「おー、お疲れさん」
桃源郷、社長室にノックもせずに入ってきた三蔵を見て、観世音菩薩は目を通していた新聞を机に放る。
「また随分と早かったな」
「俺にも予定があるもんでな」
愛想などという単語はこの男には存在しない。
ぶっきらぼうに言い捨て、書類の束を卓上に置くが早いか踵を返す三蔵に、観世音菩薩は声をかける。
「何だ」
「頼みがある」
「断る。予定があるっつってんだろ」
まぁ待てよ、と気楽に観世音菩薩は机の下から包みを取り出した。
「光織にだ。俺様と二郎神から」
「てめぇが他人の誕生日なんぞを祝おうなんて、珍しいこともあるもんだな。明日は雪か」
「おーおー降らせてやろうじゃねぇか雪でも槍でも」
「やめろ」
「なぁ三蔵。お前今まで誰かの誕生日なんて祝ったことあったか?」
光織宛のプレゼントはずしりと重く、疲れた手に追い討ちをかける。
「あるに決まってんだろ」
「光明のだろ?他には?」
「何が言いたい」
頬杖をついたまま、観世音菩薩は笑った。
「イイもんだろ。誰かが喜ぶ顔を想像すんのは」
「、何言って」
「ま、そーゆーことだから。ちゃんと光織に渡しとけよー」
追い払うようにひらひらと手を振られて、言いたいことを飲み込んだままの三蔵は渋々社長室を後にする。
『イイもんだろ。誰かが喜ぶ顔を想像すんのは』
その言葉と共に浮かんでくるのは、気の抜けたようにへらりと笑う、光織の、
「……チッ」
ゆっくりと自分の中で何かが変わり始めているのを、確かに感じていた。
「八戒?えびの背腸、取り終わりました」
「じゃあ次は軽く塩胡椒をふってですね、」
買い出し、飾り付け、そして料理。
本日のために組まれていた予定をひとつずつクリアしていく光織の顔に、疲れの色はない。
むしろ生き生きとして見えた。
「おー、すげぇな」
「うっまそー!!」
自分に与えられた役割が終わってしまい、暇を持て余していた悟浄と悟空がキッチンを覗く。
「にしても光織ちゃんのエプロン姿、なんかやらしーよな」
「やら……っそ、うですか?」
「あはは、光織と料理にバイ菌がつきますから悟浄はどっか行っててください」
「だってよ!悟浄は息すんのも禁止な!」
「ってめ調子こいてんじゃねーぞ!」
勝負だ!と言いながら二人の姿がキッチンから消える。
料理は着実に進んでいた。
(……なんか、いいですねぇ)
エプロンを着けた光織がいて、ふたりで談笑しながら記念日のために料理を作っている。
まるで新婚夫婦のようなシチュエーションに、八戒は心身共に癒されていくのを感じた。
「八戒、次は……って、八戒?」
「え?あぁ、すみません」
「大丈夫ですか?どこか具合でも…」
「平気ですよ。ただあまりにも光織が可愛らしくて、ぼーっとしてしまったんです」
純粋な笑みを彼女に向ければ、すぐに赤くなって顔を伏せる。
そんな反応のひとつひとつが八戒のツボだということも知らずに。
「あ…八戒、そろそろケーキに取りかかりませんか?」
「そうですね、冷蔵庫でスポンジが寝かせてありますから、出してもらえます?」
嬉しそうに冷蔵庫へ向かう光織に、八戒はボウルや泡立て機を用意する。
「すごくきれいに焼けてますね」
「昨日の夜に焼いてしまっておいたんですよ」
「あ、そうか、スポンジは寝かせると」
「落ち着いて密度が高くなり、美味しくなりますからね」
正解です、と微笑めば、嬉しそうに笑う。
ほんの数ヵ月前に満足な朝食が作れないと肩を落とした少女はどこへやら。
あれ以来光織の手料理は八戒も何度か口にし、そのレベルの高さには驚いたものだ。
料理を覚えたいという気持ちが強いらしい彼女は八戒の作る料理を食べてはレシピを知りたがり、書き留めている。
元来勉強が苦手ではない光織は教えたことを砂が水を吸い込むように憶えていくので、八戒としても教え甲斐があって楽しかった。
「卵白を泡立てるときの注意点は?」
「卵黄が混入しないようにすること。混入すると泡立たなくなる」
歌うように答えながら、光織は卵白ではなく生クリームをハンドミキサーで泡立てていく。
「光織は飲み込みがはやいですねぇ」
「八戒先生の教え方が上手なんだと思います」
「もう教えることも無いかもしれません」
「そん、な……?」
そう呟くと、弾かれたように光織が振り返った。
途端に視界一杯に広がるのはどアップの何か。
少し頭を反らしてピントを合わせると、どうやらそれが本だということが分かった。
「『新・料理の細道』上級編?」
「はい」
ひょこりと本の後ろから顔を覗かせて、八戒が機嫌良く応える。
「僕が教えることはもうありませんから、これからはふたりで学んでいきましょう」
僕からのプレゼントです、と本を手渡され、光織はこくこくと何度も頷いた。
「これからもお願いします!」
「こちらこそ」
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