「セッちゃん、今日は随分とご機嫌だね〜」
近々あるライブに備えて、新曲のダンスや振り付けの確認をしている瀬名の顔を見て凛月が言った。
「何がぁ?」
「さっきから顔がゆるみまくってるじゃん」
「はぁぁ?俺は真面目にやってるんですけどぉ。むしろ俺を見習ってほしいね。特に王さまとくまくんには!」
「ニヤケまくりのセッちゃんに言われても全然説得力ない〜」
ダンススタジオで呆れたように凛月が肩をすくめていると、近くに座っていた司も瀬名を見た。
「確かに、今日の瀬名先輩はちょっと口元が…」
「なっ!!かさくんまで!」
「ふふん、セッちゃん何か良いことあったんでしょー」
瀬名には「良いこと」なんてそんな簡単な言葉じゃ済ませられなかった。
今朝、なまえに泉と言われた時は幻聴かと思ったほど驚いた。
まさか名前で呼んでくれるとは思わず、家を出てからずっと浮き足立っていたのは事実だ。
不意打ちすぎて本当にびっくりした。
今日は早く帰りたくて仕方がない。
早く帰ってなまえと一緒にご飯食べて、お風呂から上がったなまえの柔らかい髪を乾かしてあげたい。
こんなにもなまえに入れ込んでいるなんて、誰が思っただろうか。
自分でさえ、びっくりしているのに。
でもなまえと一緒にいればいるほど、なまえの不器用さと優しさが見えて守ってあげたくなってしまう。
同じ男なのになまえはそんなものは関係ないと感じるくらいに近くにいたいと思ってしまう。
からかってムッとするなまえも、パンケーキを作ってあげると頬をゆるませるなまえも、変に気を使って遠慮するなまえも全部全部いじらしくて、可愛いと思うのは重症なんだろうか。
「ほーら、またゆるんでる。ス〜ちゃん、あんなデレデレ人間になっちゃだめだよ。」
「うーん、瀬名先輩がデレデレになるということはやっぱり以前から話題の瀬名先輩が拾ったというCatでしょうか?」
「ふふ、多分ねぇ♪」
「私もそんなに可愛いCatなら1度見てみたいと思っているのです…」
「実はもう見てたりするんだけどねぇ…?」
「えっ?私は1度も見た記憶は…」
「ね〜?セッちゃん?♪」
「…っっ!!これ以上言ったら今すぐここにある布団とこたつ処分するよぉ!?」
「こわぁっ!ま、俺は2回会ってるけどねぇ」
「2回…??」
「あ、これは内緒だった。何でもない」
「どういうことか説明してよねぇ?」
凛月を強く追求しても知らない、何でもない、と全く吐く様子がなく、いくら言っても無理だと思った瀬名は諦めて帰ってなまえに聞くことにした。
ダンスレッスンの後はCDジャケットの写真撮影があり、終わったのは日が暮れて暗くなってからだった。
思いのほか、遅くなってしまった。
なまえを待たせてしまっているだろう。
以前、瀬名の帰りを待って、箸をつけずにご飯が並べられた机の前でずっと座って待っていたことがあった。
その時はびっくりして、とにかく帰りが遅くなる時は連絡するから待たずに食べていいんだと言うと、なまえは「わかった。」と一言だけ言った。その後、我慢していたのかパクパクと無言で食べることのみに集中していた。
そんな不器用なところがまたなまえを世話したくなるところだった。
とりあえずなまえに連絡しようと思い【今から帰るねぇ】とメールを送った。
帰りながらふと不思議に思った。
いつもならすぐに【わかった】と短い返事が帰ってくるのに。10分してもこない。
何か手を離せないことでもしてるのかもしれない。
深く気にせず、帰路についた。
家に着くまで1時間とかからなかったけれど、その間もなまえから返信はなかった。
寝てるのか、ただ気づいてないだけなのか…足早にマンションに入り込み、なまえの待つ部屋へと急いだ。
鞄から鍵を取り出して玄関の鍵を開ける。
ぺたぺたと歩いてきながら、俺を出迎えるなまえを想像して。
「ただいまぁ。」
玄関で靴を脱ぎながら、リビングから出てくるであろうなまえを気にしても、無音だ。
「なまえ?」
スリッパに履き替えて、リビングへ行く。
普通ならリビングから灯りが見えるはずなのに、今はそれがなく真っ暗だった。
リビングに入り照明をつけた。
なまえがいない。
部屋にいるのかもしれない。少し焦る気持ちを抑えながらなまえの部屋に向かい、ノックする。
何も返ってこないため、ドアを開けた。ベッドになまえが眠っているのを期待して。
「…なまえ?」
部屋に入り、見渡してもなまえはいなかった。ベッドは綺麗に整えられていて、まるでなまえがここへ来る前、なまえの部屋になる前の客室のようだった。
こんなことが過去に2回あった。家に帰ってもなまえがいないこと。
嫌な予感がして、なまえの部屋を出て、浴室、トイレ、ベランダ、キッチン、すべて探したけどどこにもなまえはいなかった。
リビングに戻って、焦る思いでスマホを取り出した。
なまえに電話してどこにいるのか確認しよう。
コールするスマホに耳を傾けていると、すぐ近くから電話の着信音が聞こえた。
こんなタイミング良く鳴るなんて…と思いながらその音の元凶を辿ってみると、机の上にはなまえのスマホがあって、俺の片手からコールされる電話に応えて震えていた。
スマホの横に置いてあるメモ用紙。
手に取る前から文字が見えていた。
電話を持つ力が急になくなって机の上に落とす。
「…は?」
手書きで書かれたメモ用紙の文字。
瀬名に拾ってもらえて幸せでした。
今までありがとう。 なまえ
「…なにこれ…」
目の前が暗くなるとはこういうことを言うのかと初めて味わった感覚だった。
これが何を意味するのかわからないわけじゃない。でも今目の前にあるこの言葉の意味を信じたくなかった。認めたくなかった。
当たり前にあったものが急になくなった喪失感よりも、動揺の方が遥かに大きい。
ハッとしてなまえの部屋に戻った。
瀬名があげたパジャマや普段着やバッグは残っていた。
なまえは本当に最低限のものしか持って出ていないのだとわかった。
片手に持っているなまえのスマホを見た。
自分から送ったメッセージが未読のまま、残されていた。
そのスマホにはなまえがつけていた瀬名とお揃いのストラップはない。
「どこに…」
連絡手段も、どこへ行ったのかも検討がつかず、手がかりがない。
なまえが、いない。
この部屋に帰ってくることはないという現実が信じられず、ただただ呆然とした。
← →
back