「ジャンプください」
桑原くんと丸井くんとお昼を食べたあとに割り込まれた第一声だった。
食後のおやつを交換しているところにふらりと彼がやってきたのだ。猫背気味で、わざとらしい丁寧語はちょっとぶっきらぼう。
彼は手に握りしめた小銭を丸井くんに渡すと合図のように丸井くんもしなびれた分厚い雑誌を手渡した。毎週丸井くんが購入しているものをいくらか支払うことで読ませてもらっているらしい。不当ではない公正な取引に映るけれど「もうちっとばかし安くしてくれんか」彼にとってはまだ交渉の余地があるようだ。
「ほとんどタダみてぇなもんだろぃ」
「ブンちゃんはケチじゃからのう」
「小遣いそんなねぇし」
「おやつ代節約したらいい話じゃと思うが」
丸井くんはそんなことは知らないと言いたげに目の前でポッキーをつまんでいた。これみよがしに。「俺が結構奢ってるはずなんだけどな」そばでは桑原くんが肩を落としていた。彼の気苦労は計り知れない。
「週刊でも積もりに積もるとちょっと高いよね。私もたまに丸井くんに読ませてもらってるんだけど···」
「それは規約違反なり」
「そ、そんな…ほんとにちょっとだけだよ?」
鋭い指摘にうっと喉を詰まらせる。普段は単行本派ではあるけれど先の展開を読めると思うと気になって、つい隣で読ませてもらっている。「苗字にはお前と違って遠慮っつーもんが備わってるからな」ブン太が横から助け舟を出してくれた。(彼の言う通り、せめてひとつの作品一話には絞り込んでいる)
「苗字も少年漫画、読むんだな」
「幼馴染が男の子でその子の兄弟も多かったからかな。ごっこ遊びも漫画も男の子向けに偏ることもあって」
「お前さんも読むか?」
「え?」
「安くなるからのう、三人で割れば」
「って、勝手に割り勘にすんなよ」
「ほんとのほんとに? その、私…ジャンプの回し読みが夢だったの」
「回し読みが?夢??」
「こう、なんというか青春っぽいからいいなぁって…」
「んーそうか?」
「いくら払えばいいんだっけ?」
「真田に見つからないように気をつけろよ?多分、苗字でも容赦しなさそうだからな···」
「そ、そっか、そうだよね。気をつけなきゃだよね」
「苗字だから馬鹿正直に言いそうだよなー」
「大丈夫、裏工作はばっちりしておくね」
「公言してる時点でアウトじゃ」
「あ、そうだ。せっかくだからほかのみんなも回し読みに誘ってみたらどうかな?」
「···そういうところだぞ、苗字」
桑原くんが苦笑する前で、私はというとジャンプをさもよくある図鑑かのようにカモフラージュできるカバーをどう手作りするか脳内でさっそく設計図を練っていた。真田くんに気づかれない最善策は慎重に練らなければいけない。
そうやって雑談しているときだった。
こちらへ上級生らしい生徒が近づいてくるのに、みんながほぼ同じタイミングで気づいた。
てっきりテニス部のマネージャーかと思っていたのに「苗字さん、だよね?」と、こちらへ直接の指名が入った。
やや遅れて、こくりと頷く。みんなのようすを見てみたが手応えのなさそうな表情をしていた。ここにいる誰もこのひとを知らないらしい。
「この前の文化祭の演奏、すごかったね。いまもピアノやってたんだ?」
「···いえ、いまは」
「あれ、そうなの? でもどうりで途中からコンクールで見なくなったよね。いつからやめてたんだっけ?」
「十一歳くらいから、です」
「へぇーにしては全然ブランクなさそうだったね。やっぱりすごいなー」
私が混乱していることに気づいたのか「あ、ごめんね?いきなりびっくりだよね」彼女はにこやかに笑った。
「私もずっとつづけてるし一応コンクールにも出てるから苗字さんが常連なのもよく見てたんだよね」
彼女の学年は私たちよりひとつ上だった。幼少期はもちろん現在進行形でもピアノは継続しているらしく、コンクールにも積極的に参加しているようだ。常に壇上にいた私の姿を長らく見かけなくなったと思いきや、あの海原祭で弾いていたのを目の当たりにして驚いた、ということらしかった。
ひと当たりはよく、親しげに話しかけてくれている。
ただ私の性格由来から簡素な返事しかできず、会話がはずんでるとはいえない。私は初対面の相手とフランクに話せるようになるまではまだまだ長い道のりらしい。
あいかわらず呆れる。そんな自分にも、この手の話題になると無性に胸がざわつくのにも。
空間にアクセントをいれるかのように、先輩が手に持っていた紙をこちらへ差し出した。コンクールの日程や場所など応募条件など諸々の事項が書かれていた。
「久しぶりに出てみない?」
これが本題ということらしい。
返答は否応なく決まっていた。
「お断りします」
遠慮や気遣いは一切湧いてこなかった。自分にしては、珍しい。
「どうして?」
なんのことかさっぱりといったトーンだ。わかっているでしょう、と返したくなる。そうしたくなって、留まった。
特定の世界のなかなら私の存在は知られている自覚はあるけれど、生憎その全体数は把握できていない。弾ける私と、きこえない私は、それぞれがどれくらいのひとにどれほどまで埋め込まれているのだろうか。
「いまはもう、弾けません」
「この前は弾いてたのに?」
食ってかかるほどまでに疑われているわけでもない。単純な疑問なのだろう。悪意がないとわかっていても肩身が狭いという表現がこうも的確かと思わせるくらいには重いなにかがずんとのしかかった。
「あれだけ弾けるならブランクあってもかなり上位に入れそうなのに···もったいないよ」
もったいない。
とてつもない違和感がある。
そんな言葉をつけるほどの価値が、私の弾いてきたものにそもそもあったのか疑わしい。
──────譜面の奴隷だな
誰かが遠くのほうで密めきあっている。
最近は特に、記憶がぶり返す頻度が増した気がする。
一向に頷かない私に、先輩が「うーん」と言葉を唸らせる。さも罰が悪そうに目を泳がせていた。
「···………実はさ」
「?」
「もうエントリーしちゃったんだよね」
その瞬間、他の三人も私と同じようなことを考えていたと思う。そんな表情だった。
*
「コンクール?」
幸村くんの目がぱっとあかるくなる。
「予選の話だよ」瞬時に断りを入れたが、彼の表情は依然として萎れる気配がない。なぁんだ、くらいにあしらってくれてもよかったのだけれど。
時おり肌寒い風が強く吹き抜けてくる。ブレザーのジャケットがあってちょうどいいくらいの季節になってきた。コスモスに、プリムラ、サフラン。屋上庭園はこつこつと丁寧に衣替えされている。
『苗字、コンクール出んのかよ!』
『あの話だと苗字は勝手に出場表明させられたってことだよな?』
『そうも適当でいけるもんなんか』
『そんな適当でいけるわけじゃないはずなんだけど…』
『審査員の先生のコネでどうにかなったって言ってたよな』
『二日間あるんだな。苗字はどっちに出るんだ?』
『い、いや、まだきまったわけじゃ…』
仁王くんは募集要項の紙を読んでいた。手に持っていた時間からして、おそらく上から下まで目を通していた。私へ返して、ひと言言った。
『お前さん、名前だけで通るほど有名なんじゃな』
否定はしなかった。
「経緯がいまでもよくわかってなくて、なにがなんだか」
私が参加することで予選が盛り上がるとか、彼女の師で審査員も務めている先生も推しているとか、エントリーに至った理由はいろいろ説明された。とはいえやっぱり、強引だ。おそらく『私』という保証付きだからそんな強引なやり方でも通っているのだろう。
「そんな機会がもらえるなんてすごいチャンスだよ」
「そんなことは…」
「いつなんだい? 俺も観に行くよ」
彼が前のめりなのでこちらが気圧されそうになる。「でも…やっぱり」私が躊躇いがちに口を開くと、彼はじっと待機していた。
「ほんとうなら辞退したほうがいいんだと思う」
「どうして?」彼は少しの隙もなく訊ねた。戸惑う私にも彼はお構いなしにつづけた。「きこえないから?」
それしかない。
音がうしなわれていく過程を見守るだけなら、私と彼のあいだだけで執り行われる行為で済ませられた。しかしそれが公の場ともなれば話はまったく別だ。
「義務を果たせないのに出るなんて」
弾き終えられない可能性のほうが大いに高い。それを知っておきながら、その場に立とうとしている。いまの私にはなんの保証もない。
「『絶対はない』」
彼が言った。
「そうだろ?」
まっすぐなひと。私の苦手な目。吸い込まれたいと思える熱望と逸らしたくなる後ろめたさとで精神がいつも揺れ動く。
「笑わないで、いてくれる?」
わかりきっていたことなのに、どうしても訊かずにはいられなかった。彼はなにもこたえなかった。それでも、彼の表情がすべてを物語っていた。
彼が手を伸ばした。繋いだ彼の手がさっきまで花たちに水を与えていたからか、ひんやりとしている。つめたいのに、あたたかい。
「しばらくは音楽室に入れないと思うとさみしいね」
「そんな…もう当日まで練習できる時間もそんなにないからすぐに終わるよ」
「また音楽室の外で聴くのはあり?」
「そ、それは落ち着かないから遠慮していただけるととてもうれしい…です」
「やっぱり?」
彼がからかうように笑った。
「でも、俺も聴くときは君の姿が見えたほうがいいかな」
「聴くだけなのに?」そう聞くと「あそこに君がいることに意味があるんだよ」染みとおるように彼はそう言った。
「楽しみにしてる」
揺らぎっぱなしの決断が、どう転ぶのかは誰にもわからない。
*
コンクールに出ることを丸井くんに告げたら、目を丸くしたあとすぐ「頑張れよ!」軽快な応援の言葉をくれた。
その言葉のおかげで背中は押されたけれど、このときの私は気合いが入ったというよりも、ほっとしていた。
『いくなよ』
あの日の彼の言葉が逡巡してしまい、これを言うまで躊躇っていた。なにも思わないわけじゃないけれど、いまは激励の言葉通りに甘んじるしかない。その意味通りのまま信じたかったし、とにかくいまはそういうもやもしたものを気にするゆとりがなかった。
「それでね、お昼のことなんだけど···」
「ん?」
「本番まで日にちがなくてかつかつだから···昼休みも練習したいの。丸井くんと食べたら、その、いろいろお喋りしちゃうから、あんまり一緒に食べるのは···えっと、」
「一緒に食えねぇってことだろぃ?」
「···うん」
「そりゃ練習優先でいいって」
いつも通り彼と食べて、それから音楽室に行くのも出来なくはない。けれど、きっと私のことだからのんびり食べながら喋って、結局昼休みを有効に使えなかった···なんてことにもなりかねない。もう当日まで猶予がないことを考えると、彼との時間をなくすしかなかった。
「ありがとう」
「まぁつっても二週間くらいだろぃ。その代わりツケな、ツケ」
「ツケ?」
「コンクール終わったら取り返してもらうかんな?」
「···そ、それはあれですか、おすそ分けできなかった分のおかずとかですか」
「さぁな?」
「···丸井くんってがめついよね。かっこいいからなんでも許されるって思っちゃだめだよっ」
「それ褒めてくれてんのか?」
彼と話しながら、頭の奥のほうにあの部屋に佇む黒い物体がちらついた。
ここから先は、後戻りができない。
音楽室に通いはじめて、数日ほどが経った昼休みのことだった。
チャイムが鳴って早々、丸井くんが真っ先に私の席へやって来た。
「なぁ」
「?」
「弁当は?」
「ないよ」
「昼飯は?」
「これ」
「···まさか、そんだけ···じゃねぇよな?」
「これだけだよ?」
『驚愕』という文字がここまでぴったりな顔があるのかと思うほど、彼は目を丸くして口を開いていた。
「すぐいなくなっちまうからそんな食うの早かったっけ?って思ってたけど···マジかよ」
「えへへ···速いでしょ?これだと一分もかからないから最適なんだよね」
「『えへへ』じゃねーよ!少なすぎて笑えねぇし」
「ま、まぁダイエットもついでにできるし、一石二鳥というか···」
「ダイエットっつーレベル通り越してんだろぃ」
丸井くんがまじまじと見てたのは、私が握っている、いわゆる栄養バーだった。
猛練習が始まってからはお弁当をやめにして、お昼ご飯はこれ一本だけにしている。
「で、でもね?これだけでそれなりの栄養素はとれるし、美味しいし、そこそこ腹持ちするし、味だっていっぱい種類あるし、さくっと食べられるし、こんなの発明した大手メーカー様様だよ」
「どこの回し者だってんだ」
「測ってみたら最短30,23秒で食べられたよ」
「んなの聞いてねぇっての!」
「柳くんチックに言ってみたんだけどな···」
「とりあえずコンマ刻む感じで言ったら柳っぽくなれるとか思うな。
つか、マジ体に悪ぃからやめとけよっ。腹持ちつっても、お前放課後も弾いてんだろぃ?そこまでもってんのかよ」
「·····それは、」
「····」
「もってるよ!···あはは」
「····」
「····」
「あーはいはい、嘘な」
「ううう嘘じゃないもん」
「馬鹿正直なやつが無理すんな」
彼が大きくため息を吐く。心配してくれてるのはわかるけれど、私だってこれだけは引くわけにはいかない。
「でも弾いてるあいだはお腹すかないから」
「は?」
「集中すると他のことがどうでもよくなるというか···食べる時間ってもったいないし無駄に思えてくるの」
「········」
「あ、あの?」
「お前って人間?」
「これでもホモサピエンスだよ」
ここまでドン引きされるとは思わなかった。そこまで言うなんてなんと失礼な。
なにかに集中してしまうと、そちらにしか意識が向かなさすぎて他のことが疎かになるのは昔からだった。
特に、ピアノのことにもなれば顕著に現れた。手を動かすことと音に没入することさえできればあとはなにもいらなかった。
毎日はっきりとした意思をもってひたすらに弾いているのが、あの頃の日々に逆戻りしているようだ。大袈裟な表現をすると、なつかしさだとか感傷に近いものさえ蘇っている気がする。
食べることは大好きだけど、一度こちら側へ足を踏み入れたらそんなことも蔑ろにするのはあたりまえだったな、と、ひとり回想していた。
「これがつづくのもあともうちょっとだけだから平気よ」
「もうちょいっつっても、そんなのあとなん日も続けば体壊すだろぃ」
「いいの、時間もないから」
「パンくらい食ったほうがよくね?」
「ほんとに大丈夫だから」
「って、待てよっ」
「行ってくるね」
なかば強引に席を立って教室から出ていく。後ろから呼呼ばれた気がしたけれど、振り切るように忙しなく足を動かして廊下を歩いていく。
購買へ駆け込み、食堂の席取りで焦って向かう生徒とすれ違うなか、みんなとは真逆の方向を歩いていく違和感もいまではすっかり消えている。周囲の喧騒とは距離を置いて私ひとりだけが静寂なこの空間に居着いていることが心地よかった。取るに足りない優越感のようなものかもしれない。
―――――弾けるまでは出てはいけないよ
二度と繰り返すまいと思っていたくせに、やろうと思えばあっけなく戻れる。特段おどろきも悲壮感もなにもない。
身体に染みついた習性と本能はかんたんに消えるわけがないのだから。
丸井くんとは昼以外の休み時間でも話せなくなった。
ほかの休み時間は十分程度しかないので、音楽室に移動するだけで時間がもったいない。代わりに曲を耳に入れ込むことに集中していた。音楽プレーヤーで繰り返し聴きながら、楽譜とにらめっこする。昼休みがはじまると同時にすぐさま教室を出ていった。きっと彼のことだから気にしてくれているだろうけど、なかば逃げるような気持ちで音楽室に向かっていった。
昼休みはずっと弾いて、放課後もしきりに弾いて、学校が閉まるギリギリまで弾く。そんな日が続いている。
部活終わりのみんなと顔を合わせる機会も増えていった。帰宅部の私と連日帰るタイミングが重なってくると、どうしてそんなに残ってるのかとさすがに気にされた。
「そういうことでしたか。はやく仰ってくれればよかったものを」
「わざわざ言うほどのことじゃないかなって···」
「毎日残っているとは感心できるな」
「···そんな、全然たいしたことはないんだけど」
「お前、また寝にいくなよ」
「ピヨっ」
「課題曲はなにを弾くんだ?」
「えっと、」
みんなの励ましを受けて、ここでも背中が押されたというよりは、なにより安堵した。
私は私の音色を肯定できない。
これまで取り戻せなかったものを諦めきれてない自分がいることは、恥に近かった。そんな自分をだれも馬鹿にしないでいてくれたことに心底安心した。みんなの言葉は表面上ではないはずだと信じられた。そう信じたいだけなのかもしれないけれど、それでもよかった。
『まともに聴こえないのに』『弾けないのに』
ここまで来てもなお、どうして私はあの前に座ってるんだろうとうだうだ自問自答しているなかで、少し離れたところから見守ってくれているみんなは、一切の濁りがなくて綺麗だった。
「みんなが友達でよかった」
自然と口から零れていた。ふわふわして、あったかい。
「あまり無理はしないでね。ふらついてるようにみえるから」
「こんなに練習するのも久しぶりだからまだ慣れてないのかも」
「もう暗いのでお気をつけて下さいね」
「うん、ありがとう」
「ちゃんと飯食えよ?」
「大丈夫」
毎日のように顔を合わせても、みんなと寄り道はできなくて、まっすぐ帰る。惜しい気もするけどなにより余裕がなかった。
家に着いたらさっさと晩ご飯の準備をして、自分の分は適当に済ませていた。
そのあとは曲をひたすら繰り返し耳にいれて、楽譜とにらめっこして、楽譜のうえを鍵盤代わりにして指を動かす。寝なきゃいけないギリギリまで頭のなかに曲を浸透させて、弾いている自分をイメージした。
同じ行動をループして、目まぐるしく時が流れていく。
ここ最近だと、いちばん人間らしい生活をしている。そんな気がした。
*
昼のチャイムが鳴って、鞄から栄養バーを取り出す。もう三回くらい口に運ぶだけで済ませられるほど、段違いに早食い記録を更新できていた。
教室をそそくさと出て、廊下を歩いていく。変わらずまっさきにあの教室へ向かうつもりだった。
「苗字さん」
いつもならこの瞬間はあの黒い物体が大きく大きく頭のなかで姿を現すものだけれど、彼の声はなんなくそれを遮った。
「は、はい」
肩がびくっと跳ねて、反射的に振り返る。情けない返事しか咄嗟に出せなかった。「ごきげんよう」と返すのがふさわしいかと思うくらい、綺麗な声。澄んでいて、男の子にしては少しだけ高い。いつもなら耳にすると落ち着くのに、いまに限ってはそわそわしてしまう。
「幸村くん……どうしたの?」
彼と面と向かい合うこと自体、久しぶりだ。彼は私の練習を気遣って音楽室には来ていないし、私が練習に入り浸っているのもあって屋上庭園でも二号館の花壇でも会っていない。放課後はみんなと揃って帰っているからゆっくりふたりで話す時間もとれていない。
チャイムが鳴り終わったのと同じタイミングで教室を出たのに、どうしてこんな近くに彼がいるんだろう。彼のいる教室と私の教室はそこそこ距離もあるはずなのに。
「これから音楽室に行くのかい?」
「うん」
「お昼は食べたの?」
「うん」
「にしてはかなりはやい気もするけど···」
「ぱぱっとすませたの」
「ほんとうに、ちゃんと食べてる?」
威圧しているようにも、怒っているようにも見えない。しかし、真っ直ぐな彼の瞳をみつめると体がすぼみそうになる。こころもとなくて、両手同士をぎゅっと握りしめる。
なにかあったの、と言いかけて、留まった。
『ちゃんと飯食えよ?』
『大丈夫』
もしかしてと、昨日の帰り際を思い出した。あのなんてことないやり取りが彼のなかで引っかかったのだとしたら。そのあともしも、彼がなにか耳に入れたのだとしたら。
丸井くんを責めるつもりはないけれど、それでも『しまった』と思わずにいられなかった。お昼のことは口止めするべきだった。
「いつもよりは少ないけど…ちゃんと食べてるよ」
「最近、放課後の君があまり元気がないようにみえるんだ」
「そんなことないよ」
「昨日だってふらついてたし、無理しすぎてないかい」
集中しているときはなんともないけれど、その時間が終わればどっと空腹が襲いかかった。放課後にもなると疲労感がピークに達してしまうのも事実だった。
とはいえ彼が気づくかもしれないとか、どう思うかとかまではまったく気が回らなかった。どこまで知ってるのか慎重に探ろうとも思ったけど、彼の前では無意味かもしれない。幸村くんは、なんでも見透かせるひとだ。
「本番まで時間がないから、ご飯はすぐ終わらせたくて···」
「遅くまで残ってるだろう?とても体力がもたないよ」
「時間がもったいないから。昼休みと放課後しかないからちょっとでも弾いておかなくちゃだめなの」
「でも、無理はだめだよ」
「大丈夫。帰ってからは食べてるし」
「ほんとうに?」
ぐっと喉がつまる。彼に問われるだけで繕うのがこんなにも下手くそになる。
「顔色もあまりよくないよ。朝だってはやく来て練習してるんだろ?」
「でも、食べたら練習できる時間が減るから」
「···…もしかして、朝も抜いてるのかい?」
もう、後戻りができない気がして焦燥感がまたたく間に巡った。
「帰ってからも聴き込まなくちゃだめだから、忙しくって。それに、普段運動もしてないから一食くらい抜かしてもなんともないよ」
「だめだよ、それは。倒れたら元も子もないよ」
「どうだっていいよ、そんなの」
「ほんとうに大丈夫だから」お辞儀をして、丁寧に断りをいれた。気持ちがはやって、あの部屋に行きたくてしかたがない。勢いのまま振り切ろうとした。
途端に、手にあたたかい感触が伝わって胸が跳ねた。彼が私の手首を掴んでいた。
「どうでもいいわけ、ないだろ」
眉間に皺を寄せながら、逃すまいと私をまっすぐ捉えている。
「幸村くん、」
「はなさないよ」
掴むといっても、やさしすぎる手つきだった。ひと振りしてしまえば、いとも容易くほどけてしまうだろう。けれど、できるわけもなかった。
どうしてそんなふうに、見つめるの。
「どうでもいいわけなんかないよ。たしかに君が倒れたとしても直接俺の身になにか降りかかるようなことはないのかもしれない。でもやっぱり……もしも、君になにかあったらと思うと気が気じゃない」
声だって佇まいだって、確かな存在感を保ったままなのに、目の前にいる彼はどうしてか弱々しくみえる。崩れそうなんてほどではないけれど、その十歩くらい手前なくらいの脆さでできあがっているように思えた。
瞳を僅かに細める彼から目が離せなくなって、せつなくなって、とうとうなにも言えなくなった。
「みんな苗字さんを応援してる。苗字さんの努力を誰も否定しないし、邪魔だってしたくない。
でも、自分のことを疎かにするようなそういうほうへいってしまうなら止めたいと思うのは当然だよ。
君が思っている以上に、みんな、君のことを考えてる」
君はひとりじゃないよ。
彼の言葉が流れるようにお腹にまで入り込んでくる。途中で遮る大木がないみたいに、さらさらと流れてくる。
私は、自分勝手だった。
自分のした行動は、自分だけにしかなんでも返ってこないものだと思っていた。これまではそうだったのかもしれないけれど、いまはそうじゃない。
いまではかけがえのないものがたしかに存在して、大切にしたいとあれほど思っていた。知らないふりなんかできるわけがないのに。
みんなはただ心配してくれていた。
私のことを、おもってくれていた。
きっとこれは自惚れなんかじゃない。むしろそうやって思い込むほうがみんなに対して無礼だ。
自分のことしか考えていなかったこと。
自分を気にかけてくれているひとを、少しでも煩わしく思ってしまったこと。
こうまでしてくれてるのに振り払おうとしたこと。
彼に、こんな表情をさせてしまったこと。
後ろめたさが胸を押し寄せてくる。
「ごめんなさい」
居た堪れなくなった私を見て、幸村くんがやんわりと笑う。
「応援したい気持ちはほんとうにあるんだよ。君が練習を優先したい気持ちはなるべく尊重したいし…お節介すぎてもよくないって思うんだけど、どうしても目がはなせなくて」
やんわりと笑う幸村くんに、胸がぎゅっと鳴って、くるしくなる。
「ううん···。幸村くんが心配してくれた···そういう気持ちを無下にして、ごめんね」
「いいんだ」
彼の親指がそうっと私の手の甲をひと撫でした。いろんな意味でくすぐったくて、たまらない。胸が跳ねた反動で顔をあげれば、いつものようにうっとりするくらいの綺麗な笑みが待っていた。息をつきたくなった。
どきどきしたり、安心したり、かなしくなったり、幸村くんといるといろんな感情がいっぺんに溢れてくる。
「ほんとうに昼はなにも食べてないのかい?」
「···栄養バーくらいは」
「それだけ?」
「でも···それもめんどくさくなって、食べないこともあって···」
「ますます心配だな」
彼が眉を顰めるから、ぎょっとする。
こんなときこそ慎重に話さなくてはいけないのに。
「う、嘘です。毎日ちゃんと食べてます」
反射的に返せば
「こら、嘘はだめだよ」
私のおでこに幸村くんの反対の手がぺちっと置かれた。ぎゅっと目を瞑る。
「ご、ごめんなさい」
全然痛くないのに、全身がすぼんでしまうくらいには効果てきめんだった。
「おにぎりとかだったら食べられるのかな」
「たぶん···」
「作るのも煩わしいなら、俺が握って持ってきたほうがいいかい?」
「えっと、それは········ええっ!!?」
「料理は少し苦手だからうまくいけるか分からないけど···あ、それなら買ったほうがいいか」
「幸村くんが握ってくれたの食べてみたいな·····あっ、そ、そうじゃなくて!だ、大丈夫だよ!自分で持ってくるから!」
「そうかい?」
幸村くんが念押しで伺ってくるので、全力でしつこく首を縦に振れば「ならよかった」どうにか了承してくれたようだ。
「お米の炊き方から蓮二に教わろうか迷ってたんだ」とか言ってるあたり、私がぜひなどとお願いしたらほんとうに作ってくる気だったんだろうか。これは冗談なんだよね?と思いこむほかなく、空笑いしかできない。
彼にお昼を作らせたり持ってこさせたりなんて、テニス部のみんなの力を借りてでも全力で阻止すべきだ。
···とか言いながら、幸村くんのおにぎり食べてみたいなんて本音が出ちゃった私は不甲斐ないです。
「明日からは簡単なのだけど···ちゃんと持ってくるね」
「ありがとう」
「···それを言うのは私のほうなんじゃないかな···?」
「そうかい」
「そうだと思うよ」
「なんだか安心したからかな。つい、ね」
「あの、幸村くん」
「?」
「ありがとう」
ゆっくりと幸村くんの瞳が細められた。今度はちゃんと笑ってくれている。
余韻に浸っていたら、彼の立つ向こう側を見て、瞬時に現実に引き戻された。
女の子たちがこちらに視線をちらつかせている姿が目に入る。そういえば私の後ろからも、なんならあらゆる方向から視線がちくちく刺さっている。
ここは一年生の教室が並んでる人気の多い廊下で、ましていまはいちばん人が行き交うお昼休みであって、そんなところでかの幸村君と手を繋いでる女子がいるというのは、まぁまぁな事件なのではないか。おまけに彼が私のおでこに触れた場面だって目撃されているのだ。少なくとも、いや結構なボディータッチというやつだ。
「すすすすみません!」即座に手を離す。
「?なにに謝っているんだい?」
「え、いや、その、幸村くん触ってしまって」全女子に謝罪している、一応。
「俺は気を悪くしてないよ。それに、いままでも触れたことはあるじゃないか」
それはそうなのだけれど、この場では非常に控えて欲しい発言だ。幸村くん、空気読んでください。
「こ···ここでは、その···」
彼はきょとんとしていて、私の意図するところまでは汲んでいないようだった。
手を離したあとも周囲のひそひそ声はなかなか止まない。私という人物をどうにか見てほしくなくて真下を俯く。気まずさを追いやろうと握りあってる両手は汗ばんでいた。今日ってこんなに暑かったっけ。
「幸村くんって、いろいろ···なんでも平気でできちゃうよね」
「?そうなのかな?」
幸村くんが「俺の手、べたべただったかな?」しゅんとしながら尋ねてくるのでそれはもう全速力で首を横に振った。ほんとうにそういうことじゃないんだよ幸村くん。と、言いたいけれど、この状況だと余計なことを言わない策が最善だろう。
「あ、そうだ。ちゃんと朝と晩も食べるんだよ」
真面目に諭す彼は、最後の最後までわかっていないようだった。