かえっておいで

とうとう来たんだ。
今朝、瞼を開いた瞬間そう思った。
扉を閉めたあとも、道すがらでも、がたがた揺れる電車のなかでも何回も。

通りがかったパン屋さんに施された装飾。行き交うひとが持っている赤と緑のショッパー。乗り換え駅の中心に飾られた煌びやかなもみの木。目に映す度、迎えた今日をまざまざと見せつけられているみたいだった。悲観するほどではないけれど、そこから遠く離れた場所に、自分だけはどこか違う空間にいるみたいだった。自分のことなのに、自分をみている傍観者みたいに。
学校と家とは徒歩で行ける距離にあるので、普段の通学にバスや電車は利用していない。だからだろうか、制服を着て電車に乗るのは違和感があった。微かな鉛を身につけている感覚がする。制服特有の堅苦しさからくるものかもしれないし、今日が自分にとってどんな日になるか不透明で、漠然とした陰りが身体を乗っ取っているのかもしれない。

電車の扉窓から見えた空は厚い雲が覆われている。
少しの青さも覗き込んではいない。





会場に着いた。自動扉がゆっくりと開き、辺りを見渡す。
ロビーの端のほうにいたのにすぐに目に留まった。スポーツバッグはこの場に似つかわしくなくて、よく目立つ。はやく着いたほうだと思っていたけれど、彼はもっと待っていたのかもしれない。なにもせず、まばらなひとだかりを眺めているようすだ。
近づけば、簡易ソファに座っていた彼もこちらに気づいてすくっと立ち上がった。

「もう来てたんだね。もしかして、ずっと待ってた?」
「そうでもないよ。さっき来たばかりなんだ」
「ごめんね。はじまるまでまだ時間はあるし、駅前のお店とか見て回ってくれてもよかったんだよ」
「それも考えたけど特に見たいものも思い浮かばなくて。それにさっきから、なんだか落ち着かなくてね」

控えめに眉尻を下げながら、彼はにこやかに笑った。彼は彼でどういう心境でこの場にいるのだろう。

「あの、みんなは···」
「みんなは知らないよ」

即答だった。ひとつ間を置いて「そっか」と相槌をうつ。
今日でけじめをつけることを、私の口からみんなに伝えるつもりだった。どうなろうが気にしてないひとがほとんどだろうけど、それでも、私の弾こうとしていた意思をまもってくれたみんなに感謝を伝えたかった。
けれど、さんざんな結果になるのを想像すれば、躊躇ってしまった。あんなものを聴かせたところで、と卑屈な考えが浮かんでいた。
あれからいちどもきこえていないのに本番に奇跡が待っているとは到底思えない。せいぜいした気でいるつもりがうしろめたさに引きずられている。けじめと云えば聴こえはいいが結局はただの自己満足なのだ。
隠すように、しずかに終えたいと願う私の意思を彼も重んじてくれているのかもしれない。

「部活終わりで大変なのにありがとう」と言えば、
「俺のわがままだから」と彼が返す。

音楽室で繋いだ彼の手。今日が終れば、あんな日々も二度と訪れない。


「あら、苗字さんじゃありませんか」

やや高い、ゆったりとした女性の声が通る。聞いた覚えがないようなのに、なぜか懐かしさを覚えた。かといって、振り向いてそのひとと向き合ったところで過去の記憶が一気によみがえるわけでもなかった。
「えっと、」と言葉に詰まれば、「あぁ、すみませんね」と気づいたようにそのひとは切り返した。
五十代くらいだろうか。上品な装いをして、纏う雰囲気がやわらかい。おっとりしたひと、という印象だった。

「自己紹介も無しにいきなり失礼しました。あなたが小学生くらいの頃から見てましたから、つい知った気になってました」

名前を聞けば、またたく間に頭の隅にあった記憶とリンクできた。このコンクールの主催者で、これに私を招いたあの二年の先輩が親しくしているらしい例のひとらしい。おそらくこのひとのコネ無しでは私は出場できていない。自然とぴんと背筋が張った。

「昔から審査員も結構してたもので、私としては顔馴染みのつもりでした。···あなたも大きくなりましたね」
何年かぶりに会った親戚のような口調だ。
「はい」
こんな返事でいいだろうか。
「強引にエントリーを進めたので、さすがに···と思っていましたが…来てくれてうれしいわ。ほかの皆さんもあなたのこと注目してますよ」
「そう、でしょうか」
「ええ。きっと貴重な機会でしょうから、しっかり見てあげて下さいね」
幸村くんへ視線が移る。
「はい」
負けず劣らずの笑みでもって彼も返した。人あたりのいい笑顔がこんなに自然にできるなんて。私ならしようと思っても引き攣っている。
「ではまた」とだけ残して、そのひとは去った。幸村くんが彼女の背中に軽く会釈したのに気づいて、私も慌てて真似をする。ふっと肩の力が抜けた。

「なんだか···幸村くんのほうが堂々としてるね」
「そうかい? あのひと、苗字さんに期待してくれてるみたいだね」
「そんなこと…ないよ。きっとあのくらいのひとなら、いまは私が弾けないことも知ってるんじゃないかな」
だからこそ、無理やりでもエントリーさせた理由がわからない。
「私はもう、ぱっと弾いてぱっと帰るくらいでいいのにな」
「そんなにもあっさりはもったいないよ。今日はきっと、だいじな日になるよ」

だいじ、という箇所を丁寧に発音して、彼が言う。彼のほうがこれから舞台に立つ私なんかよりもずっと挑もうとする気概を覗かせている。

ロビーが少しずつざわめきはじめる。ホールへ入っていくひとだかりも多くなっていく。

「受付、行ってくるね」

「もうそんな時間か」

「でも、開始まではまだ先だし、私の番もいつになるか分からないから···待ちくたびれちゃったら、ごめんね」

「それでもやっぱりさきに来ておいて良かったよ」

私を見つめているようで、どこか遠い。

「最後にひと目、君をみておきたかった」

最後。
彼が口にした瞬間、輪郭を帯びはじめた。いまさらすぎるが、このときようやく当事者になれたような心地がした。
彼がここにいてくれてよかったと思える。
しかし、異様だとも思う。ほんとうに意味のないことなのに、と。
彼はやっと落ち着けたといった表情だった。だからといって、やすらかとも形容できないような、そんな瞳をしている。
これから私が踏み入れるのは殺伐として荒んでいる地だというのを、彼も理解しているのかもしれない。
彼は、遠くて、眩しかった。

「頑張って。応援してる」

「ありがとう」

「いってらっしゃい」

「いってきます」

彼と別れても、後ろ髪に引かれることはない。振り切るのはあっという間だった。


*


控え廊下では重くのっしりとした空気がただよっている。

今日のコンクールは比較的小規模だ。だけど先輩の話によると、ここで上位に組み込めば、次回開催される別の地区大会での予選通過が優遇されやすいらしい。
ぶつぶつとなにか唱えている人、楽譜をひたすら読み込んでいる人、思い余ってぐっと手を握りしめている人だったりが、廊下のあちこちに点在している。ここにいる誰もがわずかな可能性の糸を信じて縋っているのだろうし、ひたすらに意識が張り詰めているのだろう。

私はというと壁に沿って立ちながら、ぼんやりと眺めていた。
彼らをみて、ふと思う。
私はこんなとき、いつもどんなふうに過ごしていただろう。

暗譜はしている。直に鍵盤に触れた時間は限られていたけど、触れずとも弾いているイメージは鮮明に描き続けて、毎日過ごした。
あとはもう─────

握りあっている両手はしんでいるかのようになにも感じられない。それでも心臓は気持ち悪いくらいに脈打っている。
弾く前はいつもこんなだったっけ。
あの頃はどんな感覚が身体を巡って、なにを考えていたのか。
よく、思い出せない。


─────楽譜通り、完璧にだ


あぁ、そうだ。別に考えなくてよかったんだ。
ただ言われた通りにすれば、それだけでよかった。感情に溺れさえしなければ許された。思い出さなければいけないほどの複雑な作法があったわけでもない。
ただしく弾くことだけがもっもとただしかった。あのときの私にはそれしか頭になかった。他のことには見向きもしなかったから覚えてない。そうなるように、つくられた。

どくどくと脈打つ速度がはやまる。手を握る力がぐっと強まったときだった。

「苗字名前さん、準備をお願いします」

指さきから、頭、爪の先まで、あらゆる感覚がこちら側へ引き戻される。


─────まるで機械みたい


あの頃はこんなにもひとらしく、血の巡りが行き渡っていただろうか。


*


拍手をずっと遠くで聞きながら、歩いていく。壇上裏の扉が開いて、廊下へと入った。

先の演奏をぼんやりと思いだす。

変わらなかった。
最後の最後で、音は崩れた。
あのひとが隣に立っていたことも変わらない。
あれからなにひとつとして、変わっていない。

壇上へ踏み込み、ピアノに近づいたときのことだった。
熱いくらいの照明で照らされたまぶしい闇のなか、輪郭まではっきりと捉えられた。黒光りする物体の隣に立ち、こちらを見下ろしていた。はやく座れ、と、私に告げて。
息を呑んだ。


『楽譜通りに』


今朝の玄関先で私を送ってくれたあのひと。
現実とまぼろしを行き来している。
真っ暗な道を歩き続ける。
私はなんど繰り返せばいいのだろう。


控え廊下で立ちすくみ、胸の前でぎゅっと両手同士を握りしめた。
顎先にまで伝った脂汗がまだ引いていないのが幸いして、頭はどうにか冷やせそうだ。べっとりとして気持ち悪いけれど、動悸は止んでいる。思考だって多少はまともだ。
弾き続けていたら、こんなことが毎回起こるのだろうか。いったい、いつまで。
そう思いかけて、かき消した。

もう終わりなのだ。
真っ暗な道も、あのひとの存在も、鍵盤も、なにもかも考えなくていいんだ。彼のわがままも、ずっと。

半身をまるごと預けるように壁にもたれかかる。瞼を閉じて、酷くつめたいコンクリートの感触を堪能していた。
つぎに瞼を開いたときは、まぼろしから覚めたあとだと信じて。







どうやって戻ったのか、いまいち覚えていない。ちゃんと帰って来られたと自覚できたのは彼の姿を目に映してからだった。

「おかえり」

さして時間は経っていないはずのに、彼の姿がなつかしく感じる。
「ただいま」
消えそうな自分の声。彼とふたたび会ったことで、乖離しかけていた意識と自分の体が徐々に引き戻されていく。

「お疲れ様」

「なんとか完奏はできたけど、最後はぐだくだになっちゃった」

「すばらしかったよ」

「うん」

「ほんとうにお疲れ様」

疑う余地がない。そう思わせるほど、彼の言いぶりにも表情にも説得力があった。とけていきそうなやさしい笑顔。安心して、ぽっかりと穴が空く。

広間へ出ると、ホワイトボードの前にひとがたむろしていた。幸村くんも視線を寄越すと、すぐに気づいたようだ。

「あれは結果?」

「そうみたい」

「見なくていいのかい」

「いまさら分かりきってることだから」

「見届けるのも、大切だよ」

「でも、」

「行こうよ」

彼に見つめられて、逡巡したあと、こくりと頷く。
並んで歩いているのに、とぼとぼと背中について行ってるような感覚だった。
彼の瞳は、ときどき無性に逸らしたくなる。

最後方に立ち、ボードの前から少しずつ人だかりが減っていくのを待つ。
ボードには紙が貼られており、そこに評価の高い者順に上から名前が記されていた。分かりきっていたが、少なくとも上のほうに自分の名前は載っていない。喜んでいる子、背中をそっと撫でられている子、すすり泣いている子など、前に近づくにつれてあらゆるひとの感情が舞い込んでくる。

ようやく前方に立ったときだった。
「あ」と声をあげたのは、彼と同じタイミングだった。

「あった」

ぽつりと呟いて、彼と顔を見合わせる。彼はそっと微笑っていた。

一番下に、私の名前が載っていた。漢字違いがあるかもしれない。そう思って何度目を凝らしても、やっぱり私の名前だった。

頭のなかがすぅっと冴えていく。首の皮一枚繋がったというのはこういうことかもしれない。

「あんなのでも、いけたんだ···」

「おめでとう。なんだか俺まで安心したよ」

そわそわはする。けれど、思っていたよりもはしゃげない。
結果を残せる想像がそもそもまったくできなかったのもあるだろうし、『あんなので』と思う自分がいる。うれしいのかなんなのか、いまの感情に的確な名前がつけられない。しばらくしてから「ありがとう」と返すのがやっとだった。
そろそろ行こうかと幸村くんが声をかけてくれて、その場を離れる。

これで終わったんだ。彼にもっと伝えたいことがあるのに、感情の整理に時間がかかりそうで言葉が頭のなかでうまく繋げられない。
ふと、隣の彼を見上げたときだった。


「ロボットさん」


きっとかくれんぼでもしていたら、はぁいと答えていたかもしれない。そんな呼びかた。
身体の内側が軋んだようだった。
振り返って、立ち止まる。


「響子ちゃん」


そう呼べば、ととのった唇が弧を描いた。

苗字名前は鍵盤の前に座る資格はない。
ならばいま、その資格は誰にあるのかと尋ねられたなら、まっさきに彼女の名前を挙げるだろう。

幼い頃、彼女とはピアノ教室での顔馴染みだった。
私が教室を辞めてからもコンクールでは毎度のように顔を合わせていたし、入賞者一覧にはかならず彼女の名前が載っていた。私と連なることがたいていで、女の子同士なのも相まってか、周りは私達をライバルだなんだの評して対立させたがっていた。ライバルとは肯定できないけれど、ならば同士とか友達とか呼べる関係性と云われたら、そうでもない。きっと彼女も同じだ。私達の関係性を私達のどちらとも名付けられない。

「久しぶりね」

「最優秀賞、おめでとう。控え廊下の映像で観てたよ」

「へぇ…聴いてたんだ。あなたのことだから他人の演奏なんて興味無いと思ってた」

「ほんとうに···前よりもすごく上手になってたね」

「あたりまえじゃない。あなたと違って、のんびりしてないのよ」

ピアノ教室での出欠確認で、彼女を知った。あの子が『響子』だと知ったときは、なんて綺麗な名前なんだろうと思った。そして彼女の姿を目にしたなら、もう名前もその容姿も忘れられなかった。
いまもその名前に劣らず変わってない。背が高く、すらりと伸びた手足に、栗色の髪が靡く整った顔立ち。華を添えるといった意味でも彼女は壇上に立つにふさわしかった。真っ黒で地味な自分とはまるで違う。持ち得る最大限を存分に魅せる才能を持っていた。自信に満ち溢れていて、怯むようなことがまずない。おどおどしてどもる自分と違って、いつも堂々としている。ときおり見せるはげしさは周囲からやっかまれることもあったけれど、それも含めて私には羨ましかった。

彼女は気高いひとだった。
奏でる音も、容姿も、あらゆる佇まいからなにもかも。

「ロボットさんも堕ちたものね。なに?あれ」

棘のある喋りかたも、気高さに拍車をかけている。

「苗字さん」
「なに?久しぶりの再会なのに邪魔しないでよ」

彼女の眉が途端に顰められた。彼に対してこうも敵意を向ける女の子はいままでいただろうか。割って入るように「大丈夫だよ」と彼に声をかけた。「さきに帰ってくれてもいいよ」そう言ったけれど、彼は私の後ろに下がっただけだった。彼の横顔はまだなにか言いたげで、張りつめている。
彼女は厄介な生きものが籠のなかで収まっているのを確認するかのような目で彼を一瞥した。そうして、こちらへ向き直した。

「まさかほんとに来るとは思ってなかったわ。いつエントリーしたの?」

「二週間くらい前。私のこと知ってた先輩がたまたま誘ってくれて···なんとか滑り込めたの」

「二週間、ね。」じっくり、考える素振りをする。「なんて言われて、誘われたの?」

「······せっかくだから、もったいないから、いい機会にって」

「へぇ···もったいないなんて思ってもない癖に、よく言うのね」
嘲笑気味に吐き捨てた。

「どういうこと?」
口のなかが乾いていく。

「せっかくだから、教えてあげる」
うっすらと彼女が微笑む。妙な居心地の悪さが逆流してくる。

聞かないほうがいい。すぐにでも去ったほうがいい。
直感でわかるのに、足の裏が地面に張りついたかのように身動きがとれない。

「あのひと、ほんとは音楽学校に進学したいそうだけど、親から反対されてるそうよ。どのコンクールにも名前は残せてないし、まぁいまの時点でその程度だったら将来それで食っていこうなんて話、現実的じゃないってのも分からなくもないけど。
今日で最後の挑戦だったわけ。そこで説得させるためにあなたを条件に出したみたい」

「わたし?」

「『あなたより上位で入賞する』。いまなら可能性のある条件よね」

ほらだって、と彼女が続ける。

「堕ちたあなたになら、もしかしたらって、希望が持てそうじゃない?」

彼女のしっとりとした声が頭の隅にまで張りつくような感覚が襲う。

「ほら、あなたがそうなったのってまぁまぁ有名でしょ? あのひとも前から知っててもおかしくないわよね」

「···でも、私が文化祭でたまたま弾いてて、そこではじめて私のことを知ったって、」

「文化祭って十月くらい?今日のコンクールの日程なんかそこでとっくに決まってるでしょ。ならその時点であなたを誘えばいいのに、そんなぎりぎりになるなんてね」

「先輩は···先輩の、あの審査員の先生が私の出場を推奨してくれたって、言ってたよ」

答え合わせをしたところで、無駄だ。なのに、止まらない。

「まさか。遠征ついでにレッスンも受けにたまたま見かけたけど、あのひと、しつこく先生にお願いしてた。『なんとか苗字名前のエントリーを間に合わせてほしい』って。
先生はあんまりそうだったけど、まぁ主催者だし、同情したのか知らないけど無理くり調整したんでしょうね。推奨させられた、に近いかしら。
せっかくあなたが餌に釣られたんだから、それはもう頑張ってどうにかしたいものよね」

無機質な床を見つめることしかできない。

「いくらあなたを負かせるにしたって、二週間前に知らせるなんて無理難題よね。小規模とはいえ人前で演奏する場なんだから、もうちょっとくらい練習させてあげてもいいのに」

ほんと、悪あがきってかんじ。
無感情な声がしんと耳に響く。

─────出られないってなると欠場ってことになっちゃうかな。やっぱり、無理かな?

申し訳なさそうに笑いかける、あの表情が頭を過ぎった。掲示されていた紙に、彼女の名前はなかった。

「どんな形であれ、かの天才さんに勝ったって言えば聞こえはいいじゃない? いまのあなたを越せないようじゃ、潮時なのも納得だし」

「···じゃあ、はじめから」

「あなた、噛ませ犬にされたのよ」

ぐらりと地面が揺れたようだった。
支えを失いそうになる。

「そうまでしたのにあなたに負けるなんてかわいそう。まぁ、あの縋りつくような弾きかた···聴けたもんじゃなかったし、当然かしら」

「そんな言いかたは、よくないよ」

「なによ。あんただってそう思った癖に」

口を噤んだ。

「きこえないって、ほんとう?」

「うん」

「いまは? お父さんに習ってるの?」

「習ってないよ」

「そう······ならもう、痛い思いしなくて済むのね」

楽譜がちらばる、紙の擦れる音。にぶい動きで拾いあげる手。
あの日の記憶が断片的に目の前を横切る。

「まぁ、納得かしら。でないと、あんな不細工な音出せないものね。結局お父さんがいないとなんにも出来ないんじゃない。あれだけ持て囃されてたのに、ざまないわね。
どうせあんな弾きかたしかできないんだったら、その先輩のことはじめから教えてあげたかった。もっとでたらめに弾けば、はなむけくらいにはなったでしょう」

ちいさなガラスの破片があちこちに刺さっているみたいだ。深くは抉られない。けれどじくじくと、見境なく、投げつけられる。
抗いようもなかったが、抗うつもりもなかった。

「ロボットも案外、たいしたことないってことかしら」

彼女の声と同時に、頭のなかで反響した。


─────あれはまともじゃないよ


がらくたになったいまは、どこが傷つこうが関係ない。


「待って」

庇うようにして彼が前へ出た。瞬時に彼女は反応して、鋭く睨み上げた。

「どうして君が彼女にそこまで言うの? 彼女が君になにかしたの?」

目前にはラケットバッグと彼の背中しか見えないが、日頃のように温厚な表情をしていないのだろうということは、すぐに解った。

「別に…昔話に花を咲かせているだけじゃない」

「一方的に彼女を罵っているだけにしか見えない」

「あんたこそこの子のなんだっていうの? なんにも知らないくせに割り込まないで」

空気が張りつめる。自由の利かない身体で唯一動きそうだったのは、腕だった。ぎこちなく上げると、骨が軋んだみたいに痛んだ。
彼のブレザーの袖をそっとつまむ。彼はすぐに私を見やった。
彼と私はしばらく見つめ合っていた。彼の瞳に私が映っているのがわかるくらい、私は彼を見つめていた。どれくらい経っていたのだろう。ようやくして降参したかのように彼は瞼を伏せた。きっと言いたいことがあったに違いないが、聞く気にはなれなかった。
私はもう一度、彼女の前に立った。

「その通りだと思う」

彼女の目がすうっと細められた。

「準備が短いことを抜きにしても中途半端だった。ほんとうに酷い演奏だと自分でも思うけど、でも、あれが私のせいいっぱいだった。いまの私にできるぜんぶだった」

紛れもなく全力だった。一体なにをやってきたのだと、嘲笑われたとしても。

「響子ちゃんの言ってることはほとんど正しい。でも、ひとつだけ間違ってる。先輩の意思を知ってたとしても、私は手を抜かなかったよ」

ぶれるつもりはなかった。一瞬の隙も与えてはいけない。そう思って、彼女を真っ直ぐ見つめる。
彼女は腕を組んで、考え込むような素振りをした。しばらく無言を保ったあと「あっそ」と呟いた。

「もっとやさしいかと思ってたのに。そういう貪欲なところ、あいかわらず変わってないのね」

じゃあね、ロボットさん。

遠ざかっていく彼女の髪がうつくしく揺れた。


向こうに視線を寄越せば、先輩が立っていた。
歪ませながら、確かに私を見ている。
気のせいではなかった。あきらかに、そういう念を持っているひとの顔だった。
なにもかもから背けたくなる。

「行こっか」

思考を強引に引き戻して、声をかけた。彼はなにも喋らなかった。私のほうもあまり見ないようにしていたから、どんな表情をしていたのかは分からない。私につれてしずかに足を進めるだけだった。

自動扉が開く。真正面から冷えた風が襲う。ぎゅっと肩が強ばった。くすんだ空がどこまでも広がっている。

ふるえているのは、自分のからだなのか、こころなのか、わからない。

  

神さまの通り道

scene