「こんな話のあとに心苦しいのですが…形式上、どうしてもこちらが必要になってしまって」
手渡されたのは一枚のA4用紙だった。
あの話のあと、次の日には早速柳生くんがクラスに来て、必要な書類を渡してくれた。
書類とはいってもたった一枚の紙きれだ。
学年や名前など基本的な所属項目、そして使用目的や理由。
免罪符みたいだと思った。
これさえあれば、あそこで弾いていられる。
ならば、これがなければどうなるのか。
このままなにもせずに、免罪符としての役割を持たせずに、これをただの紙切れにしてしまったなら。
大きい空欄に目が留まった。
なぜあそこで、弾くのか。そういう理由。
ただの空白を眺めているだけなのに、頭のなかはどんどんもやで埋め尽くされた。
虚ろになっていくなか、思考も纏まらないなかで、ひとつだけはっきりと自分に問いただすことができた。
「期限はないのですが、なるべくはやくいただければと」彼はしばし黙って、つづけた。「よければほかにも弾けるような空き教室を探してみますよ。いい具合に見つかるかは難しいのですが、」
「大丈夫」私はさえぎった。「なければそれでよかった部屋だったから」
お許しを乞うための真っ当な理由は、果たしてあるのだろうか。
*
昼休みも終わりかけの頃。
丸井くんとお昼を食べ終わったあと中庭から階段を上がり、渡り廊下を歩いていたときだった。
「苗字さん」
振り返ると、幸村くんがいた。
「今日は丸井と食べていたの?」
「うん。丸井くん、クラスの係があるからさきに別れたんだけど…幸村くんは食堂?」
今日は、音楽室には行かなかった。
あれからたったの一度も幸村くんには話していない。
あの日音楽室で弾いていたのは私だったことも、いまも弾きつづけていることも、その音楽室がなくなろうとしていることも、なにもかも。
彼からもいっさいその話題にはふれてこない。まるで示し合わせるかのように。
「焼き魚定食がおいしいんだよ」
「幸村くん、お魚好きだったよね。食堂、いつも混んでて大変そうだから…ちょっと行きづらくて」
「それが案外時間帯によっては空いてるスペースもあるんだよ?」
「え、そうなの?」
「今度一緒に行こうよ」
あの音楽室がなくなると知ったら、彼はどう思うのだろう。
私は、どうしていくのだろう。
「幸村、すまん。少しいいか」
ちょうど廊下の角を曲がったところだった。互いに軽い挨拶を済ます程度ですれ違おうとすると、彼が気づいたように幸村くんへ声をかけた。
先日の一件で苦手意識を持ってしまったひとだ。先入観で判断しないようにと決意したのに私はまだまだ精進が足りない。
幸村くんとよく一緒にいる光景はよく見かける。幸村くんの温和な笑顔を日頃浴びているはずなのだけれど、彼の纏う空気がふやけた瞬間を見た事がない。もちろん、笑っている瞬間も。
「今週の日曜日は空いてるか? 親戚が来るのだがそのときに母がお前も呼んでご馳走したいと言ってな」
「そういえば…しばらく行ってなかったね。せっかくだしお邪魔しようかな」
「急ですまんな。ほかに所用があればそちらを優先して構わない」
「いいよ、午後からは空いてるしまた連絡するよ。佐助くんも来るんだろ?いまどんなかんじか気になるし、会ってみたいな」
「特に変わっとらん。あいかわらず騒がしくてたまらんが」
「それは真田の前だけなんじゃないかな?」
「な……っ!」
真田弦一郎くん。
真田くんとは幼なじみとは聞いていたけれど、家族ぐるみでお付き合いがあるくらい仲がいいみたいだ。相反するふたりのように見えて、幸村くんのやわらかさと真田くんの屈強さがいい塩梅をとっている。
「今日は仁王来るかな?」
「このあいだは苗字さんが見つけたんだよね?」などと突然幸村くんが私に促したではないか。今日ちょうど彼には仁王くんとの一件を話したばかりだった。とはいえどうしてここで私に振るのでしょうか。どう反応したらいいのかわからないし、非常に困るのですが。……もしかして、わざと? 案の定、真田くんの眉間の皺が濃くなる。あぁ、お願いだからぶり返さないでほしかった。
「奴のサボりはどうにかならんもんか」
「頻度もそう多くはないし気にするほどでもないと思うけどな」
「部の士気が乱れかねんだろう」
真田くんがため息を吐いた。幸村くんや周囲からしたら気にするほどでもないことだが真田くんからしたらたった数回でも由々しき事態なのだろう。真面目に加えて『ストイック』という言葉が著しく似合っている。
そんなことを考えていると、ふと真田くんが私へ視線を寄越した。
「俺の顔になにかついてるか?」
心臓が跳ねる。ごくっと唾を飲み込んだ。
「す、すみません。その…なんでもありません」
「苗字さん、最近俺と仲よくしてもらってるんだよ」
え、ここで唐突な紹介!? 仲よくしてもらっているのは私のほうだよ幸村くん。
「そうか」
彼はそれだけだった。
しばらく幸村くんと会話をつづけたあとは、これといった事もなく別れた。ほっと胸を撫で下ろす。真田くんの姿が完全に見えなくなったところで幸村くんが言った。
「真田は苦手かい?」
頷きも否定もしない私に幸村くんはくすっと笑った。痛いところを突かれたようで、思わず目を逸らした。
「そ、その……こわいひと、なのかなって…」
「真田が来た瞬間、俺の後ろに隠れていたからそうかなとは思ったんだけど」
「えっ!? うそ…」
自分の身体を見てみると、幸村くんと廊下を並んで歩いていたはずなのにいつのまにやら彼の少し後ろへと私の足は位置していた。身体まで条件反射で引き下がっていたなんて。「小動物みたいで見ていてなごんだよ」幸村くんは呑気に(と言ったら失礼だけれど)笑っているが、いたって笑いごとでは無い気がする。
「幸村くんと仲がいいから全然悪いひとじゃないとは思うんだけど…」
「真田と君もすぐ仲よくなれると思うよ」
「そうかな…一対一で話す想像もできなくて」
「なら蓮二もいれたらいい緩衝材になるかな?」
「か、緩衝材って」
幸村くんとこんな話をしていた数日後に、あの事件が起こるなんて思いもしなかった。
*
立海大の周辺といえばご飯屋が立ち並ぶ「めしロード」が有名で、そこから外れた場所にもお店は点在している。
その外れた道沿いに、駄菓子屋があることを丸井くんが教えてくれた。テニス部のメンバーとたまに寄り道しているようで、駄菓子屋の前に置かれているガチャガチャをたまに回すこともあるんだとか。
ついこの前出かけた際に、キャラクターショップでまだこじんまりとしたスペースではあるが、かわいいキャラがいた。
『うさいぬ』という子だ。
最近じわじわ人気が出ているようで、SNSもチェックしていたら最近ガチャデビューを果たしたんだとか。
うさいぬはまだメジャーなキャラとは言えない。もしかしたらここは穴場スポットかもしれないと思い寄り道してみたのだ。
駄菓子屋の前に着き、お目当てのガチャが真っ先に目に入る。
(あった!)
やっと見つけられた。
早く回したい。
回したいし、目と鼻の先にあるのだけど、足がそこから進まない。
(な、なぜあなたがそこにいるのですか······!?)
『皇帝』真田弦一郎くん。
神の子といい皇帝といいマスターといい立海には異名持ちがなぜそうも集結するのだろう。
いくつか並んでいるなかでも、彼はわざわざうさいぬガチャの前に立っている。険しい顔つきで腕を組んで、仁王立ちしている。とてもガチャガチャをする様には見えない佇まいだ。
怒っているんだろうか。でもこれに怒ることってなんだろうか。まさか、うさいぬに対して?その子に罪はないんだよ···!と説得したい。
彼の周りだけ気圧がものすごく押されてるというか、そこに踏み込んだら息苦しくなりそうなくらいには重いオーラが漂っている。ひとを見た目で判断しちゃいけないというけれど、さすがにこれを見てもらえればたいていのひとは同意してくれると思う。
固まっている私のようすに彼が気づいたのか視線があった。眉間にぐっと皺を寄せている。咄嗟に視線を逸らし、慌てて駄菓子屋の中へ半ば逃げる勢いで入っていく。ただ店内をうろちょろするだけだと気まずくなり、適当にお菓子を買うことにした。
去り際に首を後ろへやってみると、やはりさっきと変わらずガチャをじっと見て立っているだけだ。いつまでああするつもりなんだろう。
「(ガチャしたかったな……)」
明日、再チャレンジあるのみだ。
(なぜまたいるんですか······!!)
ビシャアアアと頭に強い雷が打ちつけたような衝撃だった。
昨日と全く同じ光景がそこにあった。
表情もオーラも鋭いそのままの姿だ。
連日ここに来るとは、うさいぬに並々ならない恨みがあるのかもしれない。
もうやめようか。と、一瞬考えがよぎったけど
(いいえ、ここで引いたらそれこそ負ける···!)
ボスに立ち向かう勇者の気持ちがちょっとだけわかった気がする。たかだかそのレバーを回すだけの行為でオーバーな表現かもしれないが、それほど彼の気迫は凄まじいのだ。
とりあえずガチャとかなり至近距離で立っている彼に場所を譲ってもらうところからだ。
というか、回してもないのにそんなに近くにいる必要があるのかなとつっこみたくなるけれど。
「あ、あの!」
拳を握りしめながら、彼と向き合う。こころなしか彼の目の奥が鋭く光っているように見える。こんなの二重にも三重にも緩衝材が必要だ。
「なんだ」
低い声に体が震えそうだ。
「そ、その···」
「······」
「え、えっと····」
「······」
「引いても、いいでしょうか」
「····構わん」
彼がすっと身体を引いた。あれ? 案外、あっさり譲ってくれた。ひとまず第一関門はクリア。しかし完全に去ったというわけでもなく、私がお金を入れて回している一連の動作にもかなり強い視線を感じた。…ほんとうになにがあったのかな。
不安になりながらも、いざ手に入ってしまえばもうそれに夢中になっていた。気持ちが早ってカプセルをその場で開く。
あぁ、やっと出逢えた。のんびりした愛らしい顔とご対面できて感動ものだ。
ここまで安心感と達成感に満たされたガチャはそうそうない。いまこの瞬間、挑戦者にしか味わえない景色を手にしたのだ。
さっさと帰ろうかとフィギュアを鞄へしまおうとしたら、
「少しいいか」
皇帝は易々と帰してくれないらしい。
「は、はい」
ずん、とこちらに向かってくる。
中一の男の子にしては身長が高い。柳くんも高いほうだったけれど彼の場合はより威圧感を増長させる要因になっている気がする。私を少し見下ろす形に自然となってしまう。彼の被っている帽子が目元の影を濃くさせているので恐怖度の上昇は留まることを知らない。
逆鱗に触れる何かをしてしまったのかな。ただうさいぬが欲しかっただけなのに。幸村くんにお願いしてついて来てもらったほうがよかったかな。
どんなお叱りを受けても、ぜんぶ受け止めるしかない。
ごくりと唾を飲んだ。
「良ければ、俺の持っているものと交換してくれないか」
「·········へ?」
あまりに意外な問いかけに、しばらく固まってしまった。
そしてその固まりがほぐれた後も素っ頓狂な声が出てしまった。
さっきの台詞、彼が言ったのだろうか。
彼は鞄から取り出し、そのまま手を差し出した。
男の子らしい大きな掌にはちょこんとうさいぬのフィギュアが載っていた。あのガチャシリーズのものだ。
「俺も回しているのだが···被ってしまってな。それだけがちょうど当たらんかったのだ。お前が良ければだが···」
気まずそうに話す目の前の彼に、何度もまばたきをしてしまう。さきほどまでの威厳はどこへやら。
「ほ、ほんとうに?それ···いちばん欲しかったの」
「そうだったのか?」
何度も首を縦に振ってしまう。真田くんとのトレードが成立したのである。
「あ、ありがとう···ございます」
「礼を言うのはこちらのほうだ。ありがとう」
彼のさらりと述べた感謝の言葉に私はなぜだが圧倒されそうになる。
「俺も連日試したがなかなか集まらんかったからな。これでやっと全種類制覇できた」
「···コンプリートしたの?」
「ああ。なかなか長い道のりだった」
全六種類だったはずだ。一回400円と思うとたしかに長い道のりかもしれない。
「わ、すごい。そんなにうさいぬ、好きなんだね···?」
「ち、違う!これは俺が欲しかったのではない!けっして頑張って集めていたとかそのために毎日ここへ通っていたとかそういうのではない!」
「え、あ、ごごごごめんなさい!」
「これは···お、弟が好きだと言っていたので、代わりに引いていただけだ」
「そそ、そっか」
あまりの剣幕にびっくりしてしまう。
気恥ずかしそうに視線を逸らして目元を赤らめる様子がかなり新鮮だ。私が想像していた人物像とかなりギャップがある。
弟思いのいいひとなんだな。にしてもあんなにこわい顔をしなくてもよかったんじゃないかな。
なにはともあれ手に入ってとにかくよかった。
なんだかこの二日間、厳しい冒険をした気分だ。
「かわいいから気になってたんですけど、でもそんなにグッズないから…ここでゲットできてほんとうによかったです」
「····」
「あっ···!ごめんなさい、いきなり、どうでもいいこと···」
「いや」
「?」
「俺も···かわいいと···思わんこともない」
コホン、と軽い咳払いをする彼の眉間の皺がやわらいでいる。
真田くんって、もしかしたら、もしかしたらなのかな。
「ほ、ほんと?···なんかこう、あのゆるさが癒しを与えてくれるというか、ほっこりするというか」
「そ、そうだな」
「SNSに四コマ漫画があがってる日もあって、それも好きで···」
「それはなんだ?」
「えっと、公式アカウントがあるので検索したら多分出てくるかと」
「SNSとはなんのことだ?」
どうやら、そこからだった。なんて説明したらいいんだろう。みんなが当然のように使っている文明コミュニティをイチから教える経験はそうない。ましてや同い年の子に。
実際に見せたほうが早いと、スマホを彼の方へ見せた。真田くんはとても真面目に聞いてくれて、私の拙い説明でもなんとか理解してくれたようだった。
「こういうのなんですけど」
「ほう······こんなものがあるのだな」
彼の瞳がきらきらしているように見えなくもない。弟くんのために追っていたつもりが、だんだんかわいく見えてしまったのかな。もしそうだとしたら、かなり微笑ましい。
「これはどうやって見るのだ?」
「え、えっと、」
スマホも持っていないとかならどうしようと思っていたけど、さすがにそれは持っているみたいだった。
名前は本名でいいのか、ここまで個人情報を教えてしまっていいのかとか、工程を踏むごとにいろんな質問がきた。
威厳高く見える彼が不思議そうにスマホを操作する様は幼く見える。
こうして真田くんは無事SNSデビューを果たし、初フォローはうさいぬ公式アカウントとなった。
「よかったですねっ。これでうさいぬの最新情報も通知がくるから···」
「そうか···礼をいう」
「···ふふっ」
「む···笑うでない!確かにかわいいと思わないこともないが、もっと前から知っておきたかったなどとは断じて思っていない!」
「ご、ごめんなさい!その、えっと、違うくて」
ぶんぶんと手を振って否定の意味を必死に表す。
突然の彼の剣幕に心臓が飛び跳ねる。
「その、このままうさいぬのこと、もっと好きになってくれたらいいなというか···好きなものが共有できることはうれしいから」
顔がにやつくのをなかなか抑えられない。きっといまの私は変な顔をしているんだろうな。
「そういえば幸村と交流があるといったな」
「はい、幸村くんにはいつも仲よくしてもらって」
「あのときはすまない。自己紹介もせず、お前の名前を聞きそびれてしまったな。俺は真田弦一郎だ」
「そ、そんな···私は苗字名前ですっ。よろしくお願いします」
「そう畏まらなくていい」
彼は校内で有名人なので名前はとっくの前に知っていたけれど、こうして面と向かって会話ができるなんて思ってなかった。私、真田くんと話せてるんだ。
弟くんのためとはいえ強面な彼が可愛らしいキャラのことを追いかけている姿を想像したらかわいい。かもしれない。
彼にこんな心境を知られたらきっと怒られるので、とても本人には言えないけれど。
「あ、あのっ」
「?」
「その…今日はありがとう。いろいろお話できてよかった、です」
笑ってはいなかったけれど、彼の表情はずいぶんとやわらかくなっていた。
「あぁ、これからもよろしく頼む」
これからも、という言葉が彼の口から出てきたことに、胸が弾んだ。
彼とはそこで別れた。
*
翌朝、廊下で通りすがった幸村くんに声をかけようとしたところで、隣に真田くんも立っていた。幸村くんはもちろん、真田くんにも目を合わせて挨拶をした。
「お…おはよう」
「おはよう」
吃ってしまったけれど、なんとか成功。幸村くんは一瞬おどろいた顔をしていたけれど、その二言のやりとりですべて察したみたいだった。
「よかったね」
幸村くんが微笑ましいものを見つめるような目をするものだから無性に気恥ずかしくなった。熱くなった頬を冷ますために手を仰いでみるけれど、それも含めて幸村くんがにこやかにながめているのでやっかいだ。いまいち状況が掴めない真田くんに、幸村くんがこたえた。
「真田にもっと愛嬌があれば遠回りせずによかったのにって話」
「…どういう意味だ、幸村」
「真田は気さくとかではまったくないけど、根っこはいいやつなんだよ」
「余計な世話だ」
「あ、あの」
「?」
「そ、その…これからもよろしくね」
背筋が伸びる思いで彼を見上げた。
「こちらこそ、よろしく頼む」
彼の目はとてもやわらかくなっていた。
「にしても、どういうきっかけで?」
「えっと…うさいぬがかわいいねって真田くんと話してて、だから、もっとグッズの情報とか交換できたらいいなって。真田くん、弟思いだから」
「弟?」
「?」
「真田に弟はいないよ?」
「えっ」
「……」
「で、でも、真田くん、弟のために集めてるって言って…?」
「真田って意外とかわいいもの好きだったんだね? なにも隠さなくていいじゃないか」
「えっ? あの、その」
「……」
「(もしかして口外禁止だった……!?)」