たくさん食べる

 あらかたの家具を配置し終わり、イライくんの友人たちは帰っていった。夕飯くらいご馳走したい、と言ったけれど、彼らは口々に「邪魔はしない」と笑って帰路に着いた。いい友人を持ったね、とイライくんに微笑めば、ぼくにはもったいないくらいだ、と笑っていた。
「なんか変な感じ」
 彼らへのお礼は後日改めてするとして、部屋の中を見渡す。リビングに置かれた真新しいソファにとんと音を立てて座り、クッションを抱き寄せた。電源の入っていないテレビの液晶を眺める。大きな南向きの窓からは、そろりそろりと近づく夜の気配が感じられた。
「今日からここに住むんだね」
「そうだよ、ぼくと、あなたと。二人でここで、暮らしていくんだ」
 隣に腰かけたイライくんが、わたしの頭を抱き寄せる。手のひらの熱がじんわりと伝わって、心地よかった。
「雪之丞さんと一緒に居られてよかった」
「甘えんぼだなあ」
「今だけはね」
 ぎゅう、と強く抱きしめられ、こめかみに口づけを落とされ、どうしようもない気持ちになる。これはたぶん、幸せとか、愛おしさとか、そういう泣きたくなるほど大切な感情で、今まで触れることのなかったもので、それをイライくんが与えてくれているのだ。わたしもそれに応えようと思った。素直になれるかどうかは別として、心から大切に思って、思い続けて、いつかそれを伝えたいと思った。
「さて、雪之丞さん、そろそろお腹が空かないかい?」
 柔らかいイライくんのにおいに包まれてうっとりしていると、イライくんが顔を覗き込んでそう言った。わたしはぼんやりした顔をしていたかもしれない。少し恥ずかしくなって、けれどどうしようもなくて、うん、と頷くしかできなかった。
「この近くに、おいしいラーメン屋さんがあるんだけれど。もし雪之丞さんが嫌でなければ、引っ越し祝い……は、また別にいいものを食べに行くとして、とりあえずそこで済ませないかい?」
「ラーメン! いいね、わたしラーメン好きだよ」
「ふふ、知ってる。さ、行こうか。夜はまだ少し冷えるから、上着を忘れないで」
「うん、イライくんもね」
 本当に彼は母親みたいだ、とたまに思う。濃紺のロングカーディガンを羽織って、真新しい鍵を持つ黒い上着のイライくんを見る。二人してスニーカーを履いて玄関を出た。いってきます、の声がふたつ響く。思わず顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。細められた瞳は青い宝石みたいできらきら綺麗だった。食べてしまいたいなあ、と口角が上がると、イライくんはまるでそれがわかっているみたいに恥ずかしそうに笑った。
 店は小ぢんまりとしていて、赤い暖簾と提灯がいかにも個人経営といった感じで、券売機もない店内はけれど、そこそこに混み合っていた。わたしは、イライくんがお勧めしてくれた味噌ラーメンを頼むことにした。イライくんも同じものを、餃子と炒飯のセットで頼む。彼は本当によく食べるから、きっと替え玉も頼むだろうなとわかっていた。
「いつもはね、友人たちとくるんだ」
「お友達との秘密のお店にわたしも連れてきてくれるなんて、うれしいなあ」
「嫌味かい、やめておくれよ。連れてきたかったんだけれど、友人に、女性をラーメン屋に連れて行くのは気の利かない男のすることだと言われて……」
 カウンター席に腰かけて水を飲みながら、イライくんがうろうろと目線をさまよわせる。
「……それで、でも、今日からは、ぼくらは……その、家族みたいな、そういう、そういうものだろうと思って、だから」
「うん、うん。ごめんね、わたしが悪かったね。ありがとう、うれしい」
「……うん」
 真っ赤になってしまったイライくんに、つられてわたしも頬に熱が上がりそうになり、必死で水を飲んだ。隣でイライくんは指と指をせわしなげにすり合わせている。落ち着かない気持ちを紛らわせるときの彼の癖だ。ああ、かわいいなあ、と何度でも思う。かわいいなあ。かわいいひとだなあ。
 そうしているうちに、目の前に注文していたラーメンと、イライくんの餃子と炒飯が置かれた。イライくんは、餃子の皿をこちらに寄せて、一緒に食べよう、と笑ってくれた。
 二人して隣同士に並んで、はふはふとラーメンをすすって、おいしいね、と笑い合う。餃子は五個お皿に乗っていたので、イライくんが、みっつ、わたしがふたつ、わけて食べた。イライくんはあっという間に食べ終わって、やっぱり替え玉を頼んでいた。
「イライくんがたくさん食べるの、かわいいなって思う」
「っげほ」
「えっ大丈夫?」
 食べ終わって、水を飲みながら隣でラーメンをすするイライくんを見ながらそうつぶやくと、突然イライくんがむせた。慌ててピッチャーから水を注いで手渡して背中をさすると、一息にグラスを空にして涙目でこちらを見てくる。
「……家に帰ったら、覚悟してほしい」
「なにを」
「いろいろと」
 なにを覚悟すればいいのだろう、わたしは。耳まで真っ赤になってスープを飲み干すイライくんを見ながら、わたしはぼんやり、ああ血圧上がっちゃうよ、と見当違いなことを考えていた。