優しい先輩

「おはようございます」

9月。
未だ解けない緊張感を纏い、職場であるオフィスに理久は挨拶をする。
就業時間の30分前はまだ人がちらほら居るくらいだ。
すでに出社している先輩たちから「おはよう」という親しみやすい挨拶を返してもらい、今日も朝から安堵した。
自分の席についてとりあえずパソコンを起動する。
昨日の仕事内容を反芻しながら仕事用のメモ帳を開き復習。こうしているとよく真面目だとか頭が固いと散々からかわれたが、自分の能力を理解している故にこうでもしないといらないミスを起こしてしまうためやめられなくなっている。
しかしその真面目さのおかげで有難いことに職場の先輩達からは大変可愛がってもらっていた。

「今日も真面目やなあ」

そう背後から声がして、顔だけを後ろに向けるととんでもねえイケメンが爽やかな笑顔を向けてくるではないか。

「おはようございます白石先輩」
「おはようさん」

白石蔵ノ介。理久の先輩であり教育係だ。
入社した時の同期女子のはしゃぎようはすごかった。誰が彼の部署に配属になるか、勝手に争奪戦をしていたのだ。
配属を決めるのは君たちじゃない、人事部だ。そう何度心の中で思ったことか。
しかしながら野次馬根性でその光景を見ているのは楽しかったので、これから配属された彼女達がどうなっていくのか密かに楽しみにしていたのだが。
まさかその大人気白石先輩の部署に配属されたのが自分で、且つ自分の教育係になるとは誰が予想できただろうか。
おかげで格好の餌食になりかけた。本当に仕事辞めようかと思ったくらいだ。
そんな私を助けてくれたのが、他でもない白石先輩だ。
いや助けてくれたけどそもそもの原因あなたなんだけどねというのは心の中にしまっておく。それが社会人だと思うから。
言葉巧みに同期女子に加えてその他白石先輩を狙う女子達を絆し、持ち前のコミュニケーション能力の高さで殺意マシマシだった棘という棘を削いでいく様はさすがに惚れ惚れするものだった。
白石先輩の尽力と部署の先輩方のおかげもあり、今もこうして出社できているわけだが…

「ちゃんと朝ご飯食べてきた?」
「ばっちりです」

さすがにまだこの美形には慣れない。美形と美声。しんどい。マジで教育係変えてほしい。
いや白石先輩めちゃめちゃ仕事できるし教えるの上手過ぎるから助かるけどそれ以上に視覚情報と聴覚情報の暴力が過ぎる。
自分としてはようやくこんな雑談ができるようになってえらい進歩だなあと思う。
初めの頃なんて会話できてたかすら危うい。

「ほな今日もがんばろな〜。夜は楽しい楽しい飲み会やで」
「うわ!忘れてた!!」
「そんなことある?」
「金曜日が嬉しすぎて…」
「忘れてたから行きません、は無しな」
「わかってますって」

ぶっちゃけ行きたくない。何故なら最近アピールのすごい同期(男)も飲み会に来るからだ。
下手したら飲み会終わりに何かしらアクションを起こされてしまう。そんなことになってしまってはただただ面倒なだけである。
どうにか行けなくなるような急用を必死に考えていたがどれもこれも白石先輩に打ち砕かれる未来しか見えず、あえなく時間切れとなってしまった。

(何事もありませんように)

****

ガヤガヤと賑やかな店内で行われるごくごく普通の飲み会。
普通に美味い酒に美味い食べ物。
一つ問題があるとしたら、斜め向かいに座る例の同期の視線だ。ちらちらとこちらの様子を窺いながらやけにハイテンションで盛り上がっている。
馬鹿が。このあとどうにかなるとでも思っているのか。どうにかなる前に退散してやる。

「何険しい顔してんねん」
「食べ過ぎました」

いつの間にかしかめっ面をしていたらしい。困り眉の白石先輩が呆れたように隣に座った。

「女性達の相手終わったんですか?」
「その言い方やめえや、俺がクズ男みたいやんか」
「失礼しました」
「猫宮ずっとこの席居ったん?」
「そっす。話したい人は近くに座ってるんで」
「俺遠くに居ったのに?俺とは話したくないんか?」
「会社でたくさんお話してるじゃないですかぁ」
「それとこれとは別やろ!」

気持ちのいいツッコミが入り、けらけらと笑えば周囲も同じように笑う。
自分で言うのもあれだが白石先輩と私は良い先輩後輩の関係を保っていると思う。変な摩擦も生まれずプライベートは踏み込まれないし踏み込みもしない。連絡先は知っているが基本は会社でのコミュニケーションのみ。それが居心地いいんだけど。

「二次会は?行くんやろ?」

まあまあの声量でそんなことを聞かれるものだから飲んでいたお酒を戻しそうになった。
今ここで返事をしてしまえば同期に手札を与えてしまうことになる。そんなことにはさせない。

「白石先輩は?珍しく行く感じですか?」

質問に質問で返しつつ、スマホに文字を打つ。

W二次会には行きませんW

文字が表示された画面をテーブルで隠しながら白石先輩に見せる。勘のいい彼はすぐに察して「俺は悩んどる〜」なんて当たり障りのない返事をした。
すると彼もスマホに文字を打ち始め理久に画面を見せてくる。

W何かあった?W

どうしようか。言えば協力してくれるかもしれない。けどこんなことで先輩の手を煩わせたくない。理久は逡巡してスマホを操作した。

W得意じゃない人がいるのでこの後の予定聞かれたくないんですW

一瞬、白石先輩は目を見開いたがすぐいつも通りの表情に戻り、「次何飲む?」なんて言いながらメニュー表を見せてきた。さすができる男は違うなと感心しつつ、もはやチラ見どころではなくこちらをガン見してくる同期を心底気持ち悪いと思った。

終了時間になり、続々と店をあとにする。
少し飲み過ぎたのか、ほんの少し足元がおぼつかない。しかしそれを悟られるわけにはいかないので平然とした風を装いつつ人混みに紛れる。明らかに同期が私を探していて、走って逃げたいのを堪えながら、解散または二次会に行く人の流れを見極めていた。
が。

「猫宮!」

最悪だ。捕まった。

「二次会行くだろ?一緒に行こうぜ」

自然と腕を捕まれる。馬鹿なのかこいつは。距離感どうなってんだ。ていうか行くなんて一言も言ってないし勝手に決めないでほしい。
飲み過ぎ食べ過ぎで胃液が上がってくるのを堪えながら返事をしようとした時だった。

「ごめんな〜、猫宮ちょっと気分悪いらしいわ。せやから二次会には行かせられへんねん」

白石先輩がやんわりと捕まれている腕を開放してくれた。そして自然と同期との間に立ってくれる。今日ばかりが彼が神に見えた。

「え!じゃあ俺家まで、」
「大丈夫大丈夫、俺が送ってくから安心しい。君は二次会行くんやろ?楽しんでおいで」

有無を言わさぬ白石先輩お見事です。なんて心の中で拍手をしながら、気分が悪そうに軽く俯いて見せた。
私を送るということは白石先輩も二次会に行かないということなので、女性達の不満そうな声が多発していた。本当に申し訳ない。
タクシーに乗せてもらったら先輩には二次会に行ってもらおう。
二次会へ向かう人達の中、同期はこちらを見て悔しそうな表情を浮かべていた。

白石先輩が呼んでくれたタクシーが到着して、助かったーと思いながら車に乗り込む。
ドアを閉めようと顔を上げると何故か隣に白石先輩が乗っていて、次の瞬間にはドアは閉められた。

「二次会は!!?」
「行くわけないやろ」
「そうなん、ですか!?」
「猫宮具合悪そうやったし聞きたいことあるし、付き添いしたるわ」
「はぁ…」
「得意じゃない人て、さっきのか?」
「まあ…そうです。最近言い寄られてて、」
「へぇ…」

スッ…と白石先輩の表情が一段暗くなる。色恋を会社に持ち込んでいることに怒っているのか、はたまたくだらない好き嫌いで彼に迷惑をかけたことに怒っているのか。彼のそんな表情を見てやはり自分でどうにかするべきだったと理久は後悔した。

「上手く牽制してたつもりなんやけどな」

ぽそりとこぼれた彼の言葉に一瞬思考が止まる。何の話だ。

「なんて?」
「いや〜実は俺も気づいててん。せやから猫宮と接触せんように動いてたつもりやねんけど、あんまし効いてへんかったみたいやな」

初めて知る事実に驚愕を禁じ得ない。思わす目を見開いて前のめりになってしまう。

「初めて知りましたが…?!」
「初めて言ったからな。あえて言うと気遣うやろ猫宮は」
「ま、ぁ…そりゃそうですよ。こんなことで先輩の手煩わせたくないんで…」
「けど猫宮から相談してくれとったほうが俺も動きやすくなるし、対策も打ちやすいやんか」
「たしかにぃ…」
「まあ後は俺に任せときや」
「任せとくとは…」
「まあまあ。こっちも大事な後輩をこんなことで失いたくないんでな」

へらりと笑った先輩は大変頼もしく、いつかは自分もこんな先輩になろう、そう心に誓った。
先に自分の家についたので降ろしてもらい、「ほなおやすみ」と言う白石先輩を見送った。
後日、一波乱起きるなんて夢にも思わない理久は「解決する〜」なんて浮かれながら家に入ったのだった。

****

飲み会から数日後、一つの噂が会社中に駆け巡った。
そのせいで隙あらば質問責めに合う理久は必死に時間を作り、原因であろう白石先輩をとっ捕まえる。

「どういうことですかね?!」
「話広まるん早すぎよなぁ」
「そこもですけどそうじゃなくて?!」
「なんや諦めてくれたみたいやで。よかったなぁ」
「先輩はぐらかさないでください!私と先輩が付き合ってるって噂は何故!?どこから!?」
「いや〜少しストレートに牽制したらあっちが派手に勘違いしたんよ」
「はー!!?!?」

悪びれもせずからからと笑う白石先輩に苛立ちが募る。なんで、どうして、こんなことに、
これからどう過ごそう、あの大量の興味関心の視線、嫉妬の嵐に耐えられるだろうか。どうやって誤解を解こう、誰に言えば、
ぐるぐるとこれからのことを考えていると、気付けば目の前に白石先輩が立っていた。
恐る恐る見上げると、ぎゅっと鼻を抓まれた。

「それ以上は考えたらアカン。大丈夫やから、俺に任せて」

それは聞いたことのないくらい甘い声色で、突然の新しい情報に何も考えられなくなった。
…ああ、同期に諦めさせた上でこれから誤解を解いてくれるのか。理久は自分に都合のいいように解釈した。
実際は流れた噂は加速していくだけなのだが。

「大事な大事な後輩やからな。誰にもやらへんよ」

面倒見の良い先輩の言葉。しかしこの違和感は何なのだろうか。いくら考えても答えは出ず、理久は考えることをやめて全てを委ねることにした。
満足気な彼は理久の頭を優しく撫で、見たことのない笑顔をこぼした。


****

週明け、白石は理久の同期がいる部署へ向かう。
無論仕事の一環だ。
用がある人間に話しかけ、手際よく事を進める。そして戻る際理久の同期と出くわした。全ては彼の計算通りなのだが。

「お疲れ様です」
「おーお疲れさん。二次会楽しかったやろか」
「ええ、まあ…猫宮も来れればよかったんですけど。あ、その、戻ったら猫宮に言っといてもらえませんか、今度飲みに行こうって」

雄の目をしたそいつを白石は内心冷ややかな目で見つつ、いつも通りの柔らかな笑顔を浮かべ「言うだけ言うといてあげるわ」と同期の横を通り抜けた。
そして彼にしか聞こえないくらいの声で「けど」と言葉を続ける。

「人のモンに手ぇ出したらアカンで」

それだけ言い放ち、「ほな」とその場を後にした。
誰の、とは言っていないものの、もうそれだけであの噂が出回るのには十分だった。
それを見越した上での発言である。
一人廊下を歩く白石は小さく鼻で笑う。

「渡すわけないやろ」