日中はまだまだ暑いのに、それでも秋を感じたのは、金木犀の匂いがしたからだ。
ふわりと甘いその香りはどんなに微かでも、すぐそれだと分かる。
去年までは、いい匂いだな、としか思わなかったのに、今年は何だか胸の内側を擽られるような気がして悟空は立ち止まった。



「いま、光織の匂いした」
「え?――ああ、金木犀」



学校からの帰り道、すんすんと鼻を鳴らす悟空に光織も倣った。
少しばかり早くなった夕暮れに、ひんやりとした風が通り抜ける。



「私のシャンプー、金木犀のだからかな」



一緒に暮らし始めた頃より伸びた髪がさらりと揺れた。



「もう、秋なんですね」






Flavor







煙草に火を点けようとしたした手が、ふと止まる。
そのままぐるりと辺りを見回し、三蔵の視線はある一点に定まった。
自社ビルの1階、メインエントランス横にある喫煙所に入る手前。
長方形に剪定された緑の塊のような木は、その至る所に小さな橙色の花を無数につけていた。

そっと指を伸ばしてその花に触れる。
強い芳香に眩暈がしそうだ。
指先には頼りなくやわらかい、すべやかな花の感触。



「玄奘」



不意に、低く艶のある声が耳を奪った。
振り返ればそこに立っていたのは随分と久しぶりに見る顔だ。
三蔵とて人の事を言えたものではないが、その鋭すぎる眼光も、顔に走る大きな傷も驚くほどに一般人から浮いている。



「紗烙」
「こっちはまだ暑いな、服を選び間違えた」



三蔵とそう変わらない、女性としてはかなりの高身長であるにも拘らず細く尖ったハイヒール。
刃物のように切れ味鋭く毛先を整えられた漆黒の長髪も、仕立ての良いスーツに肩から掛けた深い藍色のコートも、どこからどう見てもヤのつく自由業だ。



「ババアに呼ばれたか」
「そうでもなけりゃ山奥から這い出て来ないさ」



取り出したタールの重い外国製の煙草に火を点け、紗烙はそのままジッポを三蔵へ差し出した。
そこでやっと思い出す。自分が今ぼけっと煙草に火も点けず突っ立っていたということを。



「あぁ」



彼女の手の中で揺れる火を貰おうと顔を近づけ、



「――いや、いい」



ぺき、と、指で己の煙草を折った。
紗烙はそれについて言及するでもなく、そうか、とジッポをしまうと紫煙を吐く。



「金木犀が見事だな」
「そうだな」
「玄奘」
「あ?」
「好きな女でもできたか」
「っ、あぁ?」



脈絡なく投げられた爆弾に対応しきれず、不自然に切羽詰まった声が出てしまう。

その反応に紗烙はにやりと口の端を上げた。
その眼差しはさながらおもちゃを見つけた子供だ。



「ほーぉ、お前をその気にさせる女か。是非一度見てみたいもんだ」
「なに馬鹿言ってやがる」
「待て、当てようか。家庭的な女だろう、くるくるとよく動いて家事なんかをまめにやるような」
「大外れだ、くだらねぇ」



この話は終わりだとばかりに、折った煙草をゴミ箱へ放り捨てる。
甘い甘い金木犀の香りに誰を想ってしまったのかなんて、口が裂けても言えなかった。






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