「あ、羽風くんいらっしゃい。」

病室のベッドで体を起こしたなまえは俺の姿を見るなりへらりと笑って手を挙げた。

「…やっほ〜」

俺も手を挙げてにこりと笑ってみせた。

羽風くん。

なまえにそう呼ばれたことなんて1度もなかった。目を覚ましたなまえの記憶は、医者によると2年分の記憶を失っているということだった。なまえには1年生の時の記憶しかない。それも入学当初の頃しか。

その時は、俺もなまえの存在なんて知らなかった。

なまえのことを知ったのは2年の時、話すようになって仲良くなったのが3年、付き合うようになったのはまだその後で、そんな過去はなまえの頭の中にはない。

「なんか…毎日来てくれて申し訳ないね。ありがとう。」

「…だってこんな病室で1人なんて暇じゃない?話し相手くらいいないとさ。」

「羽風くんて優しいんだね。…思い出せないけど、俺にこんな優しい友達が出来てたんだ…って思うと嬉しいんだ」

…優しくなんかない。
男相手には容赦ないし、興味もないし、誰がどうなろうがいいって俺は今までそう思ってた。

なまえと初めて話した時もそう思っていた。

俺の冷めた態度に何も言わずずっと話しかけてきたなまえだから、俺はなまえという存在を認識するようになった。なまえが思うみたいに優しい人間なんかじゃない。

それなのに、目の前で笑うなまえは俺を毎日病室に通ってくれる優しい友達だと思っている。

友達じゃなくて恋人同士だったんだよ、俺たち付き合ってたんだよ。

その2人だけの秘密はなまえには言っていない。

周りが知らない本当のことを言って、なまえに拒絶されたらどうしよう、とか周りも知らないのにそんなことを言う俺は正気なのか、とか思われたら…と考えると言い出せなかった。

だって俺のことを知らなかったのに、いきなり男と付き合っていたなんて言われてもなまえも混乱するだろう。

だから言ってない。2人だけの秘密は今は俺だけの秘密になってしまった。

なまえが起きてから手を握ることもなくなった。
誰もいないところで触れるだけのキスをせがんでくることもなくなった。

誰一人、俺以外になまえが恋人だと知る人はいない。

「…羽風くん?」

「…あ、ごめんごめん。ぼーっとしてた。」

「学校はどう?楽しい?3年生ってどんな感じ?」

「ん〜…俺結構サボってたりするからね〜。…楽しいか…と言えば前までは楽しくなかったけどさ」

なまえと出会ってから俺は割と変わったほうなんだよね。

昔は男なんて突き放してたのにちゃんと話すようになったし、なまえがいるから皆がいるから楽しいって思えるようになったんだ。

俺はなまえにこの2年間のことをたくさん話した。夢ノ咲がどう変わって、転校生が来て、皆がどうなったのか、俺のことも少しずつ加えながら少しでも思い出せないかと願って話した。

「…すごく変わったんだね。学校。」

話し終えた後、なまえは少し寂しそうだった。その中に自分がいながら全く思い出せないなんて本人が1番辛いに決まってる。

「なまえにはたくさん友達がいるよ。1年生2年生の後輩とも、皆と仲良い。俺とは違ってね。」

「…?羽風くん、こんなに優しいから友達いっぱいいるでしょ?」

「あー…俺は…」

軽い人間だと思われていて、男友達が少なかったのをなまえは知らない。今のなまえは優しい友達というお面をかぶった俺しか知らない。

軽くてチャラい人間だと言われているなんて思わないだろう。それを知ったらなまえがどう思うか、なんて簡単に想像がついた。


「まぁそれなりにね〜…」

へらりと笑って濁した。

なまえの前では優しい友達のお面を外したくない。軽蔑されたくない。自分のエゴが嘘を吐いた。

「明日は他の皆も連れてくるね。なずなくんとか会いたがってたし。」

「なずなくん…?」

「うん、なまえと席が近い子。」

「そっか。上手く話せるかな…」

「大丈夫だよ。皆事情はわかってるし、ちょっとでも思い出せるきっかけになるかもしれないじゃん?」

「うん、羽風くん本当にありがとう。」

「…お礼なんていらないよ。」

俺が携帯ばかり見てなかったらなまえを助けられたかもしれないのに。

申し訳なくて、俺を知るなまえがいないことが寂しくて、ふと手が伸びていつものように、なまえの右手をそっと握った。

なまえが嬉しそうにするこの囁かな行為はたまに俺からもしていた。そうするとなまえが照れてその反応を見るのが楽しかったから。



「…羽風くん?」

「……あっ!…ごめ!」

名前を呼ばれてハッと気がついた。慌てて握っていた手を離した。

そうだ、今のなまえは俺に恋愛感情なんてもっていない。手を握ると照れることもないし、嬉しがることもない。

ただただ不思議そうに俺を見上げていた。

「男同士で気持ちわるいよね〜あはは、ほんとごめん。じゃあ俺もう帰るね。」

「あ、う、うん…。」

「また明日来るね〜」



なまえの目から逃げるように病室を出て廊下を歩きながらなまえに触れた手を見つめた。

薫、と呼ぶなまえはいない。

手を握ってほしい、というなまえはいない。

キスをしてほしい、というなまえはいない。


俺のことを好きだと照れるように言っていたことも全部全部、俺だけしか知らない記憶になってしまった。


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