あんなにもあかるく、さびしく笑うひとをみたことがない。
きっとこのさき何度でも思い出す。君のそばにいるかぎり、けっして忘れないと誓ったから。
*
運動部全体で美化活動週間というものが定期的にあるらしく、運動部の活動範囲周辺の掃除を集中的に行う活動だ。グラウンドや体育館の周辺から、倉庫のなか、部室、備品の掃除…練習を根詰めていると疎かになってしまう部分でもあるしちょっとした息抜きにもちょうどいいのだと先輩たちが言っていた。期間中はテニス部だと練習を重点的にしたあと、後半はこの清掃に割り当てられる。
その日はコート周辺の清掃が割り当てられていた。水道回りは掃除を終えたし、ごみが散乱しているわけでもない。活動範囲からはとっくに超えているけれど、二号館のあたりまでほうきを使ってせっせと掃除をしていた。
特別、なにか考えていたわけじゃない。最低限の掃除は終えたし、あと少しで部活も終わる。ほかの校舎を行き来したことがなかったから、興味があって立ち寄った。その程度の好奇心で二号館の階段を上っていたときだった。
ピアノの音色に手を引かれるみたいにどんどん奥へと進んでいく。生徒が不在の最上階の、取り残されたように存在していた音楽室。壁越しでも伝わる繊細さとうつくしさ。そして、唐突に断ち切られるあっけなさ。
「す、す、すみません」
目が合うと、急速に彼女の顔色は悪くなっていく。
邪魔をするつもりはなかったんだ。偶然聴こえたから寄ってみたらついずっと聴きたくなって。
そんな言い訳をする余地もあたえられず、彼女は怯えたようすで逃げるように去っていった。
それから彼女は俺から意識を逸らそうと徹底的に避けているようだった。とはいえ俺の頭のなかはあの音色と彼女とが明確にリンクしていたから彼女が遠ざけようとなんの意味もなかった。彼女が俺を意識していたように、俺も彼女を意識していた。
部活終わりにはタイミングを図ってときどきあの音楽室に立ち寄るようにもなった。彼女の知らないところで、音楽室の外からひっそりと。彼女が部屋を出る前には、俺は帰るよう心がけていた。こそこそしている後ろめたさはあったし、あらためて本人に直接許可をとったほうがいいと思ったけど、どうしても音楽室に入るのは憚られた。はじめて会った日から彼女は俺に悪印象を持っているのに、二号館の花壇の一件でいっそう警戒心を抱いている。あの日はようやく信頼を取り戻せたと思ったのに形勢はより悪いほうに傾いていた。このタイミングで彼女に知られたらいよいよ信頼なんて取り戻せないだろう。
すれ違った折に見かけた彼女の膝もとに、いまはもう絆創膏は貼られていない。
怪我は大丈夫?
そんなひと言もかけられない。
あとは、俺があの空間に侵入すると、突然として終わる音の寿命をさらに縮めることになるのも躊躇う理由のひとつだった。
彼女のピアノはいつも途絶える。前触れもなく、唐突に。たったの一度も曲の終わりまでを聴いたことがない。同じ曲でも日によって終わるタイミングは都度変わって、一貫性がない。そういう得体の知れない儚さが、この音楽室に吸い寄せられる魔力になっているのかもしれない。
おどおどしている。あがりやすいのだろう。そう感じたあの子。そういう子はたまにいるけど、彼女はその特徴がぐんと際立っていた印象がある。そんな彼女があの空間ではどんな表情と佇まいで弾いているのだろう。彼女の姿が見えないこともある種魔力のようで、俺はまんまとその魔力に魅入られていた。
音楽室に寄った日の夜は、彼女が弾いていた曲を聴くのが日課になっていた。父さんがクラシックを嗜んでいるのもあって、CDラックから探してみればすぐに見つかった。聴きながら、彼女を思い出す。あの部屋の外で聴くときと違って、機械がこわれていない限りCDは確実に完奏する。曲のはじめから終わりを聴いていられる。なのに、物足りなかった。もしも彼女が弾いたならどれほど、と想像している自分がいた。きっと最後のさいごまでうつくしいんだろうときめつけた。最後まで聴いたことがないくせに、だ。
彼女はなにを思って弾いて、そうして音をとめてしまうのだろう。耳に聴き入れながら、あの音楽室の鍵盤の前に座る彼女を想像しては、焦がれていた。
*
デッサンだったり、ひととおり基本的なことを習ったあとに出された美術の課題は、風景画だった。『実際に見た、思い出の景色』が条件なだけのざっくりとした主題だ。
生まれた頃からこの土地に住んでいるけど、ここはあちこち目に映せば、いつだって情景的なものに溢れていると思う。田舎っぽいとか、そういう意味ではなく。
今回の課題は選べる対象物が豊富なここだからこそぴったりな内容だと思ったし、課題の説明を聞いた瞬間さっそくなじみのある街並みや自然たちが頭に浮かんだ。
けどそのわりには自分もほかの皆とたいして変わらず、なにより鮮明にイメージできたのは学校の近くにある、あの海だった。
部活も終わった放課後。
潮の匂いを辿るように歩いていく。
中学に上がってからも通学路で目には入るけど、こうもまじまじと眺めたり、踏み入れるなんてことはずいぶんと減った。
授業中、海にしようかという声はあちこちから聞こえて、そのなかには海は真っ青で色を塗るにしても楽そうだから、というのを理由にしているらしいクラスメイトもいた。
ひとり勝手にだけど、あまり共感できなかった。
見慣れているつもりでも、いつ訪れても毎度のように違って見えた。強烈な赤に染まった波。紫とも青ともとれない空とのあやふやな境界線。うつくしさにこころを奪われる日もあれば、おそろしいほど壮大な水面に呑み込まれそうな日もあった。空に浮かぶ雲の多さひとつでも情景はうつろいでゆく。なつかしさも寂しさもすべてをとけこませているあれは、一日として同じ表情を見せない。
この青は決して単調ではなかった。
一度砂浜に足を着けたなら、やっぱりここだ、と思えた。写真を撮ってそれを見ながら描こうかとも一瞬迷ったけど、いきている景色を描きたくて、なるべく足を運ぶようにしていた。
水平線を見やりながら歩いていくと、日傘が視界に入る。
足元のローファーと深緑のスカート。
今日も彼女がいる。
俺が来るときのたいていは彼女もいた。
この季節特有の夕刻になっても衰えない、刺すような陽ざしのせいなのか、彼女はいつも日傘を指していた。水平線のほうへ向かって、波が足にかからないぎりぎりの境界線に立っている。周囲に誰もいない日も、はしゃぎ騒いでいる生徒がいる日も、とあるふたり組が寄り添うように歩いている日も、佇まいは変わらない。
そういうことと、うちの制服らしいので同じ学校だということだけはわかっていた。顔は傘で隠れて見えない。
いくらか経ったある日、偶然彼女が傘を手にしていない日に巡り会えた。胸が高揚して、思わず目を見張った。
ピアノを弾く、あの彼女だった。
すぐに声をかけたいのをぐっと堪える。邪魔にならないようにと意識が働いて、彼女からやや離れた位置に立つようにした。
彼女の横顔を見る。
向こうがわをみていた瞳が揺らぐことは、一瞬たりともない。
壊れた花壇を直していたときの、泳がせるようにこちらを見ていた弱々しい瞳とまるで違っていた。
たよりないというわけではない。むしろ真っ直ぐなほうだと思う。
でも、儚い。
意志の強さを秘めているのに、いつになく遠い瞳。
どうしてなのかわからない。なにが彼女をそうさせているのだろう。
ただぼんやりと眺めているというよりも、水平線の奥のはるか遠くに存在するなにかを見つめているようだ。届かないものを、追い求めているまなざし。いつしかつられて彼女ごと消えてしまうんじゃないかと思わせる脆さを抱えている。
定期的に、彼女の姿すべてを目にできる日はやって来て、そういう日はかならず見入っていた。いつのまにか彼女はこの景色のなくてはならない一部になっていた。
ここを訪れているのは、波打つ水面をみるためなのか、彼女をみるためなのか、判別がつかなくなったのはこのあたりだった気がする。
どうにか話しかけたいけど、よしとするタイミングがわからない。
芸術鑑賞会でも彼女はとある海の絵をじっと眺めていた。
背筋を伸ばして、ひたすら真っ直ぐ。
ほかの生徒や鑑賞者の邪魔になると気遣ってからか、絵とは若干距離をとっていたようだけど、できることならもっと近くにいたかったはずだ。あそこに立つ君もどこまでもあの海へ近づこうとしているから。
絵の前に立つ彼女は、砂浜に立つ彼女と同じだった。真っ直ぐなのに、どこか朧げ。そのさきになにを映しているのかはっきりなようで、曖昧にみえる。
展示場を出てすぐのグッズコーナーで蓮二が見えた。しかも、彼女と一緒に。
近づいた折、彼女がその絵のポストカードを手にとっているのが見えたから、
「やっぱりそれにしたんだね」
ついこぼしてしまった。
「え······?」
君はいつもあの海を眺めているし、その絵の前でも食い入るように立っていたから、それを選ぶと思ったんだ。
なんて、言えるわけもない。
彼女が青い景色に集中している向こうで実は俺の存在に勘づいていたんじゃないかとも思ったけど、彼女の困惑ぶりを見る限りほんとうに記憶の片すみにも残っていないらしい。彼女のなかの俺は、あの保健室で会ったのが最後なんだろう。
「お邪魔してごめんなさい!で、ではここで失礼しますっ!」
作戦は失敗。好感度は下がり、拒否反応を著しく急上昇させるという救いようのない結果だった。
蓮二は数回ほど彼女と会っていて、互いにしっかりとした面識もあるらしい。おまけに同じ柄で合わせてブックカバーを買うくらいには親しくしているみたいだ。会っている(と思っている)回数だけなら俺のほうが圧倒的に多いのに。
「きっと、いい印象を持たれてない気がするんだ」
「だろうな」
「こわがらせるつもりは全然ないんだけどな」
「にしても意外だな」
「え?」
「精市は他人の視線も反応も、特段気にしないものだと思っていた」
ここから挽回の余地があるのだろうか。
蓮二の台詞に、そんなことを考えている自分がいるのに気づかされた。
あれから帰って、自宅の部屋で宿題に取り掛かっていた。今日の感想文を提出する必要があった。
展示内容が終盤に差し掛かり、ひともまばらになったフロアのなか、合皮のソファ近くで飾られていたあの絵。ぼんやりと思考の巡りが鈍くなり、原稿用紙の端にシャーペンを走らせる。
かなり簡素な海と砂浜。そこに立っている日傘の彼女。
ふぅ、と息をつく。このため息の理由がなんなのかは分からないけど、少なくとも、当人には見られたくない落書きだ。
海に行けば、まっさきにその姿がないか探している。彼女はいるのかどうか、最近は絵よりもそれが優先事項になっているんじゃないかと自覚しはじめたのは、このときだった。
今日も彼女は海にいた。
変わらず遠いままだ。
ひとつ違っていたのは、彼女は素足で波のなかに立っていた。
いよいよあちら側に行こうとしているんじゃないか。
細い背中をみて、そんな考えがよぎった。身を絶ちそうとまでは思わなかったが、はるか彼方の誰も知らない世界にすいこまれそうにみえた。
「ここの景色、綺麗だよね」
引き留めたかったのかもしれない。
単なる興味本位。あとは、はなれていきそうな危うさを断ちたかったから。
髪が吹きつけられながら、彼女が振り向く。
ようやく交わった。
海を見つめているときの、あの視線の名残があった。
でもそれはほんの数秒のことで、みるみる動揺の色が濃くなっていく。
「なななななんで」
慌てふためく彼女の警戒をどう解いていいのか分からず、とりあえず近づこうとしたけど彼女は後ずさりするばかりだ。とうとう挽回できないんだろうかと、考えていたときだった。
彼女がよろけて、ぐらついた。
反射的に体が動いて、彼女を抱きとめる。
尻もちをつくのはどうにか避けられた。
「くくく靴が····!」
「あ、濡れてしまったね」
「すみません、ほんとうにすみません!どどどうしたら···!」
「別になんともないんだけどなぁ」
「なんともなくなんかありません!非常に由々しき事態です!」
「君が無事でなによりだよ。ふふっ、ほら、いったん深呼吸したほうがいいよ?」
けど、俺のほうが靴ごと海に浸かったせいで、彼女の動揺は最高潮に達していた。大ごとにならずに済んだし、あれだけ遠い瞳をこんなにも間近で見られた。俺はそうやって安心できたけど、彼女からしたらそれどころじゃないみたいで、困惑、恐怖、混沌を全身全霊で表現していた。実際ほんとうになんともないので大丈夫だからと何度も言ってなだめてみるけども、彼女の顔は青ざめるいっぽうだ。俺が笑うとなにかと逆効果なんだろうか。
彼女を落ち着かせるのには、結構な時間がかかった。
靴なんか気にしてないと言ってみるけど、彼女の顔は一向に晴れそうにない。
彼女が気に病むくらいならこのまま別れてもいいのかもしれない。けどそうしたなら、なにも変わらない。
しかたがないのかと思ってすぐに、蓮二の台詞が頭をよぎった。
他人が自分をどうこう思うかは気にしていないけど、なら彼女にも同じことがいえるかと言われたら、肯定できない。
彼女が後退していくのを見て、やっとここまで来たのにと焦った。抱きとめて、細い手首を掴んだとき、とてつもなく安心した。言葉通りようやく掴めたような気がした。彼女だけはどうか、遠ざけないでほしいと思ってしまったのだ。
そして、あの音色を奏でる彼女を一度も目にせず終わるのはなんとしてでも避けたかった。
彼女の手元にある、焼き鳥屋のチラシが目に入った。
「行ってみないかい? 一緒に」
強引だと我ながら思う。けど、他に柔和な手段が思い浮かばない。
彼女は一歩程度距離を置いて、後ろをついてくるように歩いていた。ペースが速いのかと歩幅を狭めてみるもどうにも縮まらない。
やっぱり怖がられている。
しゅんとするなんて、いつぶりだろうか。
これ以上罪悪感を感じてほしくなかったから、彼女の気を逸らすために二号館の近くにあるあの花壇を話題に出してみた。
「そういえば、あそこの花壇、あれからちゃんと綺麗になったんだ。せっかくだと思って苗の種類も増やしてみたから、秋にはまた違う花も咲くかな」
あのときの彼女は、懸命だった。
土まみれだった白い手。汗を拭いながらスカートの汚れも気に留めず必死に花壇と向き合う横顔。緊張のあまり強ばりながらも健気に花たちを助けようとしている姿が印象的だった。
俺の話に、彼女も反応してくれた。
「わ、私も、あれから心配で、たまに見に行くんだけど···でも前よりも、なんとなくだけど、もっと可愛くなってるように、みえる」
彼女も気にかけてくれていたんだ。
それがわかっただけでも、なごやかな気持ちになれた。
「えっと、そんなふうに『可愛い』って思うことは···幸村くんの気持ちだから、その、もっと堂々としていい、と思う」
とりとめもない話にも真面目に耳を傾ける彼女はやっぱり、懸命だった。
揺らいではいたけど、目を合わせてくれようと見上げている姿がまさしくそうだった。
焼き鳥屋での彼女もそうだった。
「いままで私にとっては、幸村くんは全然違う世界にいるひとだと思ってた。…それは、でも、自分のものさしの枠でしか見てなかったんだなって、わかったから」
俺は完璧でとにかく凄いらしいので、彼女と住む世界がまったく違うと思い込んでいたのもあって敬遠していたらしい。
すんなり納得できた。と言えば嫌味っぽくなるけど、つまり予想できていた。
自分はなにかするにしても多少秀でているらしく、所謂変わったひとというか、周りとは違うひととして線引きされていた。
実際、よく分からなかった。
庭の花がすくすく育つのをみて、いとおしくなって、それから夢中になっただけ。
親が連れてくれた美術館の絵に魅了されて、その画家のほかの絵も知っていくうちにさらに好きになって、自分も描いてみたかっただけ。
テニスだってそう。怖くてなにも話せなくて、その裏返しで、微笑うようにしていただけ。勝つことだけを考えていたら、そうなっただけだ。
趣味だとか単に好きなこと、癖までもが、自分がすると変わり映えしてみえるようだった。
勉強も嫌いじゃなかったから普通にこなしていたけど、小学生の頃テストの点数を覗かれて、クラスからは「運動もできるのに」「なんでもできる」みたいに言われた。
やっぱりよく分からなかった。自分にだって苦手なものは当然あるのに。
なので謙遜してみたけど、それも周囲の反応としてはあんまりで、いっそう遠ざけられる一因になった。
中学に上がってからもそういう周囲の態度は変わらなかった。好意的に接してくれるように見えて、どこか違う目で自分をみている。
けれど部活に入れば、隔てなく接してくれるチームメイトに恵まれた。そのおかげもあってなおさらもう気にしていない。褒められたときにどう返せばいいのか、なにが正解なのか教えてくれたらいいのにと、幼い頃は考えていた時期もあったけど、だからといって寂しいとか哀しいとか、うんざりするといった感情の類はそもそも感じていない。だって、わからないから。普通にしていたらたまたまそうなっただけのことに、あれこれ深く考えてももったいない気がして、ひとつ年を数える毎に気に留めなくなった。
だから彼女にそう告げられたときも『そんなこともあったな』と、ぼんやり思い出した程度だった。
「これからは、先入観でそのひとを測ったりしないようにするね。今日は誘ってくれてありがとう、幸村くん」
想像していたのと違っていた、のようなことを言われた経験はこれまでもあった。
けれどこうも真っ直ぐ、はっきりと、それでいてなにより一生懸命に言われたのははじめてだった。文字通り『頑張って』、『伝えたい』というのがひしひしと伝わった。
これまでもそんなものだったし慣れていたので、失礼だとかは思ってもなかったけど、彼女なりにたくさん気を遣ったのだろう。
しつこいようだけど、やっぱり、懸命な子だ。
彼女の瞳は揺らいでいなかった。彼女が笑っていたのを見て、胸を撫でおろした。
「よ、よろしく」
「よろしくね」
彼女は変わろうとしている。大それた一歩ではないのかもしれないけれど、そこにはたしかに彼女の意思がみえた。
きっと拙いのだろう。不器用なのかもしれない。たとえ遠回りをしたとしても、ほんとうに少しずつ、変われる子だと思った。
「ありがとう、幸村くん。一緒に食べて……おいしかった」
前を向いた彼女を、そばで見たかった。
*
数日後。
教室の外から強い視線を察知したのは二限目の休み時間からで、いよいよ自意識過剰じゃないと確信できたのは午後を回ってからだった。ほんの一瞬、彼女の姿が見えたのだ。声をかけようにもやたら俊敏なせいで捕まえようがない。きっと、あのとき貸したタオルを返しにきてくれているんだ。
「教えてくれたっていいのに」
「つい観察したくなってしまってな」
蓮二はそう言ってくすりと笑うけど、俺としては結構重要な問題だったりする。彼は一限目終わりの休み時間の時点でとっくに気配に気づいていたらしい。
「俺はそうも取っ掛かりにくく見えるかい」
「精市の存在感が大きすぎるからだろう」
「そうかい? 仮にそうだとして、それは改善のしようがあるのかな」
「ないな」
「もう少し考えてほしいのだけど」
「考えた結果、だ。もちろん#苗字#の性格ゆえに『ああ』なってしまうのも原因ではあるが」
「うーん···前よりも距離は縮まったと思ったんだけどな」
「急がずとも、タイミングを測ってそのうちやって来るさ」
蓮二が気軽に話すそばで、俺は気を揉んでいた。果たしてそうだろうか。責任感が強そうだからなにがなんでも返すのだろうけど、蓮二を経由して···なんてこともなくはない。そのときは俺からどうやって……
「苗字さん!」
「へっ!?」
などと考えていたけれど、結局は俺のほうが降参していた。だってやっぱり、彼女と話したい。おかげで自然なながれ(とも言い難いけど)で屋上庭園に誘うこともできた。
こうももどかしい感情に振り回されてあくせくしている自分が珍しい。
「えっと、その…ほんとうにちょっとしたものなんだけど…」
小ぶりなクッキーはちいさなリボンがかけられていた。行き場の迷った手を組みながら、俺の表情を伺っている。頬を赤らめながら時折こちらを見上げるものだからかなり危なっかしいけれど、彼女の場合これが通常運転なのだろう。きっとこれひとつを買うにもずいぶんと迷って時間をかけた姿が想像できた。俺の教室を訪ねるにしても、彼女にとっては訓練なのだ。
「あの、その···聞きとりにくいと、思うけど、」
ひとと関わるのも、話すことも含めて、彼女は慣れるまでにひとの倍以上の時間が必要だった。
それでも彼女は、どれだけ拙くともその瞬間におぼえたよろこびはかならず伝えていた。固い意志を携えて、ありのままに。彼女と話す度、はじめて会ったときみたいになやましげな感情をおもてに出す頻度が少なくなっていた。
「いろんな形のしあわせを幸村くんが教えてくれたから」
とびきりやわらかく、とろけるように笑うのが、本来の彼女だった。
責任感が強くて、繊細な、やさしい子。本と甘いものが好き。緊張したがりですぐに俯いてしまう。かと思えば、おどろくくらいまっすぐに感情を言葉にのせる。自分に自信がなくて、そんな自分を変えようと懸命に頑張っている。
「私にとってはどれも夢みたいなの」
彼女にとってよろこばしい時間は際限なく訪れていた。
真田の趣味が将棋だと知って、自分も始めてみたいと決心したものの難しかったので、まずはどうぶつ将棋をしようと誘ってみたらしい。試しに対戦したけど「これでは勝負にならん」と一蹴されたみたいだ。ころころ笑いながらそんなことを話していた。ちょっと残念そうに。
彼女が日傘を指しているのをみて、同じく日傘を買おうか蓮二が迷っているらしい。もしかしたらまた彼とのお揃いが増えるかもしれないと話していた。めいっぱいはしゃぎながら。
とにかく些細なことにも彼女はしあわせを見出していた。
そういうときはいつも、ほんのり色づき、はにかみながら笑う。
花が咲いたみたいに、溢れんばかりの彩りをみせてくれる。
それこそ誰彼構わず、俺にも例外なく。特定の誰かだけに向けられていたわけじゃない。
それを知ってまず第一にほっとしたけど、落ち着かない気もする。結局危なっかしいのに変わりない。けど、嫌いじゃない。
「君にとって大切じゃないものってなんだい。どんなことだって思い出にしてしまいそうだ」
彼女はいつだって、誰かとなにかができる日常をほんとうに大切そうに抱きしめていた。そういうすべてが彼女にとって夢だったらしく、叶ったのを「しあわせだね」と表現していた。感極まって泣くことさえあって、文字通り喜怒哀楽の喜が突出していた。
はじめは正直、大袈裟だと思った。どうしてそこまで、と思ってしまったのだ。なんてことのない一部分をそんなまでに切り取るのは不思議で、純粋な疑問だった。
彼女はきょとんとしたあと、ふわっと笑った。
「一緒に帰ったり、美味しいものを食べたり、笑ってるだけでもよくって、なんでも残しておきたいの。みんなのおかげでね、いまはそういうのに囲まれて、ほんとうにうれしくて。なんでもかんでも思い出にしたらきりがないってわかってるけど···」
やっぱりぜんぶ大切なのかな。
目を細める彼女は、どうしようもなくまぶしかった。
彼女は典型的な恥ずかしがり屋だ。けれどそのわりには隠せない性分が勝って、感じたこと思ったことのほとんどをありありと言葉にのせる。
「かけがえのないものはひとつじゃなくていいんだね」
素直にこぼれた感想だった。
言葉の定義通りにいえば矛盾していると気づいたのは、言ってしばらくしたあとだった。
俺の台詞の違和感をすぐ理解したらしく、「おかしいよね」困ったように笑っていた。
そんな矛盾を孕んだルールは、彼女の世界であたりまえのように存在している。
「幸村くんが連れていってくれるから、私は見つけられるんだよ」
願いにも似たささやかなしあわせ。
やわらかさを、彼女のもつありったけを込めた響きは、いつもこころを満たしてくれた。
彼女のみているものをみれたなら。
彼女の世界のなかで、あわよくば彼女の隣で。
そういう世界にいられたならどれほど彩りゆたかなのだろうか。
恋しいの意味が、はじめてわかった気がした。
「幸村くんの周りは、もっとたくさん素敵なものに囲まれていると思うよ」
「気づけていないだけかな」
「うん、きっとそう」
なごやかに、彼女は断定した。
「君はそういうものを見つけるのが特別上手いんだろうね」
「単純なだけだよ」
「これからも教えてほしいんだ」
「そんな、教えるなんて大げさだよ」
「隣に道案内してくれるひとがいないとなにかと困るだろ」
素敵なもの。見過ごしてしまいそうな変哲もないシンプルな物事にも詰め込まれているのかもしれない。気にもかけなかった、アスファルトの端に咲く花のように。いま目の前で照れくさそうに笑うひとが、そういう一部になっていたように。
「またいつでもおいでよ。俺のいるときに」
きっとよろこばしい世界に違いないと決めつけた。
まだまだ知りもしないくせに、だ。
「この子、かわいいね」
屋上で咲き誇るみんなに、彼女がやさしく語り掛けた。
君もだよ。
と言いかけて、口を噤んだ。
ここだけの話にそうっと留めておくことにした。
彼女が笑って、俺も笑う。
どこを探しても、なによりも尊い世界のように思えた。