警報だった。
多分、あいつがじっと真っ直ぐピアノを見てたときから鳴ってた。あそこで弾いてくるって言ったときは、いよいよだと思った。なんとしてでも止めなくてはいけない合図。本能が叫んだっていうのは、ああいうことをいうのかもしれない。
あいつと音楽室に行くようになって、あとから分かった。
弾き終わったあいつは、いつも、一瞬だけもの悲しそうな色をみせていた。
あまりにも一瞬だからいままで見逃していた。気づくのが遅かった。やるせなさ。掴みたかったものを断念したような、沈んだ底から決して浮かぶことのできない、そういう気配をした表情。
音がきこえない。
そう話したあいつを見てからは、もどかしさが酷くなっていった。
あそこで弾いているあいつは、いつもどこかへ向かっている。自分の知らない、知りようがないどこか遠く。そんな表情になってまで、身になるのかもわからないまま弾いている意味があるのか俺にはわからなかった。
だからあの瞬間、いかなくていいだろって勝手に手が伸びた。引き止めたかった。なんでそこまでしてあっちにいくんだよ。無性に苛立った。
お前が笑えないくらいなら、なんにもいらないのに。
だけどあいつがピアノが鳴らした途端、なにもかも吹っ飛んだ。
頭のなかの警報もぴたりと止んだ。
あそこで弾いてるあいつは、誰かもわからないあいつになっていた。
初めて完奏しているあいつを見た。
ちゃんと聴こえてる。
きっと、あいつが望んでたことだった。
なのに、ちっとも安心できなかった。
むしろどうしようもなく胸がざわついた。
黒い椅子に座るあいつは全部聴こえてるはずなのに『きこえない』と語っていたいつかのあいつと重なったからだと思う。
知りたいのに、叶わなくて、知っているようで、知らないあいつだった。
あの部屋から遠のくようになったのは、いつからだろう。
―――――幸村くん、よくここに聴きに来るの
最後の拍手が鳴ったのと同時にあいつが駆け出したのをみて、俺の体も勝手に動いていた。
ヒロシも同じことを考えたのかあいつを追いかけようとしたけど、吹部の楽器やらが着いたみたいで、そっちにも手を回さないといけなさそうな雰囲気だった。
即座にホールから出て走っていく。やきもきしてそうなヒロシからは頼むようになにか言われたと思うけど、自分の足が思う以上に凄まじいはやさで動いてよく聞き取れなかった。とにかく余裕がなかった。
案の定だ。やっぱり引き止めたらよかった。
そう思いかけて、やめた。
わかってるならちゃんとしろよって、自分に苛立った。
笑っているあいつのいちばん近くにいたかった。
俺じゃなきゃ嫌だった。
いつだってそう思う。
泣いているときだって、こうして肩を抱き寄せているみたいに、もっと近くに。
苗字が咽んで、肩が跳ねる。
そのたびに胸が痛んだ。
あいつが望むことはきいてやりたい。
どんなことでもなんだって、なんてのは無理だって知っているけど、それでもできることなら全部。
いまさら考えても遅い。それでもときどき頭をよぎる。
ほんとうにあの音楽室は残してよかったのか。
あいつの望んだことだけど、あの部屋はあいつが笑わない世界なんじゃないか。
そう思う度に鬱陶しくなった。
そして同時にあのふわふわ笑う顔も思い出した。いっかい見ただけでもう全部どうでもよくなるくらいの、とびきりの。
あの音楽室に向かう苗字の背中を何回も頭のなかで思い出しては強引にかき消した。
もう、最初からなかった記憶みたいに。
*
「目立ちたくなかった···!」
「まぁー、あんなことすりゃ嫌でもそうなるだろぃ」
丸井くんが呆れ気味に何個目かわからない購買のパンにかぶりつく。
普段彼とは教室でお昼を食べることのほうが多いし、もともと場所にこだわりはなかったけれど、私のほうから中庭で食べたいとお願いした。
『あの子、すごい弾いてたよね』
『いきなりなんだったの?』
ひそひそ声を耳に入れる度、特別窮屈に感じられた。
人よりも耳のきこえがいいのは、自分の都合のいいときにしか発揮してほしくなかった。
海原祭の関係で月曜日は振り替え休日になっていた。なので、あれから日にちはそれなりに経っているはずだ。なのに、視線を浴びているというこの状況が堪らない。
せめてということで、まだ人がまばらなここで過ごすようお願いしている。
「みんなの記憶から抹消できる魔法とか降ってこないかな···」
「考えすぎだっての」
「私のような日陰者は穏やかにひっそり生きていたいんですよ···」
「なんでそんなネガティブなんだよ。吹部の先輩たち、礼までしてくれたろぃ?そんだけすげぇことしてんじゃん」
休み明けすぐのことだった。吹奏楽部の部長がわざわざ教室にまでお礼を言いに来てくれたのだ。とにかくびっくりして「とんでもないです」としか返せなかった。半ば浮ついた心地に浸っていた。
と、ここまでは良かったのだけど、普段じとじと過ごしているなんの部活にも所属していない私が、先輩に呼びかけられるのも皆からすると珍しく映る光景みたいだった。しかも、あんな突発的に延々と弾いたあの日の後だ。目立っているような気がする。自意識過剰かな。
「柳生くんに偽名言ってもらうよう根回ししたら良かった···」
「やってもそんな変わんなかったと思うけどな」
昼休みのあとは音楽の授業だった。
時期に開催される合唱コンクールで、ピアノの伴奏者を決めることになっていた。
こういうのは、各クラスに数人はピアノを弾ける子や習っている子がいるように予めクラス分けされている。そのため当たる子はもう決まっているようなものだ。
私はそのなかに含まれていない、という話になっている。入学時からお父さんが先立って担任の先生に、苗字名前はそういう役に回らぬよう外してほしいと頼んでいた。聴覚の問題云々といえばすんなり話はついたのだろう。だから音楽の先生も、はなから私を捉えようとはしていなかった。お父さんの過保護ぶりにはときどき頭が痛くなるけれど、この時ばかりは素直に感謝できたし、かなり安心できた。
私を抜いても数人の候補がいるとはいえ、実際にその意思があるかは別問題だ。挙手する子はクラスのなかに誰もいなかった。
結局どっちつかずで決まらないまま話はながれ、自由曲を決めるくじ引きでその日の授業は終了した。
*
午後は雨の訪れと当時に、ひんやりとした空気が学校のなかにまでながれていた。一階にまで下りると地上と近いからかざあざあと雨の降る音がよく耳に入ってくる。季節の節目はいつも雨が教えてくれる。
今日はまっすぐ帰るつもりだった。
ロッカーへ寄ろうと歩いているときだった。
女の子たちが私の前に立ちはだかる。「ちょっといい?」嫌な予感がした。同じクラスメイトの子だけれど、日頃はほとんど話すことがない。私が頷くと彼女たちは事前準備かのように互いに目を配らせた。
「苗字さんって、ピアノ習ってるんだよね?」
もう習ってないよ。
なんてこたえは、求められていないんだろうな。
どうやらお父さんの大事な根回しを無駄にしてしまったらしい。
彼女は語感を強めて腕を組んでいた。背丈はほぼ変わらず目線も同じ位置にあるのになぜだか見下ろされているような感覚がする。胸の鼓動が急にはやくなる。
弾けるかどうか。その点だけについて答えたらいいのに、いまの私はそれすらもできない。唇を動かしては閉じるの繰り返しだった。
そんな私に「なに?きこえない?」苛立った様子がありありと見えて、胸がぐぅっと握り潰されたみたいだ。こんなときにも吃らなくたっていいのに。
「いまは習ってなくて…弾けない、から」
「なにそれ。文化祭で弾いてたでしょ」
絞り出してみたものの、呆気なく突き返される。
「···それは、」
「話進まなそうなんだし、苗字さんが協力してあげたら?あんなに上手いんだからいちばん伴奏者にふさわしいと思うけど?」
あのときはきこえた。確かにそうだった。
いまはきこえない。それも事実だ。
誰にとっても明快な説明のしようがなかった。
わからない。なぜそうなるのかだれも教えてくれない。弾けて当然の世界とそうでない世界の狭間に立っている。そのあいだを自由に行き来できる選択肢は与えられていない。
やり場がなく平静を保とうと握りあっていた両手はじんわりと汗ばみはじめる。
「その、どうしても、弾けなくて」
「だから、なんで?」
言葉に詰まっていると、彼女がため息をついた。
「耳の調子がおかしくなって、ピアノはやめたの。たまに聴こえなくなって……原因がわからなくて。だから、その···私が弾いたとしても、迷惑かけちゃうだけから」
ほとんど間違ってはいない。事実を伝えているはずなのに、どうしてこんなにも胸が締めつけられるのだろう。
―――――弾けないのは、そんなにも悪いことなの?
「ごめんなさい」
相手につむじが見える深さで腰を折り曲げる。謝罪というよりは、懇願の意味を込めた動作だった。
「文化祭でできたのにつぎはできないって無理あるくない?」
「嘘つかなくてもいいのにね」
「言いすぎだって」連れ添っている子たちが笑っている。
嘘。きこえないという嘘。
私は、あの部屋で何百回も嘘を吐きつづけているのだろうか。
「苗字さん?」
彼女たちの顔が引き攣ったのと、声が聴こえたのはほぼ同時だった。ぱっと振り返るとラケットバッグを背負った彼がいた。
「あぁ、やっぱり。さっき先生が君のこと探してたよ」
「え?」
「もしだいじな話なら、俺から断っておくけど」
そう言って彼が彼女たちへ視線を配らせた。それに呼応するように彼女たちの表情が少し強ばった。「ちょっと借りても大丈夫かな?」彼はあたり障りのない(しかし彼の手にかかると特別さわやかになる)笑顔で訊ねた。彼女たちの尖った目つきは瞬時に落ち着きを見せ「大丈夫」声色も幾分やわらかくなっていた。萎れた、という表現のほうが適当かもしれない。若干気まずそうな顔をしながら彼女たちはロッカーへと向かっていった。
彼女たちの姿が完全に見えなくなったところで、鼓動が平静を取り戻しはじめる。身体の緊張がほぐれはじめたころ、彼を見上げた。
「先生は呼んでないよ」
清々しい物言いが却って耐えられず、私は首を下へやった。私からどんな質問が来るのかわかりきっていたのだろう。
「ごめんなさい」
ありがとうとは、言えなかった。
しばらく彼は黙り込んだ。
「聴いたよ、君のピアノ」
ばたん、ばたん、と不定期にロッカーの閉まる音があちこちから聴こえてくる。
「君はいつも、ああやって弾いていたの?」
面と向かって、彼が訊いた。「『ああやって』って?」訊ね返したが、彼はなにもこたえない。
「変だった?」
私が言った。
まさか、と、彼が即座にこたえた。
「どれにもほんとうに圧倒されたよ。あの場にいる全員がそうだったと思う。ただ、いつも音楽室で聴いている曲目とはまるで違ったから…おどろいたよ」
お世辞には聞こえなかった。少しの飾りもつける気のない口ぶりだったから、信用できた。
「思い通りに弾けないときとか…とにかく発散したり無心になりたいときは『ああやって』弾いてた。がちゃがちゃ弾く癖が残るからってお父さんはよく思わなかったから、その名残で進んで弾くことはなくなったけどね」
私の師はお父さんだった。
初めの頃はピアノ教室に通っていたけれど、それもすぐに終わり、お父さん直々に教えられるようになった。
「大丈夫かい」
彼が尋ねた。ひどく慎重に伺うような視線だった。私は声もなく、彼を見つめることで理由を訊いた。
「あのときの君は、とても疲れているように見えたから」
彼の表情を見て、ふと、先日のやりとりを思い出した。
「これ、ありがとう。この作家さんの他のも読んでみるね」
「気に入ってくれたのならよかった。俺ももう終盤に入っている。時期に返すつもりだ」
「···その、どうだった?あ、感想きくの早いかな」
「興味深い展開だ。よければ次作も借りていいか?」
「ほんとうに?」
お互いのお気に入りの本を教え合おうという話になってから、この本の交換会は途切れることなくつづいている。彼の推察力は抜群で、私の好みを熟考したうえで紹介してくれている。彼の貸してくれた本はやはり面白く、毎度のようにどっぷり読み耽っていた。
「柳君、いっぱい読んでそうだし、私が読んでるのなんかとっくに知ってそうだったから···いつも心配になるんだけど」
「俺でも多少偏りは出てしまう。またおすすめを教えてほしい 」
「うんっ。···こうやって友達と本の貸合いっこするの夢だったから、うれしいな」
「苗字に言わせてみれば、なんでも夢になってしまいそうだな」
「みんなとしてることぜんぶ、あたりまえじゃないって思うの」
「あたりまえじゃない、か」
「そういうのって、ちゃんと実感したい。夢っていえば、忘れないような気がするから」
「お前らしいな」
柳くんは穏やかに笑った。
「でもほんとうに、夢みたいだよ」
なんだかむず痒いけれど、居心地悪くはならない。
そうして彼と話していると、話題は海原祭へと移った。
「海原祭での演奏はアドリブにしてもかなり弾きこんでいるようにみえた。前から相当練習しているものだと思っていたが」
「久しぶりだったけど、案外覚えてただけだよ。あんなことしたわりに先のこと考えてなかったし···選曲もぐだぐただったんじゃないかな···」
「精市がお前のことを心配していた」
ここまでの会話の流れをせき止められたような気がする。思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
あのときのことを?どうして?彼が?
彼もあの場で鑑賞していたということにはなるけれど。
口の動きは固まる一方、頭のなかは忙しくなく働き続ける。私の思うことを察してか、柳君が続ける。
「消耗しきっているお前を見たからだろう」
「···そう、かな」
「また顔を見せてやってくれないか。安心するはずだ」
手紙だけでは心もとないから、遠方にいるかの人に自分の無事を直接みせて報告しなさい。長らく帰省していないから、親元へちゃんと顔を見せて会ったほうがいい。なにかの戦から帰った兵士だとか、親孝行してない子どもだとか、そういういつしか嗜んだ映画や小説の一場面と柳君の台詞が重なった。
そこまで言うほどのことだろうか。
返事はしたけれど、いまいち落とし込むことができなくて、頭の隅に残しておく程度に留めた。「そういえば、柳くんの数独大会も凄かったよ」と、それとなく話題を切り替えた。
「もう、いまは大丈夫」
おもての雨足は弱くなっていた。しっとりとした空気が肌にやわくまとわりつく。
「あんなに弾けたのひさしぶりだった」
たどり着いてしまえば、もうなにも考えなくて済むのだと思っていた。
「幸村くんは、うれしくなかった?」
いつか最後(ピリオド)まで弾ける遠い未来を願ってくれたのは、まぎれもなく彼だった。
「君が笑ってない」
彼ほどのうつくしい造形には微かなひびが入っただけでもそうとうな歪みにみえる。彼の瞳がせつなく細められた。私はなぜだか、ほっとした。
「あれからもね、きこえないの」
当然あの日からも音楽室に立ち寄った。椅子に座って鍵盤にふれるまでのあいだ、しきりに指がふるえていた。
そのわりには、なにもなかった。
たしかに通っていた当初に比べればぶれのない演奏ができた時間は多少は長くなった。捉えようによっては飛躍的な進歩だと謡えるのかもしれない。
けれど結果そのものは変わらなかった。私にとっては、意味を成していなかった。
「どうしてあのときは弾けたのかも、どうしていまはできないのかも、全然わからない」
そして思い知った。
たとえいまからあの世界に戻れたとしても目に映る景色は変わらないことを。
感情のいらない、つめたい世界。
─────完璧な道具ね
どう足掻いてもそういう存在にしかなり得ないことを。
「不思議ね」私は軽く笑ってみせたが、彼は微塵も口の筋肉を動かさなかった。
ただでさえ遠いと思った道は、ますます果てのない暗がりを彷徨う道程になった。
「ほんとうに嘘つきみたい」
「そんなわけないよ」間髪入れずに彼が言う。「君はなにも偽ってない」
「みんなのなかで私が『弾けるひと』なら、弾けない私は嘘つきだよ」
「それだけが君の人となりを判断する基準にはならないよ」
彼の言い分はまっとうだ。だから、聞きたくなかった。
できることなら私もそう思いたかった。そう思い込もうとしてもあの日の記憶が私を連れ戻す。あの部屋(世界)では、私という人間の価値基準はいつだってひとつしかなかった。
「おかしいって思われてもしかたないよ。あんなに弾けてたのにいまはできないなんて。私は『ピアノが弾ける』子だった。弾けるかどうかだけが重要だった。みんなが私に興味をもつのなんて、それだけだった。そういう目でしか見られなかった」
気が遠のく感覚さえ忘れてしまうほど毎日鍵盤に向き合っていたのに、どうしていまはこんなにも空っぽなんだろう。『ピアノが弾ける』子はもう、何者でもない。
私はいったい、なんなんだろう。
「嘘みたいで信じられない」
そのひと言がふたりの空間にだけ響いた気がした。彼の唇が僅かに動いた気がしたが「もう慣れてるから」私の声によってさえぎられた。
彼はなんとも言えない顔をした。はじめて見る顔だった。見た瞬間、じわじわと後ろめたさが胸を覆った。彼に聞かせるような話じゃなかった。彼にきたないものは似つかわしくないのに。
「独り言だから……気にしないで」
「気には、なるかな」
彼が目を伏せた。なんと返すべきかわからなかった。
「君はなにも悪くないよ」
そう言った彼の顔が揺らいで見えた。私は堪えるように、しきりにまばたきを繰り返した。
「どうしてそこまで…」
「君には傷ついてほしくない」
彼の言葉にはぶれがない。
「君のことが大切で、それだけなんだ」
だからこわくなる。
彼に身をあずけてしまいたくなる自分がいることに。
「幸村くんは、やさしいね」
「そんな言いかたはさびしいな」
こころをゆるしてしまう自分に。
「ほんとうにそう思ってるんだよ」
せつなげな彼の声に胸の奥が締めつけられた。私に訴えているようにも、彼自身に言い改めているようにもきこえた。
私の愚痴なんてどうでもいいことだ。彼に聞かせるべきじゃなかった。彼にきたないものは似つかわしくない。「ごめんね」あやまると、彼は一瞬複雑そうに目を細めた。
「なにかあったらすぐに言うんだよ」
なにか。彼にしては曖昧な表現だ。私には思い当たる節がたくさんあるから特定が難しいけれど、おそらく彼にとってもそうなのだろう。頷くと、彼が口に手を当てながら笑った。なにがおもしろいのだろう? そう思って首を傾げていると、彼がふっと笑った。
「すごく間があった」
「えっ? そう…だった?」
全然気づかなかった。いつも通りの反応をしていたつもりだったのに。
「多分もう大丈夫だよ」
「多分、ね」
「絶対。……とも、言いきれないけど」
「やっぱり」
組んでいる手をほどくように彼が私の片手をとった。顔を上げるとすぐそこに彼の顔が迫っていた。
「さっき俺が言ったこと、忘れないで」
私の苦手な彼の瞳。どうしてそんなふうに見つめるんだろう。私は無言で頷くことしかできなかった。ほんとうに了承しているのかもわからないのに。彼はどこか解放されたように表情も纏う空気もやわらいでいた。彼も強ばっていたのだと、そこでようやく気づいた。
柔和な笑顔が目印になるくらいおだやかな彼でも、笑顔のなかでも微妙なニュアンスの違いだとか、さわやかな声でも話しかたやトーンの少しの違いが少しずつわかってきた気がする。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
それでも、幸村くんがいまどう思っているかまではわからない。憶測するだけでもひどく憚られる。はにかんだ笑顔も、ゆがんだ瞳も、抑えるような声も、やわらかい声も、すべて私の都合のいいように解釈してしまいそうでそんな自分に辟易するに違いない。
知らないままでいたほうがいいことなんて山ほどある。
―――――君のことが大切で、それだけなんだ
忘れたほうが楽になれることも、山ほどある。
彼の背中が見えなくなるまで私はずっと立ち尽くしていた。そのあいだ、彼が振り向くことはなかった。