午前の授業の終わりを告げるチャイムを聞きながら、なまえは、うーんと大きく伸びをした。さっきまで静まり返っていた教室は、授業からの解放感か、あっという間に昼休みの喧騒に包まれていく。緩慢な動きで教科書をカバンにしまっていると、今日何度目かの大きなあくびが出た。昨日のあまりに衝撃的な出来事のせいで、昨夜はほとんど寝た気がしなかった。昨日、なまえはナホヤと連絡先を交換して別れた。帰宅後、リカに事の顛末を伝えるべく電話し、なまえがナホヤと付き合うことになったと伝えると、案の定リカは手放しで喜んだ。
「じゃ、次はアイツともっと親密になるようにしなきゃね。アイツがマジになってから捨てないと意味ないから」
「親密……?」
「そ、手っ取り早くデートに誘って、とりあえず、ヤっちゃえば?」
「や、やっちゃうって何を……!?」
「Hに決まってんでしょ」
「む、無理無理無理!そんな簡単に言わないでよ!」
「えーいいじゃない、減るもんじゃないし。アイツ、ヤンキーだから手馴れてそうだし」
「そりゃ、減らないけど!私、キスもしたことないんだからね?」
「じゃ、とりあえずキスでいいわ。最初は」
「……!」
リカのあまりの身勝手さに、なまえは開いた口が塞がらなかった。とりあえず、キスでいいってなんだ。居酒屋か。ファーストキスは一大事でしょーが、と叫びたい気持ちをぐっと堪えてなまえはリカとの通話を終えた。電話を終えてからも、リカとの話の影響は続いており、よくよく考えてみたら、高校生のおつきあいって、そういう事もありえないわけじゃないじゃん、と今更ながら、自分の考えの至らなさに泣けてくる。いや、だめ、どう考えても絶対無理。ファーストキスは好きな人としたいよぉ、と半べそをかきながら、なまえは自分の部屋のベッドにダイブした。
「……!」
寝不足のぼーっとした状態で昨日のことを思い出していたなまえを現実に引き戻すかのように、机の上に無造作に置いたケータイがブルブル震えた。ディスプレイを確認すると、メールが一件。河田ナホヤからだった。
『今から昼飯、一緒に食おうぜ』
「ええッ!?」
メールの文面を確認して思わず大きな声を上げたなまえに、クラスの皆の視線が一斉に向く。
「おーい、なまえ、来いよ」
気まずさで反射的に小さくなったなまえにさらに追い打ちをかけるように、教室の後ろから知っている男の声がした。さっきまで、なまえに集まっていたクラスの視線は、一気に声の主である河田ナホヤに向く。なまえが恐る恐る振り返れば、教室の入口で河田ナホヤが相変わらず抑揚のない笑顔で手をこまねいている。なまえは黙って正面を向いて、小さくため息をつくと、カバンから取り出したランチバックを持って席を立った。
“ えー!なまえって河田先輩と付き合ってたんだ?”
“ つーか、河田ナホヤ、マジ怖ぇ”
“なまえちゃんて、おとなしそうに見えて実は結構さぁ……やば”
教室のヒソヒソ声が、体中、あっちこっちにチクチクと突き刺さり、いたたまれない。まるで、犯罪者にでもなったような気持ちで、足取り重く教室後方へとたどり着く。ナホヤはそんなこと全く意に介していないようで、なまえを連れて廊下を飄々として歩き始める。昼休みの廊下は当然ながら、生徒でごった返しているはずが、ナホヤが行く先、蜘蛛の子を散らすように、道ができた。まるで、モーゼの海割りだと、なまえは思う。それが当たり前だと言わんばかりに、廊下の中央を飄々と歩くナホヤの後ろを小さくなりながらついて行くなまえへの、周囲の視線とヒソヒソ声は教室と変わらない。それどころか、さらにパワーアップしている気さえする。顔も知らない不特定多数から好奇の視線を向けられ、いたたまれないを通り越して消えてしまいそうな気持ちで、なまえはさらに深く俯きながら、ナホヤの後ろを歩いた。
「……わッ!?」
ナホヤの踏み潰した上履きの踵ばかり見て歩いていたせいで、前を行くナホヤが立ち止まった事に気づかずに、ナホヤの背中に顔から思い切りぶつかってしまい、小さくごめんなさい、と呟いてなまえは慌てて距離を取る。一瞬触れたナホヤのシャツは、意外にも石鹸の良い匂いがして、何故かそれだけで心臓の音が早くなる。
「屋上……?」
恥ずかしさをごまかすように、顔を上げると、校舎最上階の、屋上へと繋がる階段の踊り場が目に入る。ナホヤは‘立ち入り禁止’と書かれた札のついたチェーンをこなれた調子で、ひょいとまたぐと、躊躇うことなく階段を上り始めた。
「何してんの?なまえも早く来いって」
「え、だってそこ入っちゃいけないとこじゃ……」
「はは、バレなきゃへーき」
ほら、と階段の上からナホヤがなまえの目の前に手を差し出す。なまえとナホヤの間にあるのは立ち入り禁止の為の1本のチェーンだけだ。なまえは一瞬の逡巡の後、思い切ってナホヤの手を取って、えい、とチェーンを飛び越えた。
02 境界線
前 |
index |
次