幸村が寄ると、彼女もあとから気づいたように視線を彼へと向けた。若干、しまったといった面持ちだった。
「もう来たんだね。もっとゆっくりしてくれてよかったんだよ?」
「えっと、これからのこと考えたら落ち着かなくて……あ、あの幸村くん。ごめんね。部活中に…」
苗字は眉根を下げながら幸村の後方を伺った。練習の邪魔をして申し訳ないという感情と、彼がサボりをうたがわれ体罰を受けるのではないかという極度の心配とが当時に彼女の胸を覆っているのだろう。「すぐ戻るよ。あともう少しで終わるだろうから」とは言ったものの、彼女の憂慮は拭えていなさそうだ。彼女がこうなるのも、幸村にはまだ思い当たりがあった。
「そんなにこわい?」
「えっ」
「俺たちはなにも噛みついたりしないんだけどな」
「か!? そ、そんなことを思ってるわけじゃないんだけど、その…あの…」
あいかわらずの彼女の慌てっぷりに幸村の口もとは自然と緩む。
「緊張はするけど……でも、全然嫌じゃなくて、それよりも楽しみだから」
はにかむように、とびきりやわらかく彼女が笑った。
「またあとでね」
幸村はそれだけ言った。それだけしか言えなかった。苗字は目を細めてちいさく頷いた。
「部活、頑張ってね。いってらっしゃい」
「いってきます」
その振り向きざまだった。目が合ったことも、直後にあからさまに逸らされたのも幸村は瞬時に感じ取った。
『彼女』に声をかけたのは、部活動終了の号令のあとだった。
「ずいぶん熱心だね」
やや前かがみになっていた背中が幸村の声に反応し、ぴんと張る。コートブラシを動かしている彼女の手が止まった。幸村の台詞になんの心当たりもないのか、頭のうえにははてなを浮かべている。コートの整備は毎度のことで、なにも今日は念入りにしているというわけでもない。
「気になるかい? 彼女のこと」
彼女はぎょっと顔を歪め、しばらく固まった。しかし数秒後には観念したようにため息を吐いた。幸村はなにも言わずただ微笑むだけだったが「図星だったんだ」という声なき声が彼女の耳には聞こえたような気がした。
「幸村くんを見てるとは思わなかったんだ?」
「屋上庭園で彼女を見ていた目と同じだったからね」
「察し良すぎ」彼女は降参とでも言いたげに苦笑いした。「幸村くんくらいなら、俺見られてるんだな、とかって自惚れてもいいところなのに」
「それはまっさきにないと思ったけどな」
「え、ほんと?」
「相手からどれくらい関心を向けられてるかってなんとなくわかるものだろ」
「…私、そんなに極端だったんだ?」
周りの部員たちがぱらぱらと用具やボール籠を倉庫へ片づけはじめる。幸村と彼女も後を追って清掃を終える準備を進めた。
「あの子、ほんとに凄かったんだよね。『天才』って言われたし実際そうだったから。海外に行くって聞いてたのにまさか音楽分野とかも関係ない
苗字の過去を、幸村はひとつとして知り得ない。彼女は少しも語ろうとはしない。なにも謙虚さや遠慮から控えているというわけではなく、あえて口を閉ざしているのだろう。人伝いだとしても過去を知ると、ひととなりが若干でも解るものだが苗字に至ってはまるで違う。片鱗を掴むどころか、まるで彼女ではない遠い誰かの話を聞いているような気分になる。
「あの頃の『名前ちゃん』はみんなにとって憧れだった」
いま知った苗字の情報もほんの欠片でしかないが、しかしたとえきっと多くを知ったとしても同じ感覚になるのだろうと、幸村は漠然と思った。
「それに、あんなふうに笑うなんて知らなかった」
「え?」
「こわいイメージしかなかったから。だから余計、目がいくのかも」
あんなふう。彼女はまるで知らないといったように形容しているが幸村にはぴんと来ない。幸村の知る彼女の纏う特有の空気感は出会った当初から大きく違っていない。幸村は、日頃会う彼女と過去の彼女とで大きく乖離があるように思えてならなかった。
「さっきのぜんぶあの子に言ったりしないでね?」
「言わないよ」
フェンスの向こうに、彼女はいなかった。
*
商店街からも遠い道沿いにあるため行く機会がなかなかなかったけれど、今日はなんと幸村くんが誘ってくれたおかげで行き着くことができたのだ。
「ここが、かの伝説のラーメン屋さん……!」
しかも、放課後にテニス部のみんなと一緒に、だ。私にとっては奇跡的なシチュエーションすぎる。
「幸村……、苗字になんて紹介したんだ?」
「すごいね、苗字さんがもう泣きそうになってるよ」
「それを見ちょる幸村の目もきらきらしとるの」
「感慨深いものがあるのかもしれません」
「変だなーって面白がってるだけだろぃ」
「愛でているといったほうが正しいかもしれない」
「写真撮らなくちゃっ。あ、充電もっとしておけばよかった…!今日いっぱい撮るかもしれないのに」
「そんなに撮るもんあるか!?」
「苗字、事前に撮影許可はもらったのか?」
「真田のツッコミそこかよ」
「はい、了承は得ています!」
「ならばいい」
店内は思っていたよりも席数が多い。ぞろぞろ入ると桑原くんのお父さんがカウンター席越しに気さくに挨拶してくれた。みんなは何度か通っていることもあってか特別恐縮したようすもないけれど、私といえば席に着いてもそわそわしてしまう。
少しだけ年季の入った壁に貼られたお品書き、手書きの期間限定メニューのチラシ、楽しげに話す桑原くんのお父さんとお客さん、黙々とひとりで食べているひともいれば、ビールを挟んで過ごしている夫婦もいる。
「そんなに気になるか? もっとリラックスしてくれていいんだぞ」
桑原くんが苦笑しながらそう言った。私はあまりにもじろじろ見ていたらしい。
「ご、ごめんね。その…すごいなぁって思って」
「物心ついたときこうからだからそう言われてもぴんと来なくてな」
「桑原くん、お店の手伝いもしてるんだよね? えっと…制服とか着てるの?」
「まぁたまにだけどな?」
「やっぱりすごいよっ。ここで桑原くんが制服着て…店員さんとして働いてるんだって想像したら、かっこいいなぁって」
「はい、苗字さんはどれにする?」
「えっ? え、えっと…」
「豚骨ラーメンもやし増し増しチャーシュープラス二枚追加の一択だろぃ」
「さてトッピングはどこまで無償提供してくれるんかのう」
「こってりもさっぱりも捨てがたいものがありますねぇ」
「俺は塩ラーメンにしよう」
「セットもお得だな」
「セットいいよなー! ジャッカル、餃子分けてくんね?」
「お前らな……!!」
ぼうっとしているうちにみんなはとっくにメニューを決めていたらしい。幸村くんの丁寧な誘導のもと私も急いで決めた。これだけの人数もいると提供までに時間はかかるものだけれど、みんなと話しているとすぐに時間は過ぎるもので、テーブルに運ばれる頃にはむしろ、もう来たんだ、と思うくらいにはあっというまだった。
目の前のラーメンを携帯で写真を撮っている私を見て、桑原くんはちょっとだけ照れ臭そうにしていた。つぎからつぎへとラーメンが運ばれていく度、スープの湯気がちいさくほかほかのぼっていく。麺が伸びてしまうからと、みんなばらばらのいただきますだった。
「おいしい?」
幸村くんが箸を休めて、私を見た。「おいしい」ひと言言うと、彼は目を細めた。
「しあわせそうだね」
「え?」
「また顔がふにゃってしてるから、そうなんだろうなって」
私は瞬時に俯いて、一目散に麺を啜った。彼がまだ隣で私を見ているような気もするし、そうじゃない気もする。気になるけれどいまこの一瞬だけは見たくない。スープが冷めてくる頃なのにやけに暑くてしかたない。「食事中くらいは控えてやったらどうだ」柳くんが呆れ気味に笑いながらも諌めると「つい、ね」それもそうだと言いたげに幸村くんが了承した。こういうとき、柳くんがいてくれるととても助かる。
「いままで誰かと学校帰りに寄り道して食べに行くなんてしたことなかったから…こういうこと、友達できてからじゃないとできないって思ってた」
幸村くんと寄り道しただけでもとてつもない成果なのに、こんなにも大人数でご飯を食べに行くなんて何年かかってもおかしくないと思っていた。どの休み時間もずっとひとりで過ごしていた私からしたら、信じられないことだ。
「友達ができたらって…もう俺ともパン屋とかいろいろ寄ったことあるだろぃ?」
丸井くんがむすっとした顔をした。もともとかわいらしい顔つきなのであまりこわくない。が、それよりも気になるのが、私が単純に丸井くんの台詞の意図が汲み取れないことだ。私が首を傾げていると丸井くんが怪訝そうな顔をした。
「それは、ちょっと違うというか…」
「違うって?」
「そうだけど、でも……丸井くんは友達じゃないから、なんて言えばいいのか、その…」
「ん??」
不穏な空気がながれる。
「友達じゃねぇの? 俺ら」
「え?」
「てか俺はずっと前からそう思ってたんだけど」
「えぇ!?」
「なんだよその反応!」
「だって、その、そんなの一回も言ってないから……」
丸井くんが呆れたようにため息をついた。
「わざわざ友達なろうとか言わなくね?」
「……そう、なの?」
「そうだろぃ」
「そ、そうなんだ。なんだか難しいね」
「苗字って意外と失礼だよなー」
丸井くんが仏頂面で麺をすする。私が必至で訂正しようとしても聞く耳持たず。世間知らずのあまり人付きあいの過程もその認識もなにかとずれているという自覚はある。
「えっと、その、友達ってどこから友達なのかわからなくて、私は友達って思いたくても向こうはそう思ってなかったら、とか……そういうこと考えるうちに不安になっちゃって」
「そう難しく考えなくていいと思いますよ? 肌感でお互いの信頼度が測れるといいますか、なんといいますか」
「幸村くんは友達で俺はそうじゃねえっていう線引きもよくわかんねぇしさ」
「苗字さんは俺のことも友達だと認識してないと思うよ」
「は?」
「幸村くんと私って友達だったの……?」
「ほらね」
「マジかよ」
「えっ? だ、だって、え?」
「……苗字さんならそう捉えてもありえなくもないとはなんとなく予想してたけど、とはいえなかなかくるものがあるね」
「え? あの、幸村くん?」
「幸村が結構傷ついてる…!」
「ふむ、貴重なデータがとれそうだ」
「ご、ごごごごめんなさい幸村くん! ほんとうにそのなんとお詫びをしたらいいのか、まったくそのようなつもりはなく……!」
沈む幸村くんに、焦る桑原くんに、冷や汗だらだらな私に、「興味深い」などとつぶやいて幸村くんと私を観察する柳くん。仁王くんはくつくつ笑って傍観している。
「あーあ、絶交じゃ。絶交」
「そ、そんな………!」
「仁王くん、あまりからかってはいけませんよ」
「店内では静かにせんか!!」
「す、すみませんっ」
「真田の声がいちばん大きいよ」
真田くんの叱責に謝罪をしつつ、ちびちびとスープを飲む。
友達。到底縁のない言葉だと思っていたからか、理解に追いつけない。
「みんな、苗字さんと友達ってことでいいよね?」
「賛同するやつは拍手だろぃ」「委員会方式ですか」「学級会であったノリじゃの」「おめでとう苗字さん」
「お客さんに見られてるよはははは恥ずかしいよっ」
みんなが控えめに拍手するだけでも耐えられないのに丸井くんは悪ノリなのか盛大に手を鳴らすので全力で止めたし、真田くんにもしずかにしなさいと怒られていたのでそちらにもれなく同意した。
「これで俺もやっと友達になれたというわけだね」
「……大変申し訳ございません」
「いいよ」彼がくすくす笑う。そうして談笑しているみんなを見やった。
「最近は言葉にすることもなくなったけど、こうやって面と向かって『友達になろう』って言うのもなんだか新鮮でよかったよ」
遠い景色に思いを馳せるようななつかしさと、いとおしさとが混じったような目もとをしていた。そんな隣の彼を見て、目の奥が急激に痛みだした。
そういえば、私はどうしてここにいるんだろう。こんなにもあたたかくてきらきらした場所にいるなんて信じられないことなのに、当然かのような距離で囲まれている。フェンスの向こうがわはずっと遠くてふれられないものだと思っていたのに。
あぁ、またこの感覚だ。
「苗字、大丈夫か? どうした?」
真田くんの声に気づいて目を合わせると、途端に視界がぼやけて目の端から滴り落ちる。真田くんがおどろいた顔をしたので、私は慌てて目を拭った。
「えっ、あの、これは」
「真田が泣かせたじゃき」
「……そう、なのか?」
仁王くんの横やりに深刻そうに真田くんが反応するので「真田にその手の冗談通じねぇっての!」丸井くんが咄嗟にあいだに入り、私も必死で手を何度も横に振った。
「ほんとに違うよ、ごめんねっ。これはただ感動しただけで、その……」
「感動?」
ぐっと涙を堪えて、呼吸をととのえる。
「こんなにいきなり、友達ができるなんて思ってなかったから……ほんとうに夢みたいでほんとうにほんとうにうれしくて」
ひとりでも信じられないのに、片手じゃ数え足りない日が来るなんてありえないことだった。
学校帰りに友達と寄り道をして、晩ご飯を食べに行く。ずっと夢に見ていたいろんなことが同時にかなえられた。前世で積んだ徳をこの瞬間に使いきってしまったのかな。
そう思えるくらいの奇跡がいま目の前で起こっているんだ。
真田くんを含め、みんなが安堵した顔をした。つめたい水を飲んで、私もほっと息をついた。すっかり汗ばんだコップには水滴がついていた。感情が高ぶり上がった体温を手からじっくりと冷ましてくれるような気がした。
「美味すぎて泣いたのかと思った」「ほんとにそうだとありがたい話だけどな」
あながち、まちがっていないのかもしれない。
「今日のラーメンが、人生でいちばんおいしいな」
桑原くんのお父さんがサービスだと言ってたくさんの餃子をふるまってくれた。かりっときつね色に焼けた餃子が大皿にびっしりと並んでいる。明日が休みなら遠慮なく食べるのにあいにく明日も学校だ。みんなが手をつけているなかひとりだけぐっと堪えるのは結構な忍耐力を試される。
「食べないのかい?」彼が不思議そうに首を傾げてくる。だって、彼が隣にいるのに。
「明日幸村くんと話せないよ」
私がそうやって伺うと
「そんなの気にしなくていいだろ」
幸村くんは一蹴して笑っていた。
「『みんなと一緒に食べたほうがおいしい』んだって、君が言ってたのに」
そう言って彼はひとつ口に運んでいた。そんな彼に促されるまま箸へ手を伸ばすと、彼は満足そうに笑っていた。
「幸村くんも餃子…食べるんだね」
「あ、また言ったね?」
「え、えっと、その、新鮮に見えるっていういい意味なんだけど」
「いっそ俺が呪文料理を食べてるところを君に見せたほうがいいかい?」
「……それはそれで見てみたい、かも」
「あはっ、やっぱりそうなんだ」
幸村くんが笑うから、私も笑った。
笑っていたのに、なぜだかもう一度泣きたい気分になった。
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。ぽつぽつと街灯がついている通り沿いに立つみんなの姿が街並みと溶けあっているようだ。スマホで写真を一枚撮ると、柳くんがいち早く察知した。
「盗撮はいけないな」
「ご、ごめんなさい。あの、えっと、外部流出とかそういうことには使わないのでどうかお許しを…!」
「せっかくの記念日なんだろう? お前も入らなければ意味がない」
「…え?」
「苗字が写真を撮りたがっているそうだ」
「ん?写真?」
「撮影料は高くつくぜよ」
目が合った柳くんはそうっと笑っていたから、それだけでももう胸がいっぱいになった。
さすがのチームワークというべきなのか、話がまとまるものでさっそくどう撮るか位置はどうするか云々などとみんなで話し合っていた。
「苗字さん、そんな後ろよりもせっかくですから中央にいらしては?」
「そんな、私は端っこで大丈夫だよ」
「……じゃあ俺もそっちに行こうかな」
「? な、なんで幸村くんが?幸村くんこそ真ん中に立ったほうが、」
「幸村を隅に追いやるとはたいそうな根性じゃのぅ」
「えっ、ちょっと、なにもそんなつもりは……!」
「ほーら、こっち来いよ」
いいや、結局はまとまるまでに時間がかかった。
腑に落ちないけれどおそらく私のせいらしい。幸村くんの立ち位置に私が合わせるという落としどころに決まった。最端かつ後方が落ち着く場所だったのに、中央というだけでも落ち着かないうえ幸村くんの隣に立つなんて。幸村くんはときどき、とてもこだわるひとだ。そしてそのこだわりポイントは、いまの私には見定められない。
柳くんの長い腕を生かして内カメラで一枚撮った。所謂自撮りをしたのも、今日がはじめてだ。
「よかったね」
写真を見返している隣で、幸村くんも一緒に画面を覗いて笑っていた。
こんな日がずっとすこやかにつづいていきますようにと、夜空を見つめながら、そう願っていた。