光織は走っていた。
あのマンション近くの街灯に書かれた地名を見る限り、光織の家がある椿台とはそれ程離れてはいない。
精々駅五つ分。
財布も定期も手元になく、タクシーもバスも電車も使えない。
それでも行かなければならなかった。
行って、確かめなければ。
なにかの勘違いだと、確認しなければ。
道行く人々は何事かと振り返るし、濡れた制服は重く、硬いアスファルトで傷ついた足は頼りなく揺らぐ。
破裂しそうな肺と心臓を制服の上から押さえつけた。
呼吸すらままならない状態で、光織は顔に張り付く髪を掻き上げてガードレールに手をつく。
足の間にスカートが纏わりついて気持ちが悪い。
息苦しくて胸元を無理に寛げれば、ぶちっという音と共にブラウスのボタンがひとつ飛んだ。
「……いっ…た……」
頭も肺も足も心臓も全てが痛い。
まるで昔の、そう、あの時一位を取ったマラソン大会を思い出す。
それでも走り続けた甲斐があってか、
「……椿……台……」
街灯がそう、示していた。
「チッ」
苛々と三蔵はハンドルを拳で叩いた。
光織の家がある椿台まであと少しというところで交通事故による渋滞に巻き込まれ、延々と連なるテールランプが焦燥感を煽る。
そうこうしているうちに雨は激しさを増し、遠慮なく三蔵の黒い愛車のボディを叩いた。
雨垂れが霞ませる窓の外を行き交う傘の中に、彷徨うあの小さな姿がないかと目を走らせる。
「……あの馬鹿娘……」
八戒や悟空は三蔵の所為だと笑ったが、今日の昼間―――初めて見たとき既に光織は蹲っていた。
直ぐに駆け寄って来たものの、何処となく顔色は沈んでいた。
元から具合が悪かったのだとしたら?
こんな雨の中を走り回って良くなる奇病でもないだろうに。
『―――同じ?』
「……チッ」
もう一度、心底忌々し気に舌打ちすると、三蔵は思い切りハンドルを切った。
椿台。
駅前を通って、
右手に公立高校が見えて、
公園を抜けて、
橋を渡って、
大きな犬がいる家を曲がって、
三つ目の、青い屋根の―――……
ガシャン、と何かが叩き潰される、大きな音がした。
ドルルルルルル、とエンジンが唸りを上げ、見たこともないような重機が自分の家に停まっている。
「おい、こっちだ!」
「すげぇ雨だな」
「はいオーライオーライ!」
「端から崩してけ!」
「下に鉄骨があるから……」
正しくは、自分の家があった場所、に。
ピーピーと音を立てて停車する何台ものトラック。
ガシャガシャと大きなクレーンでもって捻じ曲げられ、潰されていく何かだったもの。
見知らぬ作業着を着た人々。
ぐちゃりと、すっかり感覚のなくなった足がぬかるんだ泥を踏んだ。
家が、壊されている。
「やめてっ!!」
固まって何事かを話し合っていた集団に飛びかかる。
自分のどこにそんな力があったのかと思うほどの勢いで。
「っ!うわっ」
「なんだお前、どこから入った!」
「危険だから離れなさい!」
途端に何人かの男性が光織を引き離そうとするも、
光織はしっかりとそのなかの一人の腕を掴んだまま叫んだ。
「私の家を壊さないでっ!!」
- 9 -
*前次#
ページ: