『気ィつけてねー。あのセンセ、なんかヤバイらしーから』


午後の授業が始まったのであろう、静まりかえった本校舎を歩きながら、光織の脳裏には先程の言葉が繰り返し響いていた。


(ヤバイって……学校の先生がやばくていいのだろうか)


行かない方が賢明なのでは、という直感を打ち消しながら生徒手帳を取りだし、校内の見取り図を開く。
ここの高等部は普通教室のみの校舎だけで学年別に第一校舎から第三校舎まであり、それを取り囲むように東西南北に特別棟が存在する。
渡り廊下で繋がれた各校舎は複雑に入り組み、増築工事を繰り返したマンモス校ならではの造りだ。


(…あれ?)


覚えた違和感に、思わず光織は足を止める。


職員室や校長室、生徒会室や放送室といった重要な部屋は東棟に、
音楽室、美術室、視聴覚室、図書室などは南棟に、
科学実験室、調理室、手芸室、情報処理室が北棟に。


『西棟の4階の一番奥、ね。』


西棟は、備品倉庫や資料室、空き教室………それに、保健室。


(どう考えても……おかしくないか?)


西棟、4階、一番奥。
わざわざ人気の少ない場所を選んだかのような。


(何?これ……)


ぞわぞわと不安のような感情が沸き上がる。
しかし、


(頭痛い……様子だけ見て、おかしかったら帰ってこよう)


ベッドの誘惑には耐えきれず、光織は止めていた足を前に踏み出した。







(あれ?ここ……)


耳が痛くなるような静けさの中、上履きがリノリウムの廊下と擦れる音だけが響く。
外では体育の授業や蝉の声が夏らしく鳴り響いているというのに、そこにはひんやりとした静けさだけが満ちていた。

階段を上りきった反動か、それとも風邪が悪化しているのか、些か荒い息遣いで光織は辺りを見回す。


(ここ、前に……?)


ゆっくりと歩みを進める。
暗く、陰になった突き当たりのドア。
その隣には、更に上へと向かう階段。


(やっぱり)


それは5月の終わり、転校してきてすぐの、あの放課後。
屋上を求めて上った階段だ。


(こんなところに保健室なんてあったんだ……気付かなかった)


そっと歩み寄り、耳を澄ます。
自分の心臓の音が聞こえるのではないだろうかというほどの静寂。
拭いきれない違和感に、光織は踝を返した。
がらりと音を立ててドアが開いたのはその時。
まさに背を向けた時だった。


「患者さんかな?」


男の軽い声が鼓膜を震わせた。


「あ、っ…!」


振り返り、相手を見上げる。
途端、体が凍り付く。

白衣。
眼鏡。
無精髭。

ドアに体を預けながら光織を見下ろしていたのは、いつかのマッドサイエンティストだった。


「……ようこそ、うさぎのお姫サマ?」








直接陽の射さない室内は、保健室というにはあまりに陰気で、閉鎖的であった。

西に向かい、ひとつだけある窓のすぐ外は鬱蒼と茂る森。
窓を背に設置されたデスクの上にはいくつものパソコンと書類が置かれ、簡易的なシンクではコーヒーメーカーがこぽこぽと音を立てていた。


「さて…お名前は?海瀬光織さん」


この保健室の主なのであろう男は事務的にそう尋ねながら、デスクに備え付けの回転式の椅子に腰かける。
きょろきょろと室内を見回していた光織は、その声で我に返ったかのように姿勢を正した。


「あ、私は、って……え?」


『さて…お名前は?海瀬光織さん』


バッ、と視線をあげれば、そこには如何にも楽しげな保健医の顔があった。
顔は笑っている。
しかしその眼鏡の奥の双眸が、まるで何かを狙う蛇のそれのように思えて、光織は身体が震えるのを感じた。
本能が告げる。関わるべきではない。触れてはいけない、目を合わせては、いけない。


「ん?寒い?」


ぎしり、音を立てて椅子から立ち上がった保健医が、白衣の裾を揺らしながらゆっくりと近付く。


「……っ!!」


それにただならぬ恐怖を感じ、思わず光織は背後のドアに手をかける。が、

バァン!!



はめ込まれた曇りガラスが割れるのではないかと思うような激しい音を立てて、保健医の掌が光織の顔のすぐ横に叩き付けられた。


「どこ行くの?」


そう、顔を寄せられる。


「っ、あ……や、やっぱりいいです。特に用があったわけではないので…」


こうなったら風邪どころではない。この異様な空間から逃げなければ。
どう上手くこの状況を切り抜けようかと悩む光織の思考回路は、不意に伸びてきた大きな掌によって遮断される。


「37…8℃はあるね、風邪?」


『用はない』と言った直後にこれだ。
とっさに光織が口を開くも、身体は簡単に肩を抱かれ、長テーブルと小さな椅子に導かれる。
すとん、と何の抵抗もなく座った光織の目は、妙に虚ろだった。
頬が赤らみ、息遣いも荒い。


(……急に、どうしたんだろ…)


体温を聞いて、意識的に風邪を認めてしまったから?
それとも悪化した?

変に霞がかった思考回路をフル起動させて考えても、はっきりとした理由が出てこない。
悶々とする思考を再び遮断したのは、かたり、とテーブルにマグカップの置かれる音だった。


「コーヒー、飲める?」


虚ろな眼指しで黒い水面を眺める光織に、保健医はますます口元の笑みを深める。


「ベッドで休もうか、僕が添い寝してあげるから」
「……え、んりょしま…す…」


覚束ない口調で呟いて、ふらふらと席を立つ。
こんなに怪しい保健医の前で安心して眠れるとは思えなかった。
なんとか今ならまだ戻れる。
脳内に張り巡らされた意識の糸を必死に引っ張りながら光織はドアに手をかけ、失礼しましたと口を開こうと、して。


「―――ねぇ」


先程のように強制的に引き留めはしなかったが、保健医が先にそう、口にした。


「偽善者に囲まれた生活って、楽しい?」
「!…な、に……」


とっさに振り向いた、瞬間。

ぐらりと大きく視界が傾いた。



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