幽霊はいるか

「音楽室に出る幽霊の噂、知ってる?」

彼────柳生比呂士は、生徒会のなかで唯一の一年生だった。普段から周囲に気を配り、困っている人がいたら手を差し伸べる習慣を忘れないよう心がけている彼にとって、この学校に何かしらの形で貢献できたらと志して所属を決めたのは当然といえた。

入学して間も無くから生徒会に入る生徒も稀であったことと、新入生にまだ負荷の多い役割は任せられないという配慮も重なって目立った活動はまだできていない。

今日も生徒会室で雑務をこなしていた彼だが、ここ大一番とも言える仕事が舞い降りてきた。

「幽霊?ですか?」
「そう。どうやら二号館に開かずの音楽室があるらしくってね」
「開かずの部屋に幽霊がいるとは何とも典型的ですね」

ここ立海大附属にもジンクスがあるのは知っていた。校舎裏の木の下で告白すれば成就するだとか、購買で焼きそばパンを手に入れたら運気が上がるだとか、そういった類のものだ。
しかし先輩曰くその幽霊の噂は何年も前から蔓延っていたものではなく、最近ぽつりと浮かび上がった怪談らしい。

放課後、開かずの音楽室からピアノの音が聴こえてくる。
ありきたりな噂ではある。

他の校舎まで偵察をしておらず、そもそも二号館に音楽室があるのも彼には初耳だった。

「二号館って校舎自体が古めってこともあって、遠いいつかに改築しそうなんだって。でもそんな噂があったら手がつけられないって先生がビビってさ」
「つまり真相を確かめる必要があるわけですね。まぁ弾いてる方が『人』だったとしても、それは許可を得たうえで弾いてるのでしょうか」
「そこも確認した方がいいかも。ヒトだったらそれはそれで注意しなきゃだし」
「一年の私が指導して大丈夫でしょうか?万が一弾いてる方が上級生だった場合、先輩方が対応されたほうが穏便に済むことも···」
「俺も幽霊とかそういう類嫌いなんだよね!」
「そういうことですね。私は構いませんよ」

やれやれと困り笑いをする彼に対し、先輩は大いに感謝するのだった。それに加えて話が早くて助かると胸を撫で下ろした。こんな話に一年生を使うというのも多少の罪悪感はあるのだが背に腹は変えられないらしい。

そんな話あるわけが···と思う一方で、初めて任せられた大仕事の行く末はどうなるのか、柳生は内心好奇心に近いものを覚えたのだった。


*


部活動も終わりを迎える頃。同学年とのラリーを一通り終え、一呼吸整えるなか柳生はまた例の噂の対処について考えていた。
例の校舎に目をやる。
あの建物のどこかに知られていない音楽室があり、そこで誰かがピアノを弾いている。
誰が弾いているのか────ピアノを含むクラシックをよく聴く彼だからこそ単純に興味がそそられるというのもあった。






音楽室は二号館の、いまや誰も行き交うことのない最上階に位置していた。日が容赦なく照りつけるこの時期は夕方にかけても陽が明るいものの、こちらの校舎は年季も相まってなのかそれでも薄暗い。それがいい具合に雰囲気を醸し出しているし、不気味に思えなくもない。何かしら特殊な用がなければここまで行き着くことはそうないだろうし、存在自体に気づくのさえ中々難しいかもしれない。それらの要素が噂の発端になったのだろうかと推測していると、いつの間にか音楽室Aにたどり着いた。


僅かながら音が漏れている。
普段からクラシック音楽を嗜む彼は、奏でられているのはかの有名なあの曲と分かった。

ここで扉を開くべきか、否か。
柳生の手はどうも躊躇ってしまった。

開いて一歩踏み入れば、きっと演者はほぼ確実にその手を止めてしまう。人の気配が明確になればその存在を気にするに違いない。誰かもしれない『ヒト』にそんな配慮をしてしまった。
そう思えるくらいにはその音に没入したかった。
楽譜通りに弾いていないであろう、感情の機微を彷彿とさせる繊細な音色。

この教室で誰かが弾いているのは確かなのだから、もう少しだけ聴いてもいいか。正体をはっきりさせるのは後でもいい。任された仕事は放棄していないと正当なそれらしい理由を付けたのだった。

────そろそろ頃合いか、と思ったのと同時にその音色は止んだ。


半ば息を詰めた心持ちで、ノックを3回する。
扉を開いた。
この時点ですでに開かずという噂は嘘のようだ。

ピアノを隔てた後ろで一人の女子生徒と目が合う。やや張り詰めた面持ちで彼女が腰をすくっと上げた。

「申し訳ございません、お邪魔をしてしまって。あなたは···」

一言添えて丁寧な態度であろうと努めてみるものの、正体があのとき声をかけた彼女だったことに内心驚いていた。
困っている誰かに目を向けようと普段心がけている彼にとって、面識のない他人に声をかけること自体は日常的な習慣だった。
彼女もその対象だったが、あの日を境に強く印象に残っていた。

「あ、あの」僅かに開いた彼女の口からはそれだけだった。みぞおち辺りで両手を握りしめているその姿から緊張が読み取れる。


どう警戒を解こうかと思案しつつも、柳生はあの日芸術鑑賞会で見かけた彼女の姿も同時に思い起こしていた。


*


映画鑑賞が終わり、スクリーン会場からぞろぞろと生徒が出ていく。
一度指定の場所に集合してから、班で昼食休憩をとるスケジュールだった。

会場を抜け、広間へ出たところで柳生は端の方へと目が留まった。

広間のかなり隅の方で、同じ学校の女子生徒が背中を向けて立っていた。立ってはいたが、顔を俯かせて小さく体をすぼめている。嫌な予感がして、彼女の背後へ近づいた。

「失礼します···どうかされましたか?」

なるべく優しいトーンで後ろから声をかける。

「へっ!?」

大きく肩が跳ねて、こちらへと振り向く。
彼女の瞳には涙が溜まっており、その手にはハンカチが皺になりそうなくらい強く握られていた。

「いきなり申し訳ございません。···大丈夫ですか?」
「は、はい」

鼻を啜りながらハンカチを口に当てていた。そのせいで声がこもり、ただでさえか細い声はいまにも糸が切れそうだ。不安定、という単語がふさわしかった。

「このままどこかで休まれますか?確かあちらにソファがあった筈ですのでそこなら人気も少なくていいかと」
「そ、それは、大丈夫です、もう、お昼行かなきゃ、なので···」
「クラスさえ教えていただければ、担任の先生に適当な理由はつけておきますよ。あまり無理はなさらないほうが···」
「で、でも変に目立っちゃうし、それにこれは、その、ほんとうにどうでもいい理由なんです」
「どうでもよくなどありませんよ?そんな顔をされては────」


「感動しただけなんです······!」


震えていたが、はっきりと透った声。そしてズビ、と鼻を啜る音が口に当てられたハンカチ越しに漏れる。

「さっきの映画、すっごく良くて、もう色々止まらなくなっちゃっただけなんです···!だからもうほんとシリアスな感じとかじゃ全然ないんです申し訳ございません···っ!」

ぎゅっと閉じた目の端からぽろぽろと水の玉が落ちていく。頬が赤く染まり羞恥心やら何やらで、いろんな感情をなんとか抑え込もうと必死なのが伝わった。
なるほどとわかってしまえば、柳生の心情はかなり落ち着いた。思わず笑みが溢れていた。

「そうでしたか。確かに先ほどの映画は印象深いシーンが多かったですね。主人公が亡くなったヒロインを回想するあの演出が好きでした」
「わ、私もです。別れちゃうのにあんなセリフ残すとか無理に決まってます···!最初がなんてことない日常だけのシーンだったからその後の辛さとかが身に染みてくるといいますか。あと、ヒロインが一瞬振り向いたところもすごい伏線で、そこも最後に意味がわかるとまた泣いちゃって」
「確かに伏線の回収が違和感なく綺麗に纏まっていましたね。あからさまでないからこそ心に響くといいますか」
「そう、そうなんです。繊細な雰囲気だったけど驚くところも色々あって···」

自分の意見にこくこくと懸命に頷く彼女は、随分と感受性豊かのようだ。
いつしか廊下で見かけた彼女は大人しく控えめだった気がするが、いまこうして心に留めた感情をありのままにさらけ出している姿を見るとかなり印象が変わる。いい意味で。

うんうんと彼女の声に耳を傾けていると、途端にはっと我に返ったようだった。

「すすすすみません!こんなべらべらと、いきなり、その!」
「いえいえ、いいんですよ。こうして共有するのも有意義ですから」
「そ、その···こんなどうでもいいことにつき合わせてしまって···すみません」
「気になさらないでください。感無量の涙とわかってなによりですよ」

笑いかければ彼女は安心したように「ありがとうございます」とちいさく答えた。力なくではあるがそっと笑い返したのを見て、再び柳生は安堵した。

彼女が落ち着いた頃、広間にはほとんど生徒がいなかった。エスコートするよう彼女の歩幅と合わせて、出口へと足を進める。
ふと柳生は出口付近に設置された自動販売機に目が留まった。

「少し待っていただけますか」一声かけ、自動販売機へと早足で駆け寄る。

戻ってきた柳生の手に、小さなペットボトルのジュースが握られていた。そっと苗字の方へと差し出される。

感極まったり泣いたりで忙しなかった頭の中が、ようやくおとなしくなったということもあり、苗字はなにも考えずただそれをぼんやりと眺めていた。

「こちらで目を冷やしてください」
「···へ」
「とはいえもう昼食休憩に入る時間ですので、周囲に感づかれないようにという点では気休め程度にしかならないですが···」
「え、そんな」

ここでようやく彼女の理解が追いついた。泣き腫らした目を労ってくださいということだ。
ただ映画終わりにやたらと泣いて感想を言いふらしただけなのにそこまでしてもらえるなんて。まして知り合って間もない生徒に。
普段から遠慮しがちで何かと気を使う苗字の心情は、有り難さよりも居た堪れなさが先行した。必死にお断りの態度を示しそうとする。

「あ、あの。ほんとうに、なんともないので、だめです」
「しかし腫れてらっしゃいますし、せっかくの綺麗な顔が痛々しくて勿体無いですよ」
「いや、まったくそんなことはなく、もうここまでいくと修復しようがないです。せっ、せめてお金だけでも」
「この程度なんともありません。そのまま受けとってくださったほうが私としてはよろこばしいのですが」
「では、なにか他に···!」

なんとかお返しができたらと思うものの、どれだけ通学鞄を漁ってもコンビニで買ったグミしかないことに苗字は絶望する。おまけに開封済なので到底渡せるものではない。
焦りが募る彼女の片目に、ひんやりとした固い無機物の感触がした。

「ひゃっ」
「私がいつまでも持っていたら温くなってしまいますよ」

片目越しに見た柳生はとても涼しげな笑顔を向けていた。眼鏡のフレーム越しにはやさしい色が灯っていた。急に襲ってきた冷たさでピンと張り詰めた体は、その表情を見ることでみるみるうちに力が抜けていく。そして同時にほっと小さな安堵のため息を漏らす。
スマートな振る舞いをする彼の様相とは反してやや強引な行動に思えて意外だったが、せっかくの厚意は素直に受けとるべきだったと苗字は自分を恥じた。

苗字がそのままペットボトルを持ったのを確認し、柳生の手がしずかに目もとから離れた。

「なんだか···すみません」
「気になさらないでください」
「あの、お名前は、その···」
「柳生比呂士と申します。よろしければ、あなたのお名前は?」
「あ、失礼しました。えっと、苗字名前です」
「そうですか。苗字さん、よろしくお願いします」
「は、はい。よろしくお願いします、柳生くん。ほんとうに···ありがとうございました」

丁寧に腰を曲げる彼女に対し「とんでもないです」柳生はにこやかに掌を向けながらどうとでもない、といった仕草をした。

そうして彼らは別れた。


*


「お久しぶりですね」

ひとまずと思い、ありきたりな挨拶から探ってみる。

「こ···このまえは····ありがとうございました」

収縮している細い肩、か細い声、上目遣いでこちらのようすを伺う揺れた瞳。
緊張の色が薄れるには少し時間がかかりそうだと、柳生はひとり察した。

「いきなり失礼しました。にしても···素晴らしい演奏でしたね」

お世辞ではない、素直な感想だった。

「そんなことはないです」

ゆるく首を横に振り、伏し目がちに答える彼女の様子に、今度は柳生のほうへ陰りが移った。

それは『とんでもない』という謙遜ではなく、『全くもってそうじゃない』といった否定の響きにきこえた。警戒を解くための緩衝材のつもりで述べた感想ではなかった。しかし期待(もしかしたらささやかでも笑ってくれるのではという期待)が外れた、彼女の空虚な返答には、なにか違ったのかと柳生は考えずにはいられなかった。

彼女はそうして「ありがとうございます」とつづけた。そう返すべきといった感じの口ぶりではあった。

「あの、どうして···」

本来ここに来た目的を忘れてはいけない、とちいさく鳴るその声で柳生は我に返る。たまたまこちらへ寄った時に聴こえてきたから、と言うべきか迷った。まだ精神的に揺れている彼女にはそれくらいがちょうどいいのでないか。
しかし然るべき目的があるのだからやむを得ないと思い直し、口を開いた。むしろ遠回しな説明は余計に不安を煽るような気もしたからだ。

「単刀直入で申し訳ございませんが、こちらの音楽室はどなたか先生に使用許可をもらっていますか?」
「いえ、誰にも···」
「そうでしたか。実習に使われるような教室は···特に放課後、定期的に使用するとなると事前の申請がいるようでして」
「えっ。そうなんですか、す、すみませんっ」

困惑気味に両手を前に組みながら軽く体を曲げる仕草を見る限り、ほんとうに知らなかったのだろう。

「いえ!私もこの校則を最近知ったばかりですので」
「見回り、ですか?···なにか、委員会の方ですか?」
「生徒会です」

その一言で彼女の顔がみるみる青ざめていく。

「すすすすすみません!そんな重大な罪を犯してたとか全く知りませんでした!い、いやこんなのただの言い訳ですけど···も、もうこんなことしませんっ!!」
「あぁっ、どうか落ち着いてください」

別段生徒会はこの学校を牛耳っているような仰々しい組織ではないのだが、『生徒会からお呼ばれがきた』ともなれば、大きなことをしでかしたと捉えられても仕方ないのかもしれない。

柳生は早々に、ここへ来るまでに至った経緯を説明した。






「ゆ、幽霊···!?」


顔色は戻ったものの、結果、彼女をさらに動揺させた。

「え、えっと、私は···幽霊になっちゃったんですか?」
「ほんの些細な噂ですけどね」
「ど、どうしよう···」

口に手を当て悶々と考えこむ彼女に、柳生はそっと言葉を続けた。

「必要な書類を先生へ提出するだけで事足りますので、近々お渡ししますね。正式な許可が降りればそんな噂もなくなると思いますし」
「あ、そうでしたよね···」
「またどこかのタイミングで、あなたのクラスへお邪魔させていただきます」


「でも」、と彼女は口を開いた。
そうしてすぐに閉ざされた。


一瞬の間ではあったが、その瞳はもう揺れてはいなかった。
ただそれも彼女が俯いたがために、見ることができたのもほんの一瞬だった。

「いえ、なんでもありません」

なんとも気が残る言いかただった。
ほんとうに大丈夫かと念を押したかったが、教室内の掛け時計が目に入り、それも躊躇われた。

そろそろ部活へ戻らなければならない頃合いだった。


「苗字さんは普段敬語で話されるのですか?」
「そういうわけじゃ、ないんですけど」
「そこまで固くならなくても結構ですよ。私のはただの癖ですのでお気になさらず。むしろ砕けてもらえるとうれしい限りです」
「は、はい。あ、うん」
「それではまた」


広い音楽室の真ん中で立ち尽くす彼女を残して、柳生は足早に階段を降りていった。

  

神さまの通り道

scene