あの日あったことは幻だったんじゃないかと思うけど、念のために俺は通勤に使う駅を変えた。
一つ前の駅を使うことにした。
また朔間さんに会う可能性があるわけではないが、少しでも確率を潰すために越したことはない。
ちょうど運動にもなるし、と始めていたが今日ばかりは疲れていて歩く気にもなれずそのまま最寄りの駅に足が向いていた。
まあ、朔間さんと会ったのだって偶然だったんだ。今日に限って出会うなんてことはないだろう。
あの時のようにさほど遅い時間ではなかったため、電車を利用する人混みに紛れて駅に向かう。
駅についたところで、改札付近に周りとは違う空気を纏った人影を見つけて目を凝らした。
「あ…」
朔間さんだ。顔が見えなくても分かる。あの背丈に、着ている服、壁にもたれて行き交う人々を見つめている。
朔間さんだと気づいた瞬間、俺は顔を背けるように明後日の方向を向いて改札に近づいた。
早く、早く…!
早くホームに入りたい。
焦りから定期が鞄の中から取り出せずに、少しもたついてしまい後ろから舌打ちする音が聞こえた。
「す、すみません…。」
やっと定期を取り出すことができて通ろうとしていると、腕を急に力強く引っ張られた。
「わっ」
「…っ見つけた。」
見ると、さっきまで壁にもたれていた朔間さんが来ていて俺の腕を取っていた。
「行くぞい。」
有無を言わせず、そのまま俺の腕を掴んだままずんずんと歩いていく。
そのままタクシーに無理やり押し込まれ、朔間さんは運転手に口早に指示した。
すぐに発車した車の中で何が起こっているのか分からなかった。
「、あの!何してるんですか?!」
「何って、久しぶりに出会った旧友と話がしたいと思うのは普通じゃろう?」
「こんな、急な」
「連絡手段もない我輩にはこれしか手がなくてのう。」
そう言って、車の外を見つめながらも俺の腕を離すまいとしっかり握っている手に目が行ってしまう。
「…。」
朔間さんに触れられたことなんてあっただろうか。いや、1回だけ頭を撫でられたことがあった。それも全部、過去のこと。思い出して虚しくなる。
目的地に着いたのか、タクシーから降ろされそのまま腕を引かれて高級そうなマンションの中に入っていく。
駅からずっと握られている腕はエレベーターの中に入っても、離されることはなかった。
「…腕、離して下さい。」
「やだ。逃げるじゃろ。」
「…逃げませんよ。」
「この間と同じ過ちは犯したくないからのう。」
この間というのは電車でのことだろう。もうここまで無理やり連れてこられたら俺も抵抗する気は消えていた。
表示されている回数が最上階になったところでエレベーターは止まった。
開くドアにこのまま先に行くべきか、少し躊躇するとぐいっと引っ張られ外に出た。
少し歩き、ドアの鍵を開けた朔間さんはこちらをちらりと見て、無言で俺を招き入れた。
玄関でどうしていいか分からず、靴を脱ぐ朔間さんを眺めた。
「ほら、早く。」
促されて俺も靴を脱いだ。困惑している頭を落ち着かせるように、ゆっくりと。
「…何が飲みたいかのう?」
「え…、あ、何でも…。」
「寒いから温かいものにしようかの。適当に座ってよいぞ。」
「…お邪魔します。」
通された室内は広くて、朔間さんが好きそうな家具や色調だった。綺麗に掃除されていて、俺は座るのも躊躇うくらいだった。
一向に落ち着かない思考のまま、ソファに腰を下ろして朔間さんが来るのを待った。
しばらくすると温かい紅茶を持って朔間さんが来た。受け取って、1口、口に含むと茶葉の香りに包まれたようでほっとする美味しさだった。
無言で紅茶を飲む俺は何を話せばいいのか、この場でどうすればいいのか困っていた。そんな俺を見て朔間さんは口を開いた。
「…我輩に会うのは嫌じゃったか?」
「そんな…、嫌なわけないですよ。」
「じゃあ、なんで連絡が取れなかったんじゃ?」
「それは…」
「理由が知りたいのう。」
「…携帯が壊れたんです…。」
「くくっ、嘘が下手なところは変わってないのう。」
在り来りな理由だったせいで嘘だとバレてしまった。本当のことなんて言えるわけがない。男が好きだと言われて引かれるのが落ちだ。
だけど、ここにいること自体で気が動転してしまっていて、今の俺では何を言っても墓穴を掘ってしまいそうな気がする。
「…朔間さんと離れたかったから、って言ったら怒りますか…?」
この際、嫌われるくらい嫌な奴になれば俺は今度こそすっきり過去のことを忘れることができるかもしれない。そんな考えから口をついて出た言葉に朔間さんは俺を見て目をそらさない。
「ふうん?なぜじゃ?」
「…何でも。」
「答えになってないのう。」
「…。」
「我輩のことが好きだから…とか?」
「…は、何言ってるんですか?」
押し黙っていると、朔間さんは突拍子もないことを言った。図星すぎるその言葉に少し声が裏返ったが、そんなことを気にしてられなかった。
「なまえっていつも分かりやすいから。ずっと我輩のこと見てたし…。」
そう言われて顔がみるみる赤くなるのが自分でも分かった。全身の血液が活動的になって心臓がうるさい。
「…っ、ちょっと俺もう帰ります」
急いで近くに置いていた荷物を取って立ち上がる。朔間さんは何がしたいんだ。俺をからかって面白がっているだけなんだろうか。
持っていきようのない苛立ちは朔間さんではなくて、自分に対してであり、未だに朔間さんのことを忘れられていないということに気づいてしまっていた。
遠く離れていた存在がこんなにも近くにいるだけであの頃のように想いは変わらずに引き出されてしまった。
次に何を言われるか怖くて一刻も早くこの部屋から出たい。傷つくのはもうこりごりだ。
出口へ向けて足を進めようとすると、腕を取られて動きを止められた。
「離してください。」
「離したら帰るじゃろ?」
「っ、からかってるんですか?!もう…忘れたいんです…過去のことは…」
「あの頃はあの距離が心地よくて、壊してしまうのが怖かった。卒業しても同じ関係で続いていけると思っておったが…。いつの間にかなまえがいなくなってた。」
「もう忘れましょうよ…!そんな過去のこと!」
「…忘れられないから、連れてきたんじゃよ。」
「何で忘れられないんですか…?男が好きな俺のことが面白いですか?朔間さんが好きな俺はからかいがいがありますかっ?、っ ちょ、」
自分が何を言っているか分からないまま、思うままに喋る口に朔間さんが近づいて少し強く唇が押し付けられた。
突然のことに固まった俺に朔間さんは、俺を腕の中に入れてぎゅっと力を入れた。
「ごめん、遅くなって。忘れられなかった。なまえのこと。今度こそ離したくない。…好きじゃよ。」
耳元で聞こえたのは本当なのか。
「な、何言って…」
「心の中にあった蟠りがあの日駅でなまえに会って、確信してのう。」
「ああ、我輩はなまえが忘れられないんじゃ、って。」
「きゅ、急に言われても…!」
「わかっておる。けどこれだけは言わせてほしい。なまえが好き。」
「…っ!」
朔間さんの口から出るその言葉の意味を理解して頬の熱が高くなる。
「本気ですか…?」
「もちろん。もう逃さぬよ。」
自分の都合のいい幻想じゃないかと疑い、手を強く握りしめると痛みが走った。現実で間違いなかったみたいだ。
「…信じられない…。」
「困惑しておるじゃろう。無理もない。いきなりこんなこと言われても理解し難いじゃろう。じゃが、我輩も伝えたくてのう。」
「なまえが呆れるくらい、これからずっと愛を囁き続けるから…どうか我輩を受け入れておくれ。」
耳元で囁かれたがその言葉の最後には懇願の意志さえ含まれているようだった。
呆れることなんてあるはずがないのに。
嬉しすぎて言葉にならない俺は返事の代わりに朔間さんの背中へそっと腕を回して、顔を埋めた。
感じる温もりと、吸い込んだ匂いに今までずっと心の底で願っていたものが叶えられた喜びが溢れて涙が出そうになった。
それに反応して朔間さんが髪を梳かすように撫でてくれた。
ずっと立ち止まって過去を振り返ってばかりいた俺は、1歩、道を歩き出した。
1人じゃなく、零先輩と、2人で。
今度こそ、逃げずに、言いたいことを伝えよう。蓋を閉じるのではなく、素直に俺の気持ちを伝えよう。
大好きなこの人に。
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