凛月から逃げて、夜の街をさまよった俺は歩く力も尽きた。
人通りの少ない道で道の片隅のほうに追いやられたベンチに体育座りで座り込んで蹲っていると気づけば朝になっていた。

うとうととしながら一夜をベンチで明けたのは初めてだった。

明るくなっても空はどんよりとしていて、俺の心もどんよりとしていた。

空腹で動けないし、このまま死ぬんだろうかといつの日か感じたあの絶望感を思い出した。

「…おなか…すいた…」

もう胃の中には何も無い。
額を膝に押し付けて空腹感を紛らわせていると、目の前からがさりと音がして顔をあげた。

「大丈夫かい?腹が減ってるなら、これ食べるかい?」

しわしわのおばあちゃんがいた。
小さくてベンチに体育座りしている俺とほぼ高さだ。

おばあちゃんが持っているのはビニール袋に入ったお弁当で美味しそうな肉とご飯の匂いがした。

お腹がギュルギュルとなって涎が分泌される。

「あそこの店でねぇ、お弁当やってるのよぉ。朝早くから1歩も動かないでいるから、お腹減ってるんじゃないかと思ってねぇ」

おばあちゃんの小さい手にぶら下がったお弁当がまたがさりと音がして俺に突きつけられた。

「…何円、ですか…」

小銭しかないから、足りないかもしれない。
財布の中身を確認した。422円。

おばあちゃんは、きょとんとして、それから歯を見せて笑った。

「なぁに言ってんのさ。こりゃあげるよ!美味しかったら常連になっておくれ!ほら!」

手にとったお弁当は温かくて、詰めたばかりだと分かった。
このおばあちゃんの優しさが心に染みて、じわりと目に薄い膜ができた。

「…ありがとうございます…。」

おばあちゃんはニコニコと笑ってお店に戻って行った。

その場でお弁当を開けて、ホクホクのご飯を食べた。おかずも美味しくてすぐに飲み込んだ。こんなに美味しいお弁当、食べたことがなかった。

肉じゃがも、煮物も、美味しくてご飯もすぐになくなった。お腹一杯になって、おばあちゃんのお店に向かった。

古いお店で、おばあちゃんが1人だけでぽつんと座っていた。

お弁当だけ売っているみたいで450円と書かれていた。

おばあちゃんの座っているレジに422円を置いた。

「…あの…ありがとうございました。すごく美味しかったです…。いま、これだけしかないです…。また絶対払いにきます…」

おばあちゃんはびっくりした顔をした。

「律儀な人だねぇ…!美味しかったかい?また困ったらおいで。」

「…っ、ありがとうございました、」

ぺこりと頭をさげて店を出た。
これで一文無しになったけど、悔いはなかった。

俺はもう行くところも帰るところもないし、あのお金はあってもなくても変わらない。

それなら、恵んでくれたおばあちゃんに全部渡すのが正しいと思った。

お腹一杯になった。
これじゃあまた弱るまで時間がかかるな、なんて思いながら歩いた。

どんよりした天気が次第に泣き始めて、頭の上に顔に冷たい水がポツポツと落ちてきた。

雨かあ…。

一度びしょ濡れになって辛い目を見たから濡れるのは嫌だった。

目に付いた公園にある遊具に近づいた。

見覚えのある公園。瀬名に拾われた公園だった。

ドーム状の小さな遊具の中が雨宿りできそうで、入り込んだ。

屈んで、しゃがまないと入れないほどの入口。
中に入ると、広くてほっと息をついた。

雨はひどくなっていて、土砂降りだ。

地面を叩きつける雨が跳ねてドームの中に入ってくる。

入口から離れたところに移動して、ドームの壁にもたれた。寒い。雨で冷えた空気が体を冷やしてくる。

またお腹が減ったらここで死ぬんだろうか。ここで死んだらこの公園、曰く付きだ、なんて言われてしまうんだろうか。

自分で考えたことが少し面白くてクスリと笑いが漏れた。 こんな土砂降りだと公園も人っ子一人いない。

ドームの内側の壁には色んな落書きがあった。
それを眺めて時間が過ぎるのを待った。

雨は止まずにもっともっとひどくて、いつになったらここから出られるのかと考える。

でも出ても何もすることはないし、結局死ぬしかないのかもしれない。

あ、星が描いてある。点々と書かれた星を数える。

1つ、2つ、3つ4つ…、……瀬名、何してるかな。

こんな状況になっても思い出すのは瀬名のことだった。

こんなんじゃ、遠くから瀬名のこと見ることもできない。

…頑張るって決めたのに…。

もう財布のストラップはない。撫でるものがない指は財布の角をなぞるだけだった。

もしかしたら、本当は瀬名と会ったことも全部夢なのかもしれない。全部なかったことで、あの日の続きが今なのかもしれない。

1年に満たない、短い時間。
確かに瀬名と暮らして、瀬名に髪を乾かしてもらって、瀬名にパンケーキを作ってもらった。

それを俺は忘れてない。一生忘れないんだ。

渇いた心に水をくれたのは瀬名だったということは決して忘れないんだ。

楽しかった、幸せだった、またどぶのなかに戻ってもそれを思い出すだけで心があったかくなる。

綺麗な人。大好きな人。

俺はどぶのなかで死んでもいいけど、瀬名だけは幸せになりますように。

キラキラして、輝いて、優しい瀬名にあったかい家庭ができますように。

俺の分まで幸せになりますように。

俺の描く理想の家族を瀬名に置き換えて、微笑ましくなった。


次は猫にでもなろう。そしたら、また瀬名みたいな優しい人に飼ってもらって幸せな猫生活がおくれますように。

体育座りで丸まったまま、願い事ばかりした。
現実から逃れるように、手足が冷たくなってきてもずっと願い事をした。

小さなことなら大きなことまで。瀬名のことばかり。 それが俺の願う唯一だったから。

丸まった体を前後に揺すりながら次の願い事を考えていると、外の雨音が弱くなった。

なんだろうと顔を上げると、ドームの外に人の足が見えた。

傘を指しているのかその人の足元だけは雨が降ってない。

少し怖くて、更に体を縮こませる。
足を体に引っつけるようにぎゅっとして、その人の足を見た。

しゃがまないと入れないドーム。

ゆっくりとその人はしゃがんだ。だんだんと見える上半身。

胸が見えて、首が見えて、顔が見えた。




「…せ、な。」

丸まって埋めていた顔が自然と前を向いた。

俺の幻覚じゃなければ、今目の前にしゃがんでいるのは瀬名だ。

銀色の髪に、青い瞳、瀬名は口を開いた。

「…どこ行ってたの。探したよ?」

優しくて優しくて包み込むような声色だった。勝手に出ていった俺を責めることなく、見つけるのが当然だとでも言うように瀬名は優しい目で俺を見ていた。

声を聞いて、瀬名が瀬名だと分かった瞬間、涙がポロポロと零れてきた。
拭っても拭っても止まらなくて、瀬名に答える余裕なんてなかった。

瀬名はしゃがんだまま、俺と同じドームの中に入ってきた。男2人が入ると狭くて、窮屈だった。

瀬名は目の前に来て、俺を抱きしめた。

汚いのに。こんな俺を抱きしめるなんて瀬名は本当に優しい。

「なまえ、帰ろう?」

「…っ、帰れない…、瀬名は、優しいから…っ、瀬名と、いると…せ、なの隣に…いたくなって…っ、お、れ…俺…っ」

嗚咽が混じって上手く話せない。

「…なまえ。」

瀬名の両手が俺の頬を包んで、瀬名の顔が近づいた。

涙でぐちゃぐちゃの俺の顔に瀬名は唇を重ねた。
訳が分からなくて、目を見開いて涙を流しながら瀬名を見ることしかできない。

「好きだよ。なまえがいなくなって、本当に辛くて、悲しくて、ずっと隣にいてほしいって思った…。」

「せな…」

まだ両手で包まれている瀬名の手に涙が落ちる。

「家族として…恋人として…一緒に暮らしたい。側にいて欲しい。それでも…戻ってくれない?」

のぞき込むように瀬名は俺の顔を見た。

ああ、俺は瀬名のその顔に弱いんだ。瀬名の匂いが鼻をくすぐって懐かしい匂いだった。

確かに、瀬名はここにいる。

「誰かとなまえを比べないで…。俺はなまえだから好きなの。我慢しないで。なまえと一緒に楽しいことも嬉しいことも悲しいことも全部一緒に感じたい。」

だから、一緒にいて。と瀬名は俺のおでこに口付けをした。

涙が溢れて溢れて止まらなかった。瀬名の言葉が俺の涙腺を崩壊させるんだ。

「…っ、せ、な…」

「ん、なぁに。」

優しくて甘い声がまた俺の心をあたためた。

「ごめん…っ、なさ…、す、好き…、お、れ…」

「よしよし…。ほらぁ、もう泣かないの。なまえは笑ってるほうがもっといいから。」

そうは言っても、涙は止まらないんだ。
あれだけ望んだ瀬名がここにいて、俺を抱きしめてくれる。

想像しなかった出来事に、夢なんじゃないかと疑うほどにびっくりして、嬉しくて涙が止まらないんだ。

「なまえ、帰ろう?」

頭を撫でて瀬名は俺の手を取った。

俺はこくりと頷いて、瀬名の手をにぎった。

包まれた手はあったかくて、小さい頃親に手を取って歩いた時のように感じた。

今、俺の隣にいるのは瀬名。

家族はもういないけど、瀬名がいる。

俺の隣には瀬名がいる。

それだけで胸があったかくて、また涙が溢れた

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