いつか永遠になる日が来るとして

昼休みはときどき、幸村くんとは屋上庭園で待ち合わせて会うことが増えた。誰かと話す練習。いつその瞬間が来てもいいように、なるべく詰まらせないように。独り立ちには程遠いけれど、過去の私に比べたら最近はその成果がかなり身についている気がする。入学したばかりの私からしたらこんなふうに誰かと待ち合わせて休み時間を過ごすことも考えられなかった。幸村くんはもちろん、テニス部のみんなとでも言葉につまずく回数が減ってきている。

幸村くんはホースで花たちに水やりをしていた。しぶきが陽ざしに反射してきらきら光っている。彼の少し後ろに立ちながら、私は周囲を見やっていた。この昼休み中に数回は通り過ぎる生徒がちらちら私たちを見ている視線を感じている。彼がいるからか、その隣にいる私への違和感からか、あるいは両方とも。
水しぶきがふわっと私の足もとのすぐそばへ降りかかった。驚いて、反射的に後退りした。彼はというと「どうかした?」いともさわやかに笑っている。

「ゆ、幸村くん」

「つい手が滑ったんだよ」

「…もう」

きゅっと蛇口を捻りながら、彼は声を出して笑っていた。私なりに睨みを利かせたはずがまるで効いていないようだ。「どうかした?」くるくると丁寧に青いホースが巻かれていく。

「なんでも、」

「なんでもないは禁止」

ぴしゃりと言い放たれる。やっぱり彼には敵わない。「なんでもないこと、なんだけど」彼は無言で私を見つめて、つづきを促した。

「いま、私が経験してることがどれもはじめてだから信じられなくて……休み時間はずっと本を読んだり、考えごとをしたりとかだけで、それも好きな時間だったけど…」

ひとりで過ごしているときは窓の外の景色は必ずもやがかかっていた。ほんものの空の色も揺れる木々の緑も曖昧で、不鮮明だった。いつになったら私の目にはたしかな景色が映るのだろうかと、いつも考えていた。

「昼休みにこんなふうに約束して、会って話すだけでも…私にとっては夢みたいだから。いまはこうしてる時間のほうがもっと好き」

この時間は色も音もたしかに感じられる。たとえ空が曇っていようと、花びらの先が少しだけ萎びていようと、うつろいでいくあらゆることを目に映せる瞬間がいとおしく思える。

「昼休みだけじゃなくてもたくさん叶えられるよ」

彼は言った。あたりが一段と、あかるくなった気がした。

「ほかにはどんな夢があるの?」

「……放課後どこかお店に寄って、買ったり食べたり、とか」

「じゃあ、きまりだね」彼が得意げに笑った。「今度またどこかで一緒に寄り道しようよ」

「…え」

「俺も君が叶えた瞬間をそばで見たいから」

ちっぽけな夢でも、一緒によろこんでくれるひとがいる。
もしもほんとうのことを言ってしまったら、彼はどんな顔をするのだろう。練習も明確も目的も抜きして、ただ会うためだけの時間が待ち遠しいのだと言ってしまったら。私にはまだ、その勇気がない。

「いいの?そんな、急に…」

「もちろん。ちょうど俺も行きたいって思ってたしね」

彼の笑顔に胸がきゅっと摘まれた心地がした。

冒険というのはありったけのアイテムを駆使してありとあらゆる試練を乗り越え達成するものだと思っていた。
こんなにもあっさり、叶ってしまっていいのかな。もったいないくらいのしあわせをこんなにもかんたんに手にしてしまったら、なにかこわいことが待ち受けているんじゃないかとさえ思う。
まして、隣にいてくれたらと一番に願うそのひととそんな瞬間を過ごせるのだから。





「あの、」

振り返ると、ひとりの女の子が立っていた。なにかを探るような表情をしている。名前は知らないけれど、集会や廊下でも見かけたことがあるから、多分同学年の子だ。慎重そうに伺う顔つきから、はじめて屋上庭園を訪ねたあの日を連想した。外したほうがいいだろうかと迷っていると、

「話してる途中にごめんね。苗字名前ちゃん……だよね?」

その子の目線はたしかに私へ向けられていた。予想外の質問におどろきつつも頷くと、やっぱり、といった面持ちで彼女の顔が晴れやかになる。

「立海にいたんだね。てっきり海外に進学するんだと思ってたけど、日本でもどこか音楽科のある学校は候補じゃなかったの?」

か細く相槌を打つと、彼女がはっと気づいて苦笑した。私の警戒を解こうとしているのかもしれない。

「私もピアノやってたんだ。途中でやめたけど。だから、あなたのことはよく見かけてて。名前ちゃん…じゃなくて、えっと、苗字さん、こっちじゃ有名人だったからまさかここで見かけるなんて思わなくて…つい。いまは? ピアノやってないの?」

過去の私を知っている誰もがあれにほとんどふれずに生活しているいまの私を見たら、意外に思われるだろうという自覚はあった。

私がしずかに肯定すると「そうなんだ」彼女はなんともいえない表情をした。単純に飽きたからだとかほかの道に進みたいからだとか、それらしい理由を話せば会話を繋げられたのかもしれない。

「話し中にごめんね、じゃあ」

しかし、それ以上こたえる気にはなれなかった。彼女も察したのか、あっさりとその場をはなれた。
床に染みた水跡をぼんやりとながめる。

「切り出していいか、ずっと迷っていたんだけど」

慎重な口ぶりで彼が言う。この話になるときまって身体は強ばっていたのに、いまは気味が悪いくらいゆるみきっている。

「あそこで弾いていたのは、君なんだよね」

もう逃げられない。彼の目を見て、そう思った。

「うん」

私がこたえようと彼の表情に変化はなかった。おどろくもなにも最初からわかりきっていたからだろう。

「あんな奥に音楽室があったんだね。部活が終わりかけのときになんとなく立ち寄ってみただけだったんだけど…ピアノの音が聴こえてきたから気になって」

「私もたまたま見つけたの。そこで、なんとなく。誰も来ないと思ってたからびっくりしちゃって…あのときはごめんね」

いつものように、なんともないから気にしないで、といったふうに彼は笑ったりしなかった。ただ黙考していた。私が探っているように、彼も探っている。

「もう一度聴きたいんだ」

息が止まりそうだった。言葉の意味を咀嚼したぶんだけそんな感覚に陥りそうになる。

「この前も仁王が聴いていたってことは、まだつづけてるんだよね?」

逃してやる余地など与えない。そう言われたような気がした。

「私は、最後まで弾けないよ」

私の知らないところで彼はあの音楽室の前まで訪れている。つまり、あの空間で音色が途切れる現象もその回数分だけ知っているはずだった。

「それでもいいんだ」

彼の語調に妥協は含まれていなかった。なにがなんでもという遠慮のなさがあった。


*


僅かに開いた窓の隙間から風が入り込み、カーテンがほのかに揺れた。掛け時計を見上げる。彼は、そろそろだろうか。ずっと座って外をながめていたはずなのに陽が落ちているのにようやく気づいた。ここにいると時のながれに鈍くなる。まるで時間が止まっているみたいに。

ノックが三回鳴った。木製特有のがたついた扉の開く音がした。
幸村くんと目が合った。あの日の彼はまだ体操服だったから、制服姿の彼とここで会うことも今日がはじめてだ。

「さっきまで弾いていたのかい?」
「ううん、これから」

彼が壁にバッグを置いたのを見計らって、蓋を開いた。私の座る位置から三歩ほど後方へと彼は立った。

鍵盤へと指を置く。指から腕へ、全身が固まったみたいに姿勢を正してじっと座りつづけていると、
「見られるとやりにくいかな」
私が指ひとつ動かさないのを気になったらしい。首を横へと振った。
「ちょっと、考えごと」
そうとしか返事ができなかった。

目を瞑り、感覚を静寂に包む。軽く息を吸ってから、瞼を開いた。
今日も同じだった。音が消えていく。あんなにも飽きるほど聴いていたはずなのに、あっけなく。否応なく暗闇へと身を置かれる。唯一判別のつく固い鍵盤の感触をたよりに、ゆったりと沈んでいく。

「ごめんなさい。昨日はもうちょっといけたんだけど」

首だけを捻って振り返ったさきの彼の表情には、微かなためらいが見え隠れしていた。

「どうしていつも、やめてしまうの?」

ふたたび彼に背中を向け、鍵盤を見つめた。

「きこえないの」

「きこえない?」

きこえない。
十一歳の冬、それは起こった。

曲にのめり込むほど遠ざかっていく。
道を歩いていく。音もにおいも、景色もわかる。すべてが鮮明ではっきりとした世界に囲われている。
そして突如として、終わりを迎える。強制的でタイミングもばらばら。そこに私の意思は介入していない。真っ暗な道に足を踏み入れている。みえない。きこえない。どうして進んでいけばいいのか、わからない。そうして音がほころんでいく。ペダルを踏む音も感触も鍵盤を打つ感触や弦の振動もわかるのに。

「ひとの声も外の音もそんなことにはならないのに…ピアノの音だけ、きこえなくなっちゃった」

椅子から立ち上がる。蓋へ手を置いたときだった。

「どうしてそこまで隠したがるんだい」

彼が訊ねた。

「放課後、君は図書室や中庭以外にもここにも来ていた。それでも君は『ここ』に通っているとは一度も言わなかった。まるでなかったことにしているみたいに」

まるで、はじめから存在していなかったかのように。

「最後まで完奏できてないのに『弾いてる』なんて言えない」

「最後までたどり着けないとだめなの?君の言いかたはまるで弾けないことが罪みたいだ」

どう足掻いても赦されない罪を隠すかのように。

「きこえないことは、そんなにも悪いことなの?」


─────失望した


全身にあの声がねじ込まれる。
金箔のおされた表彰状。腕に残った赤い跡。床に差し込む四角い、細長い光。

「苗字さん?」

顔を上げると、目の前に彼がいた。「大丈夫かい」眉根を寄せ、私の目を覗きながら真剣に案じている。笑いかけようと口の端を上げたが、顔の皮膚が引き攣っているのが嫌でもわかった。案の定、彼の表情は浮かないままだ。躊躇いがちに彼が口を開いた。

「無神経なことを、訊いてしまったかな」

「違うの」

力なく首を横に振った。俯いて、固く瞼を閉じた。
あの日の記憶はどこまでも追ってくる。拒絶するほど執拗に絡みあい、決別を委ねてはくれない。

「完璧にできないと弾いちゃいけないなんて、そんなことあるわけないよ」

彼の言う通りなのかもしれない。けれど、数え切れないほど無意識にでも強制的にでも刷り込まれた価値観は到底拭えるはずもなかった。

「幸村くんは、どんなひとを選手と呼ぶ?」

ユニフォームを着て、ラケットを携えているだけでなれるわけじゃない。

「私はテニスのことはわからない。でも、あのコートに立つひとたちはみんな、試合に臨む以上はやり遂げようとする責務を持っているはず。なのに……ボールが来るとわかっているのに追うこともしない、返そうとする意思も見せないような、試合を放棄したひとを選手とは呼べないでしょう」

奏者は壇上に上がった以上、観客を楽しませなければいけない責務がある。どんな理由であろうと、中断してしまえば『失格』なのだ。

「私は楽譜を手放した」

いまの私には、なにが残せるのだろう。空虚な器にその場しのぎで詰め込もうとしても、なんの結果ももたらさない。

「それでも君はここにいる」

彼の声はしたたかだった。ゆっくりと顔を上げる。彼の目が私をしかと捕らえていた。

「君がここにいるのは、それでもまだ掴もうとしているから」

私の苦手な瞳。あまりにも真摯だから無性に逸らしたくなる。澱みのない様が好きじゃない。あぁ、このひとはきっとこのさきたとえ揺らぐことがあったとしても最後には立って歩いていけるひとなんだ。漠然とそう思った。
そして私は、手放すことも掴むこともできず、まともに地に足をつけられないまま彷徨っている。

声がふるえそうになるのを必死に堪えた。

「もう、きこえないってわかってるの。ここじゃないところでも弾いてきたけど、やっぱりだめだった。いくらしてもおんなじだった。これ以上は無理なんだって悟って、はなれたつもりだった」

二度と弾くことはないと思っていた。

「それでもまだここで弾いてる。いつかここで弾きつづけていたらきこえるんじゃないかって信じたいんだと思う。なんにも変わらないのに、もう何回も」

これは努力でもなんでもない。ただ、すがりついてるだけだ。この椅子に座る度、ここにいてはいけないと宣告された気がした。座るべきは私じゃないのだと。どうしようもないくらいに惨く、しかしその通りだった。
ここが取り壊されると耳にしたときも困惑したけれど、同時になぜだかほっとした。いっそ壊されてしまえば強制的に退場せざるを得ない状況が完成する。無理やりにでもしなければ、しがらみからは解放されないのだ。『弾けない』理由が、私を守ってくれる。

「空っぽだからきかないで」

期待なんて、はじめから捨ててしまったほうが何倍も楽だ。

頭上から彼が、苗字さん、と呼ぶ声が聴こえた。歪みかけた視界を拭う準備をする。ゆったりと顔を上げた。

「俺からも言っていいかな」

彼は満面の笑みが目の前に待ち受けていたので私は拍子抜けした。にこやかになれる要素がどこにあったのかさっぱりだが、取り急ぎ頷くと、彼は満足気な顔をして私の手をとった。

「とても綺麗だった」

端的なひと言はまるで小学生のコメントみたいだ。
だからこそ、信じられた。お世辞じゃない。彼の声にはそう確信してしまうほどの実直さを含んでいる。

「君は不本意だったろうけど、音楽室の外でずっと今日はなにを弾いてくれるんだろうって楽しみだったんだ。ひとつひとつの音がとても繊細で、どれをきいても曲が『生きている』みたいだった。こういう感覚があるんだって…つぎはなにが聴けるんだろうって待っているあの時間が好きだった。どんな子が弾いてるのか、外でずっと気になってた。
やっぱり、君だったんだね」

うんとやさしいまなざしに、泣きたくなった。

「そんなふうに言われたの、はじめて」

「そうなの?」

意外だとでも言いたげに彼が首を傾げるから、苦笑してしまった。あぁ、飾っているわけじゃないんだ。

「また、弾いてくれるかい」

─────操り人形でしょ?

足をどれくらい出して、どのくらいの歩調で、なにを思って目指していたのかも、うまく思い出せない。
これまで、どうやって歩いていたんだろう。

「最後まで聴きたいんだ」

彼の響きには力強さがあった。

「最後なんて来ない」

「君ならかならずできるって信じてる」

「なにをもって?」

「俺が信じたいから」

「この世界に絶対はないんだよ」

「君が弾けない『絶対』もないだろ」

彼は言い切った。

「『君』が信じられない君を、俺は信じるよ」

「どうして、そんなに…」

「奏者は観客を楽しませる義務がある」

「ね?」涼やかに、意地悪く笑う、たったひとりの観客。「君の音ならずっと聴いていたいって、ほんとうにそう思ったんだよ」

私は何年、下手したら何十年という時間をかけて務めを果たさなければいけないらしい。ほんとうに果たせる保証がどこにもあるわけがないのに。
それでも、彼だけは信じてくれる。

「幸村くんは、わがままだね」

「付き合ってくれるかい」

賭けのようなものだと思ったけれど、違う気がした。

「しかたないから付き合ってあげる」

なけなしの意地を奮ってそう言うと彼はおかしげに笑っていた。遠慮のない彼にはこれくらいがいいのかもしれない。そして私は降参するしかないようだ。
きっとこれは、守られる保証がひとつもない約束だ。

「今日からここが君の居場所だよ」

この椅子に座りつづける理由がいまこの瞬間に完成した。彼に音を届けられるその日まで、延々と私はこの空間へ足を踏み入れるのだろう。

たとえ、どんな凄惨な痛みが伴うとしても。


  

神さまの通り道

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