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微睡みの中、なまえが重たい瞼をゆっくり開ける。ぼやけた視界の向こうに、誰かの顔があるのに気がつく。だれ、寝ぼけた頭で自問自答しながら、少しづつはっきりし始める視界と意識の中、急にカメラのピントがあったみたいに、目の前にイザナの寝顔がどアップで現れて、なまえは思わず飛び起きた。一人、呼吸を整えながら、昨日の記憶を辿る。そういえば、昨夜はイザナと話をしてるうちに寝ちゃったんだっけ、と思って、そうっとイザナの顔を覗き込む。寝ていてもやはり整った顔。伏せられた長い睫毛は、外国映画に出てくる女の子みたいだとなまえは思う。イザナの寝顔があまりに綺麗で、なまえは見惚れるようにイザナの顔をじっと見つめていた。
「……人の顔ジロジロ見てんじゃねーよ」
なまえの視線に気がついたのか、程なくしてイザナが瞼を開け、なまえの顔をみるやいなや、不機嫌そうに呟く。
「……なんか機嫌悪くない?」
「テメェの寝相が悪すぎて寝れなかった」
「え、うそ!」
「ウソじゃねぇよ、クソガキ」
「うッ、ごめん……」
「つーか……腹減らねぇ?」
散々悪態をついたせいで疲れたのか、イザナが気だるげに髪を掻き上げ、低くつぶやく。その一連の所作や表情がゾッとするほど美しく、なまえは密かに胸が高鳴る。
「うん。お腹減った。あ、私なんか作ろうか?」
「は?お前料理とかできんの?」
意外と言わんばかりの表情で、イザナがなまえを訝しげに見る。
「そりゃ、少しは。うち、父子家庭だし」
そう言ってなまえがちょっぴり得意気な顔をした。
「わぁ、すごい!キッチン、ちょーきれい!」
イザナに案内されてキッチンに足を踏み入れたなまえが歓声を上げた。目の前には、まるでショールームみたいにピッカピカな豪華なシステムキッチン。なまえは、よその家のキッチンだということを忘れて、まるで宝探しでもするように、ありとあらゆる戸棚や引き出しを開けて回った。
「そりゃな。オレ自炊しねぇもん」
「え、じゃあ冷蔵庫は……やっぱ空っぽだよね」
全く興味が無いとばかりに、イザナが面倒くさそうにしている横で、なまえは1人住まいにしては些か大きすぎる立派な冷蔵庫の扉を開く。中にはミネラルウォーターと缶の飲み物が入っているだけで、まさに宝の持ち腐れと言わんばかりの空きっぷりになまえは苦笑いする。
「しょーがねぇから、買い物行くかぁ。めんどくせーけど」
「行く!歩いて行ける?」
「確かすぐ近くにスーパーがあったな」
目に見えてがっかりしているなまえを少しは気にしたのかしないのか、イザナが心底面倒くさそうに、ぼそっと呟く。その一言で意気消沈していたなまえの顔が分かりやすく、ぱあっと明るくなった。
「わーさすが、都会。スーパーもオシャレだね」
「知らねぇ。入ったことねーし」
イザナに連れられてきた近所のスーパーは、なまえの想像していたものとは違って、まるでヨーロッパの街並みに溶け込んでいそうな、スーパーというよりはオシャレなグロッサリーという趣の店だった。海外製の木箱に入った青果が並ぶ一角を通り抜けながら、なまえが感嘆の声を上げる。イザナは相変わらずの体で、スウェットのポケットに手をつっこんだまま、面倒くさそうに生返事を返した。
「イザナ、カゴ持って?あ、カートも!」
「は?どんだけ買い込む気だ?ババアか、テメェは」
店内をキョロキョロ見回して、俄然お買い物気分がアガってきたなまえが、ごく自然にイザナにそう言うと、イザナはめんどくさいを通り越して、半ば呆れたような顔で悪態をつく。
「だってしばらくお世話になるし、自炊したいし……だめ?」
「好きにしろ」
家主でありスポンサーでもあるイザナの機嫌を損ねないよう、なまえが、まるで小さい子がおねだりするみたいに、少し遠慮がちにイザナを上目遣いで見る。少々あざといとは自分でも自覚しているけど、背に腹は変えられない。そもそも、こんなことでイザナの機嫌を取れるのかどうか、という話だが、それを言うと身も蓋もないのでなまえは考えるのをやめた。そんななまえの作戦が功を奏したのかはわからないが、イザナは、なげやりという表現がぴったりな返事を一言だけ返した。
「ねぇ、イザナ何食べる?」
「別に食えりゃなんでも」
「好き嫌いないの?」
「野菜と魚はいらねー」
「お子ちゃまじゃん」
「うるせぇ」
2人で軽口を叩き合いながら、なまえはイザナが押すカートにめぼしい商品をぽんぽん入れていく。週末の昼前にしては、店内にはさほど人はいない。恐らく、かわいらしい内装とは裏腹にかわいらしくない値段設定のせいかもしれない、となまえは思う。しかし、それが却って、イザナの存在を一際目立たせるのか、すれ違う女性客はもれなく、イザナをチラチラ見ていくのがわかった。それは無理もない、となまえも思う。現に、隣にいるイザナの悔しいほどに整った横顔が、カートにものを入れるときになまえの視界に映り込むものだから、その度に心臓の音がなんだか大きくなる。なまえの恨めしい視線に気づいたのか、イザナが「見んな、クソガキ」と、なまえのおでこを軽く小突いた。
「ちょ、イザナ、お菓子買いすぎ!」
「いーんだよ、オレの金だし」
「あー!なんでビールが入ってんの?だめじゃん!」
「うっせぇな。バレやしねぇよ」
「そーいう問題じゃないから」
レジに向かう頃には、カートに溢れんばかりの商品が入っていた。レジ前でカートの中身を何となく確認したなまえが慌てた声でイザナに文句を言うも、イザナは悪びれた様子もなくしれっと言い返す。最終的になまえに押される形で缶ビールは返却することになったが、2人で消費するには些か多すぎる量の買い物になった。いっぺんに歩いて持ち帰るのは到底無理ということで、必要なものだけをレジ袋に入れて、他は後で宅配してもらう事になった。
「ただいまー」
「はぁ……クソだりぃ」
機嫌よく帰宅したなまえとは対照的に、殊更気だるげに、イザナが玄関に靴を放り投げるように脱ぎ散らかしたまま、フラフラとリビングのソファに横になった。ただ、スーパーで買った品物が入ったレジ袋はなんだかんだ一応途中でキッチンカウンターに置いてくれたようで、なまえは少しだけ嬉しく思う。
「腹減った。なまえメシ早く」
「はいはーい」
リビングで瀕死のイザナに背を向けてなまえは苦笑いしながら、キッチンに向かった。
「なんだよ、これ」
「何ってホットサンド」
10分程でブランチの準備ができたので、ダイニングテーブルにイザナとなまえは向かい合わせで座る。備え付けのこれも、恐らく今まで全く出番がなかったらしく、グレーの人工大理石のテーブルは傷一つなかった。ランチョンマットが映えそうなテーブルだが、生憎そういったものはなく、白い高級食器メーカーのプレートにホットサンドを並べ、それに、エスプレッソカップくらいの小さなガラスのコップに入れたスムージーを添えてある。
「違ーよ。オレが聞いてんのは、こっちの毒々しい色の方だっつーの」
「あ、これ?小松菜とアボカドとベリーのスムージーです」
イザナが眉間に皺を寄せて、スムージーを指さす。見る人が見たならば、冷や汗が出そうなほどイザナの機嫌はあきらかに悪そうだ。けれども、なまえはまるで意に介していないとばかりに、しれっと答えた。
「は?小松菜?よーするに、野菜ジュースってことかよ。うげぇ」
「だって、キッチンに真空ジューサーがあったんだもん。そりゃ、はりきって使うでしょ」
「はぁ?変なとこはりきってんじゃねぇよ。で、このパンの中には何入れた?」
「えーっと、サバ缶とマヨネーズとレタス」
「テメェ、野菜と魚ばっかじゃねーかよ」
「いーの、いーの!絶対美味しいから、騙されたと思って食べてみてよ、ね?」
イラつきを通り越して、呆れた顔でイザナがため息をつく。空腹な上に嫌いなもののオンパレードな料理を出されすっかりご機嫌斜めなイザナに、なまえはさもありなんとばかりに、あっけらかんと笑う。その顔にすっかり毒気を抜かれたのか、イザナは小さく舌打ちしながら、目の前のホットサンドに渋々手を伸ばした。
「どう?美味しい?」
「まぁ……思ったよりは、悪くはねぇんじゃねーの」
サク、と恐る恐る一口食べたイザナになまえが尋ねる。イザナは悪態をつきながらも、ホットサンドの二口目を口に運んだ。どうやら気に入ってもらえたようで、なまえは思わず口元が緩む。
「でしょ?じゃ、スムージーもいってみる?」
「無理」
「えー美味しいのになー」
「こんなクソ不味そうな色のもん、飲めねーよ」
さすがにスムージーはハードルが高かったのか、イザナが口にすることはなかった。それを見て、なまえは自分のスムージーを美味しそうに飲みながら、次はフルーツだけのやつにしてみようか、などと至極前向きな事を考えていた事など、イザナは知る由もない。結局、なんやかんやでホットサンドは全て平らげてしまい、空っぽになったお皿をなまえが片づけていると、玄関のインターホンが鳴った。
「はーい」
スーパーの宅配かな、そう思ってモニターも確認しないで、なまえは小走りに玄関に向かうと、ドアを開けた。
「……!?」
ドアの向こうに立っていたのは、長身の顔に大きな傷のある、当然なまえの知らない男の人だった。