音もなく崩れた光織を、保健医―――烏哭は事も無げに抱えあげると、オフホワイトのカーテンで仕切られた中の、ひとつのベッドに横たえる。
汗で張り付いた前髪を避けてやり、襟元からリボンを抜く。
元々ひとつ開いていた釦を指で辿り、もう二つ、素早く外した。
スカートが滑り、白い太股が顔を出す。
それでも起きることのない光織を襲っているのは、風邪の症状だけではない。
この保健室に充満している、微かな香の影響が強かった。
誰も訪れることのない西棟の最上階、自らの“研究”に励む烏哭は、人間の思考や身体の自由をいとも容易く奪ってしまう香を撒き、餌がかかるのを待っている。
それはまさしく、蜘蛛。
「今回のは中々……かな?」
艶やかな黒い髪が、抜けるような白い胸元に散って。
長い睫も甘そうな唇も、夏服から伸びるすらりとした四肢も、目がくらむほど魅力的で。
手を、伸ばした。
「いただきまー……」
いままさに手にかけん、というときに、タイミングが良いのか悪いのか、烏哭の白衣のポケットで携帯が震える。
「……」
微動だにしない光織から上半身を起こすと、ガリガリと乱雑に頭を掻きながら携帯を取り出し、画面を見もせずに耳に当てた。
「……ハイ?あぁ…分かってますって、えぇ。後は仕上げだけですから、今日中には送れるんじゃないですかね……」
軽く軋ませながらベッドを降り、脱ぎ捨てていたサンダルをひっかける。
光織から取ったリボンタイをふにふにと指先で弄びながら答える声にやる気はない。
空いた左手で眼鏡のブリッジを押し上げると、一度だけ振り向いて光織の寝顔を見やった。
(……お預け、ね。)
回転椅子に座り、手早くキーボードを叩いた。
――――息苦しい。
「っ、……ん、」
胸を締める圧迫感に、光織はゆっくりと目を開けた。
「お目覚めかな?お姫サマ」
ぼやける視界一杯に写し出されたのは――――うさぎ。
「、わ」
「具合いはどーですかー?」
額に柔らかな感触。
うさぎの縫いぐるみが、その白い手を伸ばして光織の額に触れたのだ。
「な、にやってるんですか」
寝起きだからか、声がかすれる。
光織の上に覆い被さっていた烏哭は、んー?と至極ご機嫌そうに、手にしたうさぎの縫いぐるみを操る。
コーヒーメーカーも止まり、静まり返った室内は、西窓から射し込む夕陽がカーテンを透かし、オレンジ色に染まっていた。
「なにって…ナニ?」
つう、と細い、けれども筋張った烏哭の長い指が、光織の首から胸元へと辿る。
途端、瞬く間に思考が浮上した。
咄嗟に身体を起こそうとするが、大人の男性に乗られていたのでは上手くいくはずもない。
烏哭はニヤリと笑うとうさぎを放り投げ、空いた手で華奢な手首を拘束してしまう。
ぎり、とかなりの強さで掴まれて、光織の瞳が一瞬、痛みに揺らぐ。
「離し、て……!!」
「んー?2時間もベッド貸してたんだから、相応のモノを支払ってもらわないと、ね?」
「やっ……!!」
ギシギシと簡易ベッドが揺れた。
閉じようとする太腿に、烏哭の脚が遠慮なく割入る。
ひゅ、と、少女の喉から引き攣る音がした。
賭け、だった。
“雇い主”から、仕事の催促を匂わせる電話を受け、一度彼女は窮地を免れた。
その時に彼が決めた、賭け。
仕事を終えるまでに彼女が目覚めたら彼女の勝ち。“今日は”手を出さない。
仕事を終えても彼女が目覚めなかったら彼の勝ち。美味しく頂く。
彼の仕事は、誤差無しに一時間で終わった。
彼女は目覚める様子もなく、事を運ぶにはむしろその方が楽だったのだが、彼はそこからもう一時間、今度は仕事ではなく、彼自身の旺盛な知識欲を満たすために使ったのだ。
(お陰で色々分かったよ)
数ヵ月前、滅多に人の来ない西棟に現れた少女。その素性・生い立ち・経歴。
どれも興味をそそられる内容だった。
久々の“食事”がこんなにも上玉とは。
獲物は抵抗してくれた方がいい。彼に喜んで体を差し出す女は山といる。
もちろんこの学園内の教師や生徒にも。
単純に性欲を満たしたい時は手軽な女に限る。自慰行為の延長のようなものだ。
見栄えがそこそこで穴さえあればあとはどうでもいい。
けれど獲物はそうではない。
抵抗して、泣いて、ゆっくりと少しずつ彼に捕食されていく過程のどこでその気高いばかりの瞳から光が消えるのかが見たいのだ。
海瀬光織が助けを求めて呼ぶのは誰の声だろうか。死んだ両親か、それとも―――……?
笑みを深め、恐怖に脅えているであろう光織を見下ろす。
……しかし。
「……どいて、ください」
予想に反して光織は。
抵抗をやめた身体をシーツの波に沈ませ、その対の紫で静かに烏哭を射抜いていた。
「どいてください」
そう、繰り返す。
光を宿した眼指しは強く、口調にも有無を言わせぬ何かがあった。
「………萎えるなぁ」
その口を塞いで無理矢理にでも襲うことはできたのだが、烏哭は溜め息をひとつ吐いて離れる。
光織もそれに習い、ゆっくりと身体を起こした。
「ベッドを貸していただいたのに、お礼が出来なくてすみません」
胸元の釦をはめ、乱れたスカートの裾を整える。
烏哭はうち捨てられていたうさぎを広いあげると、その柔らかな後頭部に唇を落としながらデスクに向かう。
「どっちかって言えば、多少抵抗された方が燃えるからねー」
「嗜虐的なんですね」
「それにもうちょっと抱き心地のいい方が」
「悪ふざけにしては、さっきの、やりすぎだと思いますけど」
「悪ふざけで済むならいいけどねぇ」
すると光織は、困ったように眉根を寄せた。
「……帰ります。ありがとうございました。失礼します」
「またのお越しをお待ちしております……お姫サマ」
生真面目に礼と挨拶をして、振り返ることなく光織は部屋を出ていった。
その瞬間、開いたドアから微かに甘い夏の空気が入り込んで、香が薄まる。
椅子の背に体重をかければ、古いそれはギシリと悲鳴をあげた。
「海瀬……光織、か」
煙草に火を点け、深く吸い込む。
目の前のパソコン画面を埋め尽しているのは、全て光織に関する事柄で。
「欲しいものは自分の力で奪わなきゃ、ね」
窓の外、夕暮れの林から一斉に烏の群れが飛びたっていった。
end.
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