、誰かが動き出すだろう。
三分の前に位置してしていると、ホームストレート前の坂道でいきなりアタックがかかった。

「うおおお!ここでか!!?」
「不意をついたな!!」
「まだ20km以上あるのに!」
「どこの高校?!」
「あれだ!東京の!!」

不意打ちでアタックをかけたのは俺に声をかけてきた藤色ジャージの選手だった。

(くっそ!ここでかよ!!)

急いで、俺も踏み込む。後ろに茶川がついてきていることを確認して一気にスピードを上げる。不意打ちのアタックに反応できた選手は少なかった。

10人程で集団から飛び出して、回し始める。

「逃げ集団になるかな!」
「うわあ、キツそう!」
「ふぁいとぉー!」

ホームストレートを通過して、10人で3周目の坂に入るが、全開のスピードで坂を登るとなるとさらに脱落する人が出そうだと考えた。

この坂で落ちることは絶対に避けたい。死ぬ気で踏み回すぞ、と既にキツい心臓をぐっと握る。
坂に入る前にボトルから水を口に含んだ。

ハイスピードの中、坂直前で一人急激にスピードが落ちた選手がいた。

「パンク!!パンク!」
サポートカーに大きな声を上げてスペアのホイールを求める選手を尻目に俺達は坂に入る。

ロードレースには機材トラブルも付き物だ。自分ではどうすることも出来ない、周りの落車や機材トラブル、運だと言う声もあるが、それにみまわれたる本人は悔しさで堪らないと思う。

その気持ちは痛いほどによく分かる。皆、同じ境遇となる可能性も十分にある。
だけど、俺たちは止まってはいられない。一瞬でも気を抜くとちぎれてしまいそうなスピードの中で腰を上げて踏み込む。心臓が止まりそうだ。呼吸が苦しい。脚が悲鳴を上げている。

練習でもこんなにキツかっただろうか。流れ出る滝汗にハンドルから手を滑らせないようにしっかりと握る。

坂を登る頃には8人になっていた。
まだ15kmもあるのに、このスピードで行くのか…。

三分も苦しそうだが上りは俺よりも力があるため、まだ走れると見た。8人でローテを回しながら一人一人先頭を引いて風避けとなりながら走っていく。後ろから追いかけてくる選手はいない。先頭は8人だ。

俺たちが飛び出した奈良木達がいる後方集団が15km以内にこのペースに追いつけるか。このまま8人がこの速さで進めば追いつけないだろう。

そして、先頭を走る実力ある選手たちはこの速さのまま行くつもりだ。
と、なれば俺の仕事は茶川の脚を使わせず、ひたすら茶川の前でフォローするだけだ。
そして、アタックをかけて他の奴を揺さぶる。それが俺に出来ること。

とにかく攻撃して、周りの脚を使いまくる。下りきった先の平坦前のアップダウンコースで俺は周りをちらりと見た。
皆、苦しそうに走っている。ここでアタックを掛ければ、もっと苦しいはずだ。
少し傾斜になっている登り坂で腰を上げて、ペダルを一気に踏み込んだ。

「アタック!!」
「稲荷崎の70番!」
「頑張れーー!!」

沿道の応援も耳に入ってはいなかった。残り十数kmで死ぬほどもがく。それだけしか頭にない。

俺のアタックに反応した何人かがついてきた。その中にはあの藤色ジャージの選手もいた。そうだ、俺に反応して脚を使え。

アタックを掛けるも抜け出す気はない俺は様子見をした後、すぐに足を緩めて集団に戻る。
自分でアタックをかけるのと、他人にかけられて上げるのとでは苦しさが違う。

周りは警戒して俺を見ているようで俺が仕掛けた後、そのまま逃げ切りをするかどうか見極めているようだ。逆に仕掛けてくる奴がいれば俺は食らいついてでも止めないといけない。

極限の中での駆け引きに神経を尖らせる。
なかなか整わない呼吸と灼熱の暑さに口を開けて呼吸をする。

「はぁっ、はぁっ…」
残り7km平坦コースに差し掛かったところで先程俺のアタックに反応しなかった選手が飛び出した。すかさず俺も飛び出して後ろにつく。

後ろにつきはするが、前は引かない。この8人の中から逃げたいと思って飛び出す選手には協力しないのだ。後ろを向き目を細める選手をちらりと見返す。

執拗いな、というような顔で見てきた。そうだろう?俺はしぶといぞ、と思わず笑ってしまった。俺が口角を上げたのを見てそいつは目を見開く。

狐みたいだろう?翻弄するような駆け引きは、俺達、得意なもので。

俺が協力しないと分かった途端、そいつは諦めてまた集団に戻る。あと6km、8人の中で勝ちを得るは一人。
死ぬ気で回して、俺は茶川をホームに連れていくのだ。
走る選手たちの顔を盗み見る。皆、暑さと苦しさに顔を歪めている。

「頑張れー!あとちょっと!」
「回せー!」

もういっちょ…!
また登り坂で腰を上げた。
8人の真ん中から飛び出す俺に「またかよ!」という声が聞こえてきた。

後ろを見ると皆ちゃんと反応している。
ガシガシと踏んで全開で駆け上がる。ここで2人落ちていくのが見えた。
茶川はついてきている。

よし、と俺が腰を下ろした瞬間、今度は藤色ジャージの選手が踏み込んでアタックを掛けた。

「っ、 !!!」

まじかよ、くそっ、無理をして上げたばかりなのに、整わない呼吸のまま、もう一度腰を上げてついていく。脚の筋肉が酷使されて悲鳴を上げている。藤色ジャージの選手は後ろにつく俺を見て、鋭い視線を投げてきた。
お互いに呼吸を乱しながら登る。

「執拗いなっ、どんだけ仕掛けるんだよっ」
「……っ、、体力には自信あるもので……っ」

残り4km弱、時間にして僅か5分。
5分、もう完走出来なくても良いから、回し切る…!

「茶川っ!」
俺の声にぴたりと後ろについた茶川を見る。最後の最後までストレートまで連れていくから、後はもがいてくれ…!

残った6人で更に速度が上がる。時速40km/h以上の速さで道路の白線を辿って踏み込む。

沿道の応援、振り回される鐘 。
「稲荷崎ーーー!頑張れー!」
どこの誰かも分からないが応援は届いている。

回せ、踏め、脚がちぎれるまで、心臓が止まるまで、踏み切れ。
ゴールが待っている、俺の後ろを走るエースを、勝利に導くために。

練習よりも相当キツくて、苦しくて、限界に近かった。強く握りすぎたハンドル、食い込む爪。
目の中に入る汗が滲みる。

ホームストレートが見えてきた。
最後まで、最後の最後まで発射台として俺は引く。

俺のゴールは、ゴール前だ。
ホームストレート手前の登り坂をスプリントするのかと言うほど踏み込む。

「見えてきた!!!」
「6人!!」
「頑張れー!」

声援が耳に入る。ホームストレートに登りきりゴールラインが先に見えた。残り数百m。

送り届ける、あのゴールラインに。腰を上げてもがき始める周りの選手達に俺も最後の力を振り絞ってスプリントをする。脚がつりそうだ。筋肉が痙攣している。筋繊維はとっくの昔に分裂している。下ハンドルを持ち押し込むようにロードバイクを左右に揺らして渾身の力でペダルを踏み込む。

あとは、茶川に託すだけ。

もがき切って、上手く息が吸えず脚が回らなくなりそうになった俺はすぐに横に退けた。俺の後ろから伸びるようにゴールに向かって下ハンドルを掴み、踏み込む茶川。

その背中が眩しくて目を細めた。
頼む、茶川…。

俺の呼吸は止まる寸前で、喉には熱せられた空気しか入ってこない。ぐらりと左側に倒れる体。視界が横になる。ヒューヒューと鳴る喉。

ゴールラインを切り、頭を下げたまま背中を上下させる茶川の後ろ姿に俺は笑った。

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