つめたい風が幾分涙を乾かせてくれた頃合いのことだった。
「立てるかい」
彼の言葉におぼつかない足でこたえた。膝に砂がへばりついていたが、払うのも億劫だった。
ほんの僅かに力をいれて彼の手をほどこうと思ったけれど、そんな意図を阻むかのように彼もまた握る力を込めた。私はどこかへ逃げると思っているのだろうか。彼の手を払ってしまうかとも一瞬過ったが、煩わしさが先に立って、されるがままになった。
並んで歩いていく。なにも反射させない黒々とした波と、足跡さえも判別のつかない暗い砂浜が、平静をもたらしてくれる。
ざらついた掌では彼の感触も、どれくらいあたたかいのかもわからない。私は俯いていた。きっと彼はまえを向いているだろう。湿った地面を擦る靴音と潮の砕ける音だけを耳に入れ、黙々と歩いていく。
「送るよ」
海岸につづく階段を上がったところだった。予測していたのか「暗がりは危ないから」私が断るより前に彼がそう言った。彼には遠慮を受けとめる気のない頑なさがあって、無言のままなかば連れ添うようにして一緒に足を進める。手も、はなしてくれない。
海のおかげで冷静にはなれたのに、頭を回転させようとしても煩雑な考えしか浮かばない。泣きすぎたせいで頭はがんがんするし、両目は痛く、口のなかは乾ききっていた。思考も体も正常に機能していなかった。それからも彼とはひとつの言葉も交わさなかった。
ちゃんと手を繋いでいるのに、ひとしおわびしさが迫ってくる。
自宅に着くと、ようやく彼が手をほどいた。
ぽつぽつと光る街路灯が私たちをぼんやりと照らす。おぼつかない視界のせいで彼の表情は判然としない。
こんなとき、なんて言えばいいんだろう。ありがとう。ごめんなさい。さようなら。それとも。
沈黙が下りる。
「あの」
言いかけたところで、彼の手が伸びた。瞼の端へ確かめるように触れられる。彼の指さきがつめたくて、反射的にきゅっと目を瞑る。指の背で撫でられたのがわかった。やさしくひと撫でした後、頬のうえをすべった。
私の苦手な、見たくなかった瞳。
「ちゃんと冷やすんだよ」
叫びだしたいほど、せつなくなった。これ以上ないくらい溢れたのに。
「おやすみ」
海で見た険しさなど微塵も感じさせなかった。努めてそうしようとしているのがわかった。そういうやさしさが、嫌になる。やさしく微笑うくらいならそんなにもさびしい声で言わないでほしかった。
なにか返さないと。駆り立てても、ひとつでも言葉にしたら止まらなくなりそうで、固く唇を結んだ。彼が後ろを向いた後も眺めることしかできない。せめて背中が見えなくなるまではと思ったのに、それさえも耐えられなくなって、とうとう顔ごと逸らした。感情が否応なしになだれこむ。
いまはなにも考えないほうがいい。どうしてこんなにも締めつけられるのかなんて、知らなくていい。なにもなくていい、いまだけは。
扉を開き、一直線に自分の部屋へ駆け込む。ベッドに身を投げて、瞼を閉じた。
*
窓から差しこんだ、床に映る四角い斜めの光をぼんやりと眺める。
目覚めたら、朝だった。
といっても時計を見やれば、昼になる手前のぎりぎりの時刻を指していた。随分と長いあいだ眠っていたみたいだが、やけに身体が堅苦しい。それもそのはずで、身につけているのが制服のままだったのでぎょっとした。なにも被らず倒れ込むように寝ていたはずだけれど、いまは掛け布団や毛布やらもきちんと身体の上にある。私の後に帰ってきたお父さんが無理やり被せて、ベッドのなかに強引に潜り込ませてくれたのかもしれない。そんな記憶もまるでない。
スマホの通知欄を見ると、安否確認のメッセージが等間隔でたくさん来ていた。これにもまたぎょっとしつつも、ほっと安堵の息が零れた。あんな状態をまともに見られていたらそれこそほんとうに心配されたに違いない。根掘り葉掘り質問攻めにされるに決まっている。結局今夜には聞かれるのだろうけど、それらしい理由はいまからならなんとか作れる。昨日の私ならそんなことを考える余裕もなかった。
重たい足でキッチンに向かい、冷蔵庫を開いてみる。なかには白い箱がでんと構えていた。
あぁ、そういう日だったなと、ぼんやりと思い出す。お父さんがせっかく取りに行ってくれたのに。
「······謝らなくちゃ」
リビングにぽつりと響く。
潮の香り、波のうつ音、刺すように冷えた風。
じわじわと胸の奥から湧きあがり、身体じゅうへと広がっていく。
あのひとは、あれからどんなふうに過ごして、どんなことをおもっていたのか。
時間が経つにつれて、頬に流れたあの冷たさが熱を帯びはじめていた。そうして幾度も思い出していた。身体をおきざりにして、記憶を飛び越えて、飽きたらずにあの波打ち際を訪ねていた。
「ただいま。あぁ、名前、もう体調は大丈夫なのか····って、えぇっ!?」
「おかえりなさい」
「ちょ、なにしてるんだ···!」
「え?やっと乾いたから畳んでただけだけど···」
「そうじゃなくてだな!」
お父さんが仕事から帰ってきて早々、私を見るなり慌てふためいた。
ベランダのドアを全開にして、そのすぐ傍で洗濯物を畳んでいたことにびっくり仰天しているようだ。
「こんなに寒いのに風邪でもひいたらどうするんだ」
「そんなにやわじゃないよ。換気もできるしちょうどいいじゃない」
「とにかくなにかあったらいけないから、はやく閉めなさい」
「はいはい」
「はいは一回」
「はぁい」
「お風呂、もう湧いてるから入ってきて」それらしいことを言って、やんわりと追い払う。薬は飲まなくていいのか、とか、ゼリー買ってきたから食べなさいとか、だからはやく閉めなさいとかいろいろ言われたけれど私も負けじと言い返した。ちらちらこちらを見ながらもしばらくしたらあちらへやっと行ってくれた。あいかわらず度がつくほどの心配性だ。
ぜんぶ畳み終わったら閉めようかと思ったけど、やっぱりハンカチのアイロンがけまで終わったら、ということにした。聞き分けの悪い自覚はある。
ぱたん。最後のズボンを畳む。窓枠越しに空を見上げる。
昨日とは違い、暗い藍色の空は雲ひとつない。目を凝らせば数粒の星がぽつぽつと輝いている。あの日の空は雲が多くてどんよりとしていた。つめたくしみとおる空気と、静寂な夜。
こんなふうに思い出す日が延々とつづいた。
いま感じられるありとあらゆるものから、たぐり寄せるように思い起こした。なるべく鮮明になるようにと、限りなく近づいてみた。毎日そんなことを、おまけに一日のなかでなんども繰り返していた。
つめたい水に触れたとき。厳かな空気が肺に入り込んだとき。
その瞬間にもなると、特に、あの記憶が鮮明におしよせた。
そうでなくても、拭き掃除しているときや編みものをしたり、宿題をしているときだって、そのときほどはっきりではなくてもふいに思い出すので、つまるところ一日じゅうかもしれない。
潮の香り、波のうつ音、つめたい風、真っ暗な空、闇に映える海、湿った砂の匂い。
そして、彼の表情と、声、手、言葉。
あのどうしようもない苦痛をふたたび味わいたいわけではないけれど、それ以外なら、もし戻れるのならもういちど溺れてしまいたいと、都合のいい考えを巡らしていた。
夜の眠るときも、海の匂いがした。はじめて彼と海へ訪れた放課後と似ているが、ここなん日かはいっそう濃くただよっていた。匂いとともに沈んでいく。ふかい場所へ沈むけれど不思議と怖くない。ふかいのに、あたりはどこまでも透きとおっているからだろうか。
―――――ずっと待ってる
いっそ底にたどり着いて、このまま覚めてしまわないほうが―――――
毎晩毎晩そこで意識が途切れた。瞼を開いたときには、心地のいい浮遊感が纏わりついていた。
気だるい頭でカレンダーを眺める。
明日はついに、始業式だ。
*
そわそわしていたものの、そうかんたんに巡り会えるわけでもない。意外にも学校というのは狭いようで広い。廊下で彼がいるのを見かけたけれど、でもそれだけ。気落ちする思いと安堵とが同時に舞い込んできた。
でも、もしかしたら、あそこへ行けば。
校長先生の話を聞いているあいだも、頭のなかはあの部屋のことでいっぱいだった。
渡り廊下を歩き、二号館へと進んでいく。階段を上がり、突き当たりの最奥の部屋まで歩いていく。
扉を開く。広い教室にぽつんと立つ、黒いグランドピアノ。二度と来ないと思っていたのに。あのときまでは、そのつもりでいた。
丸井くんに聞いたところ、今日の部活はミーティングだけではやく終わるらしい。はやく、というのはいったいどれくらいなのだろう。
ピアノに添えられた椅子に座り、時計を見やる。誰にも急かされていないのに焦らされているような感覚が襲って、両手を重ねるようにして握りあう。膝元をみては扉を眺める、を交互に繰り返した。
来るなんて保証はどこにもない。来なかったとしても、がっかりしてしまうのはお門違いなのも分かっている。
けれどもし、もし彼が来てくれたならと、そうであってほしいと願わずにはいられなかった。
(自分から誘えばよかった······)
時計を見て、どっしりとしたため息をつく。萎みはじめていた気力がますますふやけてしまいそうだ。
長い。思っていたよりも長い。
新刊とか持ってきたらよかったかな。いや、そもそも待つ前提でいるのがだめなのか。部活に入ったことがないから分からないけれど、ミーティングってそんなに話すことがあるのかな。
あと少しもしたら、午後を回りそうだ。
そもそも来る保証なんてない。彼はとっくに帰っているかもしれない。校門で待っていようかとも思ったけれど、きっと彼のそばにはテニス部のみんなも必ずいるだろうから、そこで彼に話しかけるのは躊躇ってしまう。なら場所や時間を決めて、わざわざ約束をとりつけてまで話すほどの内容を準備しているかと言われるとそんなこともない。
できることなら、彼とふたりきりで会いたかった。
自分のおもうことと相手のおもうことが、かっちりとはまるほうがかぎりなく奇跡に近いのに。いまだに他力本願な自分に嫌気がさす。
はぁ、と、なん回目かのため息を吐く。お腹も空いたし、もう帰ろう。
明日はちゃんと自分からいこう。決めたのだから守らなきゃだめだ。逸らさないって、決めたから。
立ち上がったときだった。扉が開く。
黒い鍵盤を隔てた向こうに立っていた。何度も思い出した、あのひとだ。
「幸村くん」
やけに上擦った、弾む自分の声におどろいた。ヒーローショーを観て、興奮しているときの子どもみたいだ。
自分から歩み寄ったのは少しだけで、そこからは石みたいにぴたりと固まってしまった。ただ立ちすくむ私に向かって、彼がこちらへ歩いていく。
あんなにも会いたかったはずなのに、どうして俯いてしまうんだろう。自分の声があんまりにも情けなく、恥ずかしかったこと。押し込めていたものが溢れてきそうで、堪らなくなったこと。短い冬のあいまにずっと追いかけていた記憶のなかでしかなかった彼が、ほんとうに目のまえにいること。余計な感情がいっぺんに駆けあがってくる。
「........ごめんなさい。その、いきなり···叫んで」
古びた床の模様と彼の上履きが見える。
「あけましておめでとう」とてもやわらかい。
「あけまして、おめでとう」かんたんな挨拶でさえ忘れていた。
「いつまでそのままでいるつもりだい」困り気味に、揶揄うようなトーン。
「あの、その」そわそわして、ばくばくする。
耳もとの髪がさらりと揺らいだ。今度はつめたくない、彼の体温が頬に伝わる。
「見せて」
胸が高鳴る。彼の手つきのほとんどは慎重で、やさしすぎるほどだ。くずれおちた私の手を繋いでいたときのあの握りかたが嘘みたいだ。どちらにもいえるのは、どうであれ私は彼から逃げられないということだ。彼はいまもこうして頬を添えているだけで、いともその手をかんたんに振り払えるはずなのに、魔力にかけられたみたいに身動きがとれなくなる。不思議で、おそろしいひとだ。
「あのときとても腫れていたみたいだから…心配だったんだ」
よかった、と彼が言う。
大袈裟なくらい安心したようすに息が詰まりそうになる。そんな顔をされると、どうしていいかわからなくなる。
「ちゃんと冷やしたから」
「よくできたね」
「そんな···子ども扱いしなくても」
「ごめん」くす、と微笑む。
「あのときは、ごめんなさい」この言葉が、正解なのだろうか。
「もう、大丈夫かい?」
目の奥が痛んだ。
『なんともない』だとか『気にしないでいい』と言われなかったのが、とてもうれしかった。
あの日のことをなんてことがなかったようなふりをしないでいてくれたことに酷く安心できた。彼の記憶にも残っているなら、私と同じように思い出してくれたのかと、うぬぼれていられる。彼のなかに残っている記憶の断片は微々たるものかもしれないが、それでもいい。ほんの一瞬だけでも同じことを思っていたのだと勘違いできるから。
「おかえりなさい。ミーティング…長かったね」
「引き継ぎの準備だったり、いろいろ込み入ってしまってね」
私はなんども思い出した。声も、言葉も、あの景色も。辿り着きたくてなんども繰り返した。
あなたはどれほど、思い出してくれたの。
あなたのなかに、私はどこまでいるの。
聞きたくてしかたがないのに、そんな勇気はまるでない。
ふと彼が黒い天板へ手を伸ばし、流れるように手を滑らせた。「なんだか随分と、おおきくみえるね」改まって確認するかのような口調だった。そのまま彼がとんと椅子へ腰つけた。
「おいで」
ここ、と、彼が合皮にとんと手をつけた。身体が横へずらされて、椅子にはちいさなスペースが出来上がる。固まっていても彼はこちらを見つめるだけだった。マイルドな無言の圧力に負けた私は降参したような気分で、おずおずと彼の隣へ腰掛ける。
「せ、狭くないかな?」
「気にしてないよ」
「···でも、やっぱり私は立ったほうが、」
「いいから」
彼特有のこの有無の言わなさはちょっとだけ苦手だったりする。
ぎゅうぎゅうで、少しでも膝の間に隙間をつくろうものなら上半身がよろけてしまう。向き合うのも緊張するけど、横並びにいたって同じみたい。
「もしかして、ずっと待っててくれたのかい?」
「···その、そうでもあるというか、そうじゃないというか」
「どっち?」
下を向いて挙動不審になるのを、彼は面白可笑しく覗きこむように伺ってくる。
彼は、意地悪なひとだ。
もしも、と、か細く呟く。
「···幸村くんが、もしも···来てくれたらいいなって、思って···」
「なるほどね」上機嫌な声だ。最初からそう言えばいいのに、と言われているみたいだ。頬に熱が集まっていく。
「ここにいないなら、帰ろうかと思ってた」
「もう帰ってるかと思ってた」
「君をみつけるのは得意なんだ」
「あんなふうにはもうならないから、大丈夫だよ」
あまりにみっともない姿を彼に晒したのだ。彼の前では綺麗なままでいたかったのに。ときどき彼のみつけるタイミングはよろしくない。
「君の大丈夫は信用できないな」
「ふりでもいいから信じてくれたらいいのに」
「でも、あのままでいてくれたほうが好都合かもしれない」呟くようにそっと。「でないと、君のもとへいく理由ができないから」
したくても、できない。そういう言いかたにも聴こえる。
「幸村くんって、しつこいほうなのかな」
「案外いうね」
「近くは好きだけど、慣れないから」
「確かに君はなかなかこっちをみてくれないね」
「うんざりしてる?」
「うんざりはないよ。不満とかはないけど、そうだな。強いていうなら、もどかしくなるときはある」
私の手に、彼の手が重なった。あの日に比べればまだあたたかい。いつもラケットを握っているからだろうか。彼の掌は私よりも固い。
「いつだって前だけを向いていられたらいいのにな」私は断ち切ることができなかった。
「そのときは俺が引っ張りだしてみるよ」あの夜の海のように。
「物騒な言いかた。幸村くんは、なにかと強引だよね」
「知らなかった?」
こわかった。このまま惹かれていったなら二度と覚められないかと思うと、どうしようもなく不安だった。
一度魅せられたら後戻りができない。彼を好きになるということは、そういうことだ。届かないとわかっていても。もう遠くのひとではないけれど、やはり彼は遠いのだ。
そう頭ではわかっているのに止められなかった。幸村くんはきらきらした世界に連れて行ってくれたけれど、それだけじゃない。彼といるから、せつなくて、無性にくるしくなって、どうにもならないことだってたくさんある。
「ねぇ、幸村くん」
「なんだい」
「私はこれからも弾くね」
彼の手の上に私の手をそっと重ねた。彼の手の甲は骨張っていて、なめらかだ。
「どうしようもないって解ってる。でも、やっぱり向き合いたいって思ったの」
あまりにも強引でむごいものだったけれど、あれこそが私の待ち望んでいたものだった。どうあがいても拒絶できないことを私なんかよりもはるかに彼のほうが知っていた。
こたえは出ているはずなのに、どっちつかずな素振りをしている自分に『弾くんだ』と彼は言いはなった。もう弾いてはいけないと思っていたのに、そう言ってくれた。あの瞬間、ほんとうに許してもらえたような気がした。なにも生み出せず、なにも残せないままでもいいから、それでもいいと。
道しるべをつくってくれたこのひとにお返しがしたい。
与えてくれたものに比べれば、とんでもなくちっぽけなものだ。それでも、紡げるかわからないそんな
「だから、頑張るね」
隣で彼が頷いた。
「いつでも待ってるよ」
すいこまれそうなまなざしに縛りつけられそうになる。口だけならいくらでも言えるものだとわかっているのに、涼やかで透明な声は本気で信じてしまえるほどの説得力を含んでいる。
「幸村くん、飽きるかもしれないよ。待ちすぎて、そのうちきっとくたびれるかもしれない」
「どうだろう。よほどのことがないとそうはならないと思うけどな」
「またふらふらするかもしれないし」
「みつけるのは得意だって知ってるだろ。うんざりもしない」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「やっぱり幸村くんはしつこいんだね」
「諦めが悪い、のほうがいいのだけど」
「どんなことでもね、変わるってきいたこと、ない?」
「変わる?」
「いつもね、どんなことにも絶対はないって思うの。ひとも、ひとのこころも変わるよ。いつ弾けるかも確かにあとにならないとわからないけど、そうやって待ってるあいだになにも起こらないとも限らない」
絶対はないけれど、これが果てしなく遠い道だというのは間違いない。私が音を取り戻せる保証などどこにもないのだ。もしそっぽを向かれてしまったら、愛想を尽かされてしまったら。想像しただけでもおそろしくなる。
「君がうんざりするくらいみつけてしまうだろうから、不安に思わなくていいよ」
どうせこの想いは届かないのだから、彼がどこへ行ってしまっても、私のもとをはなれても別にいいはずなのに。欲張りな私の悪癖を彼はまだ知らない。
「君を信じるって決めているんだ。強制されたわけでも君をなぐさめるためでもない。これは、俺の意思だって断言できる」
真に受けてしまう私の愚かさも、彼は知らない。
「変わらないものだってあるよ、きっと」
「変わらないもの、」
「···たとえば」
彼が私の手を握った。
「いつになっても、なにより隣にいたいのは変わらない気がする」
しっとりと含んだ、こまやかな響きだった。
やさしく細められた瞳に、息ができなくなる。彼とみつめあっているだけで、とくとくして、くるしくって、たまらなくなる。このまま沈んで、覚めないほうがいっそのこと楽なのだろうか。
「あの、幸村くん」
私もほんとうは、彼のそばにいたい。もっと近くで、と何回でも願ってしまうのだ。
ぐうううううう
「······」
「······」
「······ここここここれはですね!あの、なんというか···!」
「待たせすぎたのはあやまるよ」
「ちちち違うんです!いや、違わないんですけど···!」
「分かりやすいのは苗字さんのいいところだね」
耐えきれず、自分の顔を両手で覆い隠す。彼の盛大に笑う声がすぐ隣から聞こえて沸騰しそうだ。そんなに笑わなくてもと言いたくなるけど、返す余裕もない。
(でも、危なかった···)
あとちょっとで零してしまいそうだった。馬鹿正直に口から出してしまうのも、私の悪い癖だ。
「せっかくだからどこか寄っていこうよ」
「へ?」とぽかんとしているまえで、
「俺もお腹が空いたところだったし、ちょうどいいかなって」さっと鞄をかける。
はやく行こうよと彼がこちらを振り向いて扉に手をかけるので、私はいそいそと後をついて行くしかない。
「苗字さんのお腹の虫には感謝しないとね」
「その話はもうやめて···!そ、それに感謝って···?」
「あぁ、でも。もうちょっとだけ、うまく空気を読んでほしかったな」
「?どういう···」
「こっちだけの話」
「···とにかくさっきのは忘れてほしいな···」
「ごめんね。でも···」
ついこのあいだ決めたばかりのことなのにまたも揺らいでしまう。
「さっきの、かわいかったよ」
けれど、こればかりは許してほしい。
真っ赤になって俯く隣で、からかうような笑い声がきこえた。