「この前あのパン屋でいろいろ買ってみたんだ。クロワッサンとかブリオッシュとか…焼き菓子もおいしかったし家族もよろこんでくれたよ」
「ほんとに? わ…私もブリオッシュ好き。その、クロワッサンもバターいっぱいだからおいしくて…」
「期間限定のパンも結構並んでたからなにを買おうか迷ったな」
「そうだよね…私はこの前、さくらあんぱん買ったんだけど、も、もしよかったら、おすすめだよ」
「苗字さんはこの手の話になるとわかりやすく目の色が変わるね」
「え……!」
私が前のめりになるのが彼にとってはツボらしい。私が赤らんだ顔を隠そうと俯いている目の前で彼は軽やかに笑っている。
お返しをしてからというもの、幸村くんとは定期的に話す機会が増えた。事前に約束を取りつけるというよりは幸村くんが気軽に声をかけてくれることのほうが多い。前もって精神的にゆとりがないと会話をするのが苦手な私にとっては、たしかにいい練習になっている。最近は彼に声をかけられても以前のようにしどろもどろにならなくなった。
「君みたいに甘いものが好きな友達がいるんだ。同じテニス部にいるんだけど…あ、ちょうどいた」
彼が私から視線を逸らして、前方を見やった。私もならって後方へ振り向くと、真っ赤な髪の男の子が廊下を歩いていた。幸村くんが手をあげるとその子も気づいて早足で私たちのほうへ近づいてきた。
「彼がそうなんだけど…」
「どうかした? 幸村くん」
真っ赤な髪に、くりくりとしたパープルの目。私と幸村くんを不思議そうに交互に見やった。
「てか、幸村くんと苗字って仲よかったんだな」
幸村くんがまばたきをした。そのまま私のほうをじっと見つめるのでさっと目を逸らす。
「苗字さんのこと…知ってるのかい?」
「まあ、おんなじクラスだし」
「え?」
「……わ、私も、丸井ブン太くんということは知っています」
「…………」
「…ん? なにこの空気?」
「……クラスメイトとは思えないほど他人行儀だね」
「ち、ちがうんです、そそそそれはその…!」
丸井くんと私は同じクラスなのだ。けれど、面と向かって話した回数だけでいうと片手で数えるほどしかない。クラスでも中心にいて、いつも場を盛り上げてくれる。髪色もさながら性格も表情もめっぽうあかるい。はきはき喋って、誰にでも気さくで、親しみやすさ満点。私とは正反対だ。幸村くんとはまた違った方向にある別世界に住んでいた。同じクラスにいるのに程遠いところにいる。私にとって丸井くんはそういうひとだった。
「まぁ苗字のこと気になってたはいたんだよな」
「え」
「でもさ、なんかこう…バリアっていうか話しかけにくいオーラっていうの? そういうの苗字の周りにあるから絡んでも迷惑そうとかって考えちまってさ」
「クラスにいてもいまいち接点ねぇといえばそうなんだけど…」丸井くんは苦笑いしていた。友達のつくりかたがわからない。どうすればうまく話せるのかわからない。私自身はもちろん、私がはなからあきらめていた感情を持っていること自体にも、誰も興味がないものだと思っていた。
でも、そういう感情は相手に無意識に伝わっていたんだ。実は開いていた扉があったはずなのに、私は気づかないまま通り過ごしていたのかな。
「苗字さん、意外と大声も出すしいっぱい話すんだよ。ね?」
「ゆ、幸村くん、そういうことではなくて…」
「あーでも、苗字って教科書読むのうまいよな」
「…え」
「すらすら読めてるし、前のほうの席にいてもよく聞こえるし、いつも発表とかも上手いしさ」
誰も興味がないものだと思っていたのに。ほとんどのひとにとってはあたりまえにできることだから、頑張ったところで誇れるようなものでもないと思っていたのに。
ふと幸村くんと目が合った。やさしく微笑っていた。よかったね、と、言ってもらえた気がした。いま、変な顔してないかな。隠せているかな。だって、こんなにも胸のなかがくすぐったい。
「でもっていざ話しかけたらすげぇ警戒されるし全然喋ってくんねぇからよくわかんなくて、あんま絡みに行かねぇほうがいいのかと思ってたんだよな」
途端、メンタルが急行直下した。そうです、極端な人見知りなんです。
「これからというわけだね」
「は、はい…」
「あ、あとさ。前から気になってんだけど」
丸井くんがぐっと前のめりになるので、こちらもぐっと身構える。
なんだろう。なにを言われるんだろう。
「苗字の弁当ってすげぇうまそうだよな!」
え、気になっていたのって、そこ?
「なんかTHE女子の弁当ってかんじで、カラフルでぎゅうぎゅうに詰まってて美味そうで…俺の弁当量重視だからどうしても茶色くなっちまうからな」
「たしか苗字さんが自分でつくってるんだよね?」
「へぇ…すげぇな!教室出るときとか苗字の机の前通ると見えて気になったっつーか、まあ…なんかじろじろ見てるみてぇだし言いにくいだろぃ? マジで引かれそうだし」
お昼はひとりで黙々と食べているので丸井くんが私の机のそばを何回通り過ぎたかどうかはまったくおぼえていない。とはいえ、自分のお弁当がひっそりと観察されていたかと思うとちょっと恥ずかしい。でも、
「料理、まだ慣れてなくて…練習中だから、そう言ってくれて…うれしい」
教室のなかで聞こえる会話の節々から察するに丸井くんは日頃から料理はしているようだ。お菓子つくりも得意らしい。上手(であろう)なひとにそう言ってもらえるのは純粋にうれしい。
とはいえ、いつのまにか見られていたんだと思うとそわそわする。丸井くんに見せるため…ではないけれど、もっと見映えよく頑張りたいな。などと思っていると
「昼飯いっしょに食わねぇ?」
頭のなかがフリーズした。
昼飯いっしょに食わねぇ?
だめだ。リピートしても理解できない。
「ん?なんか俺やべぇこと言った?」「大丈夫。ちょっと追いつくのに時間がかかりそうなだけだから、つづけてもらっていいよ」「ほんとに?」幸村くんと丸井くんが私を置いてラリーを飛ばしているのがぼんやり脳内に響く。
「俺もたまに朝弟の弁当つくってんだけど苗字のやつ参考にできそうな気がしてさ。つか、マジうまそうだし」
「あ、えっと? あの、その」
「苗字さん、いつもひとりで食べてるみたいだしたまにはいいんじゃない?」
「は、はぁ。その……私で、よければ、その」
「おっ。じゃあ今日さっそく食わね?」
「え、え?」
「あ、なんか用事あるなら明日とかでもいいぜ」
このさきもぼっち飯で生きていくと思っていたのに?この私が誰かとお昼?しかもあの丸井くんと?こころの準備をがっちり用意したいのに今日?いくらなんでもフットワーク軽すぎませんか?そして今日が無理だとしても明日以降の実行が確約されている?展開が急すぎてついていけない…!
「ど、どどど、どうしたら…!」
「…俺、やっぱ地雷踏んでね?」
「苗字さん、ゆっくり深呼吸するといいよ」
「幸村くん、完全におもしろがってるだろぃ」
にこーっと満面の幸村くんスマイルを凝視して意識を取り戻そうとしてみるが、なかなか落ち着くのに時間がかかりそうだ。三回ほど深呼吸をしたところで、はっと気づいた。
「あ、でも」
「ん?」
「そ、その…家庭科のパッチワークの宿題がまだ終わってないから、今日はちょっと難しい、かも」
放課後に地道に進めていたけれど、思っていたよりもてこずってしまった。明後日には提出だからもう本腰を入れなければいけない。
「あーあれか、たしかに今週だもんな。じゃあ手伝うぜ?」
「えっ」
「ジャッカルが!」
「って俺かよ!」
「お、よく聞こえたじゃん!」
「わざと聞こえるように言ったんだろ…」
丸井くんが親指でぐっと指さした後方にはあきれた顔でため息をつく褐色肌の男の子。丸井くんの隣によくいるから自然と名前は知っている。丸井くんが「ジャッカル」と呼んでいる、桑原くんだ。こっちこっちと丸井くんが手を振って桑原くんはとりあえず…といったようすで来てくれた。ふたりが並んで立つ見慣れた光景が遠くではなく、こうしてすぐ目の前にあるのはとても新鮮だ。
「ジャッカル手芸とか得意だよな? 俺も手伝ってもらったしちょうどいいだろぃ」
「でもいきなりジャッカルとふたりっきりは苗字さんには厳しそうだけど…俺も付き添ったほうがいいのかな?」
「ゆ、幸村くんもいるのですか。というか初対面の方にいきなり手伝ってもらうのはなんというかもう申し訳ないというかそもそもこの状況がわからないというか」
「でもそっちのほうがすぐ終わるしさ、ジャッカルもそういうの気にしないだろぃ?」
「俺もせっかくだからもうちょっと手を加えようかな。蓮二にも『精市は調理実習よりも裁縫の課題とテストに力を入れたほうがいい』って言われたし。やっぱり苗字さんと一緒に俺も入れてもらっていいかな?ジャッカル」
「……俺と苗字?がいっさいついていけないまま話が進んでるよな。大丈夫か?これ…」
大丈夫じゃないです、桑原くん。
そのお昼は丸井くん主催、桑原くんと幸村くんと合同の、『ランチタイムおよび家庭科の宿題を終わらせよう会』が開催された。
前半戦は丸井くんとふたりきりでのお昼ご飯。
「俺もあのパン屋よく行くぜぃ。クリームパンとかすげぇうまいんだよな」
「あ、私も…好き。バニラビーンズもちゃんと入ってて、その、クリームもいっぱい入ってるから…」
「だよな!あとメロンパンもよくね?」
丸井くんはさすがというべきか、ひととの距離を詰めるのが抜群に上手だった。単調な私の受け答えを物ともせず話題を提供してくれる。会話中に後ろ向きに考えなくて済むのが、ほっとできた。(緊張しすぎてあまり喉を通らなかったのもあるけれど)丸井くんに唐揚げをひとつ試食してもらうと絶賛してくれた。味付けが彼のお好みにあったようだ。
「あ、おかず減っちまったよな。俺のも食う?」
「え、私はそんな」
「ほい」
「え? あ、ありがとう……あ、おいしい」
「お、よかった」
ふわふわしていて綺麗な黄色の卵焼き。味付けは私と似ていて、ほんのり甘い。
「苗字の弁当ってピックいっぱい刺さって保育園の弁当みてぇだよな」
「え、えっと…うぅ…」
「あ、隠すなって!」
「…こ、こどもっぽいって自分でも思うけど…そ、その…」
「俺も弟のに使うから馴染みあって。あったほうがかわいいよな」
「…うん」
「俺、地味にオムライスの上にのってる旗とか好きだし」
「…わ、私も、好き…」
「ははっ、やっぱり?」
すごい。あの私がクラスメイトとお昼と食べている。かたことだけれど、会話もそれなりにできている。信じられない。
ちょうど食べ終わったころには桑原くんと幸村くんがやってきて、後半戦が幕開けだ。この短時間で初体験ばかりを詰め込まれるなんて、私にとってはかなりのハードスケジュールだ。
桑原くんはとてもやさしく丁寧に教えてくれた。幸村くんは手を動かしながら器用に桑原くんと丸井くんと部活のこととかその他諸々を話して、私もときどき話に入っていた気がするけれど内容はちっとも覚えていない。緊張が勝っていたのもあいまってその時間はほぼ作業に費やしていた。おかげさまで完成間近にまで進められたのでよかった。でも、せめてもう少しだけこころの準備がしたかったな。
「今日はいきなりでお互いよくわからないままだったな」
「う、うん…」
「でも、つぎもなんかあったら遠慮なく声かけてくれていいからな? 宿題とかそういうのも関係なく、な」
桑原くんは苦笑しながらもやさしく、そう言ってくれた。急なことばかりで追いつけなかったけれど、こうして幸村くん以外のひとと話せていることにおどろきだ。
「桑原くんも丸井くんも、幸村くんも…みんな、ありがとう」
「じゃあ明日も決まりだろぃ」
「え?」
「弁当、明日も食おうぜ」
「ああああ明日も…!?」
幸村くんに助けを求めるように顔を向けてみるも「よかったね」とそれだけだった。放置スタイルに方向転換するのが早すぎる。
丸井くんはからっと笑って、自分の席へと戻っていった。私はぼうっとしていまだに思考がうまく働いていない。
「緊張していたわりには結構話せてたね」
「ほ、ほとんど話せてないし吃ってばかりだよ…」
「ふたりともなんてことなさそうだったよ」
「そうだったのかな…? なんだかいろいろあったから、あんまりおぼえてなくて…」
わけもわからず事がとんとん進んでいく。いま思い返すとあれは、私がこころの底であこがれていた景色だった。昼休みに集まってお昼を食べるのも宿題を協力するのも別になんの関係なしにただ話すのも。そんな空気に全然慣れていないから落ち着かないけれど、きっと家に帰ってからようやくじっくりと嗜んで、浸れるのだろう。
「ありがとう、幸村くん。まだよくわからなくて焦ってばかりだけど…みんなで集まって宿題するとか、お弁当のおかず交換するのとか楽しいなぁって…こういうこといつかできたらいいなって夢、だったから。こんなの、私ひとりじゃなにもできなかったと思う」
いつも彼がつないでくれる。彼がいなければ一年間丸井くんと交流もないまま桑原くんと話す機会さえなかったかもしれない。私は彼に甘えてばかりだ。
「君らしくて、いい顔だね」
「…顔?」
「ふにゃっというか、へにゃっというか、なんというかそういう顔?」
「!?」
褒められた気がしない。ぎゅーと自分の頬をつねった。そういう顔とは、つまり変な顔ということだ。「そんなことしなくてもいいのに」くすくす笑いながらつねり続ける私の手をやんわりと解いた。
「俺は好きなのにな」
そんなにもやさしい瞳で言わないでほしい。ほんとうに逃げられなくなってしまいそうで、こわくなる。
お礼を言ってもよかったけれど、まともに顔を見られる状態ではなかったから、やめた。
幸村くんの手。自然と繋ぎ合っているだけの瞬間だとわかっていても、はなれるのが名残惜しいなんて思うようになったのはいつからだろう。
幸村くんはきらきらした世界を見せてくれる。はじめのころは幸村くんと話すと、悪い意味で胸が鳴っていた。つぎの言葉を出すのに焦って、焦るほど気持ち悪くなって、このひとを怒らせたくないとかそんなことばかり考えていた。でも、いまは全然そうじゃない。無性に暑くなることはあるけれど嫌だと思わなくて、まだ話していたいなんて思うようになった。少しだけ忙しない胸の音も全然苦じゃない。
どうしてそうなるのかは、いまはまだ、気づきたくない。
「つぎは苗字さんが主催でやってみなよ」
「え?」
「さっきみたいに宿題をみんなでするとか、お昼を食べるとか、そういうの」
幸村くんは平然と言ってのけるが、それは私にとってはとてつもなく高いハードルだ。お弁当を一緒に食べることでさえも緊張しっぱなしだったのに。
「そんな、い、いきなり私には…みんなも部活があるし、みんなのタイミングがいいときに言ってくれたほうが……」
「苗字さんだって家のこともあるし忙しいのはお互いさまだよ。予定が合わなかったらまたどこかで調整したらいいわけだし」
「で、でも、断られたらどうしようとか考えるとなにも言えなくて…めんどくさいとか思われたら…私はもう…」
「ネガティブだなぁ」
「幸村くんが誘うのと私が誘うのとでは天と地の差があるわけで……!」
「なんにも変わらないよ。さっきだってもう打ち解けてたじゃないか」
「そ、そんなことは……」
「苗字さんならそういう手応えとか表情とか察せるだろうし…それにまずはやってみないと相手が自分をどう思ってそうか、そういう手探りもできないだろ」
きめつけはよくない。物ごとを第一印象や噂だけで推し量るのはやめようと決めたばかりなのに、やはり対人関係にもなるとその心ぐせが作用してしまっている。
「君が誘ってもみんな快くのってくれるよ」
「……そうかな」そんな光景がまるで思い浮かばない。
「そうだよ」寸分の間もなく幸村くんが肯定する。
彼がきちんと考えてそう言っているのかどうかわからないので、信用していいもなのか。私の考えていたことを察してか「もしほんとうにみんなが断ったとしたら俺がなぐさめに行くよ」などと言うので「幸村くんひどいよ」負けじと非難したら「でもひとりは確約だろ?」彼はおどけていた。
たしかに、ひとりは確約だ。そう思えば案外なんてことないものかもしれない。
「ちょっとずつでいいんだよ」
もしも私が誘ってもあえなく玉砕するようなそんな状況になったとしたら、彼のことだから、軽くあしらって笑いもするだろうし、やさしく労わってもくれるのだろうなと、想像できた。
*
放課後は教室に残り、宿題を済ませていた。ノートと教科書を閉じて鞄へと仕舞う。最後に本でも読んで帰ろうかと思い、鞄のなかを探っていると、どこにも見当たらない。
頭のなかを巡らせていると、じわじわと思い出した。
昨日の放課後は、音楽室で読書をしていた。いつもはそんなこともないのに、この日はなぜだか読んでいくうちにうとうとしてしまって、持っていた本も落としそうだったから天板のうえに置いていた。そうして目を開くと、いつのまにか時計は帰らなくてはいけない時刻をとっくに指していたから慌てて音楽室を出て行ったのだ。
今日は音楽室へ置きざりにした本を取りに行かなければならない。
夕方ごろに涼んでいた空気もいまでは消えてしまって、いまではこの時間になってもきつい陽ざしが校舎の窓を貫いて差し込んでくる。朝ほどではないにしても、所々蝉の声がじりじりと鳴っている。みんなの肌もうっすらと焼けあがっている。
夏は嫌いだ。目眩がするほど焼けつく陽光も暑さを増長させるような蝉の声も。
────いつになったらあそこから出られるの?
あの日々の記憶もすべて。
二号館の階段を上る。
この扉を開くと微かにむわっとした熱気が身体に当たって、なかに入ると、黒いピアノが迎えている。
そしていつも思う。
ここに来たところで、なんになるんだろうと。
今日もそのはずだった。
「あ…………」
扉を開いたさきには、黒いグランドピアノが待っている。ピアノの前に居座る銀色の髪と鋭いまなざしも連れ添って。
その日は局所的な夏日だった。毎日のことだけれど、その日は特にそうらしかった。
彼と出会ったのは、そんな日だった。
その日は学校には居残らずまっすぐ帰るつもりでいた。終礼直後に学校を出るのもあって当然陽は強く、若干遠回りにはなってもなるべく校内で影を選んで歩いていた。
私の足が、ぴたりと止まった。
ひとりの男の子が校舎の壁にもたれかかって座っている。膝の上に手を置き、頭が項垂れている。髪の色だけで誰なのかわかった。
仁王くん、というひと。
幸村くんや丸井くんのようにわかりやすくはないけれど、間違いなく黄色い視線をうんと浴びている人物のひとりだ。ほかにわかっていることといえば、テニス部所属。あとは不思議な相性なのかよく紳士的な柳生くんといる姿を見かけるということだけ。テニスの強さも人柄もまったく知らない。もちろん、彼が暑さにどこまでの耐性があるのかも。
体調不良なのだろうか。私も暑さにはかなり弱いからつらさはよくわかる。最近校内でも熱中症にかかる生徒が増えているといっているし項垂れてもおかしくない。
かなり気になる。しかし話しかけるのはこわい。ただの休憩だとしたら? せっかく話しかけても私のほうが不審がられる展開だってありうる。
「(でも…………)」
こういうところから、変わらないといけないのかな。困っているかもしれないひとの前でさえいつまでもこんなままじゃ、このさき一生ほんとうにだめな人間になりそうだ。
────ちょっとずつでいいんだよ
幸村くんだってそう言っていた。
そう、ちょっとずつ。
彼をもう一度見やって、唾を飲み込む。音を立てないようひっそりと近づく。
「あの、大丈夫…ですか?」
のっそりと銀色の髪が動く。口もとのほくろが鋭いまなざしの含む色気を引き立たせている。
「……」
「……あ、あの?」
「……」
「(なにか言ってほしい……!!)」
彼は無言だった。なにも言わずただじっと私を見つめている。せっかく勇気を出したのだから報われてほしい。
そういえば、彼の顔をこうも間近で見るのははじめてだ。長い前髪。異常にととのった顔立ち。鋭くて、艶かしい目もと。
「あぁ」彼がぽつりとつぶやいた。「幸村といるお姫サマじゃったか」
彼は言った。鋭い目に、猫背、少し気だるげな声のトーン。聞き間違いか?とも思ったけれど、それを聞き返す勇気さえもあいにく持ち合わせていない。どう切り返したらいいんだろう。彼がなにか台詞をつづけてくれることを期待して待機してみるが、かなしいかな、彼はふたたび無言を貫いた。
「あ、あの、もし体調が優れなかったら保健室とかにでも、その…えっと……」
必死に練り出したけれど、これが限界だ。どうしよう。これ以上どう会話をつづけたらいいんだろう。幸村くんと話せるようになったからわりといけるかもと思っていたのに、イレギュラー対応をこなせるまでには時期尚早だったようだ。
「そんないまにも食われそうな顔しなさんな」
彼がこちらを見あげて、そう言った。
若干彼の纏う空気がやわらいだ、ような気がする。彼なりの気遣いなのだろうか。彼の不思議な発言には戸惑うものの私が勝手に緊張しているだけだ。そんなつもりはなかったのですが、と、言おうとしたときだった。
「仁王ーーー!!はやく帰って来んかぁ!!」
「あーあ、おしまいぜよ」
遠くからでも迫力のある怒号に思わず肩が跳ねる。彼はさも落胆したように一瞬天を見上げたが、どこか慣れた調子でのっそりと腰を上げた。
「まぁ、ただのサボりじゃから大丈夫じゃき」
サボりだから体調不良ではない。だから大丈夫。いや、それは別の意味で大丈夫ではない。
「さ、サボりって…ものすごく怒られるんじゃ」
「プリッ」
プリ? 最近流行っているのかな? なんて返すのが正解なんだろう? 全然わからない…!
「ありがとさん。心配ご無用ナリ」
危機感のないゆったりとした足取りでテニスコートの方向へ彼は歩いて行った。彼はこのあとどんな制裁を受けるのだろうかと、おそらく彼よりも私のほうがひやひやしていたのはよく覚えている。
目があったのは一瞬のことで、彼はすぐに視線を下へ逸らした。彼の顔は隠れてしまった。ゆっくりと音楽室へ足を踏み入れた。ぎし、と木の軋む音が鳴る。おそるおそるピアノへと近づいていく。
鍵盤の前には、猫背気味の彼が本を手にして座っていた。グランドピアノ、体操服、仁王くん、読書。本来なら交わらないであろう要素がごちゃ混ぜにされた奇妙な光景だった。私が隣に立っていながらも彼は黙々と読書に勤しんでいる。こちらへ視線を寄越さないことに焦りが募る。私はいつまでここに立てばいいのだろう。そのあいだにも彼は読み進めている。
ぱら、と、ページのめくる音が鳴ったところで、私はようやく口を開いた。
「そ、それ…私の、本」
声が裏返りそうになるのを必死に抑えた。彼が顔を上げ、こちらを見つめた。ばくばく鳴る心臓の音が彼にきこえてしまいそう。
ふいに彼が本を閉じた一瞬、伏せられた目がまるで流し目のようだった。彼がいつ本を差し出すのかじっと待っていると、
「これ、貸してくれんか」
ここでもまた思考停止に陥った。
めったに起こらないこの感覚をここ最近は何回も味わっている気がする。
「そ、それは、ええっと」
「つづきが気になるんでの」
「……どうぞ」
「ピヨっ」
これ以上考えてもきりがないので、大人しく引き下がった。もうどうとでもなってください。
彼は立ち上がって、本を片手にすたすたと歩いて音楽室を後にした。扉が閉まったあとも私は呆然として立ち尽くしていた。
仁王くんも本が好きなのかな。とりあえず貸してしまったけれど、いつかは返ってくるんだろうか。借りてそのまま…とは思いたくないけれど、
「は······!!」
それよりも、だ。
口に手を当て、わなわな震えた。
私が読んでいた例の本は、いわゆるライトノベルというやつだ。しかもラブコメ要素満載系のストーリー。
(どどどどうしよう···!こんなの読んでるとか思われたらすごく恥ずかしいよ。というか仁王くんもそういうのいつも読んでるのかな。つづきが気になるから借りたってことだよね? あぁ、せめて貸したのが私だっていう事実を消してほしい···!)
これが純文学とかなら全然よかったのに。
とうとう頭痛まで襲ってきた。柳くんとお揃いのブックカバーをつけているので表紙バレしないことが不幸中の幸いだ。万が一彼が教室で読んでいたとしても安全なはず。いまさら気づくなんて遅すぎるとも思うけれど、突然彼が音楽室にいて他人の本を勝手に読んでいるシチュエーションを即座に理解するほうが無謀だ。あぁ、今日の朝にでもすぐ音楽室に取りに行けばよかった。
ぐったりと深いため息を吐いた。
彼が返す頃には、私をどんな目で見てくるんだろう。
*
その日は意外にもあっさりと訪れた。
翌日のことだった。私が音楽室で弾いているところを、彼は無遠慮に扉を開けて訪れた。私の身体はすくっと条件反射みたいに立ち上がった。
「おもろかった」
どうやら一晩で読了したらしい。ぽんと手元に本が渡された。
思っていた以上に単調な感想なので非常にコメントしづらい。しかしあのシーンがよかった云々を詳細に話されてもそれはそれで気まずいのでこれくらいでよかったのかもしれない。無事に返ってきた本をながめて、ほっと胸を撫で下ろした。
「お前さんは、そういうド直球な恋愛が好きなんか?」
…という、なんの変哲もない本の貸し借りで終わらせてほしかった。
「えっ、あ、あの」
「壁ドンとかお姫さま抱っことかベタな展開もあったのう」
「い、いや、それはその…!」
「今回が三巻っちゅうことはずっと追ってるようじゃが」
「ど、どうかそれ以上は…!」
いますぐにでも保冷剤がほしい。それくらい熱くてどうにもならない。単調どころかがっつり分析されている。彼はストーリーの内容よりも私の嗜好について考えていたのだろうか。お願いだから、どうかやめてほしい。
私が口をぱくぱくさせていると、彼はくつくつ笑いながら「すまんすまん」一応謝罪はしてくれた。
「次作もぜひ読ませてほしいんじゃが」
「おおおお断りしますっ」
「残念ナリ」
紛うことなき、確信犯だった。
そういえば、彼は体操服を着ているが部活はどうしたのだろう。掛け時計を見てもとっくに部活動ははじまっている時間だ。
「休憩しに来ただけぜよ」
「休憩、とは…」
「お前さんは察しのいいほうじゃろ?」
「…それは、つまり、その」
「暑いとどうも気がのらんのじゃ」
つまり、そういうことらしい。
彼は幽霊部員ではないと信じたい。丸井くんや幸村くんからもときどき彼の名前は出てくるのでそれなりの活動はしているはずだ。だからこそ、まずい。
「で、でも、はやく戻らないと怒られるんじゃ、」
「そのうち戻るつもりぜよ」
「そのうち、とは」
「知らん」
きっぱり。ここまでいくと清々しい。
規則に従順で協調性を求められる運動部で彼のようなひとが所属しているのが不思議でならない。
どうしよう、このまま放置してしまったら彼にはふたたび真田くんの怒号が待っているのだ。
先日の幸村くんとの会話を思い出した。
『昨日の部活、仁王くんってひと、怒られてなかった…?』
『仁王?あぁ、そういえばまたサボってたね。真田が怒ってたけどいつものことだから』
『えっ、いつもなの?』
『罰としてグラウンド五十周とかなんとか言われてたような? 先輩たちよりもずっと厳しいよね』
『ご!?』
『あ、そうだ。今日も屋上庭園に来ない?』
『い、行きたいけど、あの、それよりも仁王くんは大丈夫なのかな…!?』
『…仁王のことがそんなに気になるのかい?』
『だ、だって、恐怖の制裁が…!』
幸村くんに大丈夫大丈夫とながされてしまった(ほぼ棒読みだった)のでそれ以上は深掘りできなかったけれど、結構な大事件だと思う。彼は物ともしていないのだろうか。
「や、やっぱり、はやく戻ったほうがいいよ」
気が気じゃない私を置いて、彼はさっさと壁にもたれてどかっと床に座った。彼はすっと片膝を立てて、そのうえに手を置いた。
「さっきの、もう一回弾いてくれんか」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
私は立ち尽くしたままなにも発せずにいると、彼は口を開いた。
「お前さん、弾けるんじゃろ。あれをながしてほしいんじゃ」
「……でも、」
「寝れたら、戻れる」
私が弾けば、彼はすこやかに眠れる。私をなだめるための交渉条件のようだと思った。
「途中までしか弾けないよ」忠告したけれど「あぁ」問題なしを一周して興味がないとでも言いそうな簡潔な返事だった。彼は動く気は毛頭ないらしい。
椅子に座り鍵盤の蓋を開いた。一呼吸をしてから、指を動かした。
寝つけない夜に聴く曲はだいたい決まっている。私がいま弾いている音もついこのあいだの夜に聴いたばかりだ。うっとりとするくらい深い夜の底に沈んでいられる。
いまはもう、私の手からはこぼれ落ちてしまうけれど。
「そのまま、つづけてくれんか」
もうこれ以上は。
そう言おうとした手前、さえぎられてしまった。瞼を閉じている彼は意識が遠いのか声もどこかおぼろげだ。そして、それ以上話す気もないようだった。
ぐっと息を呑む音がきこえそうなくらい、ふたりもいる音楽室は静寂だった。私はもう一度鍵盤に指を置いた。
止まっては、弾く。その繰り返しだった。違う曲をつなぎながら延々と弾きつづけていた。
彼は眠りつづけていた。
時が止まったんじゃないかと思えるくらい、姿勢を一分たりとも崩すことも揺れることもなくじっと座っていた。
彼は夢をみているのだろうか。みているとしたらどんな夢だろう。
こんなにも脆い音でも、もたらせるものがあるのだろうか。
*
掛け時計を見ると、針があれからずいぶんと進んでいた。
さすがに起こしたほうがいいかと思い立ち上がったのと、彼が目を開いたのはほぼ同時だった。ぼうっとしているのか、どこか焦点が定まっていない瞳で床を見つめていた。しばらくしてから片目に掌を当てて擦りながら立ち上がった。
「ありがとさん。よう寝れた」
単調な感想。きっと彼はどの曲も途中で止まることに違和感を感じていない。気にならないというよりは、興味がないのだと想った。どれも最後まで完走した曲はなかったけれど、少なくとも彼の睡眠の手助けにはなれたらしい。
去り際に見た彼の目つきは、幾分やわらかくなっていた。
彼がいなくなったあとの音楽室で、ピアノをもう一度見やった。
弾きつづけてほしいと言われた瞬間、胸騒ぎがした。一曲一曲を最後まで終わらせられないどころか、曲そのものまでも忘れていたら、と頭を過ぎったのだ。
ここに来てもなんにもならないと知っておきながら、どうしてそうも失うことをおそれているのだろう。
もう、失っているのに。
「よかった」
忘れてない。
まだそこまでは、落ちぶれていない。
小刻みにふるえる手を抑えるようにぐっと両手を握りあった。
いつもならば校舎を出てそのまま校門へ向かうところだが、今日はテニスコートへと足を進めた。
仁王くんが心配だったからだ。
さぼったのは彼の意思だけれど、彼がさぼっていると分かっていながらそのお手伝いをしてしまったのは私だ。私にまったく非がないというわけでもない。
どうか穏便に済んでますように···と祈る気持ちでコートを遠目から観察する。コートをここまで近くで見るのははじめてだ。入学当初は一年レギュラー勢目当てで学年問わず生徒たちが集まっていたのが日常的な光景だった。
夕暮れ時ということもあってかいまはギャラリーはいないようだ。コートにいるテニス部もまばらで···
(あ、仁王くんだ)
真田くんが仁王くんに向かってなにやら話しているようだった。その他みんなもふたりを見守っているようで…嫌な予感がする。
もう少しだけコートに近寄ってみる。会話の内容が拾えるぎりぎりのラインまでだ。
「貴様はなぜ同じことを繰り返すのだ」
そうですよね、穏便に済むわけないですよね·····!!
真田くんの顔つきはとてつもなく険しい。なんなら青筋まで立っているようにも見える。腕を組み、仁王くんの前に威厳高く立っていた。
仁王くんの表情はここからでは見えない。しかしなんとなく、いやほんとうになんとなくだけれど、多分いつも通りで変わっていなさそうだと想像した。おそれているとかは、まずないだろう。
「暑いとやる気も起きんぜよ」
「たわけ!これくらいで気が滅入るようではこのさきどうするつもりだ」
「こればっかりは練習してもどうにもならんのじゃ」
「真田ー、もういいだろぃ。そいつがさぼるのなんかいつものことだし。つーか腹減ったからもう帰ろうぜ」
「なんだと?」
「って、ジャッカルが言ってたぜぃ!」
「って俺かよ!?」
「仁王くんが隠れる場所はなかなか特定しずらいですが···しかし柳くんでしたらもう把握済みでしょうか?」
「大方は予測がつくが、まだデータが不透明なところも多い。特に今日はどこに居座っていたのか複数候補があるからなんともだ」
「まぁ真田、今日はそのくらいでよそうよ。仁王は一年生のなかじゃ技術力は確かだし、今後も結果を残せる見込みもあるからね」
「幸村、貴様は甘いのだ」
「···暑苦しいのは部活だけでええんじゃがのう」
「仁王、貴様いまなんと言った」
「明日から頑張るなり」
「お前が言うとなんの説得力ないのも凄いよな」
「プピーナ」
「····ええぃ許さん!!貴様は今からグラウンド五十周追加だ!!」
(えええええええ!!)
がちがちのペナルティじゃないですか!どうするんですか!と内心で叫ぶも、当の本人は「おまんは先輩でもなんでもないじゃろ」さらりと言ってのけて全く意に介していないようだ。
なんでそんな平静でいられるのか。仁王くんの心臓は根っこ生えてそうだ。
どうしようどうしようと考えながらも、私の足は反射的に、真っ先にみんなのいるもとへ駆け寄っていた。
「すみません!!」
フェンス越しにみんなの視線が一斉にこちらへ向けられる。こんな大勢に注目を浴びることがないのでぎょっとするがそうも言ってられない。「あ、苗字さんだ」幸村くんがまっさきにこちらへ近づいた。
「苗字さんが覗きに来るなんてめずらしいね。どうかした?」
フェンス越しの彼はにこやかだが、私の胸中はそれどころじゃない。
「これはその、仁王くんが悪いのじゃなく、いや仁王くんも悪いんですけど私にも非があって!音楽室に来たとこを私がちゃんと止められなくって、あまつさえピアノを聴かせて仮眠のお手伝いまでしちゃって···!なんとか戻るようには言ったんですけど、私じゃ全然ダメで、私がもっと注意しなきゃだったのに」
「それは苗字のせいじゃない気が···」桑原くんがこそっと呟く。
「大方仁王が押し切ったんだろう」と柳くん。
「こここれは私にも監督責任があるので一緒にグラウンド走ります!せめて仁王くんと半分こで二十五周というのでどうですか!?体操服はないので制服のままでもお許しいただけませんか!?」
誠に申し訳ございませんでしたと、頭に血が昇るくらいに深く深くお辞儀をした。「すげぇな苗字、あんな喋るんだな」少し遠くで丸井くんの感嘆した声が聴こえた。一気に大声で喋りまくったせいでぜぇはぁ息切れが止まらない。やだな、これから走るのにもうスタミナ切れになりそう。
「あいかわらず苗字さんは苗字さんだね」
私の主張と幸村くんの台詞がまるで噛み合っていない。全然微笑ましい事態ではないはずなのだけれど彼だけ世界線が違うのかもしれない。あぁ、どうしたらいいんだろう。
「仁王といたのは、お前か?」
ぎろりと睨む真田くん。私はしんでしまうのでしょうか。
「そ、そ、その、こ、これは」
「真田、苗字さんは走らせちゃだめだからね。彼女がここまで言ってくれてるんだし、今回は仁王のことも免除でもいいんじゃないかな?」
「あ、あの、わたくしはどうしたら…!」
「なんにも気にしなくて大丈夫ってことだよ」
あぁ、神の子はどうやらお慈悲を与えてくださったようです。
真田くんは眉間に皺を寄せたままだったけど、彼も少しだけ力が抜けたのか「今後はない」と至極落ち着いたトーンに変わって心底ほっとした。
「つぎも同じ真似を起こすなら容赦はせんぞ」
「ええ子守唄だったぜよ。のう、またお邪魔させてくれんか」
「あのですね、仁王くん。さっきの話聞いてたかな?聞いてたんだよね?」
「貴様···!」
「仁王くんっ。せっかく許してもらえたのに···!」
仁王くんは反省しているのかしていないのかわからない。せっかくのお慈悲を無碍にするなんてもったいなさすぎる···!
真田くんが拳を作り震えている様子なんか全く気にせず、仁王くんは頭の後ろで手を組み空の遠くを見上げている。
そう話す幸村くんはなんとも爽やかでそれこそ「気にしていない」ようだった。
こんな冷や冷やする場面が日常だなんて、テニス部のみんなは凄いメンタルの持ち主らしい。
「唐突ですまないが、今日の仁王はどこにいたんだ?」
す、と柳君が横から入ってくる。手元にはノートとペンがあり、なにやらメモをしたがっているようだ。
メモをとるほどのことだろうかと一瞬思ったけど、さぼりの再発防止に貢献できるかもしれない。
「え、えっと···二号館の音楽室A」
「ふむ、はじめてきく場所だな。何階にあるんだ?」
「いちばん上の階で校舎の端···あのあたりかな」校舎を指差して位置を教える。
「なるほど。仁王は気に入っているようだったが、ピアノを聴かせていたのか?」
「うん。仁王くん、寝たかったみたいで、私が弾いてたんだけど、うまく断れなくて、その、すみませんでした···」
「たしかに仮眠にはちょうどいいかもしれないね」
「お、幸村もくる気になったかのう?」
「一度お邪魔してもいいかい?仮眠はパフォーマンス向上にもいいと言うしね」
「へっ!?いや、それは、そのっ」
「幸村、貴様まで道を踏み外す気か···?」
「安心しろ苗字。これは精市の冗談だ」
「でででも真田くんが怒ってる······!」
「仁王くんがご迷惑をおかけして失礼しました」
真田くんがピリピリしている横で、みんなは気にせず言いたい放題だ。
柳生くん、気遣ってくれてとても素晴らしいけれど私よりもケアすべき案件が目の前にありますよ。
「せっかくだから苗字さんも一緒に帰るかい?」
「えっ? わ、わたし…?」
「あ、時間大丈夫かな?」
「え、あの、大丈夫です」
「ふふ、じゃあ少し待ってて?」
「腹減ったなーなんか食いてぇ」
「昼に苗字からおかず横取りしてたのにか?」
「横取りじゃねぇって、おすそ分けだろぃ! あ、てかさ明日も弁当一緒な?」
「へっ? え、えっと、はい」
「苗字も嫌なときははっきり言っていいからな?」
「そ、そんなことは…お弁当は楽しみ…なので」
「それはワシも参戦してええんか?」
「お前は来んな」
「なんでそう厳しいんじゃ」
「なんでもだよ!」
「あ、あの……!」
「いまの苗字は俺たちの会話内容を脳内で処理するのに追いつけていない。コンマ一秒テンポを遅めるといった改善をしたほうがいいと思うが」
「(その情報が余計混乱する……!)」
英語のリスニングテストよりもよほど高難易度な会話のラリーに参加している。対集団と何年もまともに話していない未熟者に『これ』をこなせる気がしない。コツとかあるんだろうか。
「苗字さん、少しよろしいですか?」
少ししてからのことだった。柳生くんからそっと声をかけられる。足を止めると、彼もちらっと後ろを見やって、足を止めた。彼の神妙な面持ちに、私の肩に力が入る。喧騒が遠ざかるのを見計らってら彼が口を開いた。
「あの音楽室が取り壊されるかもしれないのです」
瞬間、頭を過ぎったのは殺風景な空間に構えた黒いピアノと、彼だった。