夏の放課後
蝉の声
蜘蛛はそっと罠を張る。
「離し、て……!!」
rabbit song.
朝から、なんとなく調子が悪かった。
夏休みを目前にして体調を崩すだなんて冗談じゃない、と光織は自身を叱咤したが、それでも熱っぽい体と揺れる思考は変わらない。
「うにゃ?光織、カゼ?」
お昼休みも終わりかけようとしているとき、机に頬杖をついてどこか遠くを見ている光織に、隣の席から李厘が声をかけた。
「う……ん、そうかな……」
風邪だ、と認めてしまえばこの倦怠感に負ける気がして、光織は言葉を濁す。
今日は金曜日。
後2時間少しを耐え抜けば、明日と明後日はゆっくりできる筈だ。
「オイラのがうつったのかなぁ……」
「や、多分それはないかな……」
確かに風邪をこじらせて休んでいた(という事になっている)李厘のところへ見舞いには行ったが、それは7月の頭。あれから2週間は経っている。
それでも、ふにゅ、とうなだれる李厘に、光織は笑顔を見せた。
「気にしないで。ここのところ、ちょっとバタバタしてたから疲れたのかも」
風邪ではないと信じたかったが、もしこれが風邪なのだとしたら思い当たる節はある。というか、あれしかない。
それは、3日前。
先週行われた期末試験の結果が返ってきた日のこと。
「……さて、二人とも、テストの結果はどうでしたか?」
夜。
夕食後の和やかな時間に、唐突に八戒が微笑んだ。
「ぅえっ!?」
珍しく早く帰宅してからというものの、夕食の準備や食器洗いを不自然すぎるほど手伝っていた悟空が、髪に食器洗い洗剤の泡を付けたままソファーの上で硬直する。
「さ、見せてください」
「あっれー?そういやお猿チャン、前ので崖っぷちなんじゃねぇっけ?」
「……分かってんだろうな、悟空」
―――この家では、試験のクラス内順位が30位以下だった場合、恐ろしいペナルティが課せられるシステムになっている―――
いつかそう悟空から聞いていた光織も、そっと悟空を見やる。
彼は確か、前回の中間試験ではギリギリの29位だった筈だ。
「光織も、見せてくれますか?」
「あ、はい。部屋に――」
取りに行ってきます、とは言えなかった。
至上の微笑みを浮かべる八戒の手には、二冊の薄い冊子があって。
『学習の記録』と印字されたそれは、間違いなくテストの結果表だった。
((いつの間に……!))
八戒の手から受けとり、八戒の前で開く。
それはとてつもない試練のように感じた。
「し、失礼……します」
そっと抜き取り、ローテーブルの上に開く。
途端に身を乗り出すように大人組が覗き込むので、居心地の悪いことこの上ない。
「……おー。さすが」
しばらく表を見つめた後、悟浄が口を開いた。
「凄いじゃないですか!光織、頑張りましたね」
「まぁまぁだな」
総合順位クラス1位。
それは光織にとっては見慣れた数字だ。
けれど、全教科1位、ではない。
しかしそれを責める人はここにはいないのだ。純粋に褒めてくれる。認めてくれる。
1位を取れなかった教科があるのは単純に悔しいが、それだけだ。
順位に固執せずにいられるのは、こんなに楽だったのか。
(でも……)
ちらり、と光織はまた悟空を見た。
顔面蒼白で硬直しきった悟空は今にも倒れそうで、その全てが結果を物語っている。
「……で、悟空は?」
―――……
結局悟空は31位という快挙を成し遂げてしまい、八戒から夏休みの強化課題を言い渡され、からかった悟浄に反撃しようとガラスの灰皿を投げつけ、そしてそれが―――運悪く悟浄の隣に座っていた光織の背後にあった、大きなアクアリウムの水槽に当たり……という見事な流れで。
クーラーの効いた室内で頭から水を被り、怒れる三人から少しでも悟空を助けようと、濡れたままで後片付けに勤しんでしまった結果がこれだ。
(風邪引いたなんてばれたら、また悟空が怒られちゃうかも)
それ以前に、出来るだけ彼らに迷惑はかけたくなかった。
「光織?」
「、あぁ、ごめん」
一連の出来事を思い出して苦笑する光織に、不思議そうに李厘が声をかける。
「オイラ、いいこと思いついたんだけどー、」
得意気に目を輝かせて、李厘が。
「保健室に行ったら治るよっっ!」
保健室。
李厘の言う通り、行けば治るかは定かでないとしても。
「保健室……あったんだ」
よく考えればあって当たり前の保健室だが、一度も世話になったことがないのと、クラスメイトや教師達がその名を口に出さないので、すっかり忘れていた。
「そっか……保健室か」
次の授業はロングホームルームで、欠席してもあまり差し支えはない。
一時間だけでも横になって休めば、いくらか楽になるだろう。
「ありがと、李厘。そうするね」
席を立つ。それだけで身体はふらりと揺れたが、気にしない。
「あ、保健室ってどこ?」
「あっちの校舎の一番上の一番奥!オイラもついてってあげよっか?」
「西棟の4階の一番奥、ね。大丈夫。先生に言っておいて」
「あれ?光織ちゃん保健室行くの?」
不意に、前の席の男子生徒が話しかけてくる。
「、うん」
転校して3ヶ月あまりとはいえ、女子校育ちの光織には、あの4人や紅孩児、独角児以外の男性はまだまだ未知の生物だった。
そんな光織の気も知らず、この男子生徒はしょっちゅう気さくに話しかけてきて。
そのいつものノリで今日も、そっかぁ、と続けた。
「気ィつけてねー。あのセンセ、なんかヤバイらしーから」
「……え?」
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