しばらくの沈黙を破ったのは私からだった。
「寒いね」
マフラーに口元を埋めれば、くぐもった声が通った。
視線が交わって、彼は「そうだね」と返す。
「今日は来てくれてありがとう。ひとりでも平気だと思ってたんだけど…幸村くんがいるってわかったら、安心した。結構心細かったのかな」
見上げた先の彼は、思いとどまっているようだった。彼の口が開いたのは、ワンテンポ遅れてからだった。
「大丈夫だった?」と言ったあと、私が返事をする隙もなく「いや、よくないな」と伏し目がちに言った。そんな彼を見て、それもそうかと苦笑してしまった。「分かりきっていることを訊くのは、よくないね」彼が複雑そうな顔を浮かべる。彼が思っているであろうことはすぐにわかった。
「大丈夫。なんてことないし、昔からああいうふうだから慣れてるの」
「そうかい」
「気遣わせちゃってごめんね。でも響子ちゃん、ああ見えてやさしいところもあるんだよ?」
「そうなんだ」
やや黙りこくったあとの返事だった。納得しているかは、わからない。
「あの子綺麗だから、なんだか見ただけで許せちゃうんだよね。美人だからなんでもいいやってなっちゃうというか、むしろ癖になるというか」
「苗字さんはたまに繊細なのか図太いのかよく分からないね」
「お顔がよろしいってだけで狡いよねぇ」
「そこはあまり関係ないんじゃないかな」
駅前の広場に着いた。賑やかではないけれど、しずかとも言い難い人通りだった。
「それに、言われたままの通りだから」
つめたい風が吹きつける。ほとんど見向きもされずに佇むもみの木のてっぺんにある、金いろの星を見やった。
肩を縮こめながら「やっぱり寒いね」と言えば、「うん」彼は呟くようにこたえた。
あと少し経てば、暗がりになりそうな空模様だった。日が落ちるのも随分とはやくなった。今日は雲が空をさえぎっているせいもあって、早々に夜が訪れそうだった。
「苗字さんは、今夜なにかするのかい?」
「そんなにたいしたことはしないけど、私にとってはケーキがいちばんの大イベントかな」
「プレゼントよりもまずケーキの話がくるのが君らしいね」
「限定ものだったけどぎりぎり予約できたの。お父さんが今夜受け取ってくれるから楽しみで···」
「そっか」
吊り革ごと、ときおり体が揺らされる。彼と横並びに立って話す車内は暖房の熱気がこもって、空気は少し淀んでいた。
「幸村くんは今日するの?」
「うん。妹へのプレゼントがなんとか間に合ってよかったよ」
「ちゃんと毎年あげてるんだね」
「毎度のことなのになかなか難しいんだ」
「私は子ども用のメイクセットとか、きらきらしてるネックレスとか、うれしかったな」
「来年からは苗字さんにアドバイスを貰おうかな」
「幸村くんは、サンタさんになにかお願いしたの?」
学校としては今日から冬休みだけど、全国区レベルのテニス部はまだ少し活動を続けるらしい。今夜くらいは彼もあのコートを忘れて、おだやかに過ごすのだろか。そうしてふたたびあの地へ戻っていく。私はこのあと、どうして過ごすのだろう。
車窓越しに見える空は来たときと変わりない。どれだけ景色が移ろいでもわびしい色のままだった。
彼の降りる駅は私の最寄りよりもひとつ前だった。車内のアナウンスが流れるのと同時に、喉の奥が詰まった。
乗る前からしっかり言っておくべきだったと、悔やんだ。
「今日はありがとう。幸村くんが来てくれて、ほんとうにうれしかった」
どれだけ言っても言い足りない気がするけれど、これっきりにしないといけないとも思った。ほんとうの最後にするなら、一瞬たりとも懐古するような隙をつくってはいけなかった。
「俺も、ほんとうによかったよ」
目を細めながらやさしく私を見下ろす彼を見て、ほんとうに終わりなのだと悟った。これまでみたなかでなにより、とてもこころが摘まれる目をしていた。
ふと思う。彼は次も、その先も、そんな瞳を向けてくれるのだろうか。
不確かなものをつくりあげるのだって、それがさらに綻んでいくのを眺めるのだって、鍵盤を通してこれまで幾度となく行ってきた。そんな自分のあり様を客観的に見ていた。彼もまた、はなれていってもおかしくない。きこえるまでずっと弾きつづけるといった約束を容赦なく破ったのだから。今日を境に彼はすべてを見届けたのだ。黒いあれのおかげでまじわって、ゆるやかな速度でうすれていく。これっきりで彼があの部屋を訊ねない未来が時期に訪れる。虚しかったけれど、おおきく悲観するほどでもない。いつだってそんなものだった。空っぽの自分にとってある程度慣れている感覚だった。無理やりにでも。
「またね」
彼が降りて、扉が閉まる。
手を振れば、またたく間に彼がみえなくなった。
日が傾いて、街の気配がうすれていく。足は真っ先にあの場所へと連れていく。
これから先なにが起ころうとも、私はここへ訪れる。それだけは確かだって世界じゅうにいえる。なにも築けなかったなかで唯一存在するもの。
ざらついた潮の匂いはいつだって心地いい。はげしさもしずけさも、ありとあらゆる感情のうねりも、波の音はどこまでも包み込んでくれる。冬の海も好きだ。冬の空気そのものが好きで、しんとした、澄み渡って少しの澱みも感じさせないようなあの空気。水面の煌めきを抑えるように打ちつける姿がまじわれば、いよいよ溺れてしまいそうになる。
今日も変わらない。灰色の空と、合わさるように沈んだ色をした水平線はどこまでも惹きつけてくれる。
変わらないものがある。ここだけは終わらない。不変そのものだった。
鞄を乱雑に置いた。肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「わかってるよ」
わかっていた。
はじめからすべて、わからないはずがなかった。
変わらないのだ。
「ぜんぶ、せんぶ、わかってたよ」
めいいっぱい叫んだ。喉が潰れそうなくらい、言葉にならない言葉で喚いた。制御のきかない拡声器みたいに。
きつく瞼を閉じれば、端からぼたぼた落ちていく。このまま縮こまって消えてしまいそうなくらい両手を強く握りしめた。ぎりぎりと指の骨が軋んでいく。
叫んで、叫んで、海へ向かって責め立てた。
わかっていた。わかっていたのに。
音楽室、ピアノ、みんなの声、先輩、響子ちゃん、彼。走馬灯みたいに頭のなかに勢いよくなだれこむ。
「そんなにくやしいならもっと弾けばいいじゃんか。わたしだっていっぱいした。いやってくらい積みあげてきて、それくらいしてあたりまえだったんだよ。どうすればよかったの。わたしのせいだっていうの。そんなかんたんにあきらめられるくらいなら最初からこなくていいのに、ふざけないでよ。こっちだってこわいんだよ。あそこにすわったら、ぜんぶきえるから、こわくて、しかたないのに、そんなのしらないくせに。でたらめなのしかできないってしってたよ。でも、にげたくなくて、にげたくなかったから、弾くしかなかったから。いまさらやったってどうにもならないってわかってたよ。でももう、これしかなかったから。わたしにはこれしかなくて、これをとったらもう、なにも、なにもないから」
お腹の奥からぐちゃぐちゃになって掻き乱されるみたいだ。にぶい痛みがいつしか身体じゅうを覆い尽くして、そうして絶えてしまう前にがむしゃらに叫んだ。
誰からみても修復のしようがなかった。壊れていた。そんなあり様で歩いたところで変わらない。施す術などあるはずがないのだと、わかりきっていた。
それでも、あがきたかった。与えてくれた居場所でこなしていけば、うしなったものを取り戻せるかもしれないと思っていた。何度繰り返しても同じなのに物分りの酷い自分。本人の意思など微塵も省みず、淡い希望は真っ暗な道にすいこまれる。みつけられないままただ呑まれていく。こんなにもあっけないものかと容易く想像できたはずなのに、馬鹿のひとつ覚えみたいにあそこで弾いていた。
惨めで、ほんとうに、どうしようもない。
がらがらになって咳き込んだ喉から荒く息を吐き出した。風のせいで口のなかに入った髪の毛を払うのも煩わしい。
「きらい。だいっきらい」
膝が力なく折れて、しゃがみこむ。ひんやり湿った砂が足に張りつく。抉るように地面を握りしめた。ざらついた感触が口のなかにまで伝わるようで不快だった。
きらいだ。
くやしさも、くるしさも、むなしさも、恐れも、まわりも。なにより、自分が。
世界のなかでだれよりも、自分が自分を許せないくらいに。
「君はなにも間違ってない」
この世でもっともききたくない声。
透きとおった響きをこんなにも疎ましいと思ったことがあっただろうか。
伏せていた顔を上げる。目の奥がじんじんと痛くて、朧げだったのに、このひとの姿だけははっきりとみえる。
深い夜の色をした髪も、いっさいの濁りもない瞳も、なにが襲おうともぐらつかないであろう全身も、なにもかも。
「なんとなく、ここにいるような気がして」
彼はゆったりとした動作で片膝を置いてしゃがんだ。私の前に向き合った。
「なんで、」
そんなことはきいてない。と、言えないかわりに俯いて、即座に逸らした。小心者のせいいっぱいの反抗だった。
拳をつくっていた手の下を彼の手が強引に滑り込み、私の手をとる。ざらついたきたない手に、彼のまっさらな手は面白いほど相容れない。彼はいままでのなかでいちばんかたく、確かにはっきりと私の手を握った。ほどくのは難しく、痛いと感じる一歩手前の力強さがあった。彼は幾度か私の手をとったことがあるけれど、いつだってやさしかった。やさしすぎた。だから彼の為す行為はどれをとっても繊細なものだと思い込んでいた。
「君はなにも間違ってない」
彼はなにがなんでも言い聞かせるかのように語調を強めた。
このひとに会いたくなかった。どうして追いかけてきたのかと憎しみさえ湧いてきそうだった。わかっていないのにわかっているような言いっぷりも嫌いじゃなかった。でもいまは、すべてを突き返したくなる。
どうしてこのひとは、みつけてしまうのだろう。
「わたし、もうひいちゃだめみたい。全然、ぜんぜんだめだった。どうしたらよかったのかな。なんにもできなくて、どうしようもないよ、もう、ほんとうに」
渇きかけていたのに、とめどなくこぼれていく。彼の声は目前の波音にもかき消されない。
「弾くんだ」
塞いでしまいたいと思う一方で、あらがいようもなかった。
歪んだ視界が、こころが、感覚のすべてが、彼を受け容れようとしている。
「君にはこれしかない」
これはお告げだ。
「これしかないんだ」
曲げようのないお告げ。
どうして気づかないふりをしていたんだろう。いかなる災難が待ち受けていたとしても歩かなければいけなかった。逃れられるはずがなかったのだ。砕かれようとも生きていくための道は、はじめからたったひとつしか存在していなかった。
そんなわけがないと信じてみたかったのに、
「君にはこれしかないんだよ」
彼のまなざしは強烈な意志を孕んで私に同意を求めていた。
「でも、だめだった。これしかないのに、わたしは」
「君にしか出せないものがあるよ」
「むりだよ。幸村くんくんもきいたでしょう?」
「きいた」
「ほんとうに、全然だめだったの」
「君にしかできない」
彼は非常に険しかった。友人と語らい、花を愛で、おだやかな笑みを振りまくいつもの佇まいの欠片も見せなかった。彼はときおり強引なようすを覗かせることもあったが、ここまで酷かっただろうか。逸らしたいのに、逸らせない。
「だめだよ、できっこないよ。ひいちゃだめなんだよ」
「そんなこと、絶対にあるわけない。君は弾くんだ」
「おねがいだから、やめて」
懇願して彼の名前を呼んだ。おねがいだから、もう。喉の奥が掻き毟られたような、ひりついた感覚が巡る。叫びたくなった。
彼の声にはさも綺麗事を口すさんでいるとは思わせない迫力が潜んでいた。絶対などと断定できるものはこの世に存在しないのに、どうしてそこまで言い切れるのだろう。
耐えきれなくなって目を閉じる。しょっぱくて、いたい。
「ひいたってかわらない。かわらないんだよ。あんなにもみっともない音しかだせないのに、意味ないよ。ぜんぶわかってたよ。あとにならなくても最初からわかってたし、きまってた。幸村くんだってほんとうはわかってたくせに。だからもう、むりだよ」
いまのこのひとに遠慮もやさしさも、つつましさもどこにもない。私はどこまでぼろぼろになれるのだろう。
「わたしは、どうしたら」
「俺がいるよ」
彼が言った。
「俺がいる」
せめて言葉だけでも彼を否定したくなかったが、はちきれてしまって、ふるえた声で返す。
「幸村くんがいたって」
意味がない。なんの保証にもなり得ない。
そうまで歯向かっても、容赦なく降りそそぐ。
「俺がいるから、ずっと待ってるから」
君は弾くんだ。
彼の声は身体の芯を通りぬけ、貫いてくる。落ちることのない染みになって隅々にまで広がっていく。
ようやく、砂越しに彼の手の感触が伝わった気がした。豆ができていて、かたい手のひら。案外華奢とはいえない、けれどうつくしい、なんでも掴めそうな指の形。
この前まで、彼は見返りは求めていないはずだった。私があの部屋で満足のいくまで過ごせばそれでよくて、ほんとうにいつかそのうち、聴こえるようになったらいいねと云うくらいの、ささやかな期待程度のものだったと思う。だからはじめこそ彼だって私が決意を固めたものだと見越せばすんなり後を退いた。ふたりで寄せあって、さびしく手を繋ぎ合いながら、彼もまた終幕を望んでいた。
けれど、いまこの瞬間に完全に取り払われてしまった。けっして空っぽではない、形あるものを私が紡げるその日まで彼はどこまでも待つつもりなのだ。いつ辿りつくのかもはかり知れない道の先で彼はずっと待ちつづける。気の遠くなるような歳月を費やすであろうこのひとに対して、私は真っ当な対価を払わなければいけない。待つからにはかならずこたえなければいけないと、そう言われている。あきらかな見返りだった。
あてのない約束。
滅茶苦茶だと思いながらも、しがみつく私はいったい。
「きいて、くれる?」
「うん」
「あんなのしかひけないのに?」
「うん」
「まだ、きいてくれるの?」
「何度でもあそこへ行くよ」
世界のルールかのように、当然だと言わんばかりだった。
「決まってるだろ」
理から外れるわけがない、と。
茜色の光が浮かびあがる。彼の肩の後ろから真っ直ぐに差し込んでくる。
思い出した。
前の家には立派な書斎があった。文字通り、大量の楽譜と一緒に大量の本が並べられただけの空間だった。幼い頃、おままごとにも飽きて、ひとりで暇を持て余しているとよく忍びこんでいた。もちろん絵本のようなかんたんで明快な本が収められているわけもなく、楽譜以外で読める本はほんの少ししかなかった。手にとるものは自然と限られてしまうのだが、そのなかでなんども棚から引っ張りだした本があった。本というよりは画集と呼ぶべきかもしれない。世界の名画、みたいなタイトルだったと思う。箔押しの文字つきの、とてつもなく重くて分厚い表紙ごと床に置いて、ぱらぱらめくってなんとなしに眺めていた。そういうときに、毎回目に留まった絵だった。
神さまがいる絵。厳粛で、しかし慈しむようなまなざし。どこからともなく伸びてくる後光。さしのべられた手を頼りに、人々が天を仰ぐ。
照らして、照らされて、道しるべになる。
まばゆい光を辿って、祈る。
祈り、縋り、あがく。
「ずっと、待ってる」
きっとこの声を、息絶えるそのときまで忘れられない。
天罰が下るだとか、神の罰だとか、人々は口にするけれど、実際ほとんど神さまは罰を与えることはないらしい。罰を与えたのは原罪を犯したいちどきり。神さまは歓びのみを与え、悪事は決して行わない。この世にある苦しみのほとんどは人本来のもつ醜さだとか予測しえない災厄だとか悪魔だとか、そういう邪な存在のせいだったりするようだ。
立ちふさがる絶望の前にとなえてくれる。慈悲を与え、迷う者がいれば啓示を与え、導いていく。
いつか幸福がふってきますようにと祈り、ただそれだけ。
彼も同じだ。
いたずらに苦難のみを与えているわけではない。痛みがともなう道程を踏もうと、その先に希望があると知っているから手を伸ばした。
そう思うしかない。でなければ、こんなにもむごいことができるわけがない。ただ下で這いつくばるだけの者からしてみたら、あまりにも無慈悲だと嘆いてしまうほどの。いっそのこと、お終いにしてくださいと請うほどの。
彼も、しあわせを願っている。
「はい」
だからこたえていく。険しく、途方もない、果てを目指す。
何度足がもつれてしまおうと、いきていくために。
幸村くん。ちぎれそうな声で名前を呼ぶ。
彼の手をとる指さきに力を込めたら、呼応するように、彼が握り返した。
「まだ、ここにいるから」
際限なく細く伝っていく涙を止めるつもりはなかった。ぜんぶさらけ出せば、風が洗い流して、清めてくれるかもしれない。
くやしさも、くるしさも、むなしさも、恐れも、どうしようもない自分も。
彼は私の涙を拭わなかった。これ以上崩れることのないようにと、ただ繋ぐだけだった。
たった一本の光を残して、波がつめたく光る。あたりは沈み、夜が侵食する。