「はぁ……」
その夜、ベッドに入ってもなまえは中々寝付けなかった。出るのは大きなため息ばかり。
喧嘩騒動の後、ナホヤはなまえが泣き止むまでずっとそのまま頭を撫でていてくれた。ナホヤの手の感覚も、優しい声も、まるで今も近くにいるかのように、身体が記憶している。その記憶を思い出しては、かぁっ、と全身の血が沸騰したかのように熱くなってしまう。今更だけど、ナホヤと自分は、本当の恋人ではない。なまえはナホヤに恋愛感情は持っていない。それなのに、一体どうしてこんな気持ちになるのだろう。もし、あのとき、ナホヤが喧嘩で酷い怪我でもしていたら、なまえは平静ではいられなかったと思うし、実際本当に心の底から心配で心配でたまらなかった。だからこそ、安堵のあまり泣いてしまったわけで。この不思議な感情の正体はなんなのか、いくら考えても答えは出ず、なまえは眠れないまま、夜を明かした。
「あれ、ソウヤ先輩は?」
昼休み、前回と同じくナホヤからメールがきて、なまえは屋上に向かった。昨日の事もあり、実はまだほんの少しだけ緊張していたのだけれど、ソウヤの姿が見えないことに気づき、気がつけば開口一番ナホヤにそう尋ねていた。
「ソウヤは委員会だってさ、オレと違って真面目なんだよあいつは」
シシ、といつも通りの顔で笑うナホヤに、なまえは少しだけほっとする。
「昨日はごめんな」
「え?ううん、私こそいきなり泣いちゃってごめん……」
ナホヤに不意に謝られて、昨日の事を思い出してなまえは少し気恥ずかしくなる。と同時に、昨日のナホヤの優しい手の感触まで蘇ってきて、なまえは密かに顔を赤くした。
「詫びの代わりに、埋め合わせすっからさ」
「や、いいよ。全然気にしてないし!」
「遠慮すんなって。オレに聞いて欲しい事、一個くらいあんだろォ?」
「それって、何でも?」
「ま、さすがに死ねとかは無理だワ」
「……」
なら、リカとより戻して、と、一瞬そんな考えが過ぎり、それだけで何故かなまえの胸がズキンと痛む。確かに、そう言ってしまえば、この馬鹿げたゲームは終わるし、同時にナホヤとの関係も終わる。なまえは晴れて自由の身になれるのだ。なまえが今一言そう言えば……
「決まったかよ?」
「えっ……あ、うん、まぁ……」
呆けていたなまえがナホヤの一言で我に返る。咄嗟に答えてしまったものの、さっきの不穏な考えほどでは無いが、今自分が言おうとしている事も簡単に口にできるものではなかった事に気づいて、なまえが口ごもる。
「よっしゃ、何でも来い!」
まるでこれから喧嘩でも始めんばかりに、ナホヤが右手の拳を左手でぱん、と受け止める。あまりに、あっけらかんとしたナホヤになまえもつられて少し肩の力が抜ける。
「えっと……あのね……て欲しい……」
「あん?何だって?」
「ナホヤ君の、髪の毛触らせて欲しい、です……」
「はぁ?」
呼吸を整え、思い切って、今の自分の一番の願い事を口にしたなまえに、ナホヤが素っ頓狂な声を上げた。
「じゃ、失礼します……」
「……!」
いつでも来いよ、と言わんばかりに頭を下げたナホヤの前になまえが畏まって座る。それからなまえが膝立ちになり、そのまま少し遠慮がちに、ナホヤの髪の毛にそっと手を伸ばした。
「わぁ……すごい、ふっわふわ……!」
「……ッ」
なまえが恐る恐る、ナホヤの髪に触れるやいなや、歓喜の声を上げる。想像していた以上にふわふわで柔らかいナホヤの髪は、まさにトイプードルのココアのそれで。なまえは懐かしいやら嬉しいやら、気持ちが一気に高まり、夢中でナホヤの頭をわしゃわしゃと撫でた。あまりに夢中で、なまえが触れる度に、ナホヤの肩がびく、と小さく震えていた事になまえはまるで気がつかなかった。
「ひゃあ……やば……もふもふだぁ……」
「やべぇのはテメェだァ……いい加減にしろ、ってンだよ……」
無邪気にテンション高めで、ナホヤの髪を触り続けるなまえに、ナホヤが我慢の限界とばかりに、低い声でそう呟くやいなや、突然顔を上げる。と同時に、なまえの鼻にかぷり、と甘く噛みついた。
「ッ……?!!」
「もう時間切れだ、バーカ……」
気づいたときには、視界いっぱいにナホヤがいて、なまえは今自分の身に何が起こったのかよくわからなかった。その場に凍りついたように固まったままのなまえの事などお構い無しに、立て続けにナホヤが鼻先をぺろ、と舌でひと舐めして、なまえから離れていく。
「次は口にすっから、覚えとけ」
座り込んだまま惚けた顔のなまえを残してさっさと立ち上がったナホヤが、振り向きざまにそう言い放ち、いつもの、否、いつもより少し意地の悪い笑顔を見せた。
「……ッ!!」
なまえはあまりに気が動転していて、呆然とした顔でナホヤの背中をただ見送った。その後、ようやくナホヤにされた事や、言葉の意味にじわじわ気がつく。かあっ、と一人で茹でダコみたいに顔を真っ赤にしたときには、ナホヤの姿は完全にドアの向こうに消えていた。
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