なかでもおかえりなさいは、特別だった。これを聞くがために会いにいっているような気さえした。
「おかえりなさい」
情感のたっぷりこもった響き。目を細めて、安堵の色をまじえた笑顔。振り向いてこちらを見つけたときは、大袈裟ではなく、あぁほんとうによかったと言いたそうな顔をしているのだ。もともとそうだが、この瞬間はひときわやわらかさを纏っていた。
「ただいま」
帰ってきてよかったとこころから思う。儚く朧げな彼女が手の届く場所にいる。まぎれもなくふれられる。
どうしておかえりとただいまを言うのかと、尋ねたことがあった。彼女は、あぁそれはね、と思い出すように相槌を打った。
「私はただ外にいるだけで、みんながあそこ(コート)に行くのをながめることだけしかできない。安心して戻ってこられるような場所はとてもつくれないけど、でも言葉だけなら私にでもできるから」
微かな虚しさを含んだ、涼しい声が潮風にのる。
同じ場に立って戦ってはいない。かといって、その場に身を置いている俺たちを支えるような行為をしているわけでもない。なにももたらしていない、ずっと遠くで眺めているだけの身分で、お疲れ様というのは偉そうで、場違いで、おこがましい気さえするのだと。
「考えすぎだよ」感想を言ったら、「そうね」彼女はごくしずかに返した。「そうかもしれない」そうは言っても、覆す気はまるでないようだった。
「頑張ってとか、怪我はしないようにとか、暑いから気をつけてねとか、言いたいことはいろいろあるのに、そういうのをまとめてみたら、いつのまにかいってらっしゃいになってね。もっと労わるような言葉も思い浮かばないから、おかえりなさいに込めることにしたの」
確かにあれはいつも、すべてを凝縮しているかのようにきこえる。
この時期にしてはめずらしく肌寒い風が掠める海で、彼女の横顔を見つめた。
「君がああ言ってくれるととても贅沢に思えるよ」
「言うだけなら誰にでもできることだから」
「ただ言っているだけじゃないのは聞けばわかるよ」
「そう」
彼女は俺たちをただ眺めているというよりも、見守っているようにみえた。日々かたちづくられるいとなみを愛でて、遠くから。深入りはしない。貪欲であってはいけないと考えているのだ。
どんなことがしたい?と訊ねても、彼女はいつだって控えめな答えしか返さなかった。日常だとしか捉えていなかった一部も彼女にとっては夢のようなもので、どれもささやかだった。あまりにもささやかだから、ほんの少しの手を加えるだけであっさり叶う。そうして幾分にも満たされるのだから、このさきは望んではいけないとしているようだった。
「みんなで一緒に帰って、ときどき美味しいもの食べてるだけでじゅうぶんだよ」
「かけがえのないものは、ひとつじゃなくていいのに?」
「それは…」くすぐったそうにはにかむ様子はいじらしかった。
「さびしくならないようにしないと。君も、俺も」
遠くにいたなら、掴めない。あの日のように。
彼女の手をとる。潮の匂いがぐんと濃くなる。頬に赤みがさして、きゅっと噛むみたいに唇を閉じた仕草のあと、こちらを見つめなおした。波の音がふたりを包む。
「いつでも来たらいいんだよ」
彼女が笑うと、俺もうれしかった。
彼女の夢はささやかだからこそ、これ以上にすばらしいこと―――そんなちいさなことだけじゃなくて、といっては失礼かもしれないけど―――は、たくさんあるのだということを知ってほしかった。君が想像もつかないような世界があるというのを味わってくれたなら、それで。ここへ来てほしかった。
招けば、彼女は笑ってくれた。
俺の好きな、花が咲いたような、あの綻びを連れ添ってくれる。
まるで水やりみたいだった。枯れて、萎れてしまわぬようにと注いでゆく。大きくは目立たない。ぐんぐん成長するわけでもない。けれど愛情を込めて、時間をかけて、丁寧に育てたなら、ほんとうにうつくしく咲き綻ぶ。そういう花だった。彼女はいつも真の幸福を浴びたかのように笑った。不思議でおかしくて、いとおしかった。
「みんなと一緒に海に行きたいな」
海に着けば至極真面目にごみ拾いをするひとがいるかもしれない。鬼ごっこも始まってしまって、はじめは叱っていたひともむきになって一緒に混じって遊んでいるかもしれない。砂のお城をつくるひともいるだろう。
帰り道、そんなとりとめのない当てっこを互いにしあっていた。
日傘のいらない季節がすぐに訪れるから、彼女はめいっぱいはしゃげるはずだ。
「想像以上にさわがしくなるかもしれないよ」
「もちろん大歓迎」
「それならよかった。おとなしく海をみるような連中じゃないだろうからね」
「せっかくだから貝殻集めしてみたいな」
期待いっぱいといわんばかりの表情で、彼女が笑う。俺もきっと、彼女とおんなじようだったと思う。
「幸村くんと行く海もしあわせで、みんなと行くのも、きっとしあわせだよ」
喜ばしい日を迎えるには約束がたくさん必要だ。きっとこのさきも紡いでいくことになる。ゆったりとした速度で彼女にしあわせは訪れていた。
あの、ピアノをのぞけば。
「きこえないの」
きこえない。想像もつかない世界だったけど、彼女を苦しめているということだけははっきりとわかった。そして、いつだって吸い込まれそうになる、朧気ではかないものの正体だということも。
彼女にまつわるだいたいは至って分かりやすい。表情はもちろん、不器用ながらもなんとか形にしようと努めている言葉ひとつをとっても装うといったことがまるでない。きっと隠そうとしてもできない性分だった。
しかしピアノの話になると、彼女は変わった。なにも思うことがないように、二度とふれてはいけないもののように感情を乖離させていた。そういう行為を重ねるほど彼女をより人間たらしめていることにも気づかずに。
叶って、あの部屋にいる彼女を直に見られた。
本人は望まなかっただろうけれど、俺にとってはようやく成就できた感覚に近かった。
学校でいつもはひっそりと過ごしている彼女がこの空間のなかでは優雅に奏でている。
「とても綺麗だった」。
音も、その姿も、綺麗だった。
そうしてはかない。
音も、その姿も。
海に立つ、あの姿と重なった。
「まただめだった」
さびしく、あかるく笑うそのひとに、強く惹かれた。
彼女にとってきこえないことは、罪そのものだった。
もしかしたらあの部屋のなかで解放しているようで、実際は閉じ込められているのかもしれない。黒いピアノ。座る彼女。微かな陽だまりをすいこむ窓。そこら一体がうつくしさとむなしさを象徴する空間だった。
「いつか君は弾けるんだって、
彼女の音色に惹かれたのも、彼女の音で曲の終焉まで聴きたいと思ったのも、どれも本心だった。この椅子に座ってはいけないのだと戒めているなら、強引にでも居場所をあたえてあげたかった。彼女の傷みに寄り添いたかった。むなしさを抉るような笑いかたをしなくてもいい世界にいてほしかった。
「しかたないから付き合ってあげる」
実際は、打ちひしがれているあの笑顔が好きだということをひた隠しにしながら。
*
二日目を迎えた海原祭。午後は文化部の催し物を観賞していた。
数独大会が終わったあとは蓮二と一緒にホールの席に着いて、舞台を見守っていた。
各演目が着々と進行していくなか、舞台端ではあからさまに不穏な気配が立ち込めていた。
吹奏楽部の楽器の搬入が大幅に遅れているらしいと、蓮二がほぼ事実に近い推測でもって説明してくれた。後半に差し掛かるとその推測通りといったところで、吹奏楽部のお披露目はずらされる旨のアナウンスが流れた。
他の部活の発表がひと通り終わっても、舞台は手つかずのままだった。反して舞台端のほうのひとだかりは薄れないままざわめき立っている。
客席側でも帰っていいのか留まるべきなのか検討がつかずひそひそ相談し合っているひともいれば、もう終わったのだと腰を上げているひともいた。保護者ももちろん会場内にはいて、自分の子が吹奏楽部に所属しているのを思うと出るのも躊躇って、待ち侘びているのかもしれない。
ただ、始まるとも切り上げるともどちらの案内もされていない。
どうする、と蓮二に促される。始まったとしてもかなりさきになるだろう、とつづいた。
ふいに、中庭での会話が冷静な思考をさえぎった。
そういえばあのとき彼女は、彼らの音が好きだと話していた。彼らの真っ直ぐな音を聴くためにここへいつも来ているのだと話していた。きっと今日という日もこころ待ちにしていたはずだ。
蓮二の質問にもきまりの悪い返事しかできず、前方を見やった。
俺がここへ座るよりもまえに向こうでは真っ赤な髪が見えていた。
その隣には当然彼女もいて―――――
暗がりのさらにずっと向こうがわにいるのに、飛び込むように視界に入る。気味が悪いくらいクリアだった。
彼女は立ち上がって、舞台端へしっかりとした足取りで移動していた。柳生となにか相談しているようだったけど、それもほんの数分で、今度はグランドピアノのほうへと歩いていく。
いままでみた彼女のなかでもっとも堂々としていた立ち振る舞いだった。ぶれるといった気配がまるでない。ああいうのを場馴れしているというのだろうか。整然と一礼をした。
彼女が鍵盤のまえに座り、長い沈黙が流れる。
弦の上で指が走った途端、空気が急速に張り詰めた。
―――――ピアノソナタ 第十四番『月光』第三楽章
息を呑んだ。曖昧で朧気なんてことはまるでなかった。消え入るような儚さもいっさい感じられない。
彼女は、確かにあそこにいた。あそこに座って、弾いて、存在している。集中して照らされているスポットライトがより彼女を際立たせていた。闇が深いほどに月は光を放ち、誰の目にも焼きつけようと鋭く、煌々と輝く。
あの音楽室ではおだやかで繊細な音色が奏でられていたが、曲調の違いだけじゃないのは明らかだった。
なにもかも違っていた。
音も、姿も、あらゆるすべてが。
いま響いているのは、鉛色の音だ。
刺すような重苦しさ。重く、黒く、寸分の狂いもなく刻み込まれる。
―――――音はそのひとのこころを表しているから
あれは?
あの音は?
君のこころには、なにがあるの?
あれには、鬼が宿っていた。
盛大な拍手が鳴り響く。ようやく終わった、とはならなかった。息つくまもなくふたたび手は動いた。それから彼女は永遠と弾いていた。手を止めてしまえば息絶えてしまうのだろうかと、そう思わせるくらいにあの鍵盤に食い入って、彼女の持ちうるすべてを注ぎ込んでいた。
片時も目が離せなかった。
傍観しているだけでこうも重苦しいのかと、胸が詰まった。まして、直に佇む彼女はどれほど。
でも、あれが昔からの姿そのものだったなら。
彼女が住んでいた、もうひとつの世界なのだとしたら。
俺の知らない、彼女の姿。
柳生のアナウンスが耳に入り、我に返る。多分、会場の誰もがそうだった。無理やり捩じ込ませたような差し込み方で不自然だったが、そうでもしないと彼女は止まらなかった。そう思わせる勢いがあった。
彼女が立ち上げる。余韻をあたえる隙もなく、はじけたように去っていった。
どうしようもなく嫌な予感がした。焦燥感が途端にほとばしって、勝手に身体が動いていた。駆け足で後方へと向かって、扉を開ける。あたりを見渡しながら裏へと回った。必死に目を脚を動かした。いつもならすぐみつけられるのにと、余計に焦りが募った頃には足が急に止まった。
ずっと向こうだろうと鮮烈な赤はたやすく目に入る。背中の向こうには、両手で顔を覆いかくす彼女が僅かに見えた。脆くて、いまにもくずれる手前の状態だった。震えても、いるのだろうか。
なにもせず、ただ立ち尽くす。
そうやって遠のく思考を、背後から太い声がさえぎった。連れ添うかのようにうしろめたいような遠慮に満ちた声たちも聞こえてくる。すみませんでしたと口々に出しているのからすると教員だろうか。
「今日は本当に申し訳ございませんでした」
「ヒューマンメトロノーム」懐古するかのようだ。
「え?」
「どうやら機械仕掛けは健在のようだな」かと思えば、吐き捨てられた。
教員達が聞き返しても、彼は黙ったままだった。
頭のなかで、反芻する。
ヒューマンメトロノーム
機械
曖昧で、朧気なようで、はっきりと存在し、重く、おそろしく精巧なものの正体。
石みたいにかたくつめたい彼女の横顔が、鮮明に浮かんだ。
確実に弾けたら彼女はようやく『しあわせ』を手に入れられるのだと思っていた。
「どうして弾けたんだろうね」
そうあってほしかった。彼女も、俺も、笑ってなんかいなかった。彼女から可能性を感じられないことがむなしさを際立たせていた。
どうしたら彼女がこころからよろこべる日が来るのだろう。あの重くつめたい世界を彼女がのぞんでいたとしても、そこに連れていってもいいのだろうか。寸分の違いもない精巧さで、こわれそうな要素を徹底的に取り除いた音。
「みんなのなかで私が『弾けるひと』なら、弾けない私は嘘つきだよ」
「それだけが君の人となりを判断する基準にはならないよ」
いまの彼女にこんな言葉程度じゃ慰めにもならないのはわかりきっていた。それでも、彼女の抱く価値感が少しでも翻ればと、淡い期待を込めて言った。
「いつだってみんなが私に興味をもつのなんてそれだけだった。そういう目でしか見られなかった」
彼女は過去に幾度となくレッテルを貼られ、そして受け止めてもいたのだろう。それが自分の価値を左右させる、絶対的な指針だったからだ。
彼女の言葉を否定できなかった。確かに、彼女に興味をもったのもあの音がきっかけなのは事実だった。俺も彼女を取り囲んでいた人間と変わらない。だからせめて、彼女のそばにいられる存在でありたいのに、救う術がわからない。
そうやって俺が迷っているあいだに、彼女はすでに決意を固めていた。
「もう最後にしようと思うの」
あぁ、終わるんだ。彼女が話すよりも前に表情を見ただけでまっさきにそう思った。弾き終わったあとの佇まいが物語っていた。すべてを手放して、せいぜいするといったかんじがした。彼女の演奏にどれほど賞賛を送ろうと頑なに彼女はありがとう、とは言わなかった。厳密にいえば口さきでは言っているが、おそらく表面上でしかなかった。彼女の声色は謙虚を通り越した、否定の意味をおおいに含んでいた。
「聴いてくれてありがとう」
このときはじめて、彼女は感謝できたのだと思う。
さびしかった。
ここにいる彼女が好きだった。はかなくて、消えてしまいそうにうつくしい様がこのさきみられないのだと思うと名残惜しかった。彼女がこれ以上遠くにいかないようにと手を伸ばしているのに、矛盾していても。
それと同時に、安堵もした。
これから彼女は純粋に幸福だけを享受できるのだ。彼女がここからはなれて、俺も踏み入れることがなくなって、あの黒いのにまつわるほとんどがふたりのあいだからうすれてしまえば、笑っていられる。ささやかな日常をこつこつと掬いとっては、まどろみにも浸ったようなやわらかい表情で見せてくれるのだろう。
「俺も行くよ」と言えば、「そう」彼女は瞳を伏せて、微笑んだ。
なにもかも受けていれているかのようだった。最期に向けて、すでに事は進んでいるのかもしれない。
「随分と冷えているね」
「ほんとうにね。でももう慣れちゃった」
彼女の手をとる。
まじまじと女子の手を観察したことはないけど、多分、彼女の手は一般的に比べるとおおきいほうだった。おおきく、白く、長く、細い。冷え切った、かさついた皮膚の感触が伝わった。おおきいのに、頑丈そうでもなく、むしろ弱々しくみえる。
明後日が訪れて、過ぎた後は、きっと彼女はのびのびできる。俺のわがままにうんざりする必要もなくなる。あの鋭く、重たい世界とも別れられる。
「幸村くんはあったかいよ」
ここから出られたなら、もっと。
冷えた手ではなんの役にも立たないから、ここから抜け出さなければならない。
ふたりで、一緒に。
*
乾いた空気のなか、時おり刺すような風が吹き荒ぶと流石に身に堪えた。空の色は決して清々しいものではなかったが、今日にふさわしい気がした。いよいよだと思える。
そういう気負いはあるのにどこかぼんやりともしていた。なにが待ちうけているかはあとにならないとわからない。不安とまではいかないけど、見通しのつかないのを眺めることしかできない、ああいう心もとなさが胸にただよっていた。
会場に着いた後もずっとそうだったから、読書だとかの暇潰しをする気にはどうにもなれなかった。ただ建物内でひとが行き交うさまをぼんやりと眺める。
そうやって持て余しているうちに、彼女が来た。
絶対に来るだろうと思っていたけど、ひと目姿をみれば心底安心した。
「緊張してるかい?···なんて、聞くのは野暮だね」
「ちょっとだけ···。でも、幸村くんがいてくれるから、大丈夫」
彼女は胸もとに手を置き、ほんのりとやわらかくこちらを見上げる。くすぐったさと同時に微かな歯痒さも感じた。
いたって普段のままを装おうと努めた。出来るだけこころ残りがないようにと、彼女にとっても、俺にとっても。それでも、華奢な背中を見送ったあとはどうにも引っかかった。あのやわらかさは舞台へ下りた途端に消えてしまうのだ。彼女はこれから、刺々しく、重たい世界へ踏み入れる。
控えに行った彼女を見送り、ホールの席へと腰を下ろす。前後や少し遠くのほうからちらちら、ひっそりと耳に入った。
―――――苗字名前が戻ってきた。
部のマネージャーがいつしかの彼女の姿を話していたのを思い出した。
どうやら彼女は、天才だったらしい。
初めて聞いたときは正直ぴんとこなかった。たいていそういう謂れがあるひとは、纏っているものも周囲と一線を画している(最近見かけたのだと、青学の彼や氷帝の彼だ)。
反して、彼女からは感じられなかった。彼女を見て、目立ったなにかがあるかと問われたらほとんどのひとは肯定しないだろう。あの部屋で弾いている姿も普段とは確かに違っているけど、とてつもなく際立っているかと言われると難しい。
ひとの惹かれるものが必ずしも華やかな様相をしているとはいえないし、巧みなうえに完成されているとも限らない。
けれど、海原祭での彼女を見て、瞬時に理解できた。目を凝らす必要もなく、あれは強烈に記憶に焼きつけられた。
こうして彼女の出番を待つあいだも同年代の男女が順に弾いているけど、やはり彼らと彼女とではまるで違った。海原祭でもここでの課題曲を彼女が練習しているのも聴いて同じように思うのは、いっさいのぶれがない。他と比べてあきらかに完成されていて、完璧だった。けっしてこの業界に詳しいわけではない自分が聴いても理解がはやかった。端的にいうと、彼女は圧倒的だった。
―――――あれ、座らないの?
彼女がやって来た。が、そのまますんなりというわけにはいかなかった。
椅子に座らず、ピアノの前で立ち尽くしている。会場内がざわめいた。
呆然としているのか、緊張のあまり固まってしまったか、意識が飛んでしまったのか、だいたいはそんな想像をしていただろう。
俺にはそう見えなかった。
おそらく、意識も神経もなにもかも判然としたなかであれと対面している。黒光りしている物体をなにかの怪物かと捉えているような横顔だ。身体ごと投げ出すような迫力で、睨みつけていた。
ようやく、彼女の足が動く。会場全体が胸を撫で下ろしたようだった。
彼女が一礼をして、拍手が鳴る。椅子にとんと腰をつける。一連の動作がこの場にふさわしいお手本みたいだった。
指が鍵盤に触れてまもなくだった。
あの日と同じ、空気が張り詰める。
―――――ショパン エチュード Op.25-11
エチュードは「練習曲」で、鑑賞用として作曲されたものではないというのは彼女が教えてくれた豆知識だ。
課題曲はいくつか候補があり、自分で選べるようだ。彼女の選んだものは数多あるエチュードのなかでも代表作でさらには難曲らしかった。
あそこに座る彼女はそれを意図もたやすくこなしているように見える。一寸のぶれもなく厳粛に正確無比で、これが当たり前かのように。誰も目にいれない。意識の端にすら置かない。どんな景色も映さない、そういう弾きかただ。
けれど、いつまでもつづかない。終盤に差し掛かって途端に崩れ始める。ちぐはぐなテンポになり、音ががたがたと彼女のもとからはなれていくようだった。
そうして音が止む。彼女が立って、一礼する。
―――――覚えてなかったのかしら?
―――――まさか、あの子に限って
―――――最初はよかったのにね
ぎこちない拍手が響く。
音は途絶えなかった。どうにかではあるが、最期まで音色は存在していた。
誰しもにわだかまりを置いていくような、そんな余韻を彼女の音は残していった。ある種、誰の印象にも残るような演奏だった。
かつての彼女はどんな余韻を残していったのか。そしてそれは、彼女が望んでいた景色だったのだろうか。
役目を終え、抜け出したあと、彼女はどうするのか。
つぎの奏者が舞台に立つ。拍手が鳴っても演奏がはじまっても、コンクールが終わるまではずっとそんなことを考えていた。膝上に置いていた手がいつのまにか、拳をつくっていたことにも気づかずに。
帰ってきた彼女は見るからに疲弊していた。倒れてしまいそうなところを気をゆるめないでどうにか保っているように映った。
「お疲れ様。少し休んでいくかい」
「ううん、大丈夫」
彼女がうすく笑う。そうするだけでせいいっぱいなのだろう。
おそらく、すべて終わった。
しかし、こともなく、なんてことはなかった。
ここから抜け出そうとしているのに、彼女の周囲はそうさせてはくれない。
「ロボットさんも堕ちたものね。なに?あれ」
彼女は唐突に現れた。彼女を呼ぶ声からしてとてつもなく嫌なかんじがしたけど、その通りだった。
「あなた、噛ませ犬にされたのよ」
「あんなに持て囃されていたのにあっけないものね。結局、お父さんがいないとなんにもできないんじゃない」
彼女は毒を孕んだ言葉で彼女を切り込んだ。隣で聞いているだけの自分のほうがよほど平静を保つのが難しいくらい容赦なかった。バッグを持つ手に力がこもった。
制止しようにも、切り込まれた当人がそれを阻んだ。無理矢理にでも連れていくべきだったのかもしれない。けど、彼女の佇まいを目にすればそんな気もあえなく萎んでいった。はじめのうちは彼女も動揺を押し殺しているようだったけど、それも一瞬だった。
逃げない。抵抗さえもしない。受けるべくして受けるべきといった態度で臨んでいた。
どうして。口を挟みたくなった。非難するつもりはないのにそれに近い感覚を覚えた。はやく抜け出せばいいのに、と。
しかし一方で思う。事実、あの数分間で彼女の音は虚無でしかないという定義が証明されてしまったのだとも。
「ロボットも案外、たいしたことないってことかしら」
彼女自身にも証明できたのであれば、それは本望なのかもしれない。
彼女はすんとしていた。最後には凛とさえしていた。かといって、清々しくはならない。息が詰まって、しかたなかった。
「行こっか」
ヒューマンメトロノーム
機械
ロボット
大袈裟なくらい喜び、泣くあの姿とは真逆の単語だらけだ。真逆だけど、否定できないのも事実だった。しかし舞台の彼女を見れば、認めざるを得ない。音も、その姿も、まさしくそうだ。展望のない未来を予感するかのように、胸のうちに暗がりが滲んでいく。
けれどそれももう、きっと終わるはずだ。おそらく。
*
駅前は盛んにひとが行き交っていた。雑踏のなか、目に入るあらゆるものから弾んだ空気が伝わってくる。
歩きながら、彼女は駅に入り込んだ商業ビルのディスプレイを眺めていた。
「見ていくかい?」
呼びかけたが、彼女は咄嗟に断った。
「ううん、大丈夫」
「まだ時間はあるよ」
「もう遅くなるから、幸村くんも帰らないと。それに見たら見たで…いろいろ欲しくなっちゃうから」
遠慮がちに笑う。休日は雑貨屋を見て回るのも好きらしい。彼女らしくて、いいなと思う。
「なんでもきらきらしてて、見てるだけで楽しいな」
「君にはぴったりの季節だね。なにより暑くないから」
「そ、それだけが理由じゃないよ。寒すぎるのだって苦手だよ」
「わがままだね」
「でも、冬はあったかいものを食べる瞬間が好き。ココアとかラーメンとか、肉まんとか」
声のトーンが上がっていく。
あぁ、たしかに。
「好きそうだ」
そんなときはきっと、たんまり頬を緩ませているのだろう。思わず笑みが溢れた。
「幸村くんはどの季節がいちばん好き?」
もうじき夜が深くなる。
近くの並木道のひとつひとつに電飾がこれでもかと施されていた。もうしばらくしたら灯されて、あたりは煌びやかになる。
こんな日でなければ一緒にみられたのだろうか。こんな日で、なければ。あと少しだけでも。
どことなく力ない彼女をみて、あてのない考えが胸を掠めた。
「今日はありがとう。幸村くんが来てくれて、ほんとうにうれしかった」
彼女がこちらを見上げて、そっと微笑む。
やわくはあったけど、でも、晴れやかだった。
満足な終わりを迎えたわけではない彼女のそばで俺は安心していた。今日というこの日をきっかけに抜け出せるのならそれでよかった。自分勝手だと、つくづく思う。
「俺も、ほんとうによかったよ」
この世界のなかでいいことがこのさき起こりますようにと、願いを込めた。
彼女がさきにホームへ下りて、ちいさくこちらへ手を振る。電車が動き、いよいよ見えなくなる。
彼女があちら側を向いた。僅かにしか見えなかったけど、瞬時に理解できた。あの横顔は幾度となく見てきた。
そうだ。いつだって、彼女は遠くにいた。
遠くを見て、焦がれるときはいつも、彼女はあそこに立っている。
ホームのアナウンスが鳴り、再び電車が来た。後を追うようにして乗り込んだ。
ここの青は単調ではないと、いつも思う。
波の打ちつける音とはりつめた潮の空気。すいよせられるように歩いていく。
彼女はいた。遠くにも行けず、ひたすらにもがいていた。
嗚咽の交じった叫び声。海に向かって、殴りかかるように言葉を畳みかける。全身を切り裂くような傷みが彼女を襲っているに違いなかった。切り裂き、抉り、こわしていく。顔が地面につきそうなほど、背中を丸めてうずくまる彼女は酷く痛々しく、押しつぶされそうなぎりぎりの状態だった。
「わたしには、これしかなくて、これをとったら、なにも、なにもないから」
彼女はずっとあの空間で、ばらばらになった自分の欠片を拾い集めていた。
かき集め、保とうとしてもなお、無情に零れていく。だから何度でも拾う。揃うかもわからない己のひと粒を探していく。繰り返しなんどでも、虚しさを込めながら。
憎悪を孕んでいた彼女の瞳は世界のありとあらゆるものに向けられていた。おそらく、俺に対しても。
「君にはこれしかない」
あまりにも残酷なこたえだった。
「これしかないんだよ」
きっと、この道を選ばずともしあわせを見い出せる方法は存在していた。やさしく、温い場所へいくらでも逃げる手段はあるはずだった。
なにもこれだけじゃない。
君はどこへだって歩いていける。
もしも迷うものならほかの道へ連れていってあげるよ。
そういう言葉を彼女にかけるべきだったのかもしれない。
彼女の世界にとってあれは絶対だという理屈を否定できるものなら、したかった。
「わたしは、どうしたら」
できるはずがなかった。
彼女を救うには、これしかないのだ。
「君は弾くんだ」
彼女にとって悲惨な過程をいくら踏ませるかもわからない、そんな道を歩めと言い渡した。
「おねがいだから、やめて」
彼女は全身全霊で拒絶した。俺が喋る度に脆く崩れていった。それでも俺は、声も姿も断絶したいと願った彼女に容赦なく吐きつづけた。
「弾かなくちゃいけないんだよ」
最期になんてなるわけがない。彼女はここではやすらげないのだ。ほんとうはふたりともこころのどこかで解っていた。
「幸村くんだってほんとうはわかってたくせに」
わかっていた。欠片を集めることでしか彼女は報われない。重くつめたいあの世界でしか生きられないのだと、わかっていた。
終焉を渇望して歩いていく。たとえそれがどれだけ細く、暗く、おそろしく険しい道だったとしても。はげしい痛みに精神が折れてしまっても何度でも探していく。
かけがえのないものは、なんの引き換えもなしに手に入れられるはずがなかった。
「俺がいるよ」
契約だった。彼女のそばにいるための、なんの保証にもならない契約。
こうしてしまえば、否が応でも彼女の隣にいられる。みちたりた幸福も絶望もともに味わえる。ふたりにとってよろこばしい日を迎えたいのならどちらも欠けてはならないのだから。
彼女に想いを告げることも、もう叶わない。いまこの瞬間あの黒い存在にしがみつくことしかできない彼女の存在を肯定してしまった。まるであれが彼女のすべてであるかのように。彼女をふたたびあの重苦しい鉛の世界へと戻したのは紛れもなく、俺だった。幸福とは真逆の世界。
―――――君のことが大切で、ほんとうにそれだけなんだ
わがままで、嘘つきだ。
掴めたかと思えば、遠くなる。こんなにも君の体温を感じられるのに。
俯く彼女の背後に自分の影が伸びる。背中にまばゆい光が当たっても、そこから零れ出たものが彼女を照らしても、まるで足りなかった。どれほどうつくしい光が後ろで待っていようとも振り向くことは許されない。
おおきく、白く、長く、細く、弱々しい手。この手はいつになったら彼女をあたためられるのだろう。本来なら抱きしめるべきだったのかもしれない。けれど、彼女を深い底へ突き落とした自分にそんな資格なんてあるはずがなかった。
はかなくて、さびしくて、あかるい、あのうつくしさをこれからも見られるのだと思った自分なんかに―――――
「まだ、ここにいるから」
せめて手をとることだけは許してほしい。彼女が生きるためには、この手を守らなければいけないから。
世界が色をうしない、夕闇に沈んでいく。ざらついた匂いが全身に流れ込む。この匂いだけはこのさきずっといつまでも、指から足の爪のさきまで染み渡っていてくれたらと思った。
今日というこの日をけっして忘れないように。