舞台隣の控え場所から、ひそひそと、なおかつ焦燥がはっきり伴った声たちが漏れ出ていた。
どうしてこうも遅れているのか。あとどれくらいで着くのか。先に始めれば多少はましになるかもしれない。そういった類のことだ。
「もう次で、最後···だよな?」
彼の問いかけに相槌を打とうすれば、アナウンスが割り込んだ。
吹奏楽部の演目が遅れるものの、いつ始まるかは未定、といった案内だった。
部活のみんなや先生らはあの人のご機嫌を伺っている。アナウンスが流れた途端にかなり張り詰めて、いっそうその観察に専念しているようだった。演奏が成功するか以前に、あの人の堪忍袋がどこまで耐えられるかどうかがみんなの思考のおおよそを埋めつつあるのかもしれない。
「あとどれくらいなのかな」
「見た感じ、さっぱりって雰囲気だよな」
そう返されるだろうとは予想はついてたけど、あえて聞いてみる。自分なりにこの状況を反芻させたかっただけの、意味の無い問いかけ。
軽音部は他の部活よりも恐らく長く演目に割り振られていたはずだ。どうにか伸ばしてくれと頼まれていたのかもしれないけれど、それでもレパートリーには当然限界がある。今いる吹奏楽のメンバーでもできなくはない。しかし見る限りでは披露するまでに見合う楽器の数がまるで足りていなさそうだ。壇上を埋める材料は尽きていた。
痺れを切らせたのか退屈に思ったのか、或いはもう終焉を感じ取ったのか、ホールから徐々に人が減っていく。人が少ない割には、気だるそうな声だけはゆったり増えていく。
ざわめきが鳴り止まないなかで、ただ真っ直ぐに目の前にあるあれを見つめた。
本来ならあの舞台の上に立っていたのだろう、グランドピアノ。
今は舞台から降ろされているうえ、邪魔にならないようにと端のほうに置かれている。この場で煌々と照らされているのは、誰もいない舞台だけだ。それでもそのおこぼれを頂戴するかのように、黒い屋根にうっすらと光が反射していて、確かにそこにいると、誰の目にも気づかせてくれていた。
あれだけは、やたらに私の中で存在感をちらつかせている。
あれはこの時間が進んでいくにつれて、沈むように私のなかへ入ってくる。
「なんでもいいから、もたせたらいいんだよね」
問う口調ではあったけど、誰かに頷いてほしかったわけでもない。
「だな」
あの大きく黒い異物をぼんやりと見ている私を、彼が見ているのはわかった。睨まれているなんて表現にふさわしいほどの視線。あれしか目に入れるつもりはなくとも、すぐ横から全身にひしひしと感じられた。
彼が素早く私の手首を掴んだのは腰を上げきる前のことだった。
あともうすこし彼が力を込めれば、痛いと感じる程度にはなかで骨が呻いた。
これでも加減されているのかもしれない。彼の表情を見れば、努めてそうしようとしてくれているように思った。
「なにしようとしてんだよ」
やっぱり。
「どれくらいもたせられるかな」
「お前がいってもどうにもならねぇだろぃ」
「確かにどうにもならないね」
私の出す音なんて、と言いかけて口を噤んだ。これを言ったならば、彼はもっと『嫌な』顔をするに違いなかった。
「こんなのでみんなが今までしてきたことが『なんてことなかった』って思われるのは、そんなの、あんまりだよ」
「なんでそこまでするんだよ」
「そこまでなんて言われるような、大したことはできないかな」
「行くなよ」
彼がこんな顔をするのも、そもそも表立って露わにするのも珍しい。いや、初めて見たかもしれない。
彼の眉間には深く皺が刻まれていた。舞台から差し込んでくるわずかな明かりが陰影となり、よりくっきりと目立った。暗いなかでも彼の髪の鮮烈さは際立つ。もともと整った顔立ちと相まって、綺麗だと、ぼんやり思った。
こんな時にそんなことを呑気に考えている自分にも、彼にこんな表情をさせている自分にも、どちらにも呆れた。
やさしいひと。だから分かってくれている。
あそこに行ったところで、どうしようもないまま終わってしまうこと。
あぁ、まただ。
どうしようもないなんて口を滑らせたら最後きっと怒られるんだろうな。否定的な言い方をするのを彼はとことん嫌っているようだから。そしてこのやさしさを台無しにしているのは、他でもない自分だ。
「知ってる?音には色があるんだよ」
不意に、あの音が頭のなかへ流れ込んだ。校舎から漏れ出ていた音。中庭に吹き抜ける風と共に流れるあの音が、好きだった。
もう、この手では取り戻せないもの。
「いい音はね、ちゃんと綺麗な色がついててね、カラフルで、きらきらしてる。みんなの音にはそれがあったの」
誰の耳にも戯言にしか聞こえないだろう。言いながらそんなことを思った。使命感が湧いたなんて言えば聞こえはいいのだろうけど、つまるところ勝手なだけだ。
「ここにいる人に、みんなの記憶に、絶対に残さなきゃだめだと思う」
「どうにもならねぇってことも、あるだろぃ」
「あっけなく終わるのって、むなしいんだよ。嫌ってくらい知ってるの」
「だからなんだよ」
だからなんだと言うのだ。
彼にここまで乱暴な言い方をされたのは始めてだ。いつもの私なら怯んでいたかもしれないけど、あいにく頭のなかはここいちばんに冷静だった。
彼も、知っているに決まっている。
「なにもないより、ずっとましでしょう?」
「でもそんなことしたって、お前が弾いたって、」
言いかけて、飲み込むように黙った。伏せられた顔はさらに険しさを増していた。
私の出す音がまともだったなら、彼はどんな表情でもって送ってくれたのだろう。
「私はどこにもいかないよ」
そもそも往く宛などない。
いまはもうどこを歩いても真っ暗なのだから、無様に立ち止まるしかないのだ。
「恥をかくのは、私だけでいいの」
ゆるやかに彼の手から力が抜けていく。
あれだけ台無しにしたくせに、この手首から温もりがなくなるのをさみしいと感じてしまうのは、あまりにも自分勝手だろうか。
戻ってきたら、ちゃんと謝らなくちゃいけないな。
そんなことを考えながら壇上付近へと足を進めた。
あんなにも痛かった彼のまなざしは、背中越しにはもう感じられなかった。
*
舞台隣には司会用のマイクが立てられており、その辺りで生徒会のメンバーが集まっているようだった。
柳生くんもそちらに加わっているようで、彼も含めて全員が悩ましげな匂いを漂わせていた。
「私があそこで弾きます」
生徒会のメンバーが一瞬だけ固まったように見えた。一体なんだと言いたげな面持ちがずらりと並んでいた。
柳生くんが即座に前に出てくる。
「あちらのピアノで、場をもたせるということですか?」
「中止にならないってことは、まだ搬入が来る見込みがあるんだよね?」
「···ただ、最低でもあと三十分はかかるかもしれないとのことです」
三十分。
引き際を決めるかの、かなり絶妙なボーダーラインなのだろう。
「ずっと弾いていれば、なんとかなるよね」
肯定させたいのが露呈したような、強引な話し方をしている自覚はあった。
「そう···かもしれませんが」
柳生くんの表情は浮かないままだった。
テニス部のみんなはそれぞれ一度以上は私が弾いているのを聴いたことがある。そうしていくなか、みんなのなかでとある共通認識が埋め込まれていた。
私のピアノは途中で止まる。
彼も例外なく知っている。だからこそ、それでいいのかと言いたげなのは明らかだった。
昔になん回も会ったことあるけど、と前置きする。
「あのひと、気は長くないからそろそろまずいと思う」
私の付近に立ちすくんでいた、吹奏楽部のみんなの顔色がさらに悪くなった。
向こう側で小さくみえる例の人、腕を組みながらじぃっとこちらを睨んでいた。先生達も頭を下げてなんとか宥めている様子だ。
あの人も相変わらずだな。思わず笑ってしまいそうになる。ただ、この状況を俯瞰してみれば、あの人に同情できなくもない。
みんなのざわめきは、後ろの方にも波及しているようだ。私の台詞は脅しをかけるような言い方にきこえたかもしれない。けれど、そういう意図も持たせていた。そうすればきっと、なにがなんでもあの鍵盤の前に立つことができると思った。悪意を含んだ作戦だった。
「苗字さん、お願いしてもいいですか」
大勢がたじろぐなか、一本だけ真っ直ぐな声が通った。
「うん」
「ここまで言っておいてですが、ほんとうによろしいのですか?」
彼の念押しが再び入る。心配してくれるのにはいろんな意味が複雑に混じりあっているのだろう。
「大丈夫だよ」
「どうか無理はなさらないで下さい」
「ありがとう」
「急なお願いで、申し訳ございません」
「無理やり言ったのは私のほうだから」
「そのまま行って頂いて構いません。こちらで繋げますので」
「さっきも思ったけど、柳生くんの司会はとてもいいね」
彼は静かに笑い返してくれた。
咄嗟に考えてくれたであろうアドリブのアナウンスが流れ、足を進める。
そのまま一礼すれば、ぎこちない拍手がホールに響いた。
音が響くようにと、漆黒の屋根を開けて突き上げ棒で支える。
あの音楽室では普段閉じたまま弾いていたので、こんな動作はかなり久しぶりだ。こんなにも重かっただろうか。
このタイミングで強い光があちら側から差し込んできた。
浴びることのなかったスポットライトは今このときにようやくピアノに当てられた。この光だって、こんなにも眩しく、熱かっただろうか。
椅子に腰を落ち着けて、顔を上げる。痛いくらいの光を、目を細めて凝視する。
私は、弾けるのか。
汗がじんわりと額から滲み出てくる。きっとこれは、あの光のせいじゃない。体の底からあらゆるものが逆流してきそうだ。
スカートの上で両手が痛むくらいの拳をつくり、握りしめる。
曲は?
三十分の間でなにが弾ける?
繋ぐとしたらなんの曲同士で?
ほんとうに弾ける?
もし止まったら?
もし聴こえなくなったら?
もし、きこえなくなったら
ゆったり俯いて、きつくきつく瞼を閉じる。
違う。そうじゃない。
なんとしてでも、みんなの音を残すんだって偉そうに言ったんだ。どうしようもないのは、私だけでじゅうぶんだって言ったじゃないか。どれだけぼろぼろなものだったとしても、なにもないより、ずっとましだと言ったのも、私だ。
『いくなよ』
温かいものですらも、振り払った。
「いくよ」
消えるように呟いた。
鍵盤の上で手を滑らせる。
崖から飛び降りたみたいだった。
飛んだあとは、潜り続けて、ひたすらにもがくしかない。
激しく、非情に、ときには痛みを伴い、闇のなかに月が浮かぶ。
この場にいるみんなが退屈にならないようにと考えた末の安易な選曲をした。この場からこれ以上誰も出ないように留めるという、下らない使命感が湧いたからだった。勢いのままがむしゃらに臨むしかなかった。あの部屋で弾いているときとは違い、彷徨う隙などつくってはいけない。
─────感情なんか込めなくていい
深く潜ったあとでもあの声が奥底からぐわんと響く。反響して、刻みこまれる。
そうだ、いつもこんな風に弾いてたんだ。
なにも考えなくていい。
なにも込めなくていい。
ただひたすらに。楽譜通りに弾けば、あとはなにもいらない。
─────ほんとうにロボットみたい
どこかパーツが外れないよう、壊れさえしなければなんとでもなる。
これでいい。こんな風に振り払って、全て捨てきってしまえばいいんだ。
いつの間にか、拍手が鼓膜に入り込んできた。
「(ぜんぶ、弾いた?)」
違和感なく止まった自分の指と、あの頃は当たり前のように響いていた自然な拍手とで、身に起きていることをかろうじて理解できた。
どうやら、完奏したらしい。
信じられなかった。信じられないことではあるけど、その事実を味わって余韻に浸れるわけでもなかった。
今しかないと思った。
聴こえるこの瞬間に弾かなければ後を繋げられない。
まだだ。まだ足りない。もっと弾くんだ。聴こえる今のうちに、まともなものを響かせなければならない。
顎にまで伝った汗が煩わしく、片手で雑に拭う。再び鍵盤に手を置く。荒くなった呼吸を抑える余裕はない。
弾け。
喉元に鋭利な刃物を突きつけるように自分で自分を脅した。
それからも、ただただひたすらに弾いた。
全神経を研ぎ澄まして、音がひとつでも零れてはならないようにと必死だった。指が痛いくらいなのに、腕だけは麻痺しているかのように感覚を失っているみたいだ。
どれくらい経ったのかわからない。
汗を拭って、鍵盤に手を置き直す。なんど繰り返したか定かでない動作の後、終わりを告げるアナウンスが流れた。
意識がやっとこちら側へ戻される。
今までなにをしていたのだろうか。
巡って、動けずにいた。ようやく立ち上がった頃には拍手は止んでいた。
目眩が襲ったみたいに足元がぐらつく。覚束ないままではあったけど、歩幅を大きくすることに専念した。
舞台端へと引き返し、あちら辺りには出口のようなそういう非常扉があったのを思い出す。人がその扉の前にいるのを押しのけて進む。柳生くんに声をかけられたような気がした。吹奏楽のみんながなにか言ったような気がした。
どうでもよかった。気にする余裕なんかこれっぽっちもなかった。ただ逃げたかった。なんとしてでも地上の空気を吸い込みたい。深く潜り、波打つ水面から顔を出した後の、精一杯肺に酸素を送り込む、ああいう感覚に近かった。
ホール裏へと走り込む。
ここまで来たのにまだ息苦しい。どれだけ吸い込んでも足りない。嫌な汗が背中にまで流れているような気がする。それだけじゃないなにかも、全身にべっとりと張りついてるみたいだ。
心臓の前にまで両手を持ってきて、握り合わせてみる。痛いと自分が感じるくらいまでに強くつよく。そうでもしないと、保てるわけがなかった。
駆けてくる音が向こうから聴こえて、ぴたりと足音が止んだ。
未だ朧げな思考で音の鳴った方向へ焦点を定めれば、彼がいた。
振り払ったあとになった今、彼はどういった面持ちで私を見ているのだろう。やさしいお咎めを無視してしまったから、怒っているだろうか。
そんな心配する割には、彼特有の鮮烈な赤を目にすれば、ぷっつりとなにかが外れたみたいだった。
こころの底から安心できた。胸のなかを撫でられたみたいだった。
「ごめん、なさ、あんなにひけたの、ひさしぶりで、なんでか、わかんなくって、」
いよいよ、なにもみえなくなった。
手の甲を押しつけては横へすり撫でてみる。そんな努力も嘲笑うかのようにぼたぼたとめどなく溢れてくる。むせぶなんていつぶりだろうか。あんまりにも不恰好で情けない。
「だからいくなって、言っただろ」
ことに涙腺の弱い自分を彼は知っていて、その度に腫れるからと目を擦りつける癖を止められていた。けれど、今はそうしてはくれなかった。
その代わり、至ってやさしい手つきで頭を撫でてくれた。いつもならぐちゃぐちゃになるくらい雑にされるのに、微塵もそれを感じられないほどゆったりとしている。
彼にされるがまま引き寄せられる。背中に回された手は力強かった。彼の体は決して大きくない。身長の差だってない。それなのに、包まれているような浮遊感さえあった。
「やっぱ、すげぇなって思った」
「ああいうの弾けんのなら、もっと前から知っときゃよかった、つーか、教えろよ」
彼はたくさん賞賛もはげましもくれた。
「ほんとうに、がんばったよな」
あぁ。こんなのでも、がんばれたんだ。
ずっとここに留まっていたい。
あんなに振り払ったのに、そう願う自分は酷く勝手だ。
どうして泣いているのか。
弾けたらそれでよかったんじゃないか。
聴こえたらそれでよかったんじゃないか。
きこえたら、それで。
振り払って、裏切ったあとに待ち受けていたもの。
取り戻せない向こう側を掴めたのなら、よろべばいいものを、どうして。
こころを殺して音に没入する世界。
弾けないなんて赦されない世界。
かつて座っていたあの場所は、あんなにも殺伐としていたのか。
追いつけない。
きこえたことも、当たり前のように弾いていたあの日々も、あの世界の感覚も。
よろこべない私は、結局どこへいけばいいのかも。全然、ぜんぜんわからない。
嗚咽がひどくなる。情けないとは分かっていても止める気もなかった。さっさと吐き出すにはこうするのが手っ取り早いと思った。終わらせたかった。終わらせて、はやく彼に謝らなければならなかった。
いってしまって、ごめんなさい、と。