おかえし

鞄を開き、なかに入っている袋を見つめて、重いため息を吐く。繰り返してもう六回目くらいだろうか。


『幸村君の靴濡らしちゃった事件』から中一日が経った今日。彼から借りたタオルを返さないといけない。
袋のなかにはお詫びの印として、ほんのちょっとしたお菓子と謝罪の手紙を添えている。ブン太に話しかけた時もこんなことしてたな、と思い返した。けれど、こころ持ちとしてはあのときよりもずっと重苦しい。
ブン太とは同じクラスだけれど、幸村君は別クラス。無駄に人見知りな私からすると、別の教室に入るという行為だけでも緊張してしまうのだ。彼がいる教室、というの場面そのものがぐんとハードルが高い。休み時間の度に教室を覗いてみるも、『みんながいる前で彼に話しかける』場面を想像しただけで、ぐったり気が重くなる。


「幸村君、学校帰りにデートしてたって」
「えっ、うそでしょ」
「焼き鳥屋に女子と入ってたってきいたよ」
「それならもっと噂になってるんじゃない? マネージャーとかじゃないの?」


ほんとすみません、それ私なんです。

休み時間にひとり本を読んで過ごしていた隣で、女の子たちがやや浮きだって話していた。会話が耳に入ってからは全く活字に集中できず、たらりと冷や汗まで流れていたような気がする。
もしその女子とやらが美人だったりしたら、とんでもなく噂は広まっていたのだろう。自分の存在感のなさをここまで感謝した日はない。
彼の靴を台無しにした報いに焼き鳥のクーポンを使った結果があれなだけなんです。と、言いたくなる。言えないけど。
実際のいきさつはなんともぐだぐだだ。あのときは罪悪感いっぱいで『わー幸村君とデート気分♡』には到底なれなかった。彼のファンならそんなシチュエーションでもうれしいのかな。

とにかくそんな噂が出始めている段階で『この前はどうもありがとう』とか言って彼に声をかけたなら、それこそ変な噂が広まるんじゃないかと恐れるあまり行動に踏み出せないでいる。彼への感謝よりも、保身を優先させている自分に呆れた。

クラスメイトと談笑したり読書をする彼を教室の外から覗いては、なにかと理由をつけて踵を返すを繰り返した。




諦めかけていた矢先、意外にもそのタイミングはあっけなく訪れた。
部室がある海林館へ向かう彼が、ひとりで歩いていたのだ。周囲にもそこまで生徒がいないのがさらに幸いだった。

「あの」と声を掛ければ、あぁ、あのときの、と言いたげな、もう顔見知りだという面持ちで彼はそっと笑いかけてくれた。

「この前は···ありがとう」
「どういたしまして。もしかして教室に来てたかい?」
「えっ」

思わず声を上げる。ちらちら教室を覗いていたのがばれていたのだと思うと、少し恥ずかしい。

「ごめんなさい、タイミングが掴めなくて」
「気にしなくてもいいのに」
「その、返すの···遅くなってごめんなさい」
「むしろ早くてびっくりしたよ」

快くにっこりと受け取る彼を見て、やっとひと仕事が終わったと心底ほっとした。
彼が海林館へと向かっていくのを軽く会釈して見届けて、私もその場を去った。

匂いもきつくない柔軟剤使ったし大丈夫なはず。と、多少の心配はありつつも、やっとお返しができた達成感に浸りながらその日は帰っていた。

これでもう、終わりだと思っていた。


*


「苗字さん」


翌日の放課後、二号館付近にある花壇へ寄り道していたとき。
私の名前だと理解したのは、数秒遅れてのことだった。そんな透明な声で呼ばれた経験がないためか、頭がうまく反応してくれない。

彼に明確に呼ばれたのは、たぶんいまが初めて。驚きつつも、あの日と違って怯んだりはしない。

「ちょうどよかった」と、彼は小さな袋をバッグから取り出した。私の前に差し出され、固まってしまう。

「昨日のお返し」
「え?」
「お菓子も一緒にくれたよね?」
「···えっ!」

透明な袋にはティーバッグが詰められていた。パッケージの色味はどれも違っていて、テイストが複数あるようだ。海外製なのか何味なのかはぱっと見では読めないけれど、上品そうなものというのはそれとなくわかった。

「普段紅茶は飲むかい?」
「うん、好き···」
「それならよかった」
「で、でもそんな、わざわざ···私、家にあったお菓子詰めただけだから」
「俺も家にあったのを詰めただけだよ」

普段からこんな良さげなものを嗜んでいるとは、彼らしい。

「昨日、くれたお菓子と一緒にここに詰めた紅茶も飲んだんだ。君にも飲んでほしいな」

そんな言いかたをされてしまうとお断りはできず。こくりと頷いて受け取れば、彼はにっこり微笑んだ。最近、相手からの厚意は素直に受け取ったほうが互いにいいのだということが、わかった気がする。
先日彼にあげたお菓子はマドレーヌとかクッキーだった。偶然とはいえ、紅茶にあうチョイスでよかった。(おかきも家に常備されているけれど、彼とどうしても結びつかなかったのでやめた)

「結局またお返しもらうことになって···ごめんね?」
「先に言っておくと、このお返しのお返しはなくて大丈夫だからね」
「うっ」

またなにか返さねば、という考えは既に読まれていた。

「ありがとう···大切に飲むね」
「うん、それだけでじゅうぶんだよ」

幸村君はとことんできたひとだ。

「あんなに丁寧なお詫びの手紙も初めてもらったよ。ちょっとびっくりした」
「もっといろいろ書きたかったんだけど、長すぎてもだめかなって···」
「かなりの誠心誠意が伝わったよ」
「ほんとうに?よかった…」思わず胸に手を当てた。
「次はもっと、違う内容だと嬉しいな」
「?それって···?」
「例えば···ラブレターとか?」
「へっ!!?」
「ふふっ、ごめん。冗談だよ」
「そ、そうだよね···あはは」
「···半分ね」
「···へっ!!?」
「あ、また同じ反応した」
「だだだって···!」

焦る私をよそに彼はただ優雅に笑っていた。それこそ、冗談だよ、で終わってほしかったのに。
幸村君は案外ユーモアのあるひとだ。笑えない類のものではあるが。

「ここにはよく来るのかい?」
「わりと···あのとき以来、気になっちゃって」
「そっか」
「その···」
「?」
「幸村君がちゃんとお世話してるって知ったからかな···この間も言ったかもだけど、みんな前よりも元気そうだし···みてるだけで癒されてね」

二号館の隣の花壇に寄る。これもひとつ、立派な習慣になっていた。
きっかけはあの日この花壇で出会った彼のおかげだと、はっきり言える。
花壇が壊れたために植え替えをしたばかりの頃は心配なのもあって、どちらかというと経過観察のように立ち寄っていた。でも、彼が顔を綻ばせながらこの子たちの様子を話しているのをみてからは、自分の目には花壇がさらに彩り豊かに映った。

「それに···幸村君を思い出して、不思議な気持ちになるの」

慈しむような、彼の瞳。水やりや、誰も知らないところで手入れをしているときの彼も、きっとそういう顔をしているのだと思った。

「なんだかくすぐったいな」

彼が口元に手を当てて微笑った。眉はやや下がり気味で、言葉通りの表情だ。じわりじわりと自分の台詞を思い返し、ぶわっと顔が火照り始める。

「ごめんなさい。なんか、その、すごい気持ち悪いですよね。でもその、決して変な意味じゃないというか、つまり、花が綺麗でいいねって言いたかっただけで···!」
「いいんだ、そう言ってもらえてうれしいよ」
「も、もう幸村君を思い出さぬよう努めますので」
「それはそれで寂しいなぁ」

どこまで本気なのか。
くすくす笑い、幸村君は一緒に帰ろうと促してくれた。
ぱたぱた掌で顔を仰ぎながら彼の隣を沿って歩いていく。そんな様子を彼はおかしそうに見てくるので、なかなか熱は引いてくれない。

「部活にはなにか入っているのかい?」
「ううん、なにも」
「こんな時間まで残っているんだね」
「放課後はひとりでいるのが結構好き、かな」

厳密にいうとこの花壇を眺めるよりも前に、二号館の音楽室Aでピアノを弾く、という習慣がこびりついている。わざわざ言ったところでと思い、口を噤んだ。

「屋上庭園には来たことがあるかい?」
「一回だけなら」
「今度来てごらんよ」

彼が屋上庭園の花たちの世話をしているのは有名だった。

「うん、また覗いてみるね」

と言えば、それなら、と彼は続いて

「明日の昼休みはなにか用事とか…あるかな」
「?特には···」

「ならちょうどよかった」と、満足げに笑う。「明日、待ってるから」

互いの別れ道に差し掛かったところで、彼は私の顔をしっかりと見つめて微笑んだ。
私は反射的に頷いて、幸村君とは手を振ってバイバイした。

しばらくぼーっと彼の小さくなる背中を見て、この時ようやく幸村君と約束を交わしたんだと自覚した。
ついてっきり『近いうちどこかのタイミングで屋上庭園も見ておくね』という会話で終わるつもりが、こんな形になるなんて。

ふわりと、浮いたような心地になっている。
彼とまともに会話ができていると気づいたのは、だいぶあとのことだった。


*


ここへ来るのは、入学当初に校内を散策したあの頃以来だ。

ほんとうは二度訪れたことがある。ただあの一回は一瞬しかこの場にいなかったので、カウントしていない。
女の子と幸村君が向かい合い、なにか話していたのを目にして、すぐに去ったのだ。変な勘が働いて、ひとり気まずくなった。もしかしたらと思った予感は当たってもいたし、外れてもいた。次の日からしばらくしても、なんの噂も立たないことから、彼女の想いは届かなかったのだろう、という意味では外れている。
ここへ寄ればあの場面にいくらか遭遇するのかと思うと気分があまり乗れず、避けるようにしていたのが正直なところだった。


花壇の前にしゃがんでいる彼の後ろ姿が見えて、隣へ音を立てないよう座り込んだ。なるべく邪魔をせず。

「来てくれたんだね」
「幸村君、早いね。昼休みは毎日きているの?」
「ここには朝にくることの方が多いかな」
「すごいね、朝練もあるのに」
「美化委員のひとがしてくれてるのは知ってるけど、見てるとつい手を出してしまってね」

彼は立派なハサミを持っていた。花びらを切り落としているみたいで、落ちている花びらはどれも枯れている。

「枯れてるけど···せっかく咲いてるの、切るのもちょっともったいないね」
「俺もそう思うときはあるかな。でもこれをしないと他の花が綺麗に咲かないんだ」
「え、そうなのっ?」
「ちゃんとした栄養が他にいかなくてね」
「知らなかった···」

少し隣のほうで咲いていた黄色やオレンジの花を眺めていたら、彼に「好きなのかい?」と訊ねられた。暑い日差しに燦々と色づいてるイエロー達がとても映えている。それらはマリーゴールドらしく、聞き覚えのある名前なのにどんな見た目かも知らなかった。一般的な花なのだろうけれど、そんな知識すらも乏しくて少し恥ずかしくなった。そういえば、二号館隣で咲いている花たちの名前も全く知らない。

「全然知らなくて、ごめんね」
「気にしなくていいよ。それに俺でよければ教えるから」
「そんな、いいのかな」
「いつでもおいで。よくここにいるから」

彼ならとてもいい先生になれそうだ。

「苗字さんが好きなものも知りたいな」
幸村君がハサミを置いた。伺うような視線と交わり、まさかそんな質問がくるとは思わずやや戸惑う。

「え、えっと···料理は最近初めて、ちょっと楽しいかもって思ってる」
「へぇ、すごいね」
「全然···普通のしか、作れないんだけどね。あとは、本読んだりとか音楽聴いたりとか···」
「どんなのを聴くんだい?」
「流行りの曲は知らなくて、クラシックとかピアノがほとんどなの」
「クラシックなら、俺も少しだけ聴き始めてみたよ」

面白みのない内容だと自分でも思うが、ぽろぽろと引き出していくように彼が続けてくれて、うんうんと話を聞いてくれる。会話を広げるのが下手な自分にも静かに寄り添ってくれるから、心地よかった。

「あ、あとは、甘いものも好き」
「お菓子も作るの?」
「いや、食べるの専門でして···」
「ふふ、そうなんだ」
「だからその、買い食いも最近好きになった、かな」
「学校帰りとか、ってこと?」
「えっと、ブン太のこと、知ってるよね?」
「うん」
「ブン太とは友達なんだけどね、たまに放課後スイーツ食べに行ったりして···。もともと甘いのは好きだけど···ブン太と一緒に食べたほうがずっと美味しい気がするし、楽しいから好きなの。この前もパフェでお腹いっぱいになっちゃってね、」

あの時のブン太もトッピング増し増しにしててすごかったなぁなんて思い出していたら、隣からぐっと視線を感じた。彼が不思議そうに見つめていたから、はっと我に返る。

「ごめんなさいっ。べらべら話しちゃって、ありきたりだよね···。幸村君みたいに、もっとちゃんと趣味っていえるものがなくて」
「そんなことないよ。さっきの君、いきいきしててよかった。どれも苗字さんらしくて素敵だと思う」
「素敵だなんて、そんな···」
「君も俺のこと、そう言ってくれたよね」

彼が向けてくれる微笑みと言葉に、胸がそうっとあたたかく撫でられる。気恥ずかしくなって、顔はちゃんと見れなかったけれど。

幸村君は、とてもやさしいひとだ。きっと誰しもが懐柔されるのだろう。

「このあたりのお店にはよく行ってるんだね」
「でも、まだまだで。ちょっとずつ、開拓してるところ」
「俺にも教えてほしいな。寄り道はあまりしないから詳しくなくて」
「それなら···学校近くのパン屋さんがお気に入りなの。どれも美味しいけど特にりんごデニッシュが好きでね、あとはあのカフェのパンケーキとかも」
「ほんとうに甘いものばかりだね」くすり、と笑う。
「えへへ···今度時間あったら、行ってみてね」

幸村君が視線を少し逸らして「うん···」とさっきまでとは違う、どこか歯切れの悪い返事をした。
「少し、言いかたが悪かったかな」と独り言のように呟いた。

「今度、一緒に教えてほしいな」
「···えっと、」
「君に連れてもらいたいってこと」

とくんと、胸が弾んだ。

「私で···いいの?」
「もちろん」
「まだよくわからなくって、きっとブン太のほうが詳しいけど、」
「苗字さんが好きだと思ったものを、もっと知りたいから」

微笑う彼は、やはり綺麗だ。
前とは違って、なん枚ものフィルターが取れたように映る。

彼の笑みが美しいことには変わりないのだけど、あのときいまより特別遠いひとで、綺麗なひとがただ綺麗に笑う光景を、ぼんやりと下から眺めているようだった。
でも、いまはこんなにも近くて、隣で寄り添ってくれている。私の目線に合わせてくれている。
私が遠ざけていたのを、彼から近づいてくれている。

「私も、幸村君が好きなもの···もっと知りたいな」

予鈴が鳴って、どこかこちら側の世界に引き戻されたかのように感覚が戻った。「もうそんな時間か」彼も同じように感じていたのかもしれない。

「今度、一緒にね」

立ち上がった彼が手を伸ばしてくれた。彼の手をとって、私も立ち上がる。細くて綺麗な指。
「暑いのにごめんよ」と言う彼に首を振った。

日差しは強く、僅かに汗ばんでいた。それでも不快ではなく、むしろあたたかい。
今度、いっしょに。ただうれしかった。



「俺のこと、もう怖くないかい?」
「う、うん。いまはもう···」
「ならいいのだけど。あの手紙を読むとまだそうなのかなって思ってしまったよ」
「えっ。そんなつもりはなくて、ただ謝りたかったんだけど···そんなにかな?」




『この度は貴殿の靴を濡らしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。ご不快な思いをさせ並びにご迷惑をおかけしたこと心よりお詫び申し上げます。今後はこのようなことがないよう十分注意して参ります。何卒ご容赦くださいますよう申し上げます。』




「もうちょっとカジュアルなくらいでいいと思うな」
「結構頑張ったんだけど···」
「なかなか面白かったよ」
「ええっ。それってほんとに伝わってる···!?」

  

神さまの通り道

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