明日は終末

「そういうわけだから、一緒に食べてあげてほしいんだ」
「オッケー」
「苦労をかけるね」
「···よろしく、お願いします」
「苗字って結構頑固だよな」
「うっ」

見張り役も兼ねて、幸村くん直々に丸井くんへ『私と一緒にお昼を食べる』お達しが言い渡された。わざわざそこまでしなくてもとは思うけれど、幸村くんは心配性なのかもしれない。もしくは私が信用されていないだけか。

幸村くんが去ったあとは丸井くんとふたりっきりになった。正直に言ってしまうと、気まずい。
どの休み時間もコンクールのことばかりに集中しているせいで彼とまともに話していない。

「ごめんね、丸井くん」

彼の前で振り絞るようにして喋るのもいつぶりだろうか。

「心配してくれたのに···全然気にしてなかった」

「ここんとこのお前、ずっと集中してっから話しかけるのもあれだったしな」

「···私、丸井くんが気にかけてくれてもめんどくさくなってもういいやって思ってたんだけどね、」

「ひでぇなオイ」

「ご、ごめんなさい!」

肩をすぼめる私の向かいで彼がため息をつく。

「苗字はさ『自分のこと気にしなくていい』ってよく言うけど、んなことできるわけねぇだろぃ。
そう言われちまうとそっぽ向かれたみてぇに思うし『こっちに来んな』って言われてるみたいになんだよ」

「····うん」

「なんかそういうのって、虚しくなんね?」

彼の言葉を反芻した。

『気にしなくていい』というのは、相手を気遣っているようにみえて実際は自分本意でしかない。これまでの私は相手の気持ちなんかこれっぽっちも思い図らなかった。そっぽを向いていた私の、遠くのほうで彼はずっと見ていてくれていたのだ。そんなかんたんなことを幸村くんに諭されてからようやく気づいた。こういうところで相手を思いやる気持ちの至らなさだとか、関わりかたが下手くそな自分を思い知る。

「···ごめんね」

「あー悪ぃ···なんか説教臭ぇよな」

苦い顔をした彼をまっすぐ見つめる。
「あのね、丸井くん」
どんなに後ろめたくても、伝えるべきことは伝えたい。

「丸井くんの言う通りだと思うし、ちゃんと反省しなくちゃいけないと思ってる。
たしかに前までは放っておいていいのにって思ってたけど、でもいまはね、心配してくれていたことも···丸井くんと友達でよかったなって思えて、すごくうれしいの。
ありがとう、丸井くん」

頭のなかで整理しながらゆっくりと喋る。途中で詰まってしまっても彼はじっと聞いてくれた。どぎまぎしながら彼のようすを伺うと、固まっているようだった。どうしたものかと私も固まっていると、唐突に頭を撫でられた。いや、撫でるとかでもない。ただ頭をぐしゃぐしゃにされているだけだ。そういえば、これはときどき恒例行事になりつつある。毎度思うけれど、彼の乱雑さにはびっくりする。

「ち、ちょっと!」
「わかればよし!」
「もうちょっとやさしくしてよねっ」
「····なんか、お前ってさ」
「?」
「やっぱ、いいや」

なにか言いたげだったからまだ引っかかることがあるのか、ふと心配になった。
でもすぐに「俺もお前でよかった」と目を細めて言ってくれたから、照れ臭くなって、それでもう満足してしまった。

その晩からはまともにご飯を食べるようになった。前まではご飯一杯だけだったのをちょっとはおかずも加えてはいる。朝は丸井くんも朝練でパン屋さんに寄るのもあって、彼の監視も兼ねて一緒に買いに行っている。お弁当もおにぎり一個とおかずを少々持ってきて、彼と一緒に食べるようにした。(彼はそれでも「少ねぇだろぃ」と不満そうだったけれど、そこはどうにか許してもらえた) こうしてそれなりに食べてみると、いままでの食生活でよく持ちこたえられたものだなと我ながら感心する。

おまけに『彼ら』の様子をみてしまうと、自分はそうも大変なことをしてしまったのかと思わずにいられなかった。



「不摂生をしていると聞いたぞ」
「···それはですね、」
「鍛錬は大事だが、体調管理を万全にするのが大前提だ。それを怠るとは···たるんどる!」
「はい!すすすすみません!」
「中学生女子には最低限1400キロカロリーが必要だといわれてる」
「え?」
「活動量が低い場合でその値といわれている。苗字の食生活を考えてみると到底達していないと予測した」
「で、でもほら。いまはそれなりに食べてるよ。それくらいは超えてるのではないかと···」
「その範囲のなかでバランスよく蛋白質や脂質、ビタミンもとらなければいけない。手軽に摂取できる食材をリスト化してみた」
「···す、凄いね柳くん。トレーナーみたい···あ、ゆで卵なら簡単につまめそうかも」
「とにかく無理はするな。身体を壊してはどうにもならん」
「は、はい···ありがとうございます」



「栄養失調で倒れたって聞いたぞ!大丈夫か!?」
「···ええっ!?そんなことないよ!」
「ほんとうか!?」
「ほんとだよ!ちょっと、その、ふらついてただけで···」
「ふらついてたって…いけるのか!?」
「い、いまはいけます!ほんとにね、全然!全然大丈夫!」
「そうか···それならいいが、無理はするなよ?」


「音楽室はまだ空調が効いてないはずです。こちらをどうぞ」
「わざわざブランケットなんて…借りるのは申しわけないよ」
「しかし足元を冷やしては集中できるものもできません。特に女性は体を冷やしてはいけませんから」
「いいのかな···コンクール終わったら、ちゃんと洗濯して返すね」
「あぁ、それも結構ですよ。先日仁王くんと商店街で引いたくじで偶然当たった景品ですからそのまま受け取って頂いて構いません」
「そんな…なにからなにまでありがとう」
「とんでもごさいません。応援していますので、頑張ってくださいね」


「根詰めすぎてもいかんぜよ」
「···ひ、ひよこ?お風呂に浮かせてねってこと?」
「癒しグッズなり」
「···あ、ありがとう?」
「プリッ」
「(そこはピヨじゃないんだ···)」



真田くんと柳くんがふたりして目の前に立ったときは、なにか無礼をしでかしたのかとかなり恐縮してしまった(いまだに例のあの三人だけで来られたりすると慄いてしまう)。桑原くんの慌てっぷりも、柳生くんがスマートにブランケットをくれたのも、仁王くんがかわいらしいおもちゃをくれたのも頭が追いつかない。昨日の今日でなにがあったのか丸井くんに尋ねてみたけれど「さぁ?」といった心当たりのない返事しかなく、彼から込み入った詳細は話してはいないらしかった。

気になって本人達に問うと、みんなから出た単語は一貫していた。


「精市が」
「幸村が」
「幸村のやつが···」
「幸村くんが」
「幸村がの」


幸村くんはなにを喋ったのですか!?

「(誇張表現してるよね···!)」

『幸村くんがなにか言ったらみんなもなんかする現象』にいい具合の名前を誰かつけてほしい。

その日の帰り際はとにかく幸村くんに念押ししておいた。
「ほんとのほんとに大丈夫だよ?」
体調は良好だとか、丸井くんと食べる約束はきっちり守るだとか、そういったことをこと細かく説明した。
一瞬、きょとんとされたが、
「それはなにより安心だね」
こともなげに爽やかに返されるのでなんだか呆気にとられてしまった。これ以上突っ込む自分のほうが野暮だと思った。
それからも定期的にしかも抜き打ちの「体調はどうだい?」彼特有の健康診断は訪れた。彼なりの念押しなのだろう。私の観察日記をつけるかの如く柳くん筆頭にほかのみんなからも情報収集しているような気がしてならない。どこまで探っているのか気にはなるのに、本人に訊けないのが神の子マジックである。

彼に捕まってしまうと、偽ったりだとか言いくるめてやろうとか、そういう邪な類はできないのだと思った。どれほど彼と長く関わったとしても敵わない気がする。
幸村くんは、不思議なひとだ。






途中でそんな出来事はあったものの、一日の大もとは崩れなかった。
聴いて、弾いて、聴いて、弾いての繰り返しだった。

繰り返しのひと区切り、一日の終わりがくる度に思い起こした。日を追うごとに自分のなかを覆いつくしていく。

もう、限界かもしれない。

すこし先の真っ暗な空を見上げる。星がみえないほどの分厚い雲が広がっていた。
風が吹くだけで耳が痛い。うっかりしてはめるものを忘れてしまうと、あっという間に指先が赤くなってかじかむ。お店の前には所々こじんまりとしたネオンが窓に飾られちかちか光っている。みんなは揃って年末年始は家族とどう過ごすのか、なにを食べるのか、だいたいそんなことを話していた。相槌を打って、隣で笑っていた。あったかくて、ずっとここにいたくなるような不思議な心地。いればいるほど情けない自分になりそうだといつも思う。
去年のいま頃はなにをして、どんなことに笑っていたのだろう。よく思い出せない。あの部屋で、あの鍵盤の前にいた記憶だけは鮮明に映るのに。
こんなことを考えていると決まって意識が遠のいていく。地に足をつけているのかわからない、些細な傾斜の坂道に立てば転んでしまいそうな、覚束ない感覚が波紋のように広がる。
景色がぼやけることははじめに比べたらぐんと減った。でも、完全には消えてはくれない。あの部屋に通う限りはずっとこのままなのだろうか。
こんなもどかしさにお別れをするならいまなのかもしれない。

もう一度首を上げて、空を見た。


*


自ら彼をここへ招いたのは今夜がはじめてだった。

「来てくれてありがとう」

ここに誰かが来るのは久しぶりだ。みんなの出入りが頻繁にあった少し前までは時計が夕方の時刻を指しても窓の向こうは明るかったけれど、いまでは遠い街の灯りがぽつぽつとはっきり映えるまでに沈んでいる。とっくに深い夜へ堕ちているようなしずけさ。冷えた空気が流れ込むこともあちらの暗がりをより際立たせているように思えた。

彼は私が座るやや後ろに立つ。視界に入らず、間近といえないが彼の存在を感じ取れる確かな距離。いつもの彼の定位置だった。
鍵盤に手を置いて瞼を閉じる。しばらくしてから再び開いて、指を滑らせた。

はじめはいつも同じだ。目の前の道をただ歩いていけばいい。
けれど、いつまでも続かない。急激な速度で真っ暗になる。どこを歩けばいいのかもわからなくなる。
こうなってしまうと足を止めるしかない。いつもならば間抜けに立ち尽くせばいいだけだ。
しかしあと数日も経てば、ありったけをもって進むしかない舞台に立つ。
歩いて、歩いて、歩いていくけれど、なにもみえないまま終わるようすが容易に想像できた。


弾き終わって立ち上がり、お辞儀をした。
拍手をもらうつもりは毛頭なかったので、頭を上げたらまっさきに喋る準備はしておいた。

「きいてくれてありがとう」

顔をあげた先の彼は遠くにいるなにかをみる、そんな表情をしていた。

「いまも、きこえないんだね」

「きっとこれからも」

ひどくつめたい場所。

「あのときは弾けたからもしかしたらって思ったんだけど、全然だめみたい。録音して聴き返してみても、後半になってくるとやっぱりぐだぐだで……びっくりする」

「そうなんだ」
複雑そうな響きだった。

「少しはましになるかと思ったんだけど」

「どうしてそんな話をするんだい」

このさきも誰かが訪れるのであれば、もうひとつ椅子があったほうがいいんじゃないかと考えたこともあった。

「もう最後にしようと思うの」

諦めなんかじゃない。これは悟りだ。
そうでもなければ、こんなにも清々しいわけがない。

「ここを残そうとしてくれたこと、うれしかった。だから最後にきいてほしかったの。せっかく残してくれたのにこんなふうに終わってごめんね」

「謝る必要なんかどこにもない」

「幸村くんのわがまま、きいてあげられなかった」

あとになればわかることもある。あの日の彼の言葉。
あとを待てるほど、私の気は長くなかった。
いつ訪れるのか考えただけでも気が遠くなってどうにかなる手前だった。あのもやがかった景色の大もとはきっとそこにあるのかもしれない。

「ほんとうに、それでいいの?」

彼が言った。

「私にはこれだけなんだって思ってた。弾くことができなかったら一生空っぽのままなんにも持てないんだって。
でも、幸村くんと会ってからはそうじゃないってわかったの。
幸村くんと練習できたおかげでちょっとだけだけど、喋るのにつまずくことが減ったんだよ。だからいっぱい喋れて、一緒に帰って、おいしいものも好きなことも共有して……私にとってははじめてのことだらけで、夢みたいだった。こんなにもきらきらしてあったかいものがあるんだって、幸村くんが教えてくれて、繋いでくれた」

この部屋に佇む黒く光る物体。なにも『あれ』だけがすべてじゃない、そんなかんたんなことをちっともわかっていなかった。満ち欠けの繰り返しによって世界ができている。たとえ手からこぼれてしまったのだとしても、私はもうじゅうぶんにみたされた。
このひとがいなければ、私の歩く道はほんとうに真っ暗のままだった。

「ありがとう、幸村くん」

何千回言っても言い足りないくらいものを彼はたくさんくれた。

「お別れみたいに言わなくてもいいのに」

彼は笑っていた。とてもさびしそうに。ついに手放さなければいけないのだと理解したように。

「コンクールはいつ?」

「明後日」

「俺も行くよ」

いつもみたいに『聴く価値なんかないよ』とは返さなかった。
終わりだからという開き直りでもあったし、彼が望んでいるなら最後くらいは好きにさせたほうがいいなんていうおこがましさもあって、ただ受け容れた。
とはいえ、たとえこんなシチュエーションでなくても、きっと彼の言葉に否定なんて出来なかっただろう。
彼の瞳はあまりにも真っ直ぐだった。これまで見たなかのどれにも勝っていた。どこまでも澄んでいるようなのに、奥にはみえない得体の知れないなにかが潜んでいた。おぞましいものか、なんなのか。
このひとの持つやさしさと特有の雰囲気でもって誰しもが懐柔されると思いこんでいたが、きっとそんなものだけでどうこうなるものでもないのだろう。
彼は、おそろしいひとかもしれない。

俺も行く、と、まじないみたいに彼は繰り返す。

「幸村くんは、こわいね」

そう言った私に驚いた顔をしたのは束の間で、すぐさま微笑んでいた。
いきなりだね。と、困ったように。
なんと返せばいいかわからなくなる。

「嫌いかい」

首を左右に振る。

「なんともないよ」

なんともない。
これほどまでに信憑性のない言葉も、そうない。


「せっかくみんなが協力して残してくれたのに…謝らなくちゃ」
「幽霊さんがいなくなるね」
「幸村くん、おもしろがってる?」
「まさか。とても名残惜しいよ」
「やっぱりおもしろがってる」
「なんだかやけに寒いな。すきま風が入ってるのかな」
「もともと陽あたりもよくない場所だから、いまの時期は余計に底冷えするみたい」
「いつもこんなところで練習してたんだね」
彼が私の手をとる。上からと下からとで挟むように両手で包み込まれた。
「幸村くんもつめたいね」
「あまり意味がなかったかな」
ぬくもりを分け与えることはできない。
「手のつめたいひとはこころがあったかいんだって」
「そうかい」
「だからこのままでいいの」
「でもあたたかいほうが、君が笑ってくれるような気がする」
「幸村くんは、なんだってあったかいよ」
そう、彼だから。

私の手に覆い被さっている彼の手の甲を見つめた。判然としない景色のなかでも唯一、彼の手はここにあると思えた。そういう存在感がある。

「ここはつめたいね」

「外はもっと寒いよ」

この校舎の最上階は誰もいないのがあたりまえとされているせいで、廊下の照明も当然消されていた。周りはどこも真っ暗闇でここだけが燦々としていた。しずかで重たい冬の空気が部屋じゅうを満たした。
そういう空間でただふたりが向かい合って、手を取りあっている。たったふたりの世界のなかで寄り添っている。まるで祈りみたいだと思った。互いに祈りあっていると錯覚させられる。

「だからもう少しだけ」

ここにいよう。

彼のささやきは空気に紛れて消えていった。ふたりで頭を寄せあっているはずなのに、いっそうさびしくなった。

ここを出た先はもっとつめたいから。
出てしまったなら、帰ることはできないから。

そうっと目を瞑った。そのとき彼がどうしていたかは知りようもないが、私と同じであったらと思った。
彼も同じように、おだやかな最後がくるようにと祈ってくれたら。
まじりけのない祈りを込めて、終わりを願った。

  

神さまの通り道

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