「…………あっ」
感情の波が落ち着いたところで、ふと思い出した。私の声に幸村くんが首を傾げる。
「でも…ここは近いうちに取り壊されるんだよね」
旧校舎の改修を着々と進めるべく、まず手をつけられるとしたらこの音楽室Aだそうだ。いずれにしても、近いうちに無くなるのは確実なのだ。立入禁止になった時点で、ピアノにふれるどころか入ることもゆるされない。
「いつまで、弾けるのかな」
彼のわがままを叶えられなくなる。
「考えさせて」
彼はキッパリと言い放った。至って真面目な顔つきなので冗談を言い難い。「うん」頷いてはみたが、考えるもなにもなにがあるのだろう。
あんなに止まっていた手が、その日の夜にはすらすら手を動かせていた。書き終わるまでは一瞬だったけれど、一通りながめてチェックしてからが時間を費やした。鞄に仕舞う頃にはほんのちょっと、投げやりになっていた気もする。
例の書類を出すべく、翌日には柳生くんの教室を訪ねていた。以前の私なら教室に入るのに何時間もかかりそうだったが、教室の前に立って五分後くらいには入ることができた。幸村くんとの特訓の賜物かもしれない。
彼はすぐに気づいて、わざわざ席から立って迎えてくれた。
「あの、遅くなってごめんなさい。これ……」
「御足労ありがとうございます」
慎重にファイルから紙を取り出し、彼へ手渡した。
必要事項が漏れていないか確認しているだけだとはわかっていても、彼が目を通しているこの時間がどうも落ち着かない。
「理由、やっぱりそれだけじゃ···だめかな」
『ピアノの練習』
目的としてはシンプルすぎる。けれど、それしか思い浮かばなかった。
「ごめんね。その、もしだめなら書き直してくるね」
「一度こちらの内容で出してみますよ。受理される···とは私の口からはなんとも言えず申し訳ないのですが」
「その···これといった理由がないというか···」
「間違ってはいませんからね。実際、他の部活動も音楽室を『練習』のために使用していますし」
彼はそう言って、なごやかに微笑み申請書を受けとった。事が進んだわけではないのに、彼に預けてよかったとつい安心しそうになる。
「こんなこと、柳生君にいうのは失礼なんだけどね。どうせあそこが取り壊されるならこの紙は出さなくてもいいかなって思ってたの。なにも···立派な理由なんてないから」
それでも、無謀だと馬鹿にせずにまっすぐ信じてくれるひとがいるから。
「でも、もうちょっとだけ頑張ってみる。ゆるしてもらえたらいいな」
そう言うと、柳生くんの表情がやわらかくなっていた。
「私からもぜひ説得させていただきますから」
「そんな、その…難しい話になったら全然下がってくれていいからね」
「ピアノの練習のため。れっきとした、素晴らしい目的です」
彼の態度は丁重でありながらもあくまで毅然としていた。引き下がる理由もなければ、そうしなければいけない正当性もないのだとしずかに主張しているように思えた。自然と握りあっていた両手の力がゆるくなった。
「気にかけてくれてありがとう、柳生くん」
「気になさらないでください。こちらで頂いた書面で了承得てみますね、むしろやりがいがあるというものです」
最後に軽く腰を曲げると、柳生くんもこたえるように手を振って送り迎えてくれた。もっと気が重くなるものだと思っていたのに、想像以上に胸のなかにわだかまりがない。
―――――じゃあ、俺が君の練習相手になるよ
あの日の言葉がこんなところでもつながっている。わがままで、ちょっと頑固で、やさしいお客さん。あの教室を使用している当の私よりもそれを見守るだけのはずだった彼のほうが今回の件で躍起になっている。
あそこがなくなると知って、彼はなにを思っているのだろう。
*
部活終わり。
ちょうどみんなが制服を身につけた頃合いだった。
「ほんとうに決定事項なのかい」
幸村くんの問いにヒロシはなんともいえない顔をした。幸村くんの表情は若干固くなっている。
もう着替え終わっていたけど、俺もその場に留まることにした。
クッキーの個包装をぴりっと破ると「部室で菓子をつまむな」真田はあいかわらず眉間に皺を寄せている。そして俺も変わらず「外で食ってもどうせ言うんだろぃ」なんともないように受け流す。昼飯を食ったあとのおやつに、とあいつから貰ったクッキーだ。横から「俺にもくれんかのう」仁王がお手するみたいに差し伸べてきたけどソッコーで断る。市販もいいけど、そろそろ手作りとか食ってみたい。
「まだ決定事項ではないようです」
「なら、まだ残せる見込みもあるってことだよね?」
「···しかし老朽化が理由となると、それを止めるのはなかなか困難かと」
なんの話をしている、と真田が横から入ってくる。込み入ってそうな話をしている雰囲気を出している隣で、遠慮なく割りこんでくるのは真田らしい。こいつが気になるのも、その対象に幸村くんがいるからなんだろう。
「二号館の音楽室を、どうにか残したいんだ」
一段と透った声で、幸村くんは言った。
初めからその話をしているんだろうなとはなんとなく気づいてはいたけど、こうもはっきりと形が伴うと胸が揺らいだ。やっぱり明確な意思なんだと、あらためて実感させられる。
「二号館?」
「ほら、仁王がこの前さぼっていたじゃないか」
「···あれか。いま思い出してもけしからん」
「俺をダシにせんでもええじゃろうに」
「ふふ、でもそっちのほうが分かりやすくていいだろう?」
「にしても残すとは、どういう意味だ。なにかあったのか?」
ここでヒロシが事の経緯を話す。
せっかく真田はここで納得したのに、そのあとにつづく幸村くんの台詞でまた眉をしかめることになる。
「ほとんどは、俺の勝手なわがままなんだけどね」
どういうことだ。真田が問う。
そこに本人の意思はないのか?
「苗字って弾きてぇんだよな?」
ヒロシが「どういう意味です?」怪訝な目つきをしながら眼鏡を上げた。「まぁ…」我ながら歯切れが悪い。あの空間にいる苗字のあのかんじはうまく言葉で言い表せない。でも、わかるやつにはわかるはずだった。
「あいつが弾いてると、どっか行っちまいそうだから」
俺の言葉に全員が腑に落ちない顔をしていた。
ただ、ひとりをのぞいては。
はじめの苗字は会話を振っても「うん」とか、それも言わずに頷くだけだとかとにかく口数がかなり少なかった。俺が嫌われてんかなとも思ったけど、週に何回か昼飯を一緒に食べてからはちょっとずつ、ほんとうにちょっとずつあいつはこころを開いてくれるようになった。口を開く前は顔つきが若干強ばってはいたけどそれでもあいつから話しかけてくれたし、無感情にしか見えなかった苗字の表情も変化が見え始めた。
「へぇ、晩飯も苗字が作ってんだな」
「うん…レパートリーも少なくいし慣れてないからまだまだなんだけど」
「そうか? さっきもらった唐揚げも美味かったぜ」
だんだん苗字の笑う回数は増えていった。
「ありがとう」って言うときとか、俺が冗談を言ったときとか、なにも言わなくても、目の前で起きたことを胸いっぱいに味わうみたいにくすぐったそうにするときもあった。
「丸井くんがいつもおいしいって言ってくれるとうれしくて、ちゃんと作り方とか研究しなくちゃって思って...もっと美味しいって言ってもらえるように頑張るね?」
苗字が笑うと、胸がくるしくなる。でも、全然不快じゃない。もっと見たいから、もっと一緒にいたい。苗字といる時間が積み重なると、もっともっとって、際限なくそういう欲望が膨らんでいく。
苗字がピアノを弾いているのを知ったのは、特別なタイミングでもなんでもなく昼飯の最中に会話のながれで知った。俺のなかではそんな程度の認識だったけど、あいつはそれを言葉にすること自体躊躇っているような慎重な物言いだったから、深くふれてもいいのかどうかわからなかった。迷ったうえで、苗字には聴いてみたいと強請った。きっと聴いたあとは上手いんだなって思って、それで満足できるくらいのものだと思っていた。
─────ごめんね、今日はここまで
全然違った。
弾き終わったあとの苗字を見て、俺は後悔した。
苗字は笑っていた。
胸がくるしくなった。
いまでも苗字はあの音楽室に通っている。苗字ひとりのときもあれば、幸村くんと一緒の日もあるらしい。
幸村くんは、あの部屋にいるあいつを見てどう思っているんだろう。
一回、あいつに言ったことがあった。
____お前があそこで弾くと、どっか行っちまいそうだろぃ
どこか。自分でも言ってかなり曖昧だと思ったけど、そうとしか言いようがなかった。
苗字はきょとんとしていた。
────どっかって、どこ?
────わかんねぇけど、なんとなく俺が知らねぇところな気がする
────なぁに、それ
────テキトーなこと言ってるって思ってんな?
────そ、そんなことないよ
俺がつんけん言うと苗字はもろに困っていたものの、こたえは一瞬で出てきた。
─────私はどこにも行かないよ
めずらしくかしこまる態度も遠慮がちな態度も一掃して、苗字はそう言い切った。
それでも、俺は迂闊に安心できなかった。
ふいにあの音楽室のなかでふたりがいる光景が思い浮かんだ。
苗字は鍵盤の前に座って、幸村くんは隣で聴いている。ふたりのなかにはゆったりとした時間が流れている。ふたりのあいだに邪魔なんか入らない。そもそも茶々をいれようなんて考えも出てこないそんな空間。見たこともないのに鮮明に頭をよぎる。
ふたりはどれくらい、どこまで、どんなことを話しているんだろう。
考えてもしかたがない。わかってはいるけど、すっきりしないのだって、しかたないことだ。
「どこか、とは?」ヒロシが尋ねた。
「や、変なこと言って悪ぃ。あいつもあそこがいいって言ってんならいいけど、そこらへん大丈夫かなって思ってさ」
幸村くんと目が合った。
「彼女にもその意思はあるんだ」
幸村くんの言葉に嘘はない。なのにどうして、安心できないんだろう。信用していないわけじゃないのに。
ちいさな胸騒ぎに、そっと蓋を閉じた。
「あの音楽室を残す必要性、意義がいるだろう」
柳もここで参戦した。まさしく助っ人みたいだ。
「意義か、難しいね」
「いま聞く限りでは苗字が使用しているからから……といったところか」
「そうなるね」
「なにか大きなコンクールに出るから、といった理由はないのか」
「そういうつもりはないみたいだけどね」
「学校の知名度に貢献できるようなものなら可能性はあると見込んだが、そうもできないな」
「意義っつーならあるだろぃ」
「というと?」
「あいつのピアノ、天才的だぜぃ」
過大評価じゃなく、本音だった。上手いのはほんとうに上手い。
「丸井もいうね」
幸村くんが微笑む。なんというか、自慢げに。
「主観的なだけではあちらも動きようがない。披露する場を設けて、それほどまでに納得させることができれば別だが」
「きっとみんなになら弾いてくれるだろうけど、多分、大勢の前で弾いたりはしたがらないかな」
「多数決ってやつじゃだめなのか?そこを残したいってやつが多ければ、先生も納得してくれるような気もするけどな」
ジャッカルが提案した。たまに三人で昼飯を食うこともあって、苗字とは割と気さくに話せる仲になっている。気になってるみたいだ。
「いわゆる署名活動というやつか。俺たち以外にいるのか?」
真田も結構乗り気なんだろうか。
「それにもやはり、柳くんの仰った『意義』が必要になってきます。署名するからには尤もな理由がないと集まりませんし」
ヒロシがあんまりそうな表情を浮かべる。
「苗字が弾くからじゃん」
「それだと説得力がねぇって話だろ?」
ジャッカルが冷静に返す。
「だって、そういうことだろぃ」
あそこにあいつがいるからっていうのが全てだ。
「どんな理由を差し置いても、苗字はそうまですることを望まないだろう」
柳に内心で頷く。お前のためにそんな大掛かりなことするとか言ったら、あいつはやばそうな反応をするに決まっている。
「あそこがなくなるんは、名残惜しいのう」
銀色がゆらめいた。
「仁王くんにとっても、ある意味思い入れのある場所かもしれませんね」
「逃げ場がひとつ消えてしまうっちゅうのは困るだに」
「お前は懲りておらんようだな」
真田は頼むからそこにはもう突っ込まないでほしい。話が進まなくなる。
「あそこに行けば幽霊に会えるいい機会ぜよ」
「幽霊?」
「ついでに落としもんもあれば、さらに面白くてのう」
やけに楽しそうだった。あいつのなにを知っているのか、やたらほのめかしてくる。こいつは際立って俺のこころの狭いのをくすぐるのが上手い。
「それだ」
幸村くんの声に、その場のみんなが黙った。
道が開けたとでもいいたげな、そんな雰囲気が幸村くんの全身から漂っていた。
「申し訳ないのだけど、明日時間を少し割いてくれないかな」
「ここにいる全員か?」
「明日の部活は、いつもより早く切り上がると予想している」
「それはちょうどいいね」
興味津々だったり、なにを言い出すのかと訝しげだったり、淡々と受け入れたり、なんとも様々な空気感で部室はいっぱいになっていた。
明日はいったい、なにが起こるのか。
*
後日、幸村くんからお声がかかった。音楽室に彼が自由に立ち入りすることはあっても、前もって「来てほしい」と言付けされたのははじめてのことだ。
音楽室Aは、夏休み前までは残されることは確約されているらしいが、夏休みに入ってすぐ、遅くとも秋頃には改装工事の着手に入るらしい。柳生くんから聞いた情報をそのまま彼に伝えたけれど、
「心配いらないよ」
あまりにも清々しい調子なので、思わず聞き返してしまった。彼の表情をよく凝らして見たが、その場しのぎで言っているようには見えない。なんの根拠があってそう言い切れるのかがますますわけがわからない。
「前もって策は考えてきたんだ」
時期に施行される工事に策もなにもあるのだろうか。「そろそろ来る頃かな」幸村くんがそう言って見やると、彼の視線のさき―――廊下からざわついた複数人の会話が聴こえてきた。しずかなこのあたりでははじめてのことなので身構えているの、ガラっと無遠慮に扉が開いた。
「こら仁王くん、ノックはしたほうがいいですよ」
「プピーナ」
「こんなところに音楽室があったとはな」
「ほんとにピアノしかねぇんだな」
テニス部のみんながぞろぞろと入ってくる。この部屋にこんなにも大人数が集うのははじめてだ。状況が掴めず幸村くんに目で訴えてみたけれど、愛想よく微笑うだけなのでさっぱりだ。
「あ、あの、これはどういう、」
「精市、事前に説明していなかったのか?」
「込み入っていろいろ話し込んでいたからまだ伝えてなくてね」
「こ、こ、これは、みみみ皆さまにお茶とかご用意したほうがよよよろしいのでしょうか」
「苗字さんは対集団コミュニケーションにまだ慣れてないだけなんだ」
「…ならなおさら説明したほうがよかったんじゃないか?」
「なにも食われるわけじゃねぇだろぃ。出てこいって」
「やだよ……!こんなの聞いてないもん……!」
幸村くんの背中に隠れてふるえる私を桑原くんが心配してくれているが、幸村くんは私を気にかけるどころかむしろ愉快そうだ。いくら練習とはいえ彼はこんなにも容赦がなかったのか。何度でも言いたい。嫌なのではなくただ準備がほしいだけなのです。
ここで柳くんが端的に明快な説明してくれたあいだに、ひとまず冷静になれた。
「でも、先生に頼み込んでどうにかなるものなのかな……?」
みんなが協力してくれるのはとても頼もしい話だけれど、そう容易くいくものだろうか。
「この音楽室に何か学校に関係のある由縁や歴史がないか調べてみたが、見当たらなかった」
取り壊しの話が出た時点でその可能性は低いとは思っていたが、と柳君が落ち着き払って言う。ピアノを移動させて、どこか別の教室に居場所を変える案もあったらしい。
「文化部も盛んに活動しているのであいにくほかに空き教室はないのです」
それもマンモス校の立海では難しいようだ。
改修を止めてまでこの教室を残す必要性を唱えなければいけない。
「それならいっそ、既成事実を作ってしまえばいいだけのこと」
「?」
「この音楽室に、幽霊が出ることにしたらいいんだ」
ん???
「······」
「あれ?苗字さん?」
「『精市の言っていることを翻訳してほしい』と、苗字は思っている」
「ひどいなぁ、俺はなかなか良い案だと思ったんだよ」
「あいにくこれ以上説明のしようがない」
「や、柳くんならやればできるんじゃないかな?」
幽霊!?
どうしてそうなってしまったの?
てっきりみんなで一丸となって、先生方にお話をするなりして説得する作戦だと思っていたのに?幸村くんは案外ユーモアのある人だとは感じていたけど、そんな方向に走るとは意外も意外であまりにもおかしい。(本人は至って真面目そうなので言えないけれど)
ほらあれだって、と丸井くんがトーンを上げて話す。
「よくあるだろぃ。『音楽室に幽霊がいてピアノを弾いてる』みてぇな怪談話」
「私もそうなってたみたいだけど…」
そんな噂がきっかけで柳生くんに発見されたのだ。
「ほんとうにそうしちまえばいいんだよ」
「ど、どういう」
「そうなれば、誰もここをどうこうしようって思わなくなるだろぃ」
ピアノを弾く幽霊がこの音楽室に棲み続けているのだとしたら、おそろしくて誰も手をつけない。
いわゆる、呪いの音楽室に仕立てあげよう作戦というわけだ。
「強引すぎません!?」
「なんか面白そうじゃん?」
まったくもって面白くない。
のだけど、彼らの顔つきは至極真剣だ。本気でその方向性で音楽室を残すつもりらしい。なぜ皆さんは幸村くんに同意してしまったのでしょう。
「で、でも、もしそれがほんとうの話にできたとして、それはそれで肝試しみたいに···興味本位でここにくるひとが多くなりそうじゃない?」
ここが好きな理由のひとつに、ひっそりとした場所にあるからというのもかなり割合を占めている。
私という一生徒が弾いているだけ、と知れ渡れば幽霊スポットに集まる人もそのうち落ち着くのだろうけど、『私が弾いている』事実自体、周りに広まってほしくない。
「そんなに目立ちたくないな…」
それが何よりだ。
「安心しろ。苗字が幽霊になりきる必要はない」
「···ほんとに?よ、よかった。ついてっきり、弾くたびにテレビから出る某女性霊のコスプレをするのかと···」
「苗字さんもその気になれば、案外いけるのですね」柳生君が感心の声をあげる。
「この音楽室に棲む幽霊を、お前が鎮めていることにするんだ」
「まったくもって解決策になってないよ?ちょっと期待しちゃったよ?もしかしたらって思ったさっきの気持ち…返してほしいんですけど···!」
「この音楽室を残すには、ここで弾く必要性、意義がいる」
「うん」
「この音楽室に蔓延る呪いを鎮めることができるのはお前だけだ」
「え? つまり?」
「···言っちゃあれだが、俺もそれは結構無理があると思うぞ」
「ですよね!?やっぱりそう思うよね!?」
桑原君が横で気まずそうに割り入ってくれる。
何回も頷いて、それはもう彼に感謝の気持ちが溢れてきた。立海テニス部みんなこんな人たちなのかと思いそうだった、危ない。
「この音楽室には幽霊がいて、強い念を残したままうろついている」
「もうみえる前提で話が進んでいるのね···」
「ただ、ここで亡くなった生徒がいるのも事実」
「へっ」
「マジ?」
丸井くんも目を丸くして、興味深々そう。
「なんだよ、亡くなったって」
「いま説明すれば話が逸れてしまうので詳しくは言えないが…ここがずっと手つかずだったのも、ここの存在を知る生徒があまりに少ないのも違和感はある。全く関係がないとも言い難い」
部屋全体を見渡してみる。
なんだか、この空間が変に怖くなってしまった。
今まで誰も寄りつかなかったのは、まさかそれが関係してるとかじゃないよね···。
私はたまたま音楽室Aを見つけたのではなく、実は知らぬ間にここへ引き寄せられたとかだったりもしなくもない、のかな。
「その『例の生徒』をここの幽霊とするわけですね?」
「以前にもここの工事に着手する話は出ていたようだが、頓挫している」
「そいつのせいかよ?」
「不明だ」
「今回の件に、それを引き合いに出してもよさそうだね」
爽やかスマイルがとてつもなく怖い。神の子は咎めることもなくただ同意して微笑んでいる。
目の前で起こっていることが信じられない。
何かとんでもないことを私たちはしでかそうとしているんじゃないか。
「や、やっぱり、やめたほうがいいんじゃないかな···!?なにかと無理があるし嘘ついているわけだし」
「ここを残すと決めたのだろう。曲げる気か?」
真田くんの眼光が鋭くなる。
「だ、だって、曲げたほうがいいよ、これは。人生において時には柔軟性もいると思うんですよね」
「手段を選んでいる暇はない。ここまで来たら後戻りはできん」
「冷静になって振り返ることも大事じゃないですかね···!?」
「蓮二の作戦がこれまで間違ったことはない、安心しろ」
安心どころか、狼狽えるしかないのですが。
「『音楽室Aにいる幽霊を鎮めるために、苗字がピアノを弾いている』。これならお前がこの音楽室で弾いても、誰も横槍をいれない。取り壊すのに支障が出るという結論に至る」
「それで先生たちが納得するのかな···」
「うまくいくのか?」
桑原君の同調がここまで心強くなるなんて。とにかく突拍子もないことだと彼を除くみんなには自覚してほしい。
一番の難関はそこだ。巧妙(?)に作り上げた既成事実を、先生方に納得させなければいけない。
「お前の出番だ」
柳君が視線を寄越せば、私を含めたみんなが一斉にそちらへ集中した。
「ご褒美はないんか」
「お前の好む隠れ場所、及びそこへ居着いた回数を俺は知っている」
「参謀は人遣いが荒いのう」
ちらりと、鋭いけれどどこか気だるげな視線が真田君のほうへ移った。
「お前の好みそうな他の場所も予想できている。この案に乗ってくれさえすれば、教えないこともない」
「それはええスポットに違いないぜよ」
「仁王くんが…なにかするの?」
「ここを残す意義が受理される、その現場を確固たるものにしなければならない」
「それはそうだけど···」
「しかし、彼のペテンはまだ完成していませんよ?」
「今後のデータに活かせる絶好の機会だ。どこまで補う必要があるのか調べられる」
「来年の夏までには、使えるものにしてほしいな」
「そう急かしなさんな、お前さんに言われちゃ引くにも引けんくなる」
「ふふ、期待してるって意味で捉えていいんだよ」
「完成後もそうに違いないが、今回とて柳生とのコンビネーションがいる」
「私にできることならなんでも協力しますよ」
「桑原くん···いまからなにが起こるのかな」
「だが不思議と、なんとかしてくれそうに見えるのは俺だけか···?」
「···私もだよ」
九割の不安と一割の期待を胸に、今後を待つしかなさそうだ。
*
生徒会室にて。
柳生は雑務をこなしながら、事の発端となった、例の噂を教えてくれた先輩と話していた。
「いやー、先生がまさかあんな理由でも受け入れてくれるなんてな」
「にしてもこれでひと安心しました」
「まさか君が幽霊がいるとかなんだとかで、工事に反対したいとか言った時はびっくりしたけど···相当調べたんだな」
「全くもって、かのデータマンのおかげでして」
「結構ヤバそうな噂だよな。先生もなんとか話通してくれたんだろうけど···でもなんで本人にその記憶がないんだろう?」
「記憶がない、ですか」
「そうそう。『こんな書類に判子押した覚えもないし、校長に話を通した覚えもない』とか後から言い出してさ。でも俺、先生が判子押したの、目の前で見たし。君もあの場にいたよな?」
「ええ、もちろん。あれは『まさしく』先生でしたよ」
「事は片付いた。なにも案じるな」
「えええ···!!?」
「よかったね、苗字さん」
「ほんとのほんとに?あの怪談話でうまくいったんですか…?」
「にしても大人っちゅうのはなかなか融通が利かんぜよ」
「仁王くんが直談判してくれたの?」
「そうともいえるし、そうともいえないかな」
「え?」
「いいデータが取れた。これは応用が効きそうだ」
「苦労をかけたね、仁王」
「すまんが『大人になる』んは当分パスじゃき」
「???」
どんな手段を用いたのかは公開してくれなかった。桑原くんにもそれとなく聞いてみたけれど、最後の最後までおしえてはくれなかった。つまり、知らないほうがいいということなのか。
ひとつわかったのは、立海男子テニス部は世にも奇妙な部活動だ、ということだ。