かまわないでいいよ

中庭は図書室のつぎにはよく訪れる場所だ。
放課後は中庭にあるベンチに座って本を読むのが好きだった。ベンチのそばには木も立っているのもあって木陰になってちょうど涼しい。

「あ、やっぱりいた」

そしてときどき、彼も覗きに来る。

「おかえりなさい」

「ただいま。今日は音楽室じゃなかったんだね」

「最近はここに来るのが好きだから」

幸村くんも隣へ腰を落ち着ける。屋上庭園や音楽室以外でも彼と会うことが増えていた。

「幸村くん、私のいるところよくわかるね」

「君を見つけるのは得意なんだ」といったあとすぐ「なんて、今日は音楽室にいるものだと思っていたんだけど」彼が苦笑した。

「え? もしかして今日も寄っていったの?」

「たまにはそんな日もあるかな」

「そんな…あらかじめ言ってくれたらいいのに」

「探しに行くのは嫌いじゃないよ」

ひとり納得したように彼は言っていた。彼の重視しているのは探したさきに私がいるかどうかとは別の次元なのだろうか。
ふと考えた。彼はどこまで探してくれるんだろう。どれくらいの距離までが彼にとっての許容範囲で、どのくらいはなれても辛抱して、探しつづけてくれるだろうか。
私なら、彼がどこにいたって追いつづけられるのに。

「それ、図書室の本?俺も読んだことあるよ」

私の膝元に置かれていた本に、彼の目線が移る。

「あ···」

「秋桜はいまの時期にぴったりだよね」

「うん···この、ネリネ···ダイヤモンドリリーも、すごく綺麗」

「俺の家でも植えてるよ」

ちょうど読んでいたのは、初心者向けの園芸の知識本だった。開いていたのは四季ごとに開花時期を迎える花を紹介しているページだった。

「興味を持ってくれたってことで、自惚れてもいいのかな」

うまく彼の顔が見れなくなったから、本へ視線を逸らした。とはいえ文字なんて全然頭に入ってこない。本が落ちないようなふりをして手で添えてみる。ほんの気持ち程度にページ全体を覆ってみた。なにもこんなタイミングで見つけなくったっていいのに。私の詰めが甘いのが悪いのだけれど。

「···幸村くんが、花壇とか、いろいろお手入れしてるから、その···ちょっとだけ、気になって。全然分からないから、勉強しなくちゃだめだなって思って」

彼のみているものを、私も対等にみてみたかった。
こんなことぐらいじゃ辿り着けるはずがないと理解したうえでの、ほんの少しの悪あがきだった。

「いつでも教えるのに」

「それだとほんとうに···幸村くんに聞いてばかりになるから」

「構わないのに。いつでも来たらいいんだよ」

そんなにもやさしく言わないでほしい。
言葉の意味をそのまま吞み込んで、いくらでも都合のいいようにとらえてしまう。
気持ちのやり場をどこへ持っていけばいいかわからず、なけなしの平静を保とうと本を閉じかけたときだった。

ページの隙間からポストカードが落ちてしまった。
慌てて拾おうと手を伸ばしたところで、幸村くんがさきに取った。そのまま手にとって、ポストカードを眺めていた。
「いい絵だね」と、ポストカードを裏返した。

「ターナーか」

「幸村くん、知ってるの?」

「この前の芸術鑑賞会の絵だよね?彼の絵は他でも見たことがあるよ」

J.M.W.ターナー。
イギリス出身で、ロマン主義の海洋風景画家。

学校の芸術鑑賞会をきっかけに知ったばかりだった。あの日は彼の絵をずっと眺めていた。他にも素晴らしい作品はたくさんあったはずなのに、あのときの私はずっとその絵の前に立っていた。それほど惹き込まれた。

「その絵····海も夕焼けもすごく綺麗だよね。有名なひと、なの?」

「光とか大気の表現に特徴があるからかな、印象派の絵と一緒によく並ぶこともあってね。彼に影響を受けた印象派の画家もいたみたい」

「そうなんだ」彼の知識に、素直に感嘆の声がでた。

「俺もこの絵、好きだよ」

停泊地で曳かれ、夕日に照らされる大きな戦艦。イギリスを勝利へ導いた海戦のあとを称えた、勇姿としての船を描いている絵だった。戦火を浴びて廃れてしまった船とオレンジ色の夕焼けが並んで佇んでいる様がとても美しくて、気張っていなくて情感的で、やけに落ち着いた。

彼も同じようにこの絵を好きだと言ってくれたのが、ふわりと胸の内を撫でられたようだった。

「持ち歩くほどお気に入りなんだね」

「えっと…しおりがないから、なにか挟むのないかなって探してたら、ちょうどいいところにあって…」

私がそう言うと、幸村くんが鞄を開いてなにか取り出すような仕草をした。ずっと目を凝らしてみると、彼が手にしたのは一枚のしおりだった。いわゆる、押し花で作られたものだ。「花がらで作ってみたんだ」つづけて、こちらへ差し出した。
萎れた花びらを取り除く作業が『花がら摘み』と呼ぶのは、彼が教えてくれたことだった。花がらが肥料に落ちると病気になったり、摘まずに残したままにすると綺麗に咲かなくなってしまうらしい。花の種類によっては摘み取る茎の位置とかが違ってくるようで、本を読んでいるけどまだ覚えきれていない。
二色程度でまとめられているからか派手に主張しすぎておらず、余白とのバランスがちょうどいい。これはパンジーに、ちいさいのはカスミソウだろうか。手にとりじっと眺めれば「かわいい」といつの間にか呟いていた。幸村くんの感性が覗けたようで、少しうっとりする。そのまま返そうとしたけど、彼は手を出す素振りもせず「あげるよ」とだけ言う。

「でもこれ、手作りなんじゃ…」

「案外簡単に作れるんだよ」

「でも、幸村くんのしおりがなくなっちゃうから」

「まだ他にもあるんだ」

「…でも、」

「ポストカード、お気に入りなんだろう?それならちゃんととっておかなくちゃ」

なんとか手渡そうとするけど彼は一向に手を差し出す気はないようだった。そんな彼に結局押されてしまい、おずおずと受け取る。威圧的でもなければ強制的な言動もないのに、彼のなすままだ。

「ありがとう。大切にするね」

「どういたしまして」

「ほんとうに、ありがとう」

きっと私はこの一枚をずっと忘れない気がした。ほんとうに、ずっと。



ホルンにクラリネット、フルートにトランペットにティンパニ。

「どうかした?」

私が校舎へ向かって顔を上げたのを、彼が不思議そうに見ていた。

「えっと、音が…」

「音?」

「ここで聴く音が好きなの」

文化祭が本格的に近づいているからか校舎のあちこちで吹奏楽部の音が漏れている。もともと中庭はよく聴こえたけれど、いまの時期はいっそう生徒が盛んに練習しているのだろう。

「いままではそんなに吹奏楽は聴かなかったんだけど、部活紹介で演奏していたのを聴いて…感動した。まっすぐで潔いってああいう音なんだって思ったの」

頼もしくて、芯の通った力強い音。はっきりと色がある。きれいな音にはどれも色がある。

「音はそのひとのこころを表しているから」

こんなふうに奏でられたらと、うらやましかった。

「君にはそういうふうに聴こえるんだね」

「…変、だよね」私が遠慮がちに言うと「ううん、そうじゃないんだよ」気遣うように彼が言った。

「君からそういう話が聞けるとは思わなかったから」

そういえば、あれから彼は音楽室を訪れて私のピアノを聴いているけれど、こんな話は一度もしたことがない。語るほどのものを生み出せているは思えなかったから。


―――――感情なんていらない


二度とこの手に戻らないものだから、ひどく焦がれるのかもしれない。


「海原祭でもコンクールで披露した曲を弾くって言ってたよ」

「私も聴きに行こうと思って…すごく楽しみ」

「誰かと回る予定なのかい?」

「うん。丸井くんと一緒に行くんだけど……あ、」

「?」

「幸村くん。その…言いたいことがあって」

落ち着くために両手をぎゅっと握りあう。口を開いて固まっているあいだにも幸村くんはじっと待ってくれている。すっと息を吸い込んだ。

「丸井くんを海原祭に誘えたの。私から、その…声かけてみたら、いいよって言ってくれて」

そう向き合って言うと、幸村くんの目が僅かに見開くのがわかった。彼がなにか言うものだと思っていたので辛抱強く待っていたけれど、彼は口を動かす気配がない。

「幸村くん?」私が呼ぶと「あぁ、ごめん」彼ははっと気づいたように顔つきを変え、やんわりと笑った。自然にできた表情というよりは咄嗟に取り繕ったように見えた。

「そうなんだ。よかったね」

「うん。なんとかできて…よかった」

「そっか」

「……」

「……」

あれ? どうしてこんな変な空気になったんだろう。

「ご、ごめんなさいっ。あ、あの、私が言いたかったのは、その……」

「えっ?」

そうか、脈絡がなさすぎるんだ。幸村くんが神妙そうに顔を曇らせたのは、私の言っている意味がわからないからだ。なにが言いたかったのか、しっかり話さないと。

「お弁当とか教室移動するときもいつも丸井くんが誘ってくれて、うれしくて……でも、そうやってずっと期待だけして受け身のままじゃ変わらないって思って」

────君が誘えば、みんな快くのってくれるよ

「幸村くんがはげましてくれたこと思い出して……もし断られたらとか考えちゃったけど、こういうところから頑張らないと距離も縮められないって。こわがってばかりじゃだめなんだって、思って。成功したのはたまたまかもしれないけど……でもがんばれたのは幸村くんのおかげだったからお礼、言いたかったの。だから、ありがとう、幸村くん」

胸がばくばくする。顔が熱い。この感覚、ひさしぶりだ。
「ごめんなさい」俯いてそう言うと、
「違うんだ」丁重で、若干焦りのまじった声がした。「俺が早とちりしただけなんだよ」
おそるおそる顔を上げると、ほっとした表情をした彼と目が合った。早とちり。彼はいったい、なにを思ったのだろう。

「ごめんね、いきなり…ほかにもあったんだけど、これだけは言いたかったから」

「ほかには?」

「え?」

「ほかにも教えてよ」

この笑顔に、私はいつも甘えてしまう。

「この前は柳くんがいつも読んでる本のタイトル気になったから、聞いてみたの…私のおすすめも教えたらお互いの好きな本、交換しようってことになって、つぎももう二冊目交換して読みはじめてて…」

「へぇ…文学以外はあまり手にとらないって言ってたけど、この前も苗字さんの本読んでたのかな? あまり見かけないタイトルだったから」

「……また家庭科の宿題で難しいところあったから桑原くんに話してみたら…昼休みに時間つくってくれていっぱい教えてくれて」

「ふふ、よかったね」

「えっと、つぎはお昼も一緒に食べる約束もできたの。丸井くんと三人で食べようってなって……」

「お昼も誘えたんだね」

「……私が単語帳読んでたら柳生くんが気にしてくれて…私、その、英語苦手だから教えてほしいって言ってみたら、明日の放課後に勉強会することになって。でも…ぇっと、図々しかったかなとあとから罪悪感がきて…」

「そんなに落ち込まなくたって、それくらい大丈夫だよ」

私の拙い話に幸村くんがなごやかに頷いてくれる。ゆったりとした速度で胸の鼓動がやわらいでいく。

「もうそんなに君から動けるようになったんだ」

「ちょっとのことしかできていないけど」

「立派なことだよ」

感嘆めいた彼の声に、浮足立ちそうだ。

「ごめんね、いきなり言われてもわからなかったよね。全然みんなからしたら普通のことだから…海原祭のことも話すほどのことじゃないのに、私がひとりではしゃいでたから」

「それは…なんというか、違って」

「?」

「俺が大人げなかっただけなんだよ」

彼が困りがちに言った。『大人げない』自分を思い返して呆れるような表情だ。私は返事のしようがなかった。だって、幸村くんを大人げないと思ったことがない。大人げないどころか振る舞いも考えかたもその辺の大人よりもよほど大人びている。どれをとっても嫌味がない。きっと彼を見たら誰もがそう思うはずだ。「君がそういう子だってこと、忘れてた」そうして彼は納得したようにつぶやいていた。私が深く考えているあいだにも彼はぐんぐん進んでいく。

「そんなに卑下しなくたってじゅうぶんすごいことだよ。俺は聞けてよかった」

まるで、子どもみたいだ。
感謝を伝えたかったのは本心だった。でもきっとそれ以上にこの笑顔と一緒に、がんばったねって、このひとから褒めてもらいたかった。
誰よりも彼にいちばんに知ってほしかった。

「思ったよりもはやく君が独り立ちしたからさみしいな」

「でもまだ全然…誘うとなるとすごく緊張しちゃって」

「苗字さんはこつこつ積み上げるほうがうまくいくと思うよ」

幸村くんといるときらきらした感情がいっぱい出てくる。ときどき大変になるくらい忙しなくて、でもほとんどの時間は安心して、ふわふわする。

「また顔がへにゃってなってる」

彼の台詞にはっとして咄嗟に私は自分の頬を引っ張った。どうしていつもこうなっちゃうんだろう。
幸村くんは笑いながら私の手をとった。

「せっかくいい顔なのにもったいないだろ」

「も、もったいなくなんかないよ」

「これから引っ張るのもつねるのも禁止」

「そんなっ」

私が抵抗しようとも幸村くんはそっちのけでちっとも気にしていない。彼の手が包みこむように私の手を握っている。これ以上動かさないようにと捕まえているつもりなのかもしれないが、すぐにほどけてしまうくらいにはやさしい手つきだ。
幸村くんの手。そういえば、彼がふれても自然と受け入れられるようになったのはいつからだろう。いまは抵抗なくふれているけれど、はじめの頃はなにをするにしても余計なことばかり考えていた。

「なんだか不思議」

掌を向けて彼の手を握り返すと、まるでこたえるみたいに彼の握る力がほんの少し強くなった。

「はじめて幸村くんと手を繋いだときは、いろんなことがあってなにもわからなくて…だから、幸村くんの手にふれてもなにも感じなかった」

保健室で手当てをしてくれたとき。

「つぎにふれたときは、こわかった」

海で私の手をとってくれたとき。

「でもいまは幸村くんの手にふれると落ち着いて、ほっとするの」

あかるいきめ細かい手の甲も、それに相対してラケットを握りしめて出来上がった掌の固い豆の感触も、骨格のはっきりとした長い指も、彼を知ろうとしなければ永遠に知らないままだった。

「幸村くんの手、好きだよ」

こんなふうに、目を細めてはにかむ彼の笑顔も知らないまま。

「タイミングが遅かったかなって思ったけど……今日はいいかな」

彼がしずかに言った。台詞の意図が読みとれず目線で訴えてみたけれど、彼はさらりと笑うだけだった。幸村くんはときどき肝心なことをはぐらかす。私が知ったほうがいいことなのか、知らなくてもいいことなのかそれくらいは教えてくれてもいいのに。
このひとのことをもっと知りたい。彼と会う度、欲ばりになっていく。これ以上手を伸ばしてしまったら最後、今度はくるしくなると解っていながら、高望みしてしまう。

そういえば、と、幸村くんが言った。

「喉、乾かない?」

からっとした空気で幸村くんがそう言った。私は理解して返事をするまでに何秒もかかった。

「う、うん。ちょっと乾いたかも…?」

「ならちょうどよかった。ついてきてほしいところがあるんだ」

ひとまず頷くことしかできないまま、おとなしく彼へついていくことにした。
校門まで歩いていると、すれ違った女子生徒同士の潜めく声が背後から聴こえた。気にかかって自分を振り返ってみると、彼と手をつないだままだったことにようやく気づいた。もちろん瞬時に手をはなしたものの頬どころか頭頂部まで沸点に達しそうで気が気じゃなかった。私が手をはなすと、彼はきょとんとするだけでまったく危機感がない。それどころか、なんのことやらといったふうに悪戯っぽく笑っていた。

「俺も気づかなかった」

幸村くんの言葉はときどき信用できない。


*


「この前部活終わりにみんなで行って、美味しかったんだ」

ジュース専門店ということらしい。最近できたお店のようで店内のようすが見えるようガラス張りになっている構造だ。比較的新しい店なのだろうか、外観も内装も新しい。立てかけられて看板を見てみるとスムージーにタピオカティーもメニューに入っていた。

「俺はグリーンスムージーにしようかな」

「えっと、私は…」

幸村くんが即決がするので私も直感で選んだ。ぱっと目を引くグリーンとイエローが詰まったカップを店員さんからもらう。さっそく吸い込むと酸味と果肉の甘さが広がって暑いいまの季節にはぴったりだった。

「おいしい…」
「おいしいね」

幸村くんとまったり楽しんでいると、ふと、女の子のふたり組に目が留まった。お店の看板を背景にジュースを並べてスマホで写真を撮っているようだ。
「あ、あのっ」声をかけると彼が不思議そうにストローから口をはなした。ちょっと飲んでしまったけれどいまならまだ間に合うかな。

「……写真撮ってもいいかな? そ、その…ジュースだけでいいから……」

一回してみたかったこと。買ったデザートで誰かと一緒におしゃれな写真を撮ることにあこがれがあった。みんなにとっては大したことないのかもしれないけれど、私にとってはとてもきらきらして見える。
スマホを用意してカメラモードをさっそく準備しようと手にすると、幸村くんはぐんとすぐ隣にまで寄ってきた。距離もさながら、そしてなにより、顔が近い。待って、これは聞いてない。近い。近すぎるよ。

「あ、あの、ゆゆゆ幸村くん……!」

「え?」

「ジュースだけで大丈夫だよ!」

「顔はいいの?」

「うん!大丈夫!」

「せっかくの写真なのに?」

「大丈夫!」

「? そうなんだ?」

幸村くんはばっちりツーショットを撮る気で構えていたからか、いまいち腑に落ちないようだ。彼とのツーショットはまだ私にはハードルが高い。まず、想定さえしていなかった。立海校内の大多数の女の子たちが彼とのチェキを熱く望んでいるであろうことを思うと私はもったいないことをしたのかもしれない。でも、やっぱり恐れ多いのだ。

幸村くんのカップと私のカップを互いに寄せながら一枚写真を撮った。

「ありがとう、幸村くん」

「俺はなにもしてないけど…ほんとうにそれだけで大丈夫かい?」

「う、うんっ。これでもしっかり思い出に残せるから」

幸村くんがどことなく残念そうにして見えるのは、気のせいかな。「はやく飲まないとぬるくなるよ?」急いで話題を逸らしてみた。あからさまだろうけれど、致し方ない。

「おいしいとすぐなくなっちゃうね」

「苗字さんはなにを食べてもそう言いそうだね」

「ど、どういう」

「いまもそうだし、おいしそうにしてる君を見るのが結構楽しくて」

「…幸村くんは、その、ひとの顔を観察する癖はやめたほうがいいと思うな。ほとんどのひとは恥ずかしくなるし、気にするし…」

「見たくなるのは君限定だよ?」

「…それは余計に悪質だよっ」

「そうかい?」

なんにも悪いことをしてませんと言わんばかりに幸村くんはにこにこ笑っていた。せめてもの抵抗にと私があれこれ言い返そうとしても結局は彼に言いくるめられる。むきになるほど彼が面白がって笑うから、私は観念して黙々と飲むことに専念した。スムージーでせっかく涼んだばかりなのにいっぺんに暑くなった気がする。

「幸村くんもはやく飲んだほうがいいよ」

「それもそうだね」

幸村くんはからかうのにひと通り満足したのかくすっと笑ってふたたび飲み進めた。
橙色と薄紫のまじった淡い空。すっかり汗ばんでいるカップ。通りすがる生徒の笑い声。自転車が颯爽と走り過ぎてゆく。微かに湿った空気にまぎれるかろやかな風。

「しあわせだね」

自然と口からこぼれていた。自分がそう言ったことに気づいたのは何秒もあとだった。それも、隣にいた彼が私を見て、やわらかく口もとをゆるめたから気づけたことだった。

「よろこんでもらえてよかった」

彼が言った。
途端に、だった。両目の端からぽろぽろ溢れてきた。胸がいっぱいで、それでも不思議と頭のなかはいつになくすっきりしている。
「苗字さん? どうしたの?」彼は目を開いて、めずらしく動揺していた。当然の反応で、これ以上困らせてはいけないと思っても止められない。手で拳をつくり強く目を抑えつけ、凌ぐのでせいいっぱいだった。「なんでもないの」そうは言っても幸村くんの表情は晴れそうにない。

「ご、ごめんね。その……ほんとうに、なんでもないんだけど」

「?」

「うれしくて」

帰りがけに商店街を歩いていると、いつもそうだった。街のひとの声も子どもたちのはしゃぎ声も泣き声も、店の活気もしずけさもほとんどが遠いことのように思えた。生徒(みんな)の会話も、それこそ『他人事』だった。

「一緒に帰りに寄り道するのも、おいしいのを共有するのも、写真撮ったりするのも、ぜんぶ…ぜんぶ夢みたいだから」

手を伸ばそうともしなかった、諦めていた大したことのない日常のなかに、ほんの少しだけとけ込めているのかもしれない。私はこの数ヶ月で何回も…何十回もあったかくて、ふわふわした場所を歩いている気がする。
きっとそれは─────

「これからもいっぱい叶えようよ。きっと夢は多いほうがいいだろうから」

彼がそうっと撫でるようにして手の甲で私の目の端を拭った。「大丈夫?」目の前の彼は笑いながらもほっとした表情を見せた。私が声も出せずに頷くと彼はいっそう目を細めて、みたされたみたいに微笑っていた。

「寄り道っていうならとっくの前に焼き鳥だって一緒に食べたのになぁ」

「……あ、あのときはその、いきなりだったから、そんなこと考える余裕もなくって、えっと…」

「はいはい」

「…幸村くんっ」

「うそうそ。わかってるよ」

胸が鳴るときと云えば、誰かと対面してどうにか話そうと意気込んでいるときで、きまっていい気分じゃなかった。はやく終わってほしい。うまくいかなかったらどうしよう。そんなことしか考えていなかった。
でも、幸村くんといると、全然気持ち悪くない。ずっとこの時間がつづけばいいのに。忙しなく鳴っていてもそんなことを思っている。
彼のふれた目もとが微かに熱くなっているような気がして、私は少しのあいだ彼の顔を見られなかった。

「ありがとう、幸村くん」

私が言うと、すかさず幸村くんも「俺もお礼を言わないと」そう言った。幸村くんが、私にお礼。なんのことかぴんと来ず尋ねる素振りをすると、幸村くんがこたえた。

「君といると、いつも笑ってるような気がする」

ゆっくりと深く味わうような、しっとりとした響きだった。「ありがとう」彼の横顔は思いを馳せているようにも見えた。すぐ隣に私がいても。これまでを振り返ってひとつひとつを噛み締めているみたいに。

「私も」

自然と口から溢れていた。
幸村くんがおどろいたような顔をしたあと、すぐにふっと表情をゆるめた。

「おんなじだね」

今日の一日のことだけで、何日でも生きていけそうな気がした。
空がはかなく移りかわっていく。町がゆっくりとしずかに沈んでいく。

「また明日」

「うん、また明日」

こんなにも待ち遠しいまた明日は、今日が初めてだった。




その日の夜は寝る前に彼からもらった栞と、今日撮った写真を見返していた。繊細な花の散りばめられた一枚と、あざやかな色が引き立つ一枚とが対照的に見えた。
ベッドに入ったあともふわふわと浮ついた気分のまま眠りに落ちていった。

  

神さまの通り道

scene